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タロットゲーム  作者: 灰庭論
第1巻 魔術師編
4/60

SIDE OF THE MAGICIAN   魔術師

 僕はずるい人間です。さらに卑怯な男でもあります。水曜日の朝、ケント君からウサギを殺したことを聞いた時、表情を変えないように努めていたけど、本当は羨ましくて、妬ましくて、仕方がありませんでした。

 授業中もずっと上の空だった。どうしようもなく寂しくて、胸の辺りが苦しくて、常に泣きたくなるほど怖く、一人ぼっちになってしまった悲しさから、命が助かったケント君を心から祝福してやることができないでいた。

 昨日の朝、僕はケント君にマジックを殺さないようにお願いしたが、本当は殺してほしいと思っていた。こうして授業を受けている今も、マジックを殺して僕の命を救ってほしいと思っている。それなのにカッコつけて拒否してしまった。

 死にたくないです。死ぬのが怖くて眠れないのに、それでも自分の手ではマジックを殺せないから、ケント君が勝手に僕の知らないところでマジックを殺してくれることを願っている。本当に、僕ほど最低で最悪な人間はいないだろう。

 マジックのことは好きだし、ケント君に話した気持ちは嘘じゃない。でも自分の命と同じように考えることなどできないに決まっているじゃないか。それとも、世の中の愛犬家の人たちはペットのためなら自分の命を投げ出せる人ばかりなのだろうか?

 マジックのために命を投げ出すこともできず、そのくせ動物を大事にする人間だとも思われたいと願っている。殺してほしいというのが本音なのに、他者はそのことを知らずに僕のことを聖人と思っているわけだ。

 人間の見え方ってなんだろう? 僕の方が内面は腐り切って醜いのに、ウサギを殺したケント君の方が残酷に映る。すべてを知っている僕から見れば、ケント君の方が僕の何倍も素敵な人間らしい人間だ。

 今朝、一人でマジックを散歩させた時、地面に開いた穴ばかり探して歩いてしまった。マジックを穴に落とせば、日曜日までには死んでくれるんじゃないかと思ったからだ。それに穴に落ちたと言えば、愛犬が事故に遭って可哀想だと同情してくれると思ったからだ。

 そんなことに頭を使いたくないのに、ずる賢いアイデアが勝手に思い浮かんでしまう。そして、その度に自己嫌悪に陥ってしまう。いっそのこと逃がしてしまおうかとも考えたけど、隠者が前に「言い訳はなしだ」と言っていたから首輪をいつもより念入りに締めている。


「いただきます」

 給食の時間、手を合わせなかったものの、ケント君が口を動かしたのを僕は見逃さなかった。これまで一度も教室でそんなことをしたことがない人だ。どうやらウサギ殺しがケント君の心の持ちようを変えてしまったようだ。そのことに気が付いているのはクラスで僕だけだった。


「見せたいものがあるんだ」

 その日の放課後、ケント君から家に来ないかと誘われた。何も言わなくても見せたいものがウサギの肉だというのは分かっていた。まだ食べていないと言っていたので生肉を家に保存してあるのだろう。


「あれ? アンナ先生だ」

 玄関を出ると駐車場の方へ歩いていく先生と出くわした。ケント君が驚くのも無理はない。先生の帰宅時間には早いからだ。特にアンナ先生は音楽室でピアノを弾いてから家に帰るので、他の先生よりも帰りが遅いはず。

「何かあったのかな?」

「聞いてみよう」

 先生が車に乗り込む前に、声を掛けることができた。

「アンナ先生、何かあったんですか?」

 ケント君が不安げに尋ねた。

「いや、たいしたことじゃないの。『神さまの家』で飼っているウサギが逃げ出しちゃったみたいなんだけど、それでレンちゃんが落ち込んでるっていうから話をしに行こうかと思って」

「落ち込んでるって、大丈夫ですか?」

 ケント君が責任を痛感しているようだ。

「ちゃんと扉を閉めなかったことで自分を責めてるって聞いたけど、わざとじゃないものね。だから元気づけてあげようと思って」

 アンナ先生は、大事ではないという認識のようだ。

「俺たちも行っていいですか?」

「うん、いいけど勉強しなくて大丈夫なの? そっちの方が心配なんだけど」

「気になって勉強どころじゃないですよ」

「それ、勉強しないための言い訳にしか聞こえないけど」

「さすが先生、バレちゃったか」

 そう言うと、二人は小さく笑い合った。ケント君はもうすでに軽妙な会話ができるようになっているようだ。それを見て、僕はまたしても自分だけが取り残された気持ちになって寂しくなってしまった。

 それと同時にケント君のことを酷いと思ってしまった。レンちゃんのことを考えたら冗談なんか言っている場合じゃないのに、それなのにもう日常を取り戻しているように見えたからだ。僕が死ぬかもしれないということを真剣に考えてくれていないのではないだろうか。

