SIDE OF THE FOOL 愚者
レンちゃんに隠者を近付けさせないために、ウサギ殺しの首謀者をレンちゃんとすでに知り合っているマリアこと隠者のせいにしてしまおうと思いついたのだが、まさかそのマリア本人が再び現れるとは思わなかった。
宇宙人の存在を主張すればアンナ先生のように信じてもらえないので、とにかくマリアに嫌悪感を持つように仕向けたかったのだ。しかしその企みは脆くも崩れてしまった。こうなっては、どのように話すべきかさっぱり分からない。
「ごきげんよう」
青いセーターを着た隠者が朗らかに挨拶をして、俺たちの前へやって来た。
「ごきげんよう」
レンちゃんが真似をして愛想を浮かべる。
「マリアさんも来てくれたんですね」
「うん。レンちゃんがせっかく誘ってくれたんだもん」
俺たちが誘われた時に隠者も一緒にいたことをすっかり忘れていた。
「三人で何を話していたの?」
「それは……」
と言って、レンちゃんが俺の方を確認した。
「ひょっとしてアレ?」
と芝居じみた声を出して、隠者が俺の代わりに勝手に口を開いた。
「ウサギ殺しの話じゃない?」
「そうです。その話をしていました」
「その話を聞いて、レンちゃんはどう思った?」
そう言って、隠者は通路を挟んだ向こう側にあるベンチに腰を下ろした。
「まだ詳しく聞いていないんです」
「じゃあ詳しく話してあげたら?」
そう言って、隠者が俺を試すように見つめるのだった。顔は無表情で深刻そうな雰囲気を装ってはいるが、コイツがこの状況を楽しんでいるのは言葉にしなくても分かった。俺が思い悩んでいる様を見るのが嬉しくて仕方ないのだ。
「正体不明の奴がいて、そいつにすべての情報を握られて、命を奪うとまで脅されたんだ。それで仕方なく、命じられたままにウサギを殺した。『一週間以内にウサギを殺さないと死んでもらう』って言われたんだよ。それで深夜に忍び込んで殺したんだ」
マリアの正体をバラすと、レンちゃんが殺されると思って隠してしまった。
「それはネットで知り合った誰か?」
レンちゃんはそんな俺の気遣いを知るはずはなかった。
「そんなところかな」
「記録は残ってないの? あったらちゃんと警察に相談しないとダメだよ」
「記録は一つも残ってないんだ」
「だったらどうやって脅迫してきたというの?」
「家の固定電話だよ。相手は公衆電話だろうから警察に届けてもムダさ」
そこでレンちゃんは首を傾げてしまった。こうなった以上は、俺も最後まで嘘をつき続けるしかないと思った。正直に話すことを進言してくれていたユウキは、きっと失望していることだろう。端の席で魂の抜けたような顔をしている。
「どうしてそんな人に目をつけられたの?」
レンちゃんが真剣に悩んでくれているのが唯一の救いだ。
「俺にも分からないんだよ」
そう言って隠者の方を見るが、彼女は笑いを堪えた顔で見つめ返すだけだった。
「その人はどうしてそんな真似をしているの?」
「分からない」
「ネット上でトラブルになったことは?」
「ないよ」
「過去に逆恨みされるような書き込みをしたとか?」
「ないと思う」
「ケント君に自覚がないだけだったりして?」
「いや、本当に心当たりがないんだ」
「ごめんなさい」
デタラメな話に付き合わせて、レンちゃんを謝らせてしまった。
もうこんな茶番はたくさんだ。
「私こんなの許せない」
レンちゃんが怒りをにじませた。
「許せないのは誰に対して?」
隠者がレンちゃんに問い掛けた。
「それは、もちろん脅迫者に対してですけど」
そう言いつつ、レンちゃんが隠者の視線に戸惑っている。
「ああ、そうなんだ。私はてっきり大切に可愛がっていたウサギを殺したケント君のことが許せないんだとばかり思っていた。だってそうでしょう? ケント君にはウサギを殺さないという選択肢もあったんですもの」
相手が目上の人なので、レンちゃんが申し訳なさそうにしている。
「でも悪いのは脅迫者であってケント君じゃないから」
「ウサギを殺したのはケント君よ?」
「それは脅されて仕方なく」
