SIDE OF THE FOOL 愚者
昔から良いことと悪いことは同時に起こることが多かった。それはタロットカードの正位置と逆位置では異なる意味があり、その異なる意味の言葉が一枚のカードに同居していることにとてもよく似ている。
テストで点数が良ければ人から妬まれ、バスケットボールの授業で活躍すれば疎まれ、学年主任の先生の間違いを指摘したら怒られたりもした。世の中には裏と表があるのではなく、正位置と逆位置がある、というのが真理だと思う。
なぜなら本音と建て前というのがあって、本音の部分に対して裏と表現することに違和感があるからだ。人間なら口にできないようなことを頭に浮かべても当然だし、酷いことを頭に思い描いたとしても悪人ではない。
人間というのは、裏の顔も含めて表なのだ。どんな人間にも二面性がある。それを裏の顔がある、と聞こえ悪く表現する必要はない。正位置と逆位置でくるくると回り続けてしまうのが人生なのだろう。
隠者のせいでユウキにレンちゃんへの気持ちが知られてしまったけど、結果的に、それはそれで良かったと思っている。生涯この気持ちを貫こうと思っているので、いずれは話さなければいけないことだったのだ。
ユウキはレンちゃんに気がないと言った。しかし、その言葉をそのままの意味で受け取っていいのかは悩みどころだ。ユウキという少年は、俺に気を遣って自分の気持ちを偽ってしまうような男だからである。俺の気持ちを知った途端に身を引くことができるのだ。
レンちゃんがユウキに気がない、というのもユウキの主観にすぎない。俺を気落ちさせないために、そう言ってくれたことが丸わかりだ。レンちゃんがどう思っているかは、結局はレンちゃん本人しか分からないことだからである。
でもその一方で、ユウキが本当のことを言ってくれたような気がするのも確かだ。ユウキは俺よりも頭がいいし、回り回って、巡り巡って、俺が傷つくような事態にならないように先手を打って考えられる男だ。
後で「実は僕とレンちゃんは好き同士だったんだ」なんて酷い事態を招くことはない。レンちゃんに好かれていることはあっても、ユウキが自分の気持ちを俺に偽ることは有り得ないのだ。いや、それも俺の過信だろうか?
いずれにせよ、七日後に死ぬ俺には関係のない話だ。殺されるという実感は湧かないが、有り得ないとも思っていない。ひょっとしたら、もうすでに死んでいる可能性だってある。人生というのは、それくらい不確かなものだと思っている。
「おはよう」
いつもと変わらない月曜日の朝だった。五時に目を覚まして、マジックを連れたユウキと実習林へ散歩に行く。昨日までと違うのは、散歩に行けるのはこの日を含めて七回しか残されていないかもしれないということだ。
「なに、その一斗缶? 焚き火でもするの?」
「うん? ちょっとね」
ユウキには後でどうせバレるので隠すことではないのだが、恥ずかしいので誤魔化してしまった。告白すると、一斗缶の中には死ぬまでに処分しておかなければいけない物が全部入っている。
例えば松坂さんに宛てた手紙や、レンちゃんへの思いを綴ったノートや、クラスの集合写真を元に描いた松坂さんの似顔絵や、夏休みの宿題で書いた昔の日記帳や、いつまで経っても使う予定のないコンドームなどだ。
「お焚き上げみたいだね」
「うん」
念のために小川のほとりで火を点けることにした。辺りには誰もいないので注意されることはない。ハイキングコースからは丸見えだけど、五時台はまだ辺りが真っ暗なので、誰かに見られることもないだろう。頭上の星だけが俺たちを見ていた。
「燃やしてしまう前に見せて」
ユウキが懇願する。
「やだよ」
「どうしてさ?」
「恥ずかしいだろう?」
「僕たち、あと七日間しか生きられないかもしれないんだよ?」
「それを持ち出すのはズルいな」
「へへっ」
ユウキがいたずらっ子のような顔をする。昔から時々ユウチャンは意地悪になる時がある。そんな時、その真っ赤でふっくらとしたほっぺをつねってやりたくなるけど、実際にしたことはなかった。
「わかった」
「見ていいの?」
ユウキがすごく嬉しそうな顔をした。
「他の人に言ったらダメだよ」
そう言うと、ユウキがスケッチブックを開いた。そもそも見せたくなかったら持ってきていない。むしろユウキに見てもらいたくて朝の散歩の時間を選んだのだ。一人で処分するにはあまりにも寂しいと思ったからだ。
「松坂さん、裸になってるけど」