 でもそんな風に人のことを裁くような目で見てはいけない。レンちゃんのことが好きなケント君なら、ちゃんと彼女のことを真剣に考えているはずだ。そして何より、そのことを誰よりもこの僕が知っている。つらくないわけがない。


「さぁケント君、起きて。着いたわよ」

 先生が運転するサイドシートで、眠りこけていたケント君が目を覚ました。

「言われなくても、ちゃんと勉強しているみたいね」

 そう言った先生の顔が嬉しそうだ。僕はケント君の睡眠不足の原因がウサギ殺しだということを知っているけど、他の人には一切口を滑らせていなかった。いくら最低の人間だからといって、友が抱えている秘密をバラしたりはしない。それが今の僕の唯一の取り柄だからだ。

「みんな集まってるけど、どうしたんだろう?」

 アンナ先生の見つめる先に、児童ホームにいる子どもたちの一団があった。小学校高学年組の男女六名がホーム長さんとレンちゃんの前で整列している。僕とケント君も先生の後を追うようにして一団に加わった。

「校長先生、どうされたんですか?」

 アンナ先生はホーム長さんのことを先生と呼ぶ。それは小学校の校長をされていたからだ。

「いや、子どもたちがウサギを探すといって聞かないもんですから、これから探しに行こうというわけですよ」

 ホーム長さんは雪のように真っ白い髪をしたおじいちゃんだ。孫たちに頼み事をされたら断れないような、そんな人の良さを感じさせる表情をしていた。僕が『神さまの家』のことが好きなのは、ホーム長さん夫婦に会いたいというのが大半の理由だ。

「先生、それでは私もお手伝いします。いえ、手伝わせて下さい」

 アンナ先生がそう言うと、ホーム長さんが注意事項を話し始めた。ウサギが犬のように名前を呼んで走って来ることはないということは、ここにいるみんなが知っていることだ。それでも探さずにいられないのは、レンちゃんが悲しそうな顔をしているからだろう。

 子どもたちにとって、レンちゃんはお姉ちゃんのような存在であり、母親のような存在でもあり、これは大袈裟な表現かもしれないけど、信仰の対象にも成り得る存在だ。いや、アイドルという言葉の方が適切かもしれない。

 表現はともかく、子どもたちにしてみれば、レンちゃんが悲しそうな顔をしていたら自分たちも悲しくなるし、笑っていたら自分たちも嬉しく感じられるのだ。それが『神さまの家』におけるレンちゃんの存在だった。

「ユウキ、俺たちも探すぞ」

「え? うん」

 ウサギ殺しの張本人に、ウサギ探しを誘われた。

「ユウキ、俺たちはあっちを探そう」

 ホーム長さんとアンナ先生とケント君と僕で三班に分かれた。子どもたちを預かるのは大人の二人なので、僕とケント君は二人だけの班だ。それはケント君が自ら申し出て決まったことでもある。

「ミルク!」

 ケント君がウサギの名を叫ぶ。それはウサギを見つけるためではなく、離れたところにいる子どもたちに聞かせるためだろう。ケント君は別の班の子どもたちの声が遠ざかって聞こえなくなるまで何度も叫び続けた。

「ケント君、もう叫ばなくて大丈夫だよ」

「うん」

 空返事したケント君の横顔は虚ろだった。見る人によっては、それが失踪したウサギへの悲しみに見えるだろうし、僕には滑稽な芝居にも見えてしまうわけだ。でも人は滑稽に見えるほど、心の中は悲しみで満ち溢れているような気がする。

「どうしたの?」

 ケント君が立ち止まって周囲を見渡したので尋ねてみた。

「ユウキも誰かに見られてないか警戒してくれ」

 再び森の中を歩き出したケント君が、ずんずん進んで行く。

「あそこだ」

 どうやらケント君には目的地があったようで、そこはひと目でウサギの屠殺場だということが分かった。黒ずんだ血の跡が雪に染みて、血で汚れた毛皮が放り出されていた。よく見てみると、切り落とされたウサギの頭部も転がっている。

「念のためと思ったけど、先生についてきて良かった」

 ケント君の言う通りだ。これは子どもたちに見せられない。

「血の付いた雪は川に流そう」

「頭と皮は?」

「俺が土の中に埋めるから、ユウキは血を川に流してくれ」

「素手で掘るの?」

「いいから急ごう」

 ケント君は周囲を警戒しつつ、地面を掘り始めた。踏み固められたわけではないので無理ではないが、爪が剥がれそうなほど痛そうにしているのは見れば分かる。僕も万一発見した子どもたちにショックを与えないようにと、急いで血の付いた雪を川に投げ入れた。

 血染めの雪を拾い集めながらも、同時に別のことも考えていた。それは僕がケント君のお手伝いをしたのだから、ケント君にも僕の手伝いをしてほしいと願ってしまったことだ。どうしても助かりたくて、僕はマジックを殺してほしいと思っている。