隠者がレンちゃんの顔を覗き込む。
「その脅迫者だけど、その人はウサギを殺すなんて一言も言ってないのよ? だからケント君が殺さなければ、レンちゃんが大切にしていたウサギは助かったの。それでどうして貴方は脅迫者ばかり責めるのかしら?」
「え? だってケント君は殺害予告を受けたんですよ?」
隠者が微笑む。
「別に私はレンちゃんを責めているわけじゃないの。ただ、なんていうか、その、貴女もウサギに対してはたいした愛情を持てない人なんだって思ったの。毎日お世話を欠かさなかったんでしょう? そのうえ殺されたっていうのに、あっさりとその死を受け入れられるんですものね」
その言葉を受けて、レンちゃんの手が震え出した。
「貴女もユウキ君と同じように、犬や猫じゃないと特別な感情を抱けない人なのかしらね。レンちゃんって、そんな感じの人には見えなかったから驚いているのよ。だって貴女って、博愛の精神を持っている人だとばかり思っていたんですもの」
レンちゃんの手の甲に一滴の涙が落ちた瞬間、彼女は駆け出していた。
「レンちゃん」
思わず呼び止めたが、俺の声に振り返ることはなかった。
「どうして泣いちゃったんだろう?」
隠者に悪びれた様子はなかった。
「オマエが泣かせたんだろう」
「オマエって呼ぶのヤメて」
「そんなの、今はどうだっていいだろう?」
「名前で呼んでくれなきゃイヤ」
そう言って頬を膨らませが、全然可愛くなかった。
「ケント君」
ユウキの語気が強い。
「早く追い掛けた方がいいよ」
「あっ、うん」
言われてから、レンちゃんのことをほったらかしにしていることに気が付いた。青いセーターを着た宇宙人に構っている暇などなかったのだ。好きな子が泣いて部屋から出て行ったというのに、それを追い掛けることができないというのは男として情けない話だ。
外に出ると辺りは薄暗くなっていた。もうすぐ真っ暗になるだろう。外に出た理由は、レンちゃんは他人に涙を見せるような人ではないからである。泣きながら自室に戻れば子どもたちを心配させてしまうと考えてしまうような、彼女はそういう優しい子なのだ。
辺りを探し回る必要はなかった。建物の横手にあるウサギ小屋の前でしゃがみ込んで小さく丸まっていたからである。震えているのは泣いているからだと思ったが、寒そうにも見えたので着ているコートを脱ぐことにした。
「レンちゃん」
驚かせないように声を掛けてから、コートを羽織らせた。
「ありがとう」
そう言って、レンちゃんはすぐに立ち上がった。それはおそらく俺のコートの裾が地面に着いていたので、汚してはいけないと思って立ったのだ。彼女は泣いていても、そういう気遣いができる子なのだ。
「マリアが言ったことなんて気にする必要ないからね」
レンちゃんが首を振る。
「違うの。泣いているのはマリアさんに酷いことを言われたからではなくて、私がずっと気にしていたことを、そのまま言われたから思わず涙が出ちゃって。自分でも泣いたことに驚いて、それで居た堪れなくなって飛び出しちゃったんだ」
「気にしていたことっていうのは?」
問い掛けると、レンちゃんはウサギのいないウサギ小屋に視線を落とした。
「ミルクのこと。いなくなった朝、空っぽの小屋を見ても悲しい気持ちにならなかったんだ。先生に報告して問題になったから深刻な顔をしていたけど、本当は落ち込んでもいなければ、励ましてくれる声も必要なかった」
泣き終えたレンちゃんの顔は無表情だった。
「鍵を掛け忘れることはないから誰かが逃がしたんだと思ったんだけど、それならそれでいいと思ったんだ。その気持ちはさっきも同じだった。ケント君からミルクを殺したことを聞かされても、まったく悲しい気持ちにならなかったんだもん」
そこでまた目に涙が溢れたが、雫はこぼれなかった。
「涙が出るのは、ミルクが死んでも可哀想な気持ちを抱けない、そんな残酷な自分を見つけたから泣いたんだと思う。それがまたミルクのためではなくて、自分のための涙だから、それがどうしても許せないの」
そんな己の罰し方があるだろうか?