模写した顔に裸体をくっ付けた絵だ。
「でもやっぱり上手いね」
絵しか得意なものがないとも言える。
「ノートもいい?」
「うん」
見終わると、すぐにスケッチブックの紙に火を点けた。
懸命になって描いたのに、燃えて無くなるのは一瞬だった。
灰になってしまえば、どんな物でも同じになる。
「ノートの見開きいっぱいにレンちゃんの名前が書いてあるけど、これは何?」
「おまじないみたいなもんだよ」
「そんなおまじないあったっけ?」
「自分で作った。一冊のノートを好きな子の名前で埋めれば恋愛が成就するって」
「ふふっ」
結果はお察しである。
それでも次はノートを燃やせば両想いになる、と願を掛けてしまう自分がいる。
死んだ時のための処分だが、同時に死なないような気もしているのだ。
「こっちのノートも見ていい?」
いちいち尋ねるのがユウキらしい。
「こっちには詩が書いてある」
「心に浮かんだことを書き殴ったんだ」
「その小さな胸の膨らみには希望と絶望が詰まっている、だって」
「口に出して詠むなよ」
「音にしたくなるんだもん」
それは詩の作法として正しいかもしれない。
「春に君と出会い、夏に太陽と戯れ、秋に月を眺めて、冬に別れる人生でありたい」
今となっては叶わぬ夢だ。
「君を笑わせるためにこの口があって、君の涙を拭うためにこの手がある。僕の身体はすべて君のためにあるんだよ。自分の人生なんていらない。この命を君にあげてしまいたいんだ。君のために死ねる僕でありたい」
書いている時は夢中だったけど、実際にこうして第三者に詠んでもらうと、書いている時に感じていた気持ち以上に、言葉には重みがあるということに気が付いた。カッコイイ言葉を書き並べることは幾らでもできるけど、行動して形にするのはとても難しいことだと思った。
「君を笑わすことができるなら、僕はどんなことだってできるんだ」
ミュージシャンの歌詞に影響された詩もあるようだ。
「双丘のトンネルが人生の始まりだ」
これは自分でも意味が分からない。
ユウキの朗読はその後も続いた。
詠み終わったら破り取り、俺が一斗缶の中で火を点ける。
不思議な儀式だった。
途中で目に煙が入ってしまい、痛くて涙が止まらなくなった。
ユウキも同じように泣いている。
全部燃やし終わった後に一斗缶を覗いてみた。
見ると、そこには一握の灰しか残っていなかった。
その日の放課後、二人だけで話したいことがあったのでユウキと一緒に帰ろうと思ったのだが、気が付くと教室から姿を消していた。玄関まで下りて下駄箱を覗くと、まだ下校していないことが分かったので校内を探すことにした。
場所の見当はついている。俺たちが気兼ねなく行けるのは音楽室しかないからだ。図書室は緊張するし、体育館は邪魔になるし、職員室は近寄りたくないし、放送室とは無縁だし、屋上は立ち入ることができない。
音楽室がある別棟は静まり返っていた。足音も一切響いてこない。聞こえてくるのは階段を上がる自分の足音と息遣いだけだった。三階まで上がると、そこでようやくピアノの音色が流れてきた。
でもなぜだろう? 冬の晴天なのに、まるで雨が降っているかのようなメロディだ。こんなにも聴く者を悲しくさせる曲があるだろうか? どこかで聴いたことがあるが、曲名までは知らなかった。
音楽室の中を覗くと、ユウキの姿を見つけることができたが、声を掛けることはできなかった。なぜなら涙を流していたからだ。俺はそれを見て、今日はユウキを一人にさせてあげないといけない日だと思った。
受験生だけど家に帰っても机に向かうことはない。ベッドの上で寝っ転がりながらスマートフォン片手にダラっとインターネットに浸かるだけだ。それは隠者に死の宣告を受けていなくても、行動は変わっていなかっただろう。
夜はお風呂場で歯を磨きたいタイプなので先にご飯を済ませる。父さんはまだ帰ってきていないので風呂も先に頂く。湯船に浸かりながら父さんのことを考えた。楽な生活をさせてもらっていることに感謝しつつも、ああはなりたくないな、なんて思う自分がいる。
「母さん?」
脱衣所で誰かがいてゴソゴソしている。
「ケント君、私も一緒に入れてっ!」
「わっ! なにしてんだよ」
隠者が風呂場に入ってきた。
全裸の上、手でどこも隠していない。
思わず顔を伏せてしまった。
「なんで怒ってるの?」
「非常識だからだろ」
「ただの混浴じゃない」
「一般的じゃないんだ」