「ユウキ。もういいよ。あんまり雪を減らすと却って不自然だから」

 考え事に没頭するあまり惰性で作業をしてしまったようだ。

「後は足跡を残すためにあちこち歩いて『神さまの家』に戻ろう」

 僕にもケント君のような冷徹さが欲しいと思った。


「レンちゃんだ」

 夕暮れまで歩き続けた後、『神さまの家』に戻ると建物の横にあるウサギ小屋の前で佇むレンちゃんの姿を見つけた。アンナ先生からは落ち込んでいると聞いていたが、そんな感じには見えず、どちらかというと自分に怒っているように見えた。

「ユウキは何も喋らなくていいからな」

 この言い方はなんだろう? 僕がレンちゃんにウサギ殺しの真相をバラすとでも思ったのだろうか? そんな気を惹くようなやり方を、僕はこれまで一度だってしたことがないのに、そんなことをするような男に思われているとしたら心外だ。

「レンちゃん、大丈夫?」

 ケント君がいつもの無機質な感じではなく、努めて優しい声色を使った。

「あっ、うん、私は平気なの。心配なのはミルクの方だから」

 レンちゃんらしい心の在りようだ。

「それよりね、このウサギ小屋の扉を見てほしいの」

 そう言われても、ピンと来なかった。どこにでもある普通のウサギ小屋だ。

「何か変わったことでもあったの?」

 ケント君の顔に緊張が走っている。

「この扉だけどね、勝手に開くこともなければ、ひとりでに閉じることもないの。半分の位置で止めればそこで動かなくなるし、だからこそこれまで一度も下ろし金を掛け忘れるということもなかったんだ。扉の鍵を掛け忘れたのは私の責任でいいの。だけどね、人ひとり通れるほどの隙間が開いていたことの説明はつかないの。だってそうでしょう? ウサギが逃げるだけなら頭が通るわずかな隙間だけで充分だから、こんなにも扉が開いているというのはおかしいの。これだと、まるで人間が小屋の中に入って、出る時に扉を閉め忘れたみたい」

 レンちゃんは、僕が披露した手品のタネを見つけるのも上手な子だ。

「風で扉が開いたんじゃないかな?」

「風がない日に風が吹いたというの?」

「だったらウサギが勢いよく突進して扉を開けたんだ」

「ミルクはこれまで壁に頭を打ち付けたことがないよ。扉が開いてるなんて分からないんだから、壁に向かって突進なんてしないと思う」

 ケント君の仮説が瞬時に否定されていく。

「私は別にケント君から答えが欲しいわけじゃないの。ただ、ミルクをわざと逃がした人がいるなら、ちゃんと話して欲しいと思っただけなんだ」

 僕たちより年下なのに、それでも同年代の女子だと僕ら男より遥かに年上のように感じられる。それがレンちゃんのように厳しい環境で育った人なら尚更だ。僕がケント君の立場だったら、そのレンちゃんの真っ直ぐな気持ちに耐えられなかっただろう。


「ユウキ、さっきはごめん」

「え? なにが?」

 僕たちはアンナ先生の車ではなく歩いて帰ることにした。時間にすれば一時間だけど、距離にするとすぐそこなので全く気にならなかった。裏道に雪のないタイヤ道ができるまでは、もうしばらく後になりそうだ。

「俺ってさ、すごく心が狭い人間で、ユウキがレンちゃんと言葉を交わすだけでも嫌な気持ちになってしまうんだよ。こんなの嫉妬じゃなくて、ただの狂気だよな。レンちゃんが俺以外の人と話しているのが気に入らないんだもん」

 ケント君がウサギ殺しとは別のことで悩んでいるのが、僕にとってはショックだった。それはつまり、もう僕とは違う世界に住んでいるということで、僕を置いて未来の方へと向いているように感じたからだ。

「ユウキがレンちゃんと話をしただけで点数稼ぎに見えたり、レンちゃんがユウキに微笑むだけで、レンちゃんに対して腹が立ってしまうんだ。自分でも思いが歪んでいるって分かっているから、結局は嫌な気持ちになって自分を責めてしまうことになる」

 ケント君は、なぜこんなことを話しているのだろう? 僕が残り四日間しか生きられないということをすっかり忘れてしまったかのようだ。どうしてそんな僕が、他人の恋愛について話を聞かなければいけないのだろうか?

「そんな自分を変えるために、俺はもう正直に生きるって決めた。だからこうしてユウキにも、ありのままの自分を伝えようと思ったんだ。今までは心の声として封印していたことも、全部話してしまおうと思う」

 それは僕にも正直になれという脅しだろうか? 理想が高く希望が大きいほど、僕のような弱虫を苦しめる。押し付けられた正論を脅迫として受け取る人がここにいることを、ケント君はなぜ分かってくれないのだろう?

「そこまで考えてもさ、レンちゃんの前に立つと本当のことが話せなくなるんだよな。嫌われたくないと思って取る行動が、ことごとく嫌われる行動になってしまうんだ。嘘つきより正直者を好いてくれると分かっていても、嘘をついてしまうんだよ」

 そんなことよりも、僕の話をしてほしかった。レンちゃんのことなんてどうでもいいじゃないか。僕には時間が迫っているんだ。どうして焦ってくれないのだろう? なぜ何度も僕のことを説得してくれないのだろう? 