「出会ったばかりだけど、マリアさんはそんな私をひと目で見抜いたんだと思う。良い子のフリをしていることや、広くて深い愛情を持っているように見せ掛けていることとか、分かる人には分かってしまうんだろうね」
それはレンちゃんが己と向き合ったから自分自身の問題と直面することになっただけであって、決してサディストの宇宙人のおかげということではない。アイツは苦しんでいる俺たちを見て笑いを堪えている非道なヤツでしかないのだ。
「ウサギを殺したのは俺なんだから、レンちゃんが思い悩むことはないんだ。それにマリアなんて、他人には偉そうに好き放題に言ってるけど、犬や猫どころか俺たちのことですらどうでもいいと思っているような子なんだよ」
「本人がいないところで、そういうことを言うのはやめましょう」
レンちゃんをフォローするつもりで言ったのに注意されてしまった。
「ごめん。もう言わないよ」
「うん。それより寒いでしょう? もう大丈夫だから戻りましょう」
そう言って、羽織っていたコートを返してくれた。返す時に笑顔だったけど、そのことも、レンちゃんは立ち直りが早い自分に対して嫌悪感を抱くのだろうか? レンちゃんの新たな一面を知ったこの日、俺はますますレンちゃんという人が分からなくなってしまった。
それにしても、レンちゃんには隠者に対して嫌悪感を抱いてもらいたいと思っていたが、反対にリスペクトに近い感情を抱いたように見えたのが心配だ。本人がいないところでネガティブ・キャンペーンもできないとなると手の打ちようがない。
最悪の場合は真実を話して宇宙人の存在を明かすしかないが、そこまでの事態にならないようならば、このまま何も知らない方が幸せだろう。ウサギ殺しの告白だって、突き詰めれば俺の邪まな恋心から罪を告白しようと思っただけだからである。
お堂に戻ると中は真っ暗になっていた。レンちゃんが電気を点けると、二人がいなくなっていることが確認できた。最前列のベンチの上に二つの小包が置いてあったので、レンちゃんはそれを取りに歩いて行った。
「聞いてなかったけど、ユウキ君はミルクの件とどう関わっているの?」
「ユウキは俺の手伝いをしてくれただけだよ。それなのに同じように責任を感じているんだ」
「その後の脅迫者は? 今も脅されているの?」
「いや、結局はただのイタズラだったんだよ」
「安心しても平気?」
レンちゃんが心配しているので説明した方が良さそうだ。
「実はユウキも俺と同じように脅されていたんだ。マジックっていう名前の犬を飼っていることは知っているだろう? その犬を殺さないと死んでもらうって脅されてたんだけど、ユウキはマジックを殺さなかったんだよ。約束の期限が過ぎた翌日も一緒にいたんだけど、脅迫者に殺されることはなかった。結局死んだのはミルクだけだ。脅迫者に殺せる力はなかったわけだから、俺もウサギを殺すことはなかったんだ。ウサギにしてみたら茶番に巻き込まれて殺されたわけだから、やり切れないよな」
「でも脅迫者の要求がエスカレートしたっていうことはない?」
レンちゃんの指摘通りだが、ここは余計な心配を掛けない方がいいだろう。
「無視していいと分かったんだ」
「本当に大丈夫なの?」
「たとえ拳銃で撃たれても、飛んでくる弾はただの幻覚にすぎないんだ」
「それって例え話だよね?」
「ああ、もちろん。挑発に乗らなければ実害はないって言いたかった」
「よかった」
そう言いつつ、レンちゃんの表情は晴れなかった。
「じゃあ改めて、これを渡すね。はい」
と言って、レンちゃんが小包を差し出してくれた。
「俺にプレゼントを受け取る資格があるのかな?」
レンちゃんが考える。
「私にプレゼントを渡す資格がある?」
そう言われたら、小包を受け取るしかなかった。
「ありがとう」
「こちらこそ、受け取ってくれてありがとう」
