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第01話『初恋の元カノ』

「えっ。留学……?」


 ――思い出すのは、未熟だった中学生の頃の記憶。

 まぁ、今も未熟なままだけど。

 走馬灯のような夢を明晰夢と呼んでいいのなら、この悪夢はまさしくそれだろう。もう五年になるはずなのに、彼女の顔も、当時の感情も、全てが鮮明すぎるほど鮮明だった。


 俺こと本条(ほんじょう)(ゆう)には、中学生の頃、恋人がいた。彼女の名前は白鷺(しらさぎ)(みさき)。黒いロングヘアーがよく似合う美少女で、付き合っていた当時は友達から羨ましがられたものだった。


 しかし二年生のクリスマスイブ。

 白鷺は俺に言った。


「私、留学することになったの」


 唐突な告白を受けて、俺の口から零れたのがさっきの台詞だ。

 俺の悪夢は、いつもその台詞から始まる。


「えぇ。海外の有名な指導者からスカウトされてね。本気で世界を目指していくなら、日本を飛び出すのも手だ、って話になったのよ」

「そう、なんだ」

「悠は、嫌?」

「……っ」


 嫌だ。それが正直な感想ではあった。

 白鷺と俺では、生きる世界が違うのは分かっている。高校は陸上部が強いところに行くと言っていたから、あと一年もすればバラバラになるだろうって分かっていた。それでも、遠距離恋愛を続けられるつもりだった――白鷺が日本を出ない限りは。

 中学生にとって、異国の地はあまりにも遠すぎる。生活時間も違うし、軽々と会うこともできない。白鷺への想いが強いからこそ、胸がずきずきと痛む。


 けれど「嫌だ」とは口が裂けても言えなかった。

 白鷺は俺の恋人である以上に、もっと凄い女の子だったから。


 白鷺岬――彼女は、日本の陸上界に現われた希望そのものだった。

 短距離走では同年代の中で圧倒的なタイムを誇り、将来はオリンピックでのメダル獲得を期待されていた。テレビの取材が来ることもあったし、同級生から不釣り合いだと言われたことも何度かある。


 何よりも、自由に駆ける彼女の姿を、俺は美しいと思った。

 何にも囚われずにグングンと進んでいく彼女に見惚れた。

 だから、そんな彼女の道を阻むことなんてできるはずがなかった。


「嫌なわけないだろ。頑張って来いよ。白鷺が泣きべそ掻いて帰ってきたら慰めてやるから」

「っ……そう。それは要らない心配ね。私が負けることなんてないもの」

「負けることがないってことはないだろ?」

「いいえ。絶対に私は負けない。一度だって負けられない。だって、世界で一番大切なものを捨てて戦いに行くんだから」


 それは誓いや強がりではなく、勇ましさのベールを着た「さよなら」だった。

 留学しても、付き合い続ける道はある。でもそれは選ばない。今の関係を捨てて、一人で戦いにいく。白鷺はそう言っていた。


「そういうことで、いいのよね?」


 白鷺は確かめるように俺に言う。

 別れていいのか、と。付き合い続けなくていいのか、と。

 もしかしたら彼女は待っていたのかもしれない。俺が彼女の手を掴むことを。

 でも、


「あぁ、それがいいと思う。白鷺の邪魔をしたくはないし」

「…………分かったわ」


 俺は言えなかった。

 自分が白鷺の鎖になってしまったらと思うと怖かった。

 離れても自分の想いを守り続けられるのか不安だった。

 遠距離恋愛で苦しむのも苦しめるのも、嫌だった。


 飛び方を知らない雛には、飛び立つ純白の鷺はあまりにも遠かった。


「さよなら、悠。最初で最後の恋をありがとう」


 その「ありがとう」は、今も呪いのように心を縛り付けている。



 ◇



「――ッッくはっ」


 目を覚ますのと、ちりりりりりり、とけたたましいアラームの音で頭痛がするのはほとんど同時だった。

 がばりと勢いよく起き上がり、こめかみを押さえながら数度瞬きをする。やがて夢と現の境界線を引き終えると、視界にはありふれたマンションの一室が広がっていた。


 夢と現の境界線は、過去と今を隔てる塀とよく似ている。

 所詮は夢も現も地続きで、過去と今は続いている。目を覚ましても、あの夢からは抜け出せないのだ。


「うるっ、せぇな……」


 朝が得意でない俺は、スマホと目覚まし時計で二重にアラームをかけている。

 騒音の二重奏を手早く止め、泥のように重い体をぐーっと伸ばした。汗で濡れたパジャマと、涙で汚れた枕カバー。惨めな悪夢の排泄物を両方とも洗濯カゴに放り、朝の支度を始める。