 いや、ケント君のこの落ち着きっぷりを見ると、もうすでに僕の命を救うことを決めているのかもしれない。だから冷静でいられるのではないだろうか? そうじゃないと、すべてにおいて説明がつかないからだ。きっとそうに違いない。

「明日の朝も一緒に散歩に行けそうにないや。とにかく眠たくて仕方ないんだ」

「う、うん、分かった。一人で行くよ」


 木曜日の朝が来た。残りの人生が三日と二十時間を切ってしまった。犬の散歩をして学校へ行くこと以外に、もっとやるべきことがあるような気がするけど、やってみたいことすら頭に浮かんでこなかった。最後の晩餐でさえも考える気になれない。

「ユウキ君、そんな落ち込んだ顔をしないでさ、元気を出してよ」

 どこからともなく見知らぬ声が聞こえてきた。僕がいるのは実習林のハイキングコースで、いつものように誰もいない雪原だ。ベンチの周りを見渡しても、声の主は見つからなかった。死の間際には幻聴が聞こえてくるということだろうか?

「ユウキ君、ここだよ、ここ。ボクならここにいるじゃないか」

 愛犬のマジックと目が合った。僕の足元で四肢をピンと伸ばして仰ぎ見ている。

「マジック、君なのか? 君が僕に話し掛けたというのかい?」

「うん、そうだよ。あまりにもつらそうな顔をしているから心配になって喋っちゃったよ」

「マジック、だって、僕は、君を殺さないと、殺すって言われていて」

「分かってる。全部知ってるよ。でもユウキ君はボクのことを守ってくれている」

「違う! 違うんだ。僕は君が死んでくれたらと、そんなことばかり考えて……」

 マジックが涙を拭った手をペロペロと舐めてくれている。

「お願いだから、そんなに優しくしないでおくれ。僕は君に優しくされるような飼い主ではないんだよ。君の死を願い、殺したいと思い、でも自分の手では殺せないから、ケント君に殺して欲しいと思っている卑怯で姑息な男なんだ。優しさなんて受け取っちゃいけないんだよ」

「優しいのはユウキ君の方だよ。だってボクを毎日散歩に連れて行ってくれているじゃないか。ボクのせいで人生が終わろうとしているのに、それでも休まず散歩に連れて行ってくれている。そんな人が優しくないはずがないんだ」

 そう言うと、マジックはまた僕の手をペロペロと舐めてくれた。

「マジック、君まで僕を追い込まないでおくれよ。さっきも言っただろう? 僕は君に死んでほしいと思っているんだ。ケント君が殺してくれないのなら、日曜日に僕が直接手を下そうかとも考えてしまっているんだ」

 マジックの目を見るのもつらく感じる。

「もっと酷いことを告白するとね。君を殺した後、君に似た白い犬を見つけて殺していないことにしようかとも考えているんだ。高校は札幌にある学校を受験するから、そこでケント君とは離れ離れになるし、それで誤魔化せないかと本気で思っているんだ」

 愛犬を殺したとケント君に思われるのが、とにかく一番嫌だった。

「命がこの世で一番大切なものだって分かっているよ。それなのにどうしても生き残った後のことまで考えてしまうんだ。僕は例え命が助かったとしても、その後何十年もペットを殺した男として生きていく自信がないんだよ」