視線を交わした瞬間、すぐに逸らしてしまった。それはレンちゃんが照れるように顔を伏せてしまったからでもある。本命チョコではないことは知っているが、それでも異性を少しでも意識してくれたことが、俺には嬉しかった。
「みんなのところに行こうか?」
「うん。アンナ先生も来ているみたいだしね」
調理場に行くと子どもたち全員でチョコレートケーキを作っていた。作るといっても土台となるスポンジ部分はケーキ屋さんからの頂き物だ。普段は食品の差し入れは厳禁だが、この日だけは特別だった。
デコレーションするだけなので手作り感はなかったが、それでも切り分けたケーキを皿に寝かせ、その上からチョコレートソースで各々好きな絵を描いたのだが、その作業が子どもたちに好評で、その楽しそうにしている姿を見ているだけで嬉しい気分になった。
俺はイチゴジャムを皿の上に薄く塗ってからケーキを載せ、そこにチョコレートソースを控え目に掛けるだけにしたのだが、それが気取っていると思われたのか、みんなから笑われてしまった。最初に俺のことをバカにしたのは隠者だった。
隠者は『神さまの家』に来るのが初めてで、みんなとは初対面だというのに、すぐに馴染んでしまった。ホーム長さん夫婦には丁寧で、子どもたちには気さくに振る舞うお姉さんを見事に演じ分けるのである。
親近感を与えた要因は、ユウキの親戚として紹介されたことが大きいだろう。これまでのユウキの人柄が親戚というだけで安心感を与えるのだ。アンナ先生とも親しげに話し、帰る時には先生の方から「家まで送ってあげる」と言わせてしまった。
「トガクシサンのお家はどこ?」
「え? なんですか?」
先生の質問が聞き取りづらかったので聞き返してしまった。
「あっ、マリアちゃんだっけ?」
「ああ、それならユウキの家に泊まっています」
隠者に喋らせたくなかったので、サイドシートに座る俺が代わりに説明した。
「じゃあ一緒に降ろせばいいのね」
それからも隠者に会話させないように家に到着するまで先生を質問攻めにした。
「先生は誰かにバレンタインのチョコをあげたんですか?」
「ちゃんと職場の先生方には配っておいたよ」
「本命のチョコレートは?」
「渡す人がいたら今頃デートしてると思うけど」
「渡したいと思う人もいないんですか?」
「それは、生徒には教えられないな」
「えぇ、いいじゃないですか」
「卒業したら話せるようになるかもね」
こうして校外活動も共にしているのに、アンナ先生のガードは堅いままだ。
「じゃあ昔の思い出を教えて下さい」
「思い出って何?」
「バレンタインデーにまつわる思い出です」
「何かあったかな?」
先生が自問していると、後部座席の隠者が口を開いた。
「思い出を作れなかったことが、思い出なんじゃないですか?」
「オマエなに言ってんだよ」
「オマエって呼ぶのヤメてって言ってるでしょう」
確かにアンナ先生の前で、女性に対して「オマエ」と呼ぶのは心証が悪い。俺は隠者が女性ではないことを知っているけど、先生は何も知らないのだ。隠者のようなくだらないヤツのせいで好感度を下げるのはバカらしいことだ。
「……そういえば」
先生が何かを思い出したようだ。
「渡せなかったチョコレートが、まだ机の抽斗の中に入れたままかも」
「渡せなかったって、どのくらい前のことですか?」
「十五の時だからちょうど十年かな」
「虫とか大丈夫ですか?」
「大丈夫だと思うけど、分かんない」
「分からないなら、大丈夫じゃないですよ」
「この話やめよう。家に帰るのが怖くなっちゃう」
「それこそ身から出た錆なんですけどね」
「もうそういうのもいいから」
そこでアンナ先生は話を変えて、東京で暮らす時はカビに注意した方がいいという話になった。なんでも北海道とは気候がまるで違うので、外国に行くぐらいの感覚を持った方がいいとアドバイスしてくれた。
