第一話「エンターキー・ジャンキー」
「カタカタカタ…ターンッ!」
「カタカタカタカタカタ…ターンッ!」
気持ちいい…。
キーボードで文章を紡ぎ、エンターキーを思い切り叩いてPCの中にそれを送り込む瞬間はこの世で一番気持ちがいい。
他よりも大きなキーの押し心地、思い切り叩いたときの「ターンッ!」という音、エンターキーはまるで人の快感中枢を刺激するために創られたかのようだ。
覚醒剤を使うと一生分の快感を得られるなんて言う話を聞いたことがあるが、エンターキーを叩き込むこの快感に比べれば恐らく屁みたいなものだろう。
薬物依存症になるような輩というのは、きっとこのエンターキーを叩く快感を知らずに育ってきた可哀想な人たちに違いない。
エンターキーを知らない哀れな薬物依存症の患者たちにその快感を教えることができれば、この世の中から薬物は根絶されるのではないだろうか。
もし私が医学の博士号を持っていれば、この画期的な治療法を論文としてまとめ、学会で発表、その功績で莫大な富と名誉を手にしていたことだろうが、残念ながら私は医学博士ではなく、つまり論文を学会で発表することも出来ず、よって莫大な富も名誉も手中にはなく、小説家志望のフリーライターとして雑誌や何かにちょっとした文章を書いたりして小銭を稼ぎつつ、出版されるあてのない小説を書いては出版社に持ち込み、丁重にお断りされる貧乏文筆家として慎ましい暮らしを送っている。
私が文章を書く仕事で食べていこうと思ったのも、エンターキーのためである。
快感を得られる薬物に依存性があるのと同じように、エンターキーにもやはり依存性はあるようで、私はエンターキーを叩いた時の快感に依存し、その快感から片時も離れたくないあまりに、絶えず文章を書き、そしてエンターキーを叩いていられる文筆家を職業として選んだ。
つまり私は重度のエンターキー・ジャンキーというわけだ。
そんなわけで、今日も今日とて私はエンターキーを叩く。
「カタカタカタ…ターンッ!」
これは今日何度目の「ターンッ!」だろう、幾度も繰り返される「ターンッ!」は私の脳内を脳内麻薬…エンドルフィンで溢れさせ、精神をトランス状態へと導く。
「カタカタ…ターンッ!」
「カタカタカタカタカタカタ…ターンッ!」
仕事に一区切りがつくと、部屋の中は真っ暗になっていた。
エンターキーを叩くことに夢中で気づかなかったが、私がトランス状態になっているうちに、外では日が沈んでいたらしい。
正確な時間を確かめようと壁にかかった時計を見ると、短い針は仕事を始める前と同じ3時を指している。
一瞬「電池が切れたのか?」と思うが、目を凝らしてみると、秒針はしっかり動いており、電池が切れている様子はない。
どうやら午後の3時から午前3時まで、ぶっ続けでエンターキーを叩き続けていたらしい。
驚きはそれほどない。
エンターキー・ジャンキーの私にとってこんなことは日常茶飯事だ。
こんな不規則な生活をしているといつか死ぬとは思いつつも、一度エンターキーを叩き出すともう止まらないのだから仕方がない。
時間も時間だしシャワーでも浴びて寝ようと思い、キーボードのオルトキーとF4キーを同時に押すと、モニターにダイアログボックスが現れる。
ここでエンターキーを押すと、PCをシャットダウンできるのだ。
エンターキーを叩く仕事をし、エンターキーを叩いて仕事を終らせる、こんな幸せがあるだろうか。
PCをシャットダウンする方法は他にもいくらでもあるが、私がこれ以外の方法でPCをシャットダウンするということはまずない。
「ターンッ!」
今日一番の力を込めて、全身全霊でエンターキーを叩く。
これでPCはシャットダウンするはずだが、私はそれを確認することは出来なかった、永遠に。
PCのシャットダウンのため、エンターキーを叩くと同時に私の意識はぷつりと途切れ、 気付くとなにもない真っ暗な空間に漂っていた。
どうやらPCと同時に自分自身までシャットダウンしてしまったらしい。
要は死んでしまったということだ。
日頃の不規則な生活が祟り、体がボロボロになっていたところに、バカみたいに力を込めてエンターキーを叩いたものだから、どこか大事な血管でも破れてしまったのだろう。
まぁ死んでしまったものは仕方がない。
病魔に苦しみながら死ぬ人が大勢いることを思えば、こんなにあっさりと何の苦しみもないままに死ねたのは幸せなことだったのかもしれない。
生きてやりたいことがなかったわけでもないが、エンターキーを叩く快感とともに死ねたのだ、エンターキー・ジャンキーとして、これ以上何を望むことがあるだろうか。
ところで最近流行りのなろう系小説とやらによると、人は死ぬと転生するらしい。
転生した異世界で現実世界の知識を使い、文明レベルの低い現地人達から尊敬を集めるというのがなろう系小説ではお決まりのパターンだと聞くが、そんな都合のいい話はないだろう。
異世界なんてものあるかどうかも怪しいし、転生して再び人間になれるのかすらわからない。
転生した先は既に見飽きたこの世界で、新しい肉体は虫やなにかということだってあり得るのだ。
いや、そもそも転生なんていう現象が本当にあるのかすら怪しいではないか。
そんなことに考えを巡らせていると、突如暗闇の中に光を感じた。
光の方に近づいてみると、それがトンネルのような穴の向こうから差し込んできていることに気付く。
ここを抜ければ転生できる、そう感じた私は穴の中を進み、出口までたどり着くと再び意識を失った。
「カタカタカタ…ターンッ!」
「おぅっ!?」
大きな音とともに身体中に強い痛みが走り、私は目を覚ます。
どうやら転生に成功したようだが、今の音と痛みは一体…?
「カタカタカタ…カタカタ…ターンッ!」
「ギエッ!」
まただ、強い痛みを引き起こすこの「ターンッ!」という大きな音。
痛みには心当たりがないが、この音には聞き覚えがある。
そうだ、忘れるはずもない、この音はエンターキーを叩くときの音。
しかしなんでエンターキーが叩かれると身体に痛みが…?
私はハッとして、転生した自分の姿を確認する。
たくさんの四角形が並ぶ板の上にあって、たった一つだけ長方形でも正方形でもない、ずんぐりとした長方形に出っ張りがついた変わった形をし、他の四角形達よりも広めのスペースを占有する巨大な”キー”それが今の自分。
私が転生して得た新しい身体は、キーボードのエンターキーだった。