「ユウキ君、君にその気があるのなら、ボクのことを殺しても構わないよ」

 マジックが純粋な瞳で僕のことを見ている。

「何を言っているんだよ。殺してもいいっていうことは、死んでしまうということなんだよ」

「もちろん分かっているよ。分かった上で言っているのさ」

「どうしてそんなことを言うんだ?」

「それはユウキ君の命を救いたいからに決まっているじゃないか」

「マジック、それはいけないよ。そんなことできやしないんだ」

「ボクは充分すぎるほどユウキ君によくしてもらった。だから恩返しがしたい」

「それで犠牲になってくれるというのかい?」

「そうだよ。それに人間と犬では年の取り方が違うからね。ユウキ君はまだ若いじゃないか」

「マジックだって、たった三年しか生きていないのに」

「ユウキ君と比べれば充分なんだって」

 そう言うと、マジックが僕の正面に来てお座りした。

「さぁ、ユウキ君、ボクの首を絞めて」

「できないよ」

 マジックが半歩にじり寄った。

「ボクはユウキ君に生きていてほしいんだ。さぁ」

 マジックが首を伸ばした。

 僕は、その首に恐る恐る手を掛けた。

「痛くないように一気に絞め上げてね」

 その言葉に救われた思いがした。

 両手にありったけの力を込める。

 すると目の前で「パリンッ」と音がして氷の結晶が砕け散った。

 雪まつりの氷像が一瞬にして消え去ったかのようだ。

「なんだ、やっぱり殺せるんじゃない」

 声がした方を振り向くと、隠者が立っていた。

「マジックは?」

「ここにいるわよ」

 そう言うと、マントの裾に隠れていたマジックがひょっこりと顔を出した。

「君がマジックに化けていたのか?」

「当たり前でしょう? 喋る犬なんか、この世に存在しないんだから」

「どうしてそんな意地悪ばかりするんだ」

「私だって、まさかユウキ君が信じるとは思わなかったわよ」

 気が付くと地面に突っ伏して涙を流していた。

「でも良かったじゃない。いい練習になったんじゃないの?」

 その一言で隠者が追い打ちを掛けるヤツだということがよく分かった。

「あなたは相手が殺してもいいと言えば殺すことができる人なのよ」

 泣きじゃくる僕を慰めてくれたのは、愛犬のマジックだけだった。


 その日の放課後、ケント君の家に呼ばれてウサギの肉を見せてもらった。すでに切り取られた頭と皮を先に見ているので初見の驚きはないが、それでもミルクの変わり果てた姿にしばらく言葉を失ってしまった。

 でも不思議と可哀想だという気持ちはこれっぽっちも抱かなかった。それはどうしてかと考えたら、おそらくケント君がそのウサギ肉を大事に扱っているからだと思い至った。一夜漬けで仕入れた肉の熟成に関する知識を披露する姿が、とても立派に見えたのだ。

 考えてみれば、今はコンビニやスーパーで骨付きの鶏肉や牛肉が当たり前のように売られている時代だ。飾り棚にきれいに陳列されて、少しでも美味しそうに見えるように工夫してある。それでどうしてウサギ肉だけ特別視できようか。

「調べてみると肉の熟成も奥が深くてさ、拘ろうと思えばいくらでも拘ることができる仕事だっていうのが分かったんだ。特に温度管理が難しくてさ、最初は見つからないように家の外で保存しようと思ってたけど、それだと凍って熟成しないんだ」

「それで暖房もつけずに部屋の中に吊るしてるんだ?」

「うん。これでもまだ室温が高いくらいかな。昼間は窓を開けて家を出るんだけど、それで丁度いいくらいなんだ。でもこの時期でよかったよ。もう少し暖かくなると冷蔵庫じゃないと保存が効かなかっただろうからね」

 ケント君はウサギ肉を美味しくいただくために、暖房を使用せずに生活している。自分の部屋にいるのに、外出用のコートを着込んで寒さを凌いでいた。眠る時は何枚も重ね着して布団に入るとも言っていた。

「明日もウチに来られるか? 金曜日だから母さんが遅番でいないだろう? 父さんも十時過ぎまで帰って来ないからキッチンを自由に使えるんだ。よかったらだけど、一緒にウサギの肉を食べてみないか? もちろん無理にとは言わないけどさ」

「一緒に食べるのはいいけど、それなら日曜日にウチで食べるのはどうかな? ほら次の休みは祝日が重なっているから三連休になるだろう? 父さんも休みだから夫婦揃って泊りがけでスキー旅行に行く予定なんだ。もちろん僕は断っているからお留守番だけどね」

「上の兄ちゃんは春休みじゃないの?」

「いや、まだレポートがあるって言ってたよ。家に帰って来るのは来週なんだ。だからケント君が泊まりに来てくれれば二人っきりで過ごせるんだ。オーブンがあるからこんがり焼けるし、きっと素敵な最後の晩餐になるよ」

「最後の晩餐って」

 そう言うと、ケント君は怖い顔をした。

「ユウキ、ユウキはまだ決心がついていないのか?」

「決心って、どういうこと?」

「どういうことじゃないだろう。マジックを殺さないと死ぬんだぞ? これはるかられるかの二択じゃないんだ。生きるか死ぬかの二択でもない。生き残るための唯一の方法なんだよ。迷ったり悩んだりすることでもないからな」

 やっぱりケント君は僕のことを真剣に考えてくれていたんだ。もう、それだけで嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて仕方がなかった。しばらく気に掛けてくれていなかったのは、僕が当たり前の選択をすると思っていたからなのだろう。

「ユウキがらないなら俺がマジックを殺すよ。何も知らないマジックには申し訳ないけどさ、こっちはユウキの命が懸かっているんだ。人からどう思われるか分からないけど、俺としては躊躇する理由はない。今すぐにでも殺せるんだ」

 以前と比べてケント君の言葉に真実味が感じられた。ここで僕がマジックの殺害をお願いしたら、きっと今日中に殺してしまうに違いない。それはケント君が残虐だからということではなく、僕の命が懸かっているからだ。

 僕にはその気持ちだけで充分だった。今の僕の胸中には、昨日までの恐怖心はない。それは殺意を抱いた僕のことを慰めてくれたマジックがいてくれるからだ。ケント君が大事な友ならば、マジックも同じように大事な友なのだ。