「喜ぶと思ったのに」
「誰が喜ぶか!」
「そう言いつつ、興奮してない?」
「宇宙人と知ってて興奮するわけないだろう」
「地球人はマンガ絵やC・Gで興奮するのに、その理屈はおかしくない?」
「そんなの知るか!」
「そのうち当たり前のようにロボットや異星人で興奮するようになるけどね」
「もう上がる」
「ねぇ、大事なところを隠しても意味がないって言ってるでしょう?」
そう言われても、見られたくなかった。
「本当に頭が悪いんだからっ」
自室に引き上げて、しばらくしてから隠者が部屋に入ってきた。じっくりとお風呂に入ってきたようで、湯上り姿になっているのが憎らしかった。瑞々しい肌の質感まで完璧に再現されている。
「ドライヤーがあるから、ちゃんと髪を乾かせよ」
「頭は悪いけど、優しさはあるのよね」
「最初の一言は余計だろ」
「やり方がわからないから、乾かしてくれる?」
「嘘つけ」
と言いつつ、自分で乾かすつもりがないようなので、仕方なく俺が隠者の髪を乾かしてあげることにした。濡れた髪はちゃんと濡れていたし、渇くとサラサラになるのも地球人と同じで、おまけに体温まで感じられるのである。
俺が髪を乾かしている間、隠者はベッドのへりに腰掛けてマンガを読んでいた。すっかり寛いでいる。背後から首を絞めれば悪夢から解放されるのではないかと一瞬だけ頭をよぎったが、それで殺せるなら、俺なんかに背後を取らせるわけがないと思い至って断念した。
「何しに来たんだよ?」
「うん? そろそろ動きがあると思って」
隠者がマンガを読みながら答えた。
「動きって何?」
「誤魔化してもムダって言ったでしょ?」
隠者は俺の心の中まで読めるというのか?
「俺が何を誤魔化してるんだ?」
「ネットでナイフについて調べてたじゃない」
ついさっきの出来事だ。
「殺るって決めたんだ?」
そう言った後、マンガのギャグシーンを読んで「クスクス」と笑った。
「全部見てるって言ったでしょ」
スマートフォンのネット検索まで全部見られているということか。それはもう頭の中を直接覗かれているようなものだ。これではお手上げではないか。本当についさっきウサギの殺し方について調べたばかりだ。
そうだ。俺は『神さまの家』で飼われているウサギを殺そうと思っている。「そんなことできるはずがない」と言ったのは昨日のことで、あれから一日も経たずに考えを変えて、殺そうと思ってしまったのだ。
しかし悩んだのは事実である。あそこにいるウサギは、俺が片思いしているレンちゃんが可愛がっているウサギなのだ。彼女を泣かせてしまうことを望んでするはずがないではないか。それでも一時間目の国語の授業の最中には、もうすでに殺そうと思っていた。
でも一番の問題は、俺がウサギを殺してしまうと、愛犬を殺せないユウキだけが隠者に殺されてしまうということである。今日の放課後に話そうと思ったけど、今はもう口にするのが堪らなく怖くなっている。
ウサギを殺す話をするということは、俺だけ助かるということを伝えるようなものだ。どんな顔をして話せばいいというのだろう? いくら実際に殺されるかどうか分からないとはいえ、軽い気持ちで話せるはずがない。
やはり俺がユウキの愛犬を代わりに殺すしかないのだろうか? ユウキは反対するだろうが、二人が助かるにはそれ以外の選択肢はないのだ。手伝ってくれなくてもいい。俺がウサギとマジックを殺せばいい話だ。
それにしても、自分が飼育されたウサギや犬を簡単に殺せる、と思える人間だとは思わなかった。いくら宇宙人に処刑を宣告されたからといって、もう少し苦悩するものとばかり思っていたからだ。その己の薄情さを思い知らされたことが一番ショックかもしれない。
「つまんないから、帰るね」
俺が独りで考え事をしていたので退屈だったのだろう。隠者がマンガをベッドの上に放り投げて消えてしまった。微かな残り香は、家のシャンプーやボディソープの匂いである。香りをすべて置いて行ってしまったようだ。
「今日は元気がないね」
並んで歩くユウキが声を掛けてきた。いつもと変わらない暗い火曜日の朝だ。実習林のハイキングコースはすでに踏み均されてアイスバーンになっている。昔は長靴にミニ・スキーを装着させて滑って遊んでいたが、それは小学生のオモチャなので、もう履いて遊んだりしない。
「話したいことがあるんじゃないの?」
ユウキが尋ねた。
「よく分かるな」
「黙っている時は大体そうでしょう」
