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タロットゲーム  作者: 灰庭論
第2巻 女教皇編
20/60

SIDE OF THE FOOL   愚者

 アンナ先生のミニバンに乗り込むまで俺たちは無言だった。

「なんか、あの人、苦手」

「大丈夫ですよ。疑われているのは俺ですから」

「疑われてるの?」

「いや、気になってるだけだと思います」

「それは仕方ないか」

「仕方ないです。怪しいですから」

 いくら調べられたって、罪状がない以上は捕まりようがない。

「それより告別式だけど、どうして親族に紛れてマリアがいたの?」

 いつの間にか呼び捨てになっていた。

「それは俺にも分かりません」

「親族の人は何も思わないのかな?」

「普通に話していましたね」

「じゃあ、見えてないってことはないんだ」

「それどころか昔から知ってる感じでしたよ」

 信号待ちで停車していると、そこで突然マリアがバックシートに乗り込んできた。

「もう、助けてよ」

 ハーフコートの下はセーラー服のままだ。

「やっと解放された」

 後続車にクラクションを鳴らされる。

 そこで先生が車を発進させた。

「お葬式なんて誰が得するのよ、あれ。もう苦痛で仕方がなかったわ」

「なんでいるんだよ?」

 先生が黙ってしまったので俺が話すしかない。

「だってユウキ君の親戚だもん」

「火葬場に行ったんじゃないのか?」

「あとは本当の身内だけだってさ。それもよく分からないけどね」

「気が済んだか?」

「どういう意味よ?」

「オマエが望んだ結果だろうが」

「オマエって言うのやめて」

「誰が名前で呼んでやるものか」

「いいの? そんな冷たくして?」

「好きにすれよ。オマエに生かされるくらいなら死んだ方がマシだ」

「嘘つき」

「今すぐ殺してもいいぞ? やれるもんならな」

「可愛んだ。それで先生を守ってるつもり?」

「先生には指一本触れさせない」

 言ったそばから、マリアは先生の脇をツンツンするのだった。

「ほんとケント君は嘘つきなんだから」

 それでも先生は頑なに反応しなかった。

「でもね、安心して。もうたくさんだから。お葬式に呼ばれるたびに辛気臭い顔で挨拶しないとダメなんだもん。もう、本当にイヤ。しかもユウキ君の親戚ってたくさんいるでしょう? もうすぐ死ぬような人がいっぱいいるしさ、あんな経験は二度とゴメンだわ」

 どういうことだろう?

「それって、つまり、どういうことだ?」

「ほんとにケント君は頭が悪いんだから」

「ハッキリ言ってくれよ」

「これでお終い」

「お終いって、終わりってことか?」

「それ以外の意味があるなら教えてちょうだい」

「マジか?」

「マジっす」

 解放された、ということだろうか?

「あっ、先生、今のところ左折です」

「ごめん」

 アンナ先生が運転に集中できていない。

 それを見てマリアが腹を立てる。

「ちょっと、気をつけてよね。これで事故って二人とも死んだら意味ないでしょう?」

 念を押してみる。

「もう、殺し合いはやめてくれるんだな?」

「そう言ったでしょう」

「本当か?」

「しつこい」

「約束できるか?」

「指切りだっけ? しようしよう。やってみたかったんだ」

 形だけだと分かりつつ、その場でマリアと指切りをした。

「これからどうするんだ?」

「私のこと、そんなに気になるんだ?」

「約束を守るかどうかがな」

「最後くらい優しくしてよね」

「元気でな」

 気が変わらないようにしないといけない。

「うん。もう人間社会はたくさん。本当に苦痛だったんだから」

 葬式で悪魔祓いできたというわけだ。異なる宗教が混ざり合っているような気もするが、それが日本の社会なので結果オーライだ。とにかく嬉しくてたまらなかった。しかし喜ぶとへそを曲げるかもしれないので感情を表に出さないようにした。