「マジックは殺さない。迷ったし、悩んだし、怖かったけど、殺さないって決めたんだ。これが最後の決心でもある。もう揺らぐこともないと思うよ。次の月曜日が迎えられなくたって構わないんだ。こうなったら隠者の遊びが、ただの悪ふざけであることに賭けてみるよ」

 これが僕の本音だ。一周してやっと上辺だけの言葉に意味を持たせることができた。怖がるということは、あの卑劣な隠者に屈するということでもある。それが僕には堪らなく嫌なことだった。だからもう二度と怯えた顔を見せてやらないことにした。

「ユウキがそう言うなら、俺はどうすることもできない。それにアイツはルールが曖昧だし、俺がマジックを殺しても認めてくれないかもしれないだろう? それでただの悪ふざけだった場合は殺し損だ。でも殺せる力はありそうなんだよな」

 僕も同じ考えだ。ただの悪ふざけだと思いたいのは願望であって、確信があって言っているわけではない。むしろ僕たちを殺すくらいは簡単にできると思う。だからといって、それで屈するつもりはない。隠者が殺しに来たら、睨んだまま殺されようと思っている。

「あっ、でも待って。本当に殺せるとしたら、日曜の晩に僕たちが一緒にいるのはまずいかもしれないね。だって僕が死んだ時にケント君がその場にいたら、ケント君が僕を殺したように見えるかもしれないだろう?」

「そんなことどうでもいいんだよ」

 ケント君が吐き捨てるように言い放った。

「でも明らかな他殺体ならどうする? 残忍な手口で殺されたら凄惨な殺害現場になっちゃうよ? そこにケント君がいたことが警察に知られたら、たちまち同級生殺しの容疑者として捕まってしまうじゃないか」

「その時はその時だ。メディアを焚きつけて家の前に報道陣を集めてさ、部屋の窓を全開にして『これは全部宇宙人がやったことだ!』って叫んでやるよ」

 その言葉に、僕は思わず笑ってしまった。僕が笑うと、ケント君もまた楽しそうに笑うのだった。こういう状況でも笑い合える二人の関係がすごく誇らしい。友とは、こうでありたいと願っていたことだ。


 あっという間に日曜日がやってきた。金曜日と土曜日の二日間は気分が優れず、ケント君の冗談に付き合うのもキツい時があった。テンションの高低が交互にやってくる感じだろうか? 特にハイな気分がしばらく続いた後が精神的にキツかった。

 無理やり気丈に振る舞っている部分がある。それで作り笑顔をするものだから疲れてしまう。でも隠者にはつらい顔を見せたくないから、やっぱり必死になって笑うしかないわけだ。泣くのもシャワーを浴びる時だけと決めている。

 どんなに気にしないように努めても、やっぱり怖いことに変わりはないし、その恐怖心を心の中から追い出すことはついに叶わなかった。迫りくる死期を前にしてしまうと、どうしても暗い気持ちになってしまうものだ。

 両親には何も言わなかった。何も言わなくても僕の身に起こっていることに気付いてくれる両親ではなかったようだが、それでもそのことに対して残念な気持ちは一切なかった。それは両親にバレないように懸命に演じていたからだ。

 両親には気苦労させたくなかった。朝の「いってらっしゃい」が最後の別れの挨拶になるかもしれないが、それすらいつも通りの言い方を心掛けたくらいだ。とにかく今は旅行を楽しんでほしいという気持ちしかなかった。

 もしも本当に今日で死ぬことがあれば、昨日の夜に食べたご飯が母さんの最後の手料理となったわけだ。次の日も食べられるようにとカレーライスを作ってくれたけど、それが僕にとっても最後に相応しいメニューだったので満足だった。

 父さんとは会話をしなかった。話し掛けられれば返しただろうが、何も聞かれなかったので、こちらからも話し掛けないようにした。それがいつも通りの行動だし、男同士の親子関係なので、何も問題はない。

「色々とレシピを調べてみたんだけど、結局はガーリックローストが一番美味しそうだった」

 料理は全部ケント君に任せてある。僕はキッチンの端で見学するだけだ。

「昨日から一晩漬けておいたんだ」

 漬け汁は酒、みりん、塩、ニンニク、しょうがだけで作ったものらしい。

「ウサギ肉の風味を味わうために二本の脚だけ別にしておいた」

 それは焼いて塩だけで食べると言っていた。

「俺はフライパンで焼くからユウキは七輪で焼いてきてよ」

 ケント君は、ウチにはなんでも揃っていることを知っている。

「生焼けはダメだからしっかり焼くんだよ」

 炭に火を起こし、じっくり焼いてからリビングに行くと、すでにこんがりと焼けたウサギのガーリックローストが出来上がっていた。骨付きのレッグ肉も焼き色が美しかった。僕が七輪で焼いてきた肉とは大違いだ。

「ユウキの方はすごい焦げてるな」

「だってよく焼けって言うから」

 これが僕の最後の晩餐だ。隠者の言葉が本当なら、日付が変わる五時間後には殺されることになる。宇宙人からの処刑宣告なのでどこまで信じていいのか分からないけど、今は特に悔いが残るような気持ちはなかった。