月明かりがベンチに座る俺たちを照らしている。
ユウキの蒼白い横顔を見ると胸が痛む。
でも話さなければ友を苦しめることになるだろう。
「俺、『神さまの家』のウサギを殺そうと思うんだ」
声が震えた。
「うん」
ユウキのことだから、それだけですべてを悟ったことだろう。
「でも、俺だけ助かるのは嫌なんだ。だから――」
「言ったらダメ」
ユウキが俺の言葉を遮った。
「それ以上言ったらダメだよ。僕はマジックを殺さないと決めているんだ」
「でもそれだと死ぬんだよ? 殺されるんだ」
「分かってる」
「いや、分かってないって。なんとなく助かると思ってるんじゃないのか?」
「そんなことない」
「いや、ユウキはリアルに感じてないんだ」
「違うよ、そういうことじゃないんだ」
珍しくユウキが声を荒げそうになったが、すぐにトーンを抑えた。
「ケント君は僕のことまで考えなくていいよ。その代わり僕もケント君のことは考えないから。ウサギを殺そうとしても何も言わないし、何も思わない。だからケント君もマジックに余計なことはしないで」
「でもそれだと死ぬかもしれないんだよ?」
俺も同じことばかり繰り返して、これでは隠者にまた頭が悪いと言われそうだ。
「マジック!」
雪原で遊んでいた愛犬が、ユウキの声を聞き付け走ってきた。
「ほら、隣に座って」
マジックがベンチの上でお座りした。
「マジックは僕が飼いたくて飼っている犬なんだ。それにはどういう意味が込められているかというと、どんなことがあっても世話をし続けて、その命が尽きる最期の瞬間まで面倒を見るっていうことなんだよ。宇宙人に『殺す』と言われたって、友達に『考え直せ』と言われたって、自分勝手に命を奪うことなんてできないんだ。だからといってウサギを殺すケント君を非難したりしないよ。それとこれとは別の話だからね。それだけはやっちゃいけないことだ。自分が清くて、ケント君が汚れているなんて思ってはいけない。これは僕とマジックの二人の問題だからね。もしも、もしもだよ? マジックが突如として狂暴化し、僕のことを襲い始めたら、その時は僕だって反撃して蹴り殺すことがあるかもしれない。でも見てよ、この目。僕のことを優しく見つめてくれているじゃないか。これほどの信頼関係はなかなか築けるものじゃないよ。そんなペットを殺せるはずがないんだ。殺さなければ死ぬ? そんなことマジックには関係ないもんね。マジックが僕を殺さないのなら、僕だってマジックのことを殺さない。今はもう、それ以外の考え方ができないんだ。だからケント君にお願いがある。どうか、僕のためだと思ってマジックを殺さないでほしい。そんなことを僕は望んでいないし、それどころか勝手に手をかけるようなら絶対に許さないと思う。マジックのことを守るためなら絶交だってするかもしれないからね」
ビクともしないほどの固い意志が感じられた。ユウキは見た目が子どもだけど頑固なところがあるので、後は何を言っても説得することは不可能だろう。死を受け入れるとかではなく、単純に愛犬のことが何よりも大切なのだ。
俺がウサギを殺せば、ユウキだけが残り六日間を迫りくる死の恐怖と戦わないといけないわけだ。俺には耐えられないことだが、ユウキならいつもと変わらない生活を送り続けてやり過ごすことができるに違いない。
「僕はウサギ殺しを手伝わないよ」
「わかった。一人でやるよ」
わざわざ宣言したのもユウキの気遣いなのかもしれない。隠者は殺す対象となっている犬とウサギを交換してもいいと言っていたが、他人の手を借りたら失格扱いとなる可能性もある。そうならないためにも、ユウキは自ら関与しないことを宣言したのだ。
ユウキが手を下さないとなると、俺がマジックを殺しても意味がないかもしれないわけだ。ユウキの命を救えない上、愛犬の命まで奪っては、申し訳ないという言葉では済まされない。ここはユウキの言葉に従ってマジックを殺すのは止めた方がいいだろう。
「俺、明日から散歩に一緒に行くことができないと思う」
「うん、わかった」
ユウキは察したようだ。
「また一緒に行けるようになったら連絡するよ」
それはウサギを真夜中に殺すので、そのせいで早起きができなくなると思ったからだ。もうすでに俺の中では、明確な殺意を持って『神さまの家』に行こうという意思が存在している。その淡々とした気持ちが自分でも怖かったが、死から解放されると思えばなんでもなかった。