そんな話をしているうちに、あっという間に家に着いた。隠者に喋らせまいと質問攻めにしたけれど、こういうこともなければアンナ先生のバレンタインデーの思い出話など聞く機会もなかったに違いないし、そういう意味では、感謝はしないが有り難くはあった。
翌日になって考えたのは松坂さんから貰った義理チョコへのお返しについてだ。というのも教室にいる間、ずっと隣の席に座っている彼女のことが気になって授業に集中できなかったからである。
どうして気になるかというと、レンちゃんへのお返しは三月十四日のホワイトデーに『神さまの家』に行けば会って直接渡すことができるけれど、松坂さんとは卒業してしまうと会えなくなってしまうからだ。
最悪の場合は卒業式を最後に一生会わなくなる可能性がある。いくら狭い地域で学区も一緒だからといって、それで偶然に街中で再会できるほど小さい市ではないからだ。それと何より俺の行動範囲が狭いのが問題だ。
義理チョコのお返しをするために会う約束をするというのは行動が重すぎるし、お返しをしないというのは、それこそ義理を欠いた行動になる。そう考えると迷惑な慣習だけど、貰って嬉しかった気持ちは行動で報いたいのだ。
学校が終わると、早速スーパーのお菓子売り場へ行くことにした。ユウキも誘おうと思ったが、日曜日に受験が控えているので今回は止めておいた。義理チョコのお返しを男二人で選ぶというのも気が乗らなかった理由の一つである。
「ケント君なにしてるの?」
「チョコのお返しを何にしようか悩んでるんだよ」
「なんでもいいよ」
「そういうわけにもいかないだろって、なんでここにいるんだよ」
いつの間にか隠者が俺の横に立っていた。
「どこにいようと私の勝手でしょ」
「最近出現率高くなってないか?」
「だって暇なんだもん」
「だからって俺にまとわりつくなよ」
「あれ? お返ししてくれるんじゃないの?」
「誰がするか。選んでるのは松坂さんへのお返しだよ」
「松坂さんって裸の絵のモデルさん?」
「ばかっ、人前で言うなよ」
周りのお客さんが一瞬だけこちらを見たが、会話は聞こえていないと思いたい。
「レンちゃんへのお返しは?」
「レンちゃんの方は来月になったら考えるよ」
「今週で死んじゃうのに?」
「誰が死ぬか。死んでたまるか」
そこで隠者がハッとした顔をする。
「そっか、死んじゃうとは限らないか」
「当たり前だ。もう踊らされないからな」
そこで、ハタと気が付いた。
「いや、違うな。俺は今日の帰り道にも死んでしまう可能性があるんだ。それが人間というものなんだよ。だから今週で死ぬこともある。死ぬ可能性って死ぬまで有り続けるものなんだ。つまり今週で死ぬかもしれないということは否定できることではないんだよ」
隠者に説明したつもりが、いつの間にか消えていた。これではお菓子売り場で独り言を喋る怪しい中学生に見えてしまう。ということで、お店の人に目を付けられる前にスーパーを出ることにした。次に向かった先は近所のコンビニだ。
結局そこで色々と迷った挙句、のど飴をプレゼントすることに決めた。松坂さんが受験のおまじないに利くチョコをくれたので、俺も受験に役立つ食べ物にしようと思ったのだ。クッキーやマシュマロよりも実用的なので、我ながら素晴らしいアイデアだと思った。
金曜日の朝、いつものように実習林の雪原エリアでマジックを遊ばせている時に、ユウキから大事な依頼が入った。なんとなく隠し事をしているような雰囲気は感じていたが、まさかそこまで壮大な計画を立てていたとは思ってもみなかった。
「いつかやってみたいと思ってたんだ。それには明日開催されるスケート祭りの会場しか考えられないんだよ。今日は学校を休んでリハーサルをしようと思うんだ。まだ出来るかどうか分からないからね。でもケント君は明日の本番だけ手伝ってくれるだけでいいよ」
明日、ユウキは脱出マジックをするつもりだ。
「しかし急な話だな。前もって言ってくれればいいのに」
「今回はケント君にも驚いてもらおうと思ってさ」
「じゃあタネは教えてくれないんだ?」