「ほら、ぼんやりしてないで冷めないうちに食べよう」

 ケント君と食事をする時はダイニングテーブルを使わず、リビングテーブルに料理を並べて、床の上のカーペットに直接腰を落ち着けてご飯を食べるのが僕たちのスタイルだ。いつもは何も言わずに食べ始めるのだが、この日はお祈りを捧げることにした。

「いただきます」

 生まれて初めて食べるウサギ肉は鳥肉のような感じがした。ただし脂身がほとんどないので好んで食べようとは思わないのが正直な感想だ。予想した臭みがそれほど感じられないのは捌き方と調理法によって匂いが消えたからなのかもしれない。

 道民は羊肉を好むので肉の臭みには慣れている方だと思う。僕も小学生の頃は子どものラム肉しか受け付けなかったけど、最近は成羊のマトン肉も食べられるようになったところだ。酒好きの父さんはマトンしか食べなかったりする。

 ケント君はウサギ肉の感想よりも、外国人独特の、自分たちが食べる物には文句を言わず、他民族が食べる物だけ文句を言う自分勝手な考え方にすごく腹を立てていた。日本の食文化について色々と調べることで、今回は多くのことを学んだようだ。

「ミルクのことだけど、レンちゃんにウサギを殺したことを隠しておくつもり?」

 それよりも僕が気になったのはレンちゃんのことだった。レンちゃんがお世話をしていたウサギを食べてしまったので、僕も無関係ではなくなったからだ。できれば僕の口からレンちゃんに話してしまいたいと思ったほどだ。

「俺もどうしたらいいのか分からないんだ。レンちゃんは頭がいいから前日に鍵をしっかり閉めたことを確信しているはずだ。そのことを人には言わずに鍵を閉め忘れたことにして、すべて自分の責任にしてしまったんだよ」

 これはケント君の憶測だが、僕もレンちゃんならそういう行動を取ったような気がしている。

「俺の口から言わないといけないんだろうな。レンちゃんは誰かがわざと逃がしたことを確信していて、その上でその誰かが告白してくれることを待っているんだ。それはその人を裁くためではなく、ゆるすためにさ」

 僕もケント君の気持ちが分かる。レンちゃんという子は『神さまの家』にいる子どもたちだけではなく、ケント君や僕から見ても教会にいる聖母のような存在に感じられる時があるからだ。悪ガキの男の子にとっては、なくてはならない存在だ。

「打ち明けるのはいいんだ。でも俺が怖いのは宇宙人の話まで信じてくれるかっていうことなんだ。正直に話したって頭がおかしいと思われるだけだろう? せっかく正直に話してもさ、くだらない嘘をついていると思われるのが嫌なんだよ」

 必死すぎるケント君に思わず笑ってしまった。

「いや、笑い事じゃないって。レンちゃんは真面目な話をしている時に冗談を言うのが大嫌いな人なんだから、絶対に嫌われるって。かといって児童ホームにいる子どもが疑われるのもモヤッとするし、ああ、どうしたらいいんだよ」


 答えを出せないまま僕たちは一緒にお風呂に入った。ケント君は自宅の風呂だと足が伸ばせないので、ウチの湯船が大のお気に入りだ。据え置きの歯ブラシもあるので自分の家のようにリラックスして使っている。

 そんな友の振る舞いに、両親も口うるさくするということはない。父さんは目上の人に対する礼儀さえ弁えていれば怒らない人だ。食器を割っても、ガラスを割っても、ちゃんとした言葉遣いで謝罪すれば笑顔で許してくれる。

 湯船でやるのは、恒例となった息止め大会だ。しかも防水用の腕時計を持ち込んで正確にタイムを計る本格的な競技だ。といっても、勝敗に関しては一度も僕は負けたことがなかった。タイムは一分半を軽く超えることができた。

 それは泳ぎが可能かどうかで決まってしまうのかもしれない。ケント君に限らず道民は泳げない人が多いけど、僕は園児の頃からスイミング・スクールに通っていたから潜水も身についている。この日もやはり僕が勝ち、ケント君は一分の壁を破ることができなかった。


「ユウキ、眠いんだろう? だったら先に眠ってもいいからな」

 僕たちはリビングに運んだ布団の上で話をしているところだ。

「ケント君が先に寝なよ」

 交代で眠りに就き、殺しにくる隠者を返り討ちにするという算段だ。

 ケント君の手にはハンティングナイフが握られていた。

「俺は昨日たっぷり寝だめしたから」

 ふつう寝だめは出来ないと言われているが、ケント君は出来ると豪語している。

「じゃあ先に眠るね。おやすみなさい」

「おやすみ」

 毎朝五時に起きているので、夜の十時を過ぎるとキツイ睡魔に襲われる。電気は点けっぱなしだけれど、目を閉じればすぐに寝入ることができると思った。死ぬかもしれない夜なのに、眠れるのはケント君が守ってくれているという安心感があるからなのかもしれない。