「じゃあね。あんたたちは、この生き苦しい世界で我慢してればいいんだわ」


 アンナ先生が俺の家の前まで送ってくれた。

「先生、もう、喋っても大丈夫だと思いますよ」

「うん」

「もう終わりました」

「うん」

「よかったですね」

「うん。よかった」

 俺の言葉を繰り返すだけで、これ以上話を続けられないと思い、そこで別れることにした。

「それじゃあ、帰ります」

「うん」

「明日はちゃんと学校に行くんで」

「うん。じゃあ、明日、教室でね」

 車から降りて先生の車を見送った。

 家に入る前にユウキの愛犬のマジックが俺のことを見ていることに気がついた。

 どうやらアンナ先生はユウキの犬を見ていたようだ。

 ここにマジックがいるということは夢オチではなかったということになる。

 ユウキは帰らぬ人となったのだ。


 月曜日の朝、いつもの時間に目が覚めた。

 ユウキと犬の散歩に行く時間だ。

 でも彼の身体は、もうこの世にない。

 一緒に散歩に行っていた時よりも外が明るくなっている。

 家に帰る頃には太陽が昇っているだろう。

 アスファルトに雪はない。

 でも森の木陰は白いままの雪がそのまま残っている。

 それも卒業式の頃にはなくなっているはずだ。

 ここ三週間で起こった出来事とは一体なんだったのだろう?

 答えは友を亡くしたということだけだ。

 たった一人の人がいなくなっただけで人生が一変してしまうことが分かった。

 テレビを観て笑ったら申し訳ない気持ちになる。

 美味しいものを食べても、俺だけ口にできてすまないと思う。

 心の底から笑える日が来るのだろうか?

 それを望まない自分がいる。

 でも、俺は嘘つきだ。

 しかも、忘れっぽい。

 ユウキのことを忘れてしまうのではないだろうか?

 今はそれが怖い。

 自己嫌悪に陥るのが想像できる。

 頼む、バカな俺。

 お願いだ、薄情な俺。

 ユウキのことを片時も忘れないでくれ。


「ケント君!」

 嘘だろ?

「おはよう!」

 実習林のパーキングエリアに佇んでいたのはマリアだった。

 何も知らないマジックがじゃれている。

 もう二度と現れないと誓ったはずだ。

「何しにきたんだよ?」

「会いにきたの」

 今日のマリアは初めて会った時のような魔法少女のような格好をしていた。

「もう来ないはずじゃなかったか?」

「だって会いたくなっちゃったんだもん」

「ダメだ。それは約束が違う」

「だったら針千本用意したら?」

「お前の力はスゴイよ。充分わかったから、もう帰れ」

「ダメ」

「頼む。もう俺に関わらないでくれ」

「それは私が決めることでしょ?」

 俺が構うからいけないんじゃないだろうか?

「今度はね、アンナ先生と殺し合いをしてほしいの」

 アンナ先生と殺し合い?

「だってムカつくんだもん、あの先生」

 ムカつく?

「これは私に歯向かった罰」

 罰?

「だから絶対に勝ってよね」

 勝つ?

「応援はしないけど」

 応援?

「期限は今回も二週間」

 二週間?

「ただし、今回はそれをケント君が伝えるの」

 俺が伝える?

「私はもう、あの先生とは口を利かないって決めたから」

 決めた?

「じゃあ、よろしくね」

 よろしく?

「ちゃんと伝えたからね」

 何を?


 教室へ行くとユウキの机の上に花瓶が置かれていた。

 月曜の朝だからか、花はまだ活けられていない。

 挨拶を交わした後、先に登校していた松坂さんに尋ねてみる。

「あれは?」

「石橋さんが持ってきてくれたの。先生も用意してたんだけど、『そっちにしましょう』って」

 石橋さんというのはクラスメイトの女子だ。小学生の頃から、ユウキとクラスが一緒になると、新学期はいつも決まって席が隣同士になっていた。班が一緒になることも多く、仲良く笑い合っている姿を今でもハッキリと思い出すことができる。