「うん。とっておきのアイデアだからね」
ユウキは俺のことを大切に思ってくれているが、手品のネタ帳だけは見せてくれなかった。
「手伝うって、またピエロの格好でもすればいいのかな?」
「いや、今回は僕だけでいいんだ」
「それは助かるよ。今だから言うけど、化粧するのが嫌いでさ」
「安心していいよ。もう化粧をお願いすることはないから」
ユウキの助手をして、芸人の真似は簡単ではないことを学んだ。
「それより次の日が受験日だけど大丈夫か?」
「うん。それは心配ないけど、もう一つ大事なお願いがあるんだ」
「マジックを預かってほしいんだろう?」
「言わなくても分かるんだね」
「ユウキの大事な話って、マジックのことだけだもんな」
「紛らわしい名前でごめんね」
「それを今言うか?」
「いつか謝ろうと思ってたんだ」
ということで、マジックをウチで預かることになった。ユウキから犬を預かるのは初めてではなかった。以前から、家族旅行に行く時には俺が世話をすると約束してある。そのための犬小屋もあるので何も問題はなかった。
なぜ犬を預かるかというと、ユウキは日曜日に札幌で受験があるので、明日の夜には試験会場の近くのホテルに泊まる予定だからだ。これは天候の影響で当日交通の乱れが起こるとも限らないので、賢明な判断といえるだろう。
脱出マジックをやった後、すぐに札幌行の電車に乗らなければいけないようなので弾丸スケジュールとなるが、そのことを心配しても、頑固なところがあるユウキは今更予定を変更することはないだろう。
それと日曜日に受験する高校は、ユウキにとってはスベリ止めに過ぎないので、それほど心配する必要はない、というのも脱出マジックに反対しない理由の一つだ。ユウキや松坂さんにとっては、来月行われる進学校の受験の方が本番となるわけだ。
それから松坂さんに義理チョコのお返しをするために、いつもより早めに登校することにした。それは他のクラスメイトに義理チョコのお返しをしている姿を見られたくないためである。二人きりになるにはそうする他なかった。
といっても、必ずしも二人きりになれるとは限らない。それは日によって登校時間を変えてくる生徒がいるからである。教室に他のクラスメイトがいた場合は渡す日を変えるしかない。最悪の場合は学校の外で待ち伏せするしかないが、それは避けたいところだ。
「おはよう」
いつもより早めに登校したら、松坂さんはすでに自習をしていた。
「おはよう」
用事がなければ挨拶だけで終わる関係である。
「あの、コレ」
早速だが、のど飴を渡すことにした。
「それは?」
「チョコのお礼。来月だとお返しできないから」
俺の言葉に松坂さんが戸惑っている。
「コレ、どう受け取ればいいの?」
「そのまま受け取ってほしいんだけど」
「全部っていうこと?」
俺が持っているのは缶に入ったのど飴だった。
「うん」
強引に差し出して、ようやく手に取ってくれた。
「ありがとう」
お返しが薬用のど飴なので困惑させてしまったようだ。
「キャンディなんだ?」
「うん。ちゃんと考えてそれにした」
そこでようやく、松坂さんの表情が柔らかくなった。
頭がいい人なので、俺の意図がちゃんと伝わったようだ。
「それで来月の受験がんばってね」
「久能君もがんばらないとダメだよ」
「あっ、そうだった」
その言葉に笑い合うことができた。それが三年間クラスを共にしてきて初めての経験だった。この日が最後の会話になる可能性が高いけど、卒業前にいい思い出ができて良かったと思っている。
中学時代に成就させた恋愛はないけれど、無事に卒業できただけでも恵まれた三年間だったと思えるのが現代社会のような気がする。ユウキのような友がいて、レンちゃんのような人とも知り合えた俺の中学卒業は、何より俺自身が最高だと思える時点で何も言うことはなかった。