 でも眠りに落ちる前に薄目を開けると、ケント君はナイフをコントローラーに持ち替えて、音を小さくしながらゲームをしていた。それが悪いということではなく、むしろ冒険をしている勇者のように見えて心強く感じられた。


 その夜、久し振りに夢を見ることができた。なんの変哲もない夢だ。アニメ絵のような風景の中で風を受けている。丘の上に立ち、そこから草原を眺めると、風が走り続けている様子が見て取れた。

 真っ白い太陽がお母さんで、手を繋いでいる光がその子どもたちだ。草原の向こうに海も見えるが、それもお母さんで、浮かんでいる雲がやっぱりその子どもたちだ。大地もお母さんで、草や木が、やはりその子どもたちだ。

 夢を見ながらも、お母さんのお腹の中にいるような感覚があった。暑かったり寒かったり、揺れたり揺れなかったり、明るかったり暗かったり、楽しかったり怖かったり、すべてお母さんのお腹の中にいた時の出来事と同じだった。

 この世界とは一体なんだろうか? お母さんのお腹の外にも世界があるように、宇宙の外にも世界があるというのだろうか? だとしたら僕たちは、それをなんて呼べばいいのだろう? 宇宙の先に何かがあるのではなく、外に何かがあるはずだ。なぜならそれが自然の法則だからだ。

 仮にそれを死後の世界と名付けてもいいかもしれない。僕が勝手に思い込む分には誰にも迷惑が掛からないからだ。そう考えた途端に、不安はあるけれど、死ぬのが怖くなくなる瞬間を持てるようになった。

 死ぬことで宇宙の外に旅立てるのなら、それも悪くない決断だ。お母さんのお腹の中から飛び出したように、本物といわれる世界が待っているかもしれないからだ。自分から死ぬことはないけれど、死を恐れない思考はいくらでもできるというわけだ。

 死を恐れないのは、悪いことをしてこなかったということもあるだろう。地獄に落ちるようなことをしていたら、こんなにも落ち着いて夢を見ていられるはずがないからだ。そこは誘惑の少ない地方に生まれて良かったと思える点だ。

 でも、女の人の裸を見て興奮するのは罪だろうか? 罪悪感で自分が嫌になる時がある。それが罪に当たるとしたら、僕は無条件で地獄行だ。どんな言葉で誤魔化したって、僕の胸にある罪悪感は消すことなどできないからだ。

 アンナ先生が裸でピアノを弾いていた。夢だと知りつつも、ひどく淫靡で、あまりにも自分勝手な妄想に罪悪感を覚える。でも胸や大事な部分は隠れていて見えなかった。僕の夢だというのに、見たくても見えなかった。

 こういう時は、目覚めが近い。強引に見ようとすると、完全に目を覚ましてしまうのが過去にもあった。そこからなんとか想像力で補おうとするけれど、僕が見たいのは自分の頭で創った映像なんかじゃない。

 そんなことを考えながら夢の続きを期待したのだが、最後まで先生は裸を見せてくれなかった。と諦めた瞬間、僕は今も生きているということに気が付いた。そこで思い切って目を開けると、目の前にケント君の寝顔があったのだ。

 カーテンの向こうは明るいので、夜が明けていることは確かだ。日付が変わって、月曜日の祝日を迎えたということだ。つまりそれは、僕の命が隠者に奪われていないということを意味していた。まさか、これが死後の世界ということもないだろう。

 思わず笑ってしまった。それは死んだ後の世界が、これほどのどかならば素敵だと思ったからだ。ポカポカのリビングに遊び疲れた友が眠っている。これを天国と言わずして、どこを天国と言えるだろうか。

 愛犬のマジックが散歩をせがんでいる。見ると時計は六時を回っていた。いつもの月曜日ならば散歩から帰ってきている時間だ。それなのに僕のことを起こさずにいてくれたマジックには、優しさしか感じられなかった。

「ユウキ、大丈夫か?」

 ケント君が寝ぼけ眼で僕の名を呼んだ。すぐに身構えたが、手にしたのはハンティングナイフではなく、ゲームのコントローラーだった。どうやらそれで隠者と対決するつもりのようだ。とても滑稽に映ったが、僕は嬉しくて堪らなかった。

「大丈夫、この通りだよ」

「死んでないのか?」

「それは死んだことがないから分からないや」

「ああ、それもそうか」

 起き抜けの会話なので、ケント君もあまり深く考えられないでいるようだ。

「どうやら僕は助かったみたいだよ。ほら、マジックも無事なんだ」

「隠者は、どこで何をしているんだ?」

「さぁ? 今朝は一度も見掛けてないけど。ケント君は?」

「昨夜は一時過ぎまで起きていたけど、俺も見てない」

 友は、ちゃんと日付が跨ぐ瞬間まで守ってくれていたようだ。

「二人ともやっと起きたのね」


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