「花代は? みんなで出し合ったの?」

「それは先生方が出してくれたみたい」

 そこで、すまない気持ちになった。

「そっか。みんなは悲しくてもちゃんと学校には行ってたんだな。こんなことなら休むんじゃなかったよ。休みたくても休まない人はいるんだ。それなのに俺だけ休んじゃったら、休まなかった人に自分のことを薄情だと思わせてしまう。やっぱり休むんじゃなかった」

 松坂さんが俺の方を見る。

「そんな冷静になることはないよ。悲しむことができる人は久能君の気持ちも理解できるから」

 その言葉で少しだけ気持ちが楽になった。これまで松坂さんのことは他人に興味を持たない人だとばかり思っていたが、やはり頭がいい人なのでちゃんと周りの人間関係のことを観察していたようだ。

 石橋さんについても同じだ。クラスの女子は俺のことはもちろんだがユウキにも関心がないと思っていた。でもちゃんと考えてくれている人はいたのだ。恋愛感情かどうかまでは分からないけど、思ってくれている人がいると知っただけで優しい気持ちを感じた。

 そのことを誰よりもユウキ本人に伝えてあげたかった。人数は問題じゃない。花を供えたいと思った石橋さんがいる、それ以上に尊いことは死後の世界において存在しないからだ。一人でもそう思わせることができたなら、ユウキもまた尊い存在だったということだ。


 その日の放課後、アンナ先生と話がしたくて、しばらく廊下の窓から外の景色を眺めて時間を潰して、それから音楽室のある別棟へ移動した。しかしピアノを弾く先生の姿を見たら声を掛けられなくなってしまった。

 なぜなら先生が懸命に日常を取り戻そうとしているように見えたからだ。先生にはユウキだけではなく、他にもたくさんの生徒がいる。学校の中だけではなく『神さまの家』にも先生を慕う子どもたちがいるのだ。

 そのように多くの人に必要とされていて、自身も懸命に教師として責務を果たそうとしている人に対して、どうしてマリアからの処刑宣告を打ち明けられるというのだろうか。冗談でも口にしてはいけないことだ。


 結局、その日はアンナ先生のピアノ演奏を最後まで聴かずにその場を後にした。家に帰ってから今後について考えようと思ったが、自室で着替える前にはすでに考えがまとまっていた。先生にはマリアの話は伝えない。それが俺の決めた結論だ。

 ユウキはマリアの処刑宣告を信じたから自殺したわけだ。先生も知ってしまったら同じことをしないとも限らない。だったら俺が伝えなければいい。二人が生き残るにはそれしか選択肢がないからである。

 マリアに超常現象を起こす能力が備わっていることは、この俺が一番よく知っている。しかし人間の命を奪える能力があるのかどうかはまだ分からない。それは実際にこの目で見たわけではないからだ。

 ナイフやロープを持つことが可能なのだから殺すことだって苦労しないとは思うが、それでも俺はアンナ先生と一緒に生き残る唯一の選択に賭けたいのだ。先生を殺すという選択は論外なので、こうするしかないということでもある。


 しかし翌日になって教室でアンナ先生の顔を見てしまうと、迷いが生じてしまうのも確かだった。それはマリアに殺傷能力が備わっていたら、俺たちは残り二週間も生きられないからである。

 これは告知をした方がいいのか悪いのか、という問題でもある。ただし病院で行うインフォームドコンセントとはまったくの別物だ。それと俺たちのケースを同列に語るのは病気を患っている人や、真剣に向き合っている医療関係者に失礼だからだ。

 マリアの処刑宣告など真剣に向き合う問題ではない。宇宙人の単なる気まぐれをオープンに議論するのはマリアを喜ばせるだけである。それで死の恐怖に怯えるアンナ先生を見て、さらに興奮するというわけだ。先生を宇宙人の見世物にしてはいけない。

 それでも、失礼は承知しているが、頭の中で議論してしまうのが人間だ。俺だったら二週間後に死ぬと分かっていたら絶対に告知してもらいたいと思う。ここで大事なのは先生がどう思うかだろう。

 相続という大きな問題を抱えている患者には告知した方がいいと聞くが、先生に相続するような財産はない。そうなると内面から判断しないといけないわけだが、そんなことは家族以外に決断できるはずがないのだ。

 告知をする、しないに係わらず、患者のことを一番に考えているという点では同じだ。病状に関しては黙っていたとしても嘘をついていたことにはならない。良案としては病気になる前に告知の有無を確認しておくことだが、先生と生徒の間柄ではそれも不可能だ。

 それに今回のケースは告知してしまうと、先生にマリアから新たな指令が出たと勘付かれてしまう。死を匂わせる発言だけでも警戒させてしまうだろう。そうなるとここは黙って死期を待つしかないのだろうか?