むしろ不思議な感覚。それはなんだろう? 妙に気力が湧いてくるというか、気持ちが昂るというか、震えがあるけど興奮してしまうという、とにかく変な気持ちがあった。遠足の前日、いや、運動会の前日のような落ち着かない心境だ。
その一方で興奮状態の自分に嫌悪感を抱いてしまう俺がいる。『神さまの家』にいるウサギを思い出して吐き気を催してしまうのだ。ともすれば、他人の目にはウキウキワクワクしているようにも映るだろう。だから今は自分の顔を鏡で見る気にもなれなかった。
それとは別に、授業中はユウキのことも考えていた。俺がマジックを殺せない以上は、ユウキに殺すように説得する必要があるからだ。ユウキは頑固で意思は固いが、説得を諦めるわけにはいかないのだ。なにしろ友の命が懸かっている。
ユウキにとって愛犬が自分の命と同じくらい大事だと思っているようだが、俺にとってもユウキは自分の命と同じくらい大事だと思っているからだ。だったらユウキがそうしたように、俺もどんなことをしてでも説得しなければいけないはずだ。
では、どんな言葉で説得すればいいのだろうか? ペットを飼った経験がない俺が、知ったような口を利いてしまうと怒らせてしまうことにもなりかねない。それに関しては、週末までたくさん授業が残っているのでじっくり考えていきたいと思う。
その前にウサギを殺さなければいけない。自分を正当化するようでウサギに申し訳ないが、これも俺が生き残るためなのだ。しかし自分を責めるのも間違っている。悪いのは隠者こと、宇宙人だからだ。
学校が終わると、その足でホームセンターに向かった。目的はハンティングナイフを購入するためである。インターネットで調べると、ウサギなどの小型鳥獣類なら骨スキ包丁一本で充分だと記載されていたからだ。
殺すだけなら首を絞めれば充分なのだが、肉を食べようと思ったらナイフが必要になる。つまり俺は『神さまの家』で飼われているウサギを食べるつもりでいるわけだ。それこそが、俺がウサギにできる最低限の罪滅ぼしだと思ったからだ。
そのように考えることができたのもインターネットのおかげかもしれない。名もなき人たちがブログという名の日記で命を頂くことの尊さを俺に教えてくれたからである。もちろん不快に感じる人もいるだろうが、俺にとっては生きていく上で必要な情報であった。
しかし命の尊さを学んだ自分を他者にアピールするつもりはない。それらの概念は自分で考えたのではなく、インターネットを通じて得られた境地だからである。今は片手にスマホさえあれば中学生でも知識人や文筆家を装うことができるのだ。
それに学んだとはいえ、ウサギからしたらいい迷惑だということも分かっている。「命が尊いと思うなら奪いに来るんじゃねぇ」と言いたいに決まっている。だから開き直るのだけはよそう。野蛮で残虐だと言われたら、そのまま受け入れるしかない。
でも動物を殺して俺たちの食卓に肉を提供して下さっている方に、俺は残虐だとか野蛮だとか、そんな無神経な言葉を投げつけたりしない。それは殺すことと食すことは等しく同じ行為だからである。野菜を土から引っこ抜いて生命活動を終わらせるのも同じ行為だろう。
小売店や飲食店に卸す食肉を扱う畜産業者や、魚を獲る漁師や、野菜を育てる農家など、食べ物を扱うすべての職業従事者の方には感謝したい気持ちと、今まで気にも留めなかった非礼をお詫びしたい気持ちでいっぱいである。
気に留めないどころか、俺なんて動物を殺す人たちを残酷な人たちと蔑んでいたきらいがある。毎日のように肉や魚や野菜を食べているのに、まるで他人事なのだ。代わりに殺してもらっていただけなのに、俺は一度も動物を殺していないと思っていた。
そんな勘違いも今日で終わりだ。宇宙人から処刑宣告を受けるという、かなり特殊な状況下でウサギを殺すことになったが、ちゃんと自分の手を汚して、その肉を頂くと決めたので、俺はやっと目を覚ますことができたわけだ。
それから大型スーパーに行って、そこで一番太いローソクを購入した。真夜中の作業になるので、明かりが不可欠だからである。ウサギの解体は外でしようと決めていた。さすがに家の庭では家人に不審がられてしまうからだ。
「今日は遅かったじゃない」
食事中に母さんに話し掛けられた。いつもは居間でテレビを観ながら無言で食べるのだが、この日は珍しく心配そうな顔で尋ねてきたのだ。傍目から見て俺がおかしな状況に遭遇していることが分かったのだろうか?
