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タロットゲーム  作者: 灰庭論
第2巻 女教皇編
14/60

SIDE OF THE HIGH PRIESTESS   女教皇

 教師になると決意した時、絶対に人前で涙を見せないと誓った。でもその誓いを守ることはできませんでした。昨日ケント君の前でも泣いたし、ユウキ君にピアノを聴かせた時にも泣いてしまいました。

 そして今日は保護者の皆様がいる前でも泣いてしまったのです。「まだ望みを失ったわけではありませんよ」とか、「とにかく信じて捜すしかありません」などと声を掛けてもらうたびに、申し訳なくて泣くことしかできませんでした。

 緊急の保護者会で集まった皆様が積極的に動いてくれて、今日中にビラを作成して、明日の朝から手分けしてそのビラを配ることが決まりました。駅前やバス停など、普段は顔を見せない方も手伝ってくれるという話を聞いて、やはり泣くことしかできませんでした。

 素早く対応できたのは少し前に市内に住む小学生の女の子が行方不明になっていたからかもしれません。全国放送のニュース番組にも取り上げられた例の事件です。まだ保護されていませんが、地元住民の意識が高まっていたというわけです。

 同僚の先生方もみなさん優しく声を掛けてくれました。イジメ問題はなく、親しい友達として認識されていたケント君が、ユウキ君が受験で思い悩んでいたと話したことで、学校側の責任を問われずに済むと早々に判断できたから応対に余裕が持てたのでしょう。

 また、札幌の受験会場まで付き添わなかったご両親に対して疑問を呈する方もいましたが、まだ行方不明の段階なので、死を連想する責任問題について口にするのはやめましょう、ということで保護者会もまとまりました。


「先生」

 校舎を出た時、もうすでに辺りは真っ暗になっていました。

 声を掛けられても返事をする気力も湧きませんでした。

「城先生」

 駐車場まで見送りに来てくれたのは小牧警察署のばんかほり巡査長でした。彼女は昨夜からずっとユウキ君のご両親に付き添われて、親身になって相談に乗ってくれている警察官です。

 三十代半ばの年齢で、とても明るく、ハキハキとした態度が印象的です。希望を捨てずに捜索を行うように鼓舞していたのが彼女で、そのおかげで全員が同じ意識を持つことができたのだと思います。それだけに私は心苦しい気持ちでいっぱいでした。

「帰りはお車ですよね?」

「はい」

「お疲れでしょうから、くれぐれも運転に気をつけてくださいね。それと食事もちゃんと摂ってください。お風呂に入って睡眠もしっかり取らなければいけませんよ。これは警察官からの命令ということにしましょうか。あっ、冗談です」

 いい人だけど、冗談はあまり得意な人ではありませんでした。

「昨日の夜も言いましたが、一人になって気をつけていただきたいのは、まず、先生は絶対にご自分を責めてはいけないということです。いいですね? 寝るまでに色んなことを一人で考えるでしょうが、今回のケースは先生に一切の落ち度はありません。ですから、ご自宅に帰られるまで運転に集中してください」

 優しくされるのが申し訳なくて、泣きそうになるけど、もう流す涙は残っていませんでした。

「分かりました」

「いい返事です」

 番さんは、ユウキ君が死んでいる、という可能性を一切感じさせないように接していました。

「今日は小牧駅やバス会社などを調べておりまして、それで見つからなければ、明日は札幌に行って泊まる予定だったホテルや、試験会場周辺も当たってみる予定です。行き先がはっきりしているので、やることは決まっています。おつらいでしょうが、私たちはやることをやらなければなりません。先ほども言いましたが、先生も明日は授業があるので、そちらの仕事をお願いします。生徒は受験前で不安でしょうから、先生が子どもたちの支えにならなければなりません」

 不安な顔をした生徒たちの顔を思い出しました。

「ありがとうございます。切り替えたいと思います」

「いい返事です」

 すべて正直に話してしまいたいと思いました。番さんならばどんな荒唐無稽な話でも真剣に聞いてくれると思ったからです。それに何よりも、あまりに多くの人を巻き込んでしまっていることに苦しくて堪らないから楽になりたいと思ったのです。

「あの?」

 番さんが小首を傾げます。

「なんですか?」

 そこでケント君の顔が思い浮かびました。

 番さんはいい方だけど、生徒よりも大切な人ではありません。

「いえ、なんでもありません」

「何かあったらいつでも相談してくださいね。ただしお金の相談には乗れませんけどね」

 やはり冗談は面白くありませんでした。


 家に帰ってからお母さんに今日の出来事を報告して、珍しくお父さんもリビングに残っていて、といってもいつものように一切口を開かず、それから言われた通り、お風呂に入ってから自室へ行って、ベッドに身体を投げ出しました。