二月の中旬に夜見湖畔で開催されるスケート祭りは、まだ今年で五回目と歴史は浅いが、年を重ねるごとに徐々に盛り上がりを見せている。最初は夜見湖周辺の町人しか参加していなかったが、最近は観光客も訪れているという話だ。
スケート祭りの目玉企画は大きく分けて二つある。一つは文字通りスケート競技だ。屋外にある天然のスケートリンクで地元の人間がチームを結成して、アイスパックの替わりにサッカーボールでアイスホッケーを行うのだ。
アダルトとキッズでレギュレーションが分かれており、それぞれ土曜日に予選を行い、明日の日曜日に決勝が行われる予定だ。アダルトの部の優勝賞品が羊一頭分の肉がもらえるということで想像以上に白熱した試合を観ることができた。
もう一つの目玉は『しばれ焼き』だ。これはウチの市内で開かれている本家のスケート祭りで有名な冬季屋外バーベキューのことで、熱したドラム缶の上に凍った羊肉を焼いて豪快に食べる郷土料理のことである。
昼前にバスで夜見湖に到着した頃には、すでに祭りは始まっていた。昼食の『しばれ焼き』が準備中で、中にはもう食べている人もいる。市内から距離があるということで、残念ながら『神さまの家』の子どもたちは来ていなかった。
見たところ、夜見湖畔周辺には数百人の人がいるようだが、ユウキを見つけるのは難しくなかった。それはスケートリンクの近くにテントがあり、その近くを黒いマントを羽織った子どもがウロウロしていたからである。
「やぁ、ケント君、時間通りの到着だね」
「晴れて良かったよ」
「ちゃんと散歩に連れて行ってくれた?」
「うん。後は家で大人しくしてくれているといいんだけどね」
「それは心配いらないよ。マジックは行儀がいい子だから」
ユウキはマントの下にパンツスタイルの黒のフォーマルスーツを着ていた。女性用のスーツなので、母親の服を無断借用したのではないだろうか。この格好で白塗りのピエロを演じるのだから、それを見た子どもは怖くて泣き出すかもしれない。
「準備は万全か?」
「うん。昼食後に始めたいと思う」
「俺は何をすればいい?」
「カーテンを持ち上げてカーテンを下ろす、それだけさ」
「カーテンを持ち上げている間に、中にいるユウキが消えるってこと?」
「そう、これは人体消失マジックなんだ」
「脱出マジックとは違うっていうことか」
「うん。マジックですらないかもね」
それから軽くリハーサルをした。といっても難しいことは何もなかった。フラフープのような輪にカーテンレールが取り付けられており、その輪にカーテンが垂れ下がっているのだが、そのカーテンのついた輪でユウキを隠して、合図が出たら五つ数えて手を離すだけである。
問題はバスの発車時刻を考慮しないといけないことだ。最悪の場合は明日の早朝に移動することも可能だが、できればそれは避けたいということだった。そこでマジックショーの後片付けは、すべて俺が引き受けることにした。
「面倒なことを押し付けてしまって、ごめんね」
「謝ることないさ。有名マジシャンになったらカニでも奢ってもらうからさ」
「その時ケント君は何をしているのかな?」
「俺は平凡でいいや。子どもにユウキのマジックを見せることができたら最高だ」
「そんな日が来るといいね」
「きっと来るさ」
それからユウキが化粧をしてピエロに変身する間に、俺が客を集めた。大人は漏れなく酔っ払っている感じだったので、子どもにしか話し掛けられなかった。それでも開演前には三十人くらいの子どもが集まっていたので、中学生のマジックショーとしては充分といえるだろう。
「マジックショーへ、ようこそ」
テント前に座っている子どもたちからの拍手はなかった。
顔面白塗りのお兄ちゃんに、みんな半笑いだ。
「僕の名前は魔術師U」
マジシャンの時はアルファベットのUを名乗っている。
「これからみんなに幻影をお見せしよう」
ここでも拍手はなかった。
それからユウキは簡単なカード・マジックを披露した。