 その日の放課後、ユウキの愛犬のマジックを連れて犬飼家を訪問した。家に上がらせてもらい、仏壇に手を合わせて、それからユウキのお母さんと犬の話をした。リビングで出されたココアは俺のマグカップに注がれていた。

「ごめんなさいね」

「いや、俺の方こそ、今までお返ししなくて、すいませんでした」

「散歩に連れてってくれてたんだ?」

「それは約束でしたから」

「よかったらでいいんだけど、マジックをもらってくれないかな?」

「いいんですか?」

「ずっとあの子が面倒見てて、家にはお世話できる人がいないから、その方がマジックにとってもいいでしょ? でも無理に引き取らなくていいのよ」

「無理だなんて、そういう気持ちはないです」

「そう、それならよかった」

 そこでしばらく床を見つめるのだった。

「よくね、マジック相手に手品をしていたの。手の中にスポンジを隠して、手から手へ何度も移動させて、右手と左手のどちらの中にあるか当てさせるのよ。マジックが全部当てるものだから、『僕の犬はとても賢いんだ』って喜んでいたけど、あれは目だけでなくて、匂いでも分かるのよね。でもユウキは騙せるまで何度も挑戦して諦めなかった。『そこから工夫するのがマジシャンなんだ』って言ってね」

 話にオチはなかった。それからもオチのない思い出話をしては、沈黙が訪れ、リビングが暗くなったところで帰るように促された。今度は俺もオチのない思い出話を用意して、ユウキんのおばさんに会いに来ようと思った。