 仕事を始めてから一度は一人暮らしを始めてみたけど、仕事中に空き巣に入られて、それで怖くなって実家に戻ったという過去があります。個人的な経験だけど、まだ東京で一人暮らしをしていた時の方が安全でした。

 それからケント君と話がしたくてスマホを眺めていたけど、もうすでに二十三時を回っていたので、時間も時間ですし、連絡することは諦めました。生徒の力になりたいということではなく、話して楽になりたいのは私の方だったのでしょうね。

「もしもし?」

 突然、電話が鳴ったので、思わず出てしまいました。

 普段は絶対に出ない公衆からの通知です。

「もしもし?」


 気が付くとコートを着て外に出ていました。

 下はパジャマのまま。

 とにかく走りました。

 転びそうになる。

 それでも休みませんでした。

 真夜中。

 誰もいない。

 タクシーも走っていない。

 明かりは街灯とコンビニだけ。

 目指したのは近くの公園。

 最近では珍しくなった電話ボックス。

 そこに――

「ユウキ君!」

「先生!」

 その笑顔を見て、枯れたはずの涙が出ました。

「今までどこにいたの?」

「先生、なに言ってるか分かんないよ」

 息が上がっていたので、まずは息を整えることにしました。

 ユウキ君はいなくなった時のマントをつけた魔術師の格好をしていました。

「今までどこにいたの?」

「先生、ごめんなさい」

「謝らなくていいから、まずは説明して」

 ユウキ君がすまなそうな顔をして俯いています。

「ケント君との約束を破っちゃった」

「どういうこと?」

「今までのが全部含めて僕たちが考えた消失マジックだったんだ」

 それを聞いて唖然としてしまいました。

 つまり、私も含めてみんな騙されたわけです。

「先生、ごめんなさい。世の中のみんなを驚かせようと思ったら予想以上に大事になっちゃって、本当は明日の朝普通に登校するつもりだったけど、先生にだけは早く伝えないといけないと思って、ケント君に黙って電話しちゃったんだ」

 私だけではなく、ご両親や警察も含めて二人のイタズラに振り回されたのです。不思議と怒りは湧きませんでした。それよりもこの嫌な悪夢が終わってくれてホッとしている自分がいるのです。

「よかった」

「怒ってないの?」

「あとで怒るよ」

 それは本当。

「でも、生きてくれていて嬉しいんだもん」

 これも本当。

「先生」

「でもどうするの? 大変なことになってるんだよ?」

「知ってます」

「分かってない」

「ごめんなさい」

「謝って済む問題じゃないんだよ?」

 その顔はどうしても悪いと思っているようには見えませんでした。

「でも僕のマジックすごかったでしょう?」

 こんな時にユウキ君は微笑むだろうか?