「うん。本屋に用があって」
嘘だけど、さすがに包丁を購入したことを正直に話すことはできなかった。
「あれ? 受験って来週だっけ?」
「うん、そうだけど別に参考書を買いに行ったわけじゃないよ」
「ちゃんと勉強してんの?」
「うん? してないよ」
「それで大丈夫なの?」
「分かんない」
「ダメならダメでもいいけど、入学したらちゃんと卒業してよね」
もうすでに母さんは俺が受験に失敗すると思っているようだ。そしてその予想はおそらく当たるだろう。勉強しろとは一度も言われずに育って、本当に一度も勉強したことがない子どもになってしまった。
そもそも母さんは俺に興味がない人だ。ならば何に興味があるかといったら、それも分からない人である。お金に困っていないけど三年前から飲食店に働きに出ているので、本当は仕事をしていたい人なのかもしれない。
家ではスウェットの上下を着てダラダラと過ごし、お風呂に入った後はネグリジェに着替えて、寝るまで暖房がたっぷりと効いた居間でヌクヌクとテレビを観ている。この日は非番の夜なので父さんが帰ってくる零時前には眠りに就くだろう。
二月の北海道の真夜中は、虫の音がうるさい夏場と違って静まり返っている。観光地は知らないが、俺の街は一時を過ぎると明かりの点いた家など一軒も見当たらなくなる。裏道に入ると車も見掛けなくなるので、この世に生きているのは俺だけなんじゃないかと思うほどだ。
ウサギのいる『神さまの家』まで自転車なら二十分も掛からないけれど、途中でコケて捕まえたウサギを逃がすといけないので徒歩で行くことにした。歩いて行くのは初めてなので何十分掛かるか分からない。
朝方の冷え込みに慣れているので寒さは苦にならないが、包丁を持ち歩くことは初めてだったのでドキドキしている。警察官に声を掛けられたらどうしようと、そのことばかり気になって無駄に遠回りする始末だ。
それでもライ湖方面入り口に建つラブホテルを超えて、国道から外れて実習林の中を進むと街灯もなくなるので、それが却って俺を安心させた。夜目は利く方なので余計な明かりなどなくたっていい。
家を出てから一時間以上が経過した。時刻は二時をとっくに過ぎている。『神さまの家』の周辺は更にシーンとしていた。これでは微かな音を立てても勘付かれるかもしれないので用心が必要になる。
いくら命を頂くことを尊い行為だと自分に言い聞かせても、余所様が飼育している動物を奪うことは正当化できない。罪悪感で胸が今にも押しつぶされそうな状態なのに、それでも足を止めることができなかった。そのチグハグな行動が、また俺を苦しめた。
しかしウサギ小屋の前に立った時は恐ろしいほど冷静になれた。
取り逃がせば命がないと自分に言い聞かせているからだろう。
掛け金を外して中に入る。
逃げないように、しっかり扉を閉じた。
狭い小屋の中には、俺とウサギしかいない。
だからすぐにウサギを捕まえることもできた。
ペットを飼ったことがないので移動用のカゴはなかった。
だから空の一斗缶を用意しておいた。
逃げないように、蓋はしっかりとはめ込まなければいけない。
予想はしていたが、さっきからウサギが暴れて音が響き渡っている。
こうなると逃げるしかない。
一斗缶の蓋をしっかり押さえて走る。
来た道を振り返らずに走り続けた。
建物が見えなくなりそうなところで、一度だけ振り返る。
大丈夫、騒ぎにはなっていない。
分厚いガラスで二重窓にもなっているので、外の音は聞こえないのだろう。
この暗がりなら走り去る俺の姿を見つけるのも困難なはずだ。
息を切らしながらも、取り敢えずホッとすることができた。
あとは静かに来た道を戻るだけである。
「ケント君?」
心臓が止まるかと思った。
幻聴ではない。
振り返ると、俺の前に声の主が立っていたからだ。
「……レンちゃん」