 水曜日の早朝、ハイキングコースを散歩していたら、突然マジックが喋り出した。

「ケント君、僕を引き取ってくれてありがとう」

 マリアによる性質たちの悪いイタズラだ。

「礼はいらない」

「でも毎朝散歩に連れてってくれるケント君には感謝しているんだ」

「それが飼い主の務めだからな」

「なかなか出来ることじゃないよ」

「犬が人間の言葉を喋ることに比べたらたいしたことないさ」

「もう私ってバレちゃったの?」

「当たり前だ」

 そう言うと、マントを羽織ったマリアが現れた。

「つまんないんだ」

「そう何度も引っ掛かるか」

「でもユウキ君は騙されて、本当にマジックが喋ってると思ったのよ?」

「初見は誰でも騙されるさ。でも二度目はない」

「そう言われると挑戦したくなる」

 昨日の会話もしっかり聞かれていたようだ。

「オマエは魔術師ではない」

「オマエって言うのやめて」

 マリアに言いたいことがあったことを思い出した。

「なぁ、一つだけ頼みがあるんだけど聞いてくれるか?」

「うんうん。なんでも聞いちゃう」

 無慈悲な扱いを受けていなければ気のいい女の子と思えるのだが、そこが残念でならない。

「来週の水曜日が公立の受験日なんだよ」

「その割に勉強してないね。成績がいい子はみんなしてるよ」

「それはどうでもよくてさ、再来週が卒業式なんだ」

「知ってるけど」

「だったら話が早いや。頼みたいのは処刑の期限をその翌日に延ばしてほしいんだ」

「処刑なんて信じてないクセに」

「そんなこと言ったか?」

「だって先生に話してないじゃない」

「話せるわけないだろう」

「信じてないなら延期する必要ないでしょう?」

「卒業式の前に死ぬのはあんまりだ」

「だったらケント君もユウキ君みたいに自殺すればいいじゃない」

「随分と簡単に言ってくれるな」

「その程度のことよ? どれだけ自分に価値があると思ってるの」

「それすら傲慢だっていうのか?」

「それ以外にどう言えというの?」

 同じ人間ではないコイツを言い負かすのは不可能だ。

「なぁ、頼むよ。ちょっと気分を変えるだけで済む話だろう?」

「いやよ。自分の力で何とかしたら?」

「どうやって?」

「卒業式の日程を変えればいいじゃない」

「そんなこと俺にできるわけないだろう?」

「え? できないの?」

 白々しい。

「当たり前だ。校長先生だって無理に決まってる」

「じゃあ諦めることね」

「そう言うマリアだってできないんだろう?」

「できないわけないでしょ」

「じゃあ、やって見せてみろよ」

「私がそんな手に引っ掛かると思う? ほんと頭が悪いんだから」

 憎たらしいヤツだ。

「あれ? ケント君、どこ行くの?」

 急いで家に引き返すことにした。

 それは卒業式の日程を変えるアイデアが思い浮かんだからだ。


 急いで家に戻ったのは、仕事へ行く前の父さんと話をするためだ。

「そんなもの、何に使うんだ? オモチャじゃないんだぞ」

 父さんから借りたのは会議用に使用するICレコーダーだ。

「うん? ちょっと」

 生まれて初めて玄関先で仕事に行く父さんを見送っている。

「学校に持って行くんじゃないだろうな?」

「音楽の授業で使うんだよ」

 嘘をついた。

「今日中に返すんだぞ」

「うん」

 まだ何か言いたそうだが、何も言わなかった。

 玄関のドアを開けて、振り返る。

「犬はいつ返すんだ?」

「返さないよ。引き取ったんだ」

「話は通してあるんだろうな?」

「貰ってほしいって言われたんだよ」

「それで貰うバカがいるか」

「お母さんは喜んでたよ」

 そう言うと、何も言わずに家を出て行った。

 それが父さんとの二か月ぶりの会話だった。


 それからいつもより早めに家を出て、校門の前で松坂さんを待った。教室で会えるけど、他のクラスメイトがいたら会話ができなくなるからだ。どうしても他の人に女子と話している姿を見られたくなかった。

「おはよう」

 いつもと違う行動をしているというのに、松坂さんの挨拶はいつもと変わらなかった。

「お願いがあるんだ。歩きながら説明する」

 そこで三階にある教室に行くまでの間に頼みたいことを説明した。それは俺たち三年三組のクラスだけで卒業式の前に卒業行事を行うというものだ。しかしそれではアンナ先生に疑念を抱かせるのでユウキの音楽葬をやりたいと提案することにした。

「音楽葬って何をするの?」

 教室に着いたが、他のクラスメイトはまだ登校していなかった。

「みんなで歌を歌いたいんだ。二曲。どうしても歌いたい歌があって」

「来週は受験だし、練習する時間はないけど」

「受験が終わった後の木金の放課後でいいんだ」

「何をすればいいの?」

「クラスの女子に頼んでほしいんだ。先生には内緒でさ」

「どうして先生に内緒にするの?」

「一曲はユウキのために歌って、もう一曲は先生のために歌いたいから」

「男子の方は?」

「委員長に頼んでみるよ。ダメなら俺がみんなに声を掛ける」


 放課後、勝田君に話を持ち掛けてみたが見事に却下された。受験勉強があるからと言われたら引き下がるしかない。受験が終わった来週の木曜日にもう一度頼んでみるが、それでダメなら参加してくれる人だけで歌うしかないだろう。

 勝田君は委員長をしているが成績が優秀というわけではなかった。小牧市で一番の高校を受験するが、他の人と違ってボーダーライン上にいる学力だ。俺くらい悪ければ開き直れるが、勝田君はいっぱいいっぱいなので責めることができないのである。

 それから音楽室に行ってアンナ先生に演奏をお願いした。

「え? なに? 録音するの?」

「はい。ユウキのお墓に聴かせてあげようと思って」

 音楽葬のことは伏せた。

「私の演奏でいいのかな?」

「先生の演奏じゃないとダメなんです」

 先生に演奏をお願いしたのは、他にピアノを弾ける人を知らないからだ。いや、弾ける人はいても、来週の土曜日までにユウキの好きだった洋楽を弾きこなすことは難しいと考えたからである。