 時刻は十時。昨晩寝付いたのが三時だったことを考えると、久々に結構眠れたな、と思う。まぁ悪夢を見たせいで睡眠の質は最悪だったけども。

 とはいえ、今日は昼から用事がある。今住んでいるアパートから引っ越す予定なのだ。


 冷蔵庫にストックしておいた缶コーラを一気に呷ると喉がかぁぁっと焼けるように痺れた。この痛みがたまらない。そういえば、白鷺は炭酸飲めないって言ってたっけ。


「って、何を考えてるんだよ俺は」


 あいつと別れてから、もう三度目の春を迎えようとしている。いつまでも囚われ続けるべきじゃない。


「あー、やめやめ! 元カノのことを考えてもしょうがないんだし」


 そもそも、学生の恋愛なんて付き合ったり別れたりするのが当然だ。それなのにいちいち物語チックに浸ってしまうのはオタクの悪い癖である。

 気分を切り替えるべく、SNSを巡回することにした。くだらないツイートや滑稽なリプ合戦を見ていたら少しは気分も和らぐだろう。


 ――と、思う俺の目に飛び込んできたのは、一件のニュースだった。


『“韋駄天のシンデレラ”白鷺岬、無念の引退!』


 え、と声が出た。

 足場を失くしてしまったような錯覚を受ける。ふらふらと千鳥足気味で辛うじてソファーまで移動した俺は、倒れ込むように腰かけた。


「引退って……は? なんでだよ」


 空っぽになった春を青く塗り直したくて、がむしゃらに高校生活をエンジョイしてきた。

 気付けば白鷺のことを調べてしまうようなこともなくなり、たまに見る夢以外では彼女のことを考えることもなくなりかけている。

 それなのに、いや、だからこそ。

 そのニュースは衝撃だった。


 記事を見てみると、そこには白鷺自身の言葉が掲載されていた。

 曰く――


『誰にも負けず、誰もたどり着けない場所まで行きたいと思って走り続けていました。その気持ちは今でも変わりません。でも……先日の事故で、実は怪我をしてしまったんです。しかも、脚に。その怪我が致命的で、この脚で走り続けることは無理だ、って主治医の方から言われてしまったんです』


 知らなかった。

 白鷺から目を背けていたから、見ないようにすることが正しいことだと思っていたから。

 そうしなければ、今自分を大切にしてくれる人を傷つけることになる、って。


『怪我を克服して走り続けることもできるかもしれません。でも、傷だらけのガラスの靴で舞踏会に出たところで、シンデレラは夢を叶えることはできなかった。私はそう思ってしまうんです』


「――ッ」


『応援していただいた方には申し訳ないと思います。ですが、私は誰にも負けない白鷺岬のまま、陸上選手としての物語を終えたいと考えました』


 それが私の引退の理由です、と。

 白鷺岬はそう告げて、話を締めくくっていた。


「白鷺が……帰ってくる、のか」


 彼女は帰国し、四月から日本の高校に編入するらしい。

 所詮はそれだけだ。俺が再会できるわけでもないし、付き合い直すことだってできるわけがない。それなのに、灼けるように喉が枯れる。


 ――帰ってくるんだ、初恋が。


 三月。

 咲き誇り、されど散らぬ桜たちが、焔のように映った。



 ◇



『え、引退後の展望ですか? 展望と言えるほど誇れるものではないのですが……実は日本を出るときに、とても大切なものを手放してしまったんです。なので今は、それを取り戻すために頑張ろうかな、と。もちろん今までと同じように……ベストを尽くしますよ。勝ち取るためならやれることは全てやるつもりです』


 ――有料会員限定記事より抜粋

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