互いに驚いたまま、しばらく口を開くことができなかった。
吹き出した汗が急激に冷えていくのを感じている。
震えが止まらない。
「こんな時間にどうしたの?」
「レンちゃんこそ、もう夜中だよ?」
「私は買い物の帰りだけど……」
見るとコンビニの袋をしっかりと提げていた。
「ケント君は?」
「俺は……、このまえ来た時に財布を落としたと思って、それで探しに来たんだ」
とっさに嘘がつける自分に嫌悪感を抱いた。
「探し物は見つかったの?」
「うん。ここにね」
そう言って、コートの内ポケットから財布を取り出して見せた。
「よかった」
俺は憎たらしいほどの嘘つきだ。女神さまのように思っている片思いの相手にも、平気な顔で嘘をつけるのである。しかも予め用意していたかのような答えを瞬時に喋ることができるのだから救いようがなかった。
「そのカンカンは何?」
そう問われて、思わず固まってしまった。ウサギが入っている、などと口が裂けても言えないことだ。幸いにして、中にいるウサギはすでに気絶しているようだ。そのことを幸いに感じるのだから、俺ほどサイテーな人間はいないだろう。
「これは、その、熊除けだよ。ほら、音を鳴らしながら歩くんだ」
「ここら辺に熊はいないけど?」
「キツネも怖いだろう?」
「だったら鳴らしてみてよ」
なぜか今日のレンちゃんは口調が攻撃的だった。
「鳴らせないの?」
「いや、鳴らせるけど……」
「鳴らせるけど、なに?」
鳴らせばウサギがビックリして、再び暴れるかもしれない。
「鳴らしてもいいけど、今は夜中だから」
「でも、鳴らして歩いてきたんでしょう?」
そう言って、意地悪そうに微笑んだ。
「もう財布も見つかったから帰るよ。寒いからレンちゃんも早く帰った方がいい」
「じゃあ最後にカンカンの中身だけ見せて?」
まるでレンちゃんは俺がウサギを盗んだことを知っているかのような口ぶりだ。
「それはできないんだ」
「どうしてできないの?」
いつもなら純粋に見えるハテナ顔も、この時ばかりは無性に腹が立った。
「蓋が固くて開けることができないんだ」
「私が開けてあげるから貸してみて」
「いいよ、これは開けなくていいカンカンだから。いや、開けちゃいけないんだ」
「まるでパンドラの箱みたい」
それが開けてはならない箱の名称だということは知っているが、具体的な由来などは一切知らなかった。詳しく調べたい衝動に駆られたが、いまスマホを取り出すわけにはいかないのでモヤモヤするしかなかった。
「でも中に何か入っているみたい」
「気のせいだよ」
「うんん。気のせいじゃないの。揺らしてみて」
「ダメだよ」
そう言うと、狼狽える俺を見て、レンちゃんが大笑いした。
「ぎゃははははっ」
下品な笑い方だ。
こんなレンちゃん、今まで見たことがない。
俺が好きなレンちゃんの表情ではなかった。
「おまえ、隠者だろう?」
「やっと分かったの?」
「うるさいっ!」
「あははははっ」
「レンちゃんの顔で笑うのはやめろ!」
「好きな子の姿なのに、見ただけで分からないなんて情けない話ね」
「消えろ」
まともに会話をするのも不快になる。
「待って、勝手に行かないでよ!」
女性に対しては絶対に暴力は振るわないと決めている。でもコイツは宇宙人だと知っているので殴ってやりたいと思った。いや、正直に告白しよう。俺はこの時、コイツを殺してやりたいと思った。明確な殺意を抱いたのは、生まれて初めてかもしれない。
生涯をかけて否定しようと思っていたが、どうやら俺にも心の奥底に確かなる殺意が存在しているようだ。どんなことがあっても他者を殺したいほど憎むことはないと思っていた。それがこの瞬間、一気に表に噴き出た感じだ。
もうすでにウサギは死んでいるだろう。ショック死したか、とっくに窒息死しているはずである。でもウサギを殺したことでタガが外れたわけではない。それと己の中に眠っている殺意を関連付けてはいけないのだ。