 録音する目的は、それに合わせて歌の練習をするためだ。急に思いついたアイデアなので色々と不安だが、成功させるには先生にピアノを弾いてもらうしかなかった。図書室で楽譜が見つからなければ、今日の放課後にも探して手に入れるつもりだった。

 二曲とも録音は完璧だった。アンナ先生にとっても思い出の曲だったのも幸運だった。一発で成功させた先生の表情はまさに音楽家の顔である。疑問を持った様子もないので、俺としてもホッとすることができた。

「どうしてこういうことをしようかと思ったかというと、やりたいと思ったことは今すぐにでもやっておこうと思ったからです」

 先生と二人で生徒用の椅子に並んで座るのはとても不思議な気分だった。

「大変な経験をしたんだもんね」

「はい。夢のように思えても覚めてくれませんから」

「ケント君はやりたいことができるのよね。私は現実に逃げることしかできない」

 思わず笑いそうになった。

「どうしたの?」

「いや、『現実から逃げるな』とか『現実逃避』って言葉はありきたりな表現だけど、『現実に逃げる』なんて言葉は初めて聞いたから」

 先生も笑う。

「ほんとだね。先生も聞いたことがない。でも大人になると、現実と向き合って日々の営みを大切にすることと同じくらい、現実には存在しない理想を創造することが大切だっていうことに気がつくんだ。成功しなければ『現実から逃げているだけ』だと冷ややかな目で見られるんだけど、そういう人もちゃっかりと誰かが創造した理想を享受していたりするのよね。失敗した人を笑うのは自分の力だけで生きていける人だけ。成功者だけを賛美するのは挑戦して失敗したことがないからなんだと思う。いくつもの失敗例が成功を生むってことを理解していないのよ」

 先生はこれまで理想と現実の間で苦しんできたのだろう。

「俺が何かをしたいと思ったのはユウキの死の影響があったんだと思います。よく、若い頃に同世代の死を経験すると人生観が変わるって言うじゃないですか? 今の俺がそれに当たると思うんです。『ユウキに音楽を聴かせてあげたい』と思って、それで行動できるようになったのはユウキの死を経験したからです。そんな経験をしていなかったら、頭では思っても、実際に行動に移せたかどうか分かりません」

 そこでこの流れを利用して先生にメッセージを送ることにした。

「先生はやっておきたいことって何かないんですか? もしもあるなら今すぐにでもやっておいた方がいいと思うんです。いや、俺なんかが偉そうに生意気なことを言って申し訳ありませんが、でも今すぐにでもできることがあるなら、やった方がいいですよ」

 そこで先生が黙り込んでしまった。

「すいません。自分の人生観が変わったからといって、その考えを他人に強要したらいけませんよね。忘れてください」

 そこで先生が何かを言い掛けた。

「なんですか?」

「リカちゃん」

 ウチのクラスに『リカ』という名前の生徒はいない。

「リカちゃんの力になってあげたい」

 確か『神さまの家』にそんな名前の子がいたはずだ。

「でも私、嫌われてるんだよね」

 アンナ先生を嫌いになる者など、この世にマリアしかいないはずだ。


 翌日の放課後、早速『神さまの家』に行くことにした。それは前日にアンナ先生に言った『やっておきたいこと』を自分でも実践するためだ。俺が死ぬまでにやり残していることはレンちゃんに最後の挨拶をすることである。

 でもその反面、彼女に余計な心配を掛けたくないという気持ちもあった。勘のいいレンちゃんのことだから別れの言葉を匂わせただけでも疑念を抱いているマリアへの追及に火をつけることになる。

 会って何を話せばいいというのだろう? とりあえずマリアと関わり合いにならないようにさせなければならない。それには俺が会いに行かないのが一番なのだが、終わるかもしれない人生の最期に一言だけでも話しておきたいという気持ちもあった。



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