客席の年齢層が低いので反応がいい。
続いて得意のコイン・マジックを披露した。
ここでようやく拍手が起こった。
そして客席があたたまったところで、いよいよ人体消失マジックのお披露目だ。
「最後にとんでもないマジックを見せてあげよう」
そう言って、ユウキは子どもたちに近付いて行った。
「僕のことを、これから目を逸らさずに見ていてほしい」
マントを広げて一回転する。
「これから僕は、この場所から、一瞬で消えて見せるからね」
その言葉に客席がざわついた。
「嘘だ」
「どうやって?」
「ムリだよ」
ここに来て勝手に喋り出す子どもが出てきた。
「では、どなたかに手伝ってもらいましょう」
そう言って、ユウキは観客の中から俺を指名した。
「さっき声掛けてきた人だよ」
バレバレのサクラなので客席からヤジが飛んできた。
これは次回までに対策が必要だ。
「お静かに」
そう言いつつ、ユウキが地面に置いてあるカーテンの輪を跨いだ。
これで準備完了だ。
「これから足元にあるカーテンを持ち上げてもらいます」
子どもたちの目がユウキに釘づけだ。
「いい? 目を離しちゃダメだよ」
その一言で観客が静まり返った。
カーテンを持ち上げるだけなのに、俺まで緊張で喉がカラカラだった。
「僕がカーテンの中に隠れてから、五つ数えたら消えるからね」
子どもたちの眼差しが仕掛けを見逃さないようにと真剣だ。
「じゃあ、お願いします」
俺もタネを知らないのでドキドキしている。
バスの発車時刻が迫っているので、もったいぶるわけにもいかなかった。
「じゃあね」
観客に手を振るユウキをカーテンですっぽりと隠した。
「1」
みんなに聞こえるように大きな声でカウントダウンすることにした。
「2」
子どもたちも俺に合わせて声を出す。
「3」
まだ隣にユウキの気配を感じる。
「4」
カウントダウンになっていないと気が付いたが、もう戻れなかった。
「5」
そこで思い切ってカーテンのついた輪を手から離した。
その瞬間、客席が騒然とした。
靴が濡れた。
それよりも、ユウキが本当に消えてしまったことで頭が真っ白になった。
「あそこにいるよ」
見つけたのは客席にいた子どもだった。
「本当だ」
子どもが指差す方を見る。
すると、岸辺で手を振るマント姿のピエロが手を振っていた。
「え? どうやったの?」
「ホントに消えたよね?」
「絶対に不可能だよ」
子どものその一言でマジックのタネが分かってしまった。おそらく俺にしか見破ることができないネタだろう。絶対に不可能な状況で消えることができるヤツが、この世にたった一人だけ存在していることを、俺だけが知っている。それは隠者、ただ一人である。
「あっ、どっか行っちゃった」
いま岸辺から姿を消したのが本物のユウキだ。
そして手品をしていたのが隠者ということだ。
こんな卑怯な消失マジックは他にないだろう。
翌日、天気が悪ければ犬の散歩をサボろうと思っていたが、快晴だったので仕方なくマジックをいつもの散歩道へ連れて行くことにした。気温が高いということもあり、今日一日だけで一気に市内の雪解けが進む可能性がある。
それでも実習林のハイキングコースは雪が深いままだった。おそらく三月の中旬くらいまでは根雪が残っていることだろう。考えたくはなかったが、ユウキと犬の散歩に行けるのも三月いっぱいで終わりだ。友と一緒に過ごせる残りの時間を大切にしようと思った。
「マジック、どうした?」
突然吠えたので、思わず尋ねてしまった。
「どう、どう」
なぜかマジックが興奮している。
「うん?」
見ると、誰もいないはずの実習林の雪原に人影があった。
「ユウキ?」
そんなはずはない。
ユウキなら今ごろ札幌で試験を受けているはずだ。
「あっ」
アンナ先生だ。
パーマをかけた髪型がユウキにそっくりだったので見間違えてしまった。
「先生、どうしたんですか、こんなところで?」
「あのね、ユウキ君が死んじゃったの」