第二話「キーボードの上の世界」
「カタカタカタ…ターンッ!」
「ひんっ!」
「カタカタカタカタ…ターンッ!」
「ギャッ!」
このキーボードの持ち主と思われる人間の巨大な指(と言ってもキーボードのキーの一つになってしまった私から見てだが)はエンターキー、つまり私の身体を幾度も叩き、そのたびに私は悲鳴を上げてしまう。
「おいてめー!さっきからいちいちうるせぇぞ!」
先程から悲鳴を上げ続ける私に怒声が飛んでくる。
誰の声かと思い周囲を見渡すと、どうやら声は同じキーボードの上、ファンクションキーの辺りから飛んできたらしい。
私以外にも自我を持ったキーがいるのだろうか…?
「すいませーん!ここには私以外にも誰かいるんで──グェッ!」
他のキーの存在を確かめるべく、私は大きな声で呼びかけてみるが、その声は少なくとも私を叩く人間には聞こえていないようで、指は容赦なく私を叩き続ける。
一方、やはりキーボードの上には私の声が聞こえる者もあったようだ。
「うるせぇって言ってんだろうが!キーボードのキーは叩かれるのが仕事なんだ!いちいち情けない声出さねぇで黙ってろ!」
「ちょっとやめてあげなさいよ!この子新入りでしょ?」
「チッ」
ファンクションキーの辺りから再び怒声が飛んでくるが、今度は私のすぐ近くからそれを制止する声も聞こえる、どうやらこちらはバックスペースキーの声のようだ。
やはりここには私以外にも自我を持ったキーがいるらしい。
「新入り君ごめんなさいね、彼怒りっぽくて」
「いえ、あの、すみません、ちょっと今状況が飲み込みきれていなく──てっ!…私はさっきまで人間だったのです──がっ!…死んだと思ったらエンターキーになってい──てっ!…どういうことなのかよくわからないんです──がっ!…生き物でも何でも無いキーボードのキーに転生するの──てっ!…普通にあることなんです──かっ!?…というかみなさんも転生してキーボードのキーになったんです──かっ!?」
私は指に叩かれる度悲鳴を上げながらも、私を新入り君と呼ぶのだから、私よりもキーとしての経験が長いのだと思われるバックスペースキーに質問を投げかける。
「2つ目の質問から答えようかしら──えぇ、私もあなたと同じ、人間から生まれ変わってバックスペースキーになった身よ。私はね、人間だった頃、場末のスナックでママをやってたの。でもある日、仕事中に酔ったお客の喧嘩に巻き込まれた時に死んじゃったらしくて、気づいたらバックスペースキーになってたわ。あれはもう一年ほど前だったかしら。新入り君、私もね、自分がバックスペースキーになった時、最初はあなたと同じように、物に生まれ変わるなんてって、そう思った。でもね、あなたは付喪神って知ってるかしら?」
「付喪神と言うと、長く使われたものには魂が宿るとかいうアレです──かっ!?」
「そう、私はしばらく考えて、自分はその付喪神になったんじゃないかって思うことにしたの。そう考えると、生まれ変わってバックスペースキーになるのもあながちおかしな事でもないって思わない?」
「なるほ──どっ!」
たしかにこの国には付喪神やら八百万の神やら、物に魂やら神やらが宿るという考え方がある。
とすれば、キーボードのバックスペースキーだろうがエンターキーだろうが、転生先としてそれほど不自然ということもないのかもしれない。
私は転生前、なろう系小説の主人公が文明レベルの低い異世界に転生し、現地で尊敬を集める設定の都合の良さを嘲笑していたが、その一方で自分自身も「転生するなら生物だろう」などという都合のいい考えを持っていたことを恥じた。
「ところで新入り君、私あなたのこと、なんて呼んだらいいかしら。いつまでも新入り君呼ばわりじゃなんでしょ」
バックスペースキーからの問いにふと悩む。
ここは人間だった頃の名前を名乗るべきなのだろうか、それとも転生したのだから新しい名前を名乗ったほうが良いのだろうか?
その辺どういうものなのか探りを入れてみる。
「あの、その前にあなたのことはなんとお呼びしたら良いのでしょう──かっ!?」
「あぁ、ここのキー達はみんなそのキーにちなんだ名前で呼ばれているの、例えばさっきあなたに怒鳴り散らしてたファンクションキーならファンキーっていう具合にね。私はバックスペースキーだからバッキー…と言いたいところなんだけど、バッキーだと男性名になっちゃうのよね。だからみんな私のことは人間だった頃の源氏名で明美って、明美ママって呼ぶわ」
どうやらそのキーの名前を名乗るのが通例だが、必ずしもその限りではないようだ。
ならば私は…
「では私のことはジャンキーと呼んでくださ──いっ!」
「ジャンキー?エンターキーとは関係ないし、人間だった頃の名前とも思えないわね。なんでまたそんな名前を?」
「私は人間だった頃、エンターキーを叩く快感にとりつかれたエンターキー・ジャンキーだったんで──すっ!…死んでしまったのもそれが原因──でっ!」
「なんだかよくわからないけれど、ジャンキーでいいのね。わかった、これからよろしくね、ジャンキー」
「ところでこのキーボードのキーは明美ママとさっき言っていたファンキー、タッキー以外もみんな意思を持っているんですか──かっ!?」
「みんなではないわね、エンターキーもあなたが転生するまでは何の意思を持たないただのキーだったし、そういうキーはたくさんあるわ。まぁ誰に意思があって誰にないのかはおいおいわかってくるんじゃないかしら」
「そうです──かっ!色々と教えてもらっちゃてすいませ──んっ!」
明美ママのおかげで、自分の置かれている状況がなんとなくは把握できた。
見ず知らずのエンターキー相手に嫌な顔ひとつせずにこんなに親切にしてくれるのは、スナックのママという職業柄の包容力の賜物だろうか。
ところでこのキーボードの持ち主、さっきから必要以上にエンターキーを強く叩いてくるので、そのたびに悲鳴を上げてしまって会話もままならない。
さてはかつての私と同じエンターキー・ジャンキーだろうか。
そんな事を考えていると、またしても「ターンッ!」と指が振り下ろされる。
「いたっ!」
「もう我慢ならねぇ!いくら新入りといえど!明美ママが止めようと!こう情けない声ばかり上げられちゃあ気が散って仕方がねぇ!小僧!表へでろい!」
明美ママに制止されてからおとなしくなっていたファンキーだが、その後も悲鳴を上げ続ける私にしびれを切らし、ついにブチ切れてしまったようだ。
「す、すいません。でもこの人、エンターキーだけ異常に強く叩くんです──よっ!」
キレるファンキーに弁解しつつ、キーボードの持ち主の顔に目を向ける。
「あっ!」
その顔には見覚えがあった。
今の今まで目に入るのは私を叩く指ばかり、顔まで見る余裕がなくて気付かなかったが、私を叩くその人は、ポルノ小説で有名な、大物作家の千田俊樹その人だった。