人間ならば、食欲からくる狩猟本能とは切り離して考えられるはずである。それこそが人間が人間であることへの証明だと信じたいからだ。防衛本能とも別で、俺は人を殺すことができない人間であることを証明したいと思っていた。
でもその殺意が抑えられないのは、ユウキの顔が思い浮かんだからである。そう、つまり一斗缶の中でウサギが動かなくなったのを感じて、俺は助かったけれど、友と一緒に死ぬことはないと確定したからだ。
殺されることがないと確定した瞬間、ユウキのことを考えられる余裕が生まれた。そこで憤りが殺意に変わったわけである。情けない話だが、支配者に怒りの矛先を向けるには、ある程度の余裕が必要みたいだ。それがまた俺を惨めな思いにさせるのだった。
まず助かりたい一心だった俺がいた。その次に余所様が飼っている動物を盗める俺がいて、躊躇なく殺せる俺がいたのだ。つまり俺にとって大切な友の命は、俺の命の次にしか考えられないもの、ということになる。その事実を自覚するのが何よりもつらかった。
「ごめんね」
一斗缶の蓋を開けて、中で死んでいるウサギを見て思わず呟いてしまった。謝るくらいなら初めから殺さなければいいということは分かっている。ウサギの命も俺の命も、どちらもたった一つの命であることに変わりはない。
「すまない」
それでも俺は生き残りたかった。いや、違う。生きたいという前向きな意識ではなかった。それよりも死にたくない、という恐怖から逃れたい衝動だ。俺が怖がりでさえなければ、ウサギを殺さずに死を受け入れることができただろう。
「いただくよ」
死んでいるのに話し掛けずにはいられなかった。俺はこれからウサギを解体しようとしている。体温が残っているうちに解体した方が皮を剥ぎやすいと書いていたので『神さまの家』の近くにある小川のほとりで、ローソクに明かりを灯して作業をすることにした。
インターネットでブログを漁り、解体作業の動画を何度も繰り返し見て手順を学んだ。俺が勉強させてもらった動画は高評価よりも低評価の件数の方が多かったが、その動画がなければ、俺はウサギを殺すだけの男になっていたので感謝の気持ちしかない。
「いただきます」
まずはしっかりと血抜きをしないといけない。血は肉の風味を損なわせ、腐りやすくさせるからだ。木の枝に後ろ肢をしっかりと括りつけて逆さ吊りにする。初めてのことなので、念のために頭を切断することにした。
それから内臓の除去と皮剥ぎを手早くやらないといけない。肛門から喉まで包丁を入れて中の物をすべて取り出し、特に肛門近くにある臭腺はきれいに切り出さないと美味しくいただけないと書いてあった。
「ありがとうございます」
そして肢の皮に切り込みを入れてから、一気に全身の皮を剥ぎ取った。その後はウサギのお腹の中をきれいにするために雪で血を拭き取ってやった。こういうのも、すべては食事を美味しくいただくための先人の知恵なのだ。
調べてみて、初めてウサギ肉が日本では古くから大切にされてきたというのが分かった。解体の仕方も地域で違えば、個人でも変わってくる。つまりそれだけ広い地域で食されてきたということだ。というよりも、無知な俺が知らなかっただけである。
美味しくいただくなら熟成期間があった方がいいということで、二、三日寝かせてから食べようと思うのだが、その時はちゃんと心から感謝して口に入れたいと思っている。これからは「いただきます」という言葉も大切にしよう。
その言葉が「ITADAKIMASU」と揶揄されることも知っている。それでも他人をバカにする人生と、他人からバカにされる人生しかないのならば、迷わずバカにされる人生を選びたい。それが未来を占って「愚者」を引いた俺の生き方だからだ。