SIDE OF THE HANGED MAN 吊るされた男
骨が発見された。しかし慌てる必要はない。どれだけその確率が低かろうが、ゼロでなければ起こり得るからだ。私の元に捜査の手が及ぶことはないだろう。決定的な証拠もなければ、状況証拠を積み上げることもできない。
このような状況に陥っても冷静でいられるのは、精神力の問題ではないということが、実体験を経てよく分かった。すべては他人事。他者である以上は、俯瞰した立場でしか物事を見ることができないわけだ。
体験は素晴らしい。本を読んで知った気になることほど虚しい行為はない。想像力があれば仮想体験からでも未知なる境地に踏み込むことはできるだろうが、現実に戻れば、また空しくなるものだ。
どれだけ知識を得ようとも、実際に殺さなければ得られない感触がある。身体から音が消え、体温が失われ、私だけの人形となる。わずかな時間でも、それをおもちゃにして遊ぶことができたのは、この上もなく幸せだった。
しかし倫理的には問題のある行為だ。多くの者が憤怒し、嘆き悲しむに違いない。だからこそ今日まで経験を望まなかった。そんな私を殺人者にしたのは、他ならぬ楓花さんだ。彼女と巡り合わなければ殺人者になることはなかっただろう。
だが、他人のせいにするつもりはない。殺人を犯さないという人生の選択がある中で、私が殺人を犯す人生を望んで決定を下したからだ。だからこそ、当事者同士以外の者には関わってほしくないわけだ。また、第三者である以上は理解することも不可能だ。
第三者は同じような罪を犯した者を同種と判断するだろう。しかしそれは違う。経験したことのない人間が都合よく分類しているだけだ。私とまったく同じ経験をした者しか、私を裁くことはできない。つまり、そこに罪があるかどうか、私にしか判断できないからだ。
私の言葉に共感を覚える殺人者も、それはその者の思い込みにすぎない。だから私は、私以外の殺人者を庇うようなことはしないのだ。第三者が私を理解できないように、私も他者を理解することは不可能だからだ。
ただし捕まるような殺人者は、愚かで、無知で、社会に溶け込むこともできない、出来損ないのガラクタなので、捕まった殺人者だけを対象として性質や傾向を分析されるから、世間がイメージしやすいような犯人像になるのかもしれない。
捕まらない殺人者にとっては、犯人のイメージや世間の反応は娯楽でしかない。研究には程遠い、単なる暇潰しだ。捕まる殺人者は承認欲求が高く、自己顕示欲が強いので、自ら進んで道化となるのだろう。
捕まらない殺人者になるには、社会に興味を持ってはいけない。欲を持ってしまうから捕まるのだ。まともに評価できる者がいないのだから、始めから期待してはいけないということだ。欲をかきすぎなければ、いくらでも世間から消えることは可能だ。
だが、骨の発見者には興味がある。偶然に頼るには無理があるからだ。地質調査があったわけではないのに掘り返した者がいる。ダウジングで水脈や鉱脈を見つけることは可能だが、白骨遺体を見つけることは困難だ。
埋葬作業を見られたということだろうか? ならば捜査員の訪問があるはずだ。それとも私のことを知っていて、わざと隠しているのか? なんのために? それは私を脅迫するためだ。それはそれで面白い。
彼、または彼女かもしれないが、『バラされたくなければ金をよこせ』などと脅迫してくるような愉快な者が現れたら、少しは楽しめるかもしれない。しかし私の方から盛り上げるつもりはない。他人を楽しませることに興味がないからだ。
来るなら来ればいい。捜査員よりも面白い人であることを願おう。私に関わったことを後悔させてあげよう、と思ったが、それも欲をかきすぎる行為なので止めておこう。何事においても期待してはいけないということだ。