「ユウキ君?」

「先生も手伝ってくれたから、僕たちだけではなく、先生の作品でもあるんだよ?」

「何を言ってるの?」

「だからアンナ先生も立派な協力者、じゃなかった、共犯者なんだよ」

 この子は違う。

「あなた、誰?」

「先生こそ、なに言ってるの?」

「あなた誰なの?」

「僕はユウキだよ」

「違う。君はユウキ君じゃない」

「バレた?」

 そう言うと、マントの裾を掴んで一回転するのです。

 現れたのは戸隠マリアでした。

「ああ、楽しかった」

 殺したいと思いました。

 頭は冷静そのもの。

 その頭が、殺したいと思っている。

 私も、殺しても構わないと思っています。

 頭も、心も、とても冷静でした。

「先生の顔すごい怖い」

 冷静な頭で罵る言葉を考えています。

「童顔だけど先生もそろそろスッピンがキツい歳みたいですね」

 首を絞めたい。

 それが出来ないのは知っています。

「この、人でなし」

 それが頭に浮かんだ言葉。

「そうだよ。だって私、人間じゃないもん」

「あなたは人間になりたくてもなれない」

「残念でした。私に出来ないことはないの」

「だったらユウキ君を返して」

「あなたのものじゃないでしょう?」

「返して」

「ユウキ君はユウキ君のものよ。もういないけど」

「返しなさい」

 そこで何を思ったのか、彼女は両手でマントの裾をつまみ上げるのです。

「いいわよ。だったら鬼ごっこしましょ」

 引っぱたきたくなるような笑顔でした。

「捕まえられたら生き返らせてあげる。いつでもいいよ?」

 手を伸ばした瞬間、空高く舞い上がりました。

 頭上をバカにしたような顔で歩いている。

「人間というのはほんと身の程知らずなんだから」

 手を伸ばす気すら起こりません。

「少しは弁えたらどうなの?」

 これ以上、付き合う気にもなれませんでした。

「もう、やめちゃうんだ? ユウキ君がかわいそう」

 聴覚を失くしたいと思ったのは生まれて初めてです。

「諦めたからユウキ君を生き返らせるのはナシね」


 翌日、ケント君は学校を休みました。家に電話を掛けるとお母様が出られて、眠っておられたらしく、お母様も休んだことを知らないようでした。結局その日は休ませるということで了解しました。

 教室にいる生徒は静かにしているわけではありませんが、その話し声は先週までより高音が聞こえてこないので、明らかに心が沈んだままだというのが分かりました。表情も務めて平常心を保っているようにしているようで見ていて心苦しくなります。

 お昼に警察の番さんが部下を連れて挨拶に来ました。手掛かりが掴めていないと言っていましたが、ビラを配り始めたばかりなので、ある程度の時間も必要だと説明していました。私が真相を知っていることは疑っていない様子です。

 夜見湖での捜索を行っているのか尋ねたかったのですが、ケント君が絶対に自分たちからヒントを与えてはいけないと言っていたので彼の言葉に従いました。今は秘密を共有している彼だけが私にとって大切な助言者なのです。

 この日も保護者の皆様が集まって捜索活動の会議を行ったのですが、学校側の対応を学年主任の先生にお任せして、私はケント君の家に行くことにしました。それは先生方から助言があったからです。


 ケント君の家にお邪魔したのは家庭訪問以外では初めてです。特に問題のない子だったので、お母様とのお話も簡単なものでした。でもこの日はそのお母様が不在のようで、ケント君が一人で出迎えたのです。

「お母様はどちらへ?」

 時刻は夕方の六時でした。

「仕事です」

 リビングは三年前からほとんど変わっていませんでした。ダイニングキッチンは清潔で、床もちゃんと掃除機がかけられていて、ソファも新品のままです。それだけに家族がリビングで過ごす時間が少ないように思われましたが、そこは踏み込む領域ではありません。

 心配な家庭は壁に穴が開いていたり、家具が壊れていたり、郵便物が整理できていなかったりします。そういう点は見逃さずに報告書を作って他の先生方と情報を共有することにしています。深刻な場合は話し合うこともあります。

「お母様、どちらへお勤めだっけ?」

 ケント君が淹れてくれた紅茶をいただいています。

 斜め横のソファに腰掛けて、ケント君も一息つきました。

「ベイサイドホテルの展望レストランです。あそこ夜になるとバーにもなるから夜中までやってるんですよね。それで帰ってくるのが日をまたぐんです。父さんも残業が当たり前なので十時を過ぎるまで帰ってきません」

 ケント君が大人っぽいのは半ば自立した生活を送っているからかもしれません。

「寂しくならない?」

「うるさくされないから楽ですよ」

 そこで唇を噛むのです。

「ユウキとずっと遊んでいられたし」

 私よりも体が大きいので高校生に見えるけど、寂しそうな顔はやっぱり中学生のままです。目や鼻も大きく、唇も厚いけど、その分厚い下唇を噛んだ姿は甘えたがっている子どもにしか見えませんでした。

「でも学校は休んだらダメだよ」

「休んだら先生が来てくれると思って。ちょうど母さんの仕事の日だったし」

 白い歯を見せて笑うけど、それが以前までの笑顔と違うのは見れば分かります。

「その通りになったけど」

「明日はちゃんと行きます」

「約束ね」

 それから昨日からの様子を説明しました。

「だからね、もう、すべてを話してしまった方がいいと思うの。保護者の皆さんだって明日もビラ配りしてくれるそうなんだ。それに番さんもとってもいい方で、話せば、また別の対応を考えてくれると思うんだ」

 ケント君が眉間に皺を寄せます。

「その警察の人ですけど、生活安全課ですよね?」

「うん。お名刺いただいた」

「警察署にもよるけど、たぶん小牧署は少年係も含めて生活安全課に統合されていると思うんです。それだと迂闊に喋ったりしない方がいいですよ。特に少年係の警察官は絶対に人の話を信じませんからね。俺が話したらまず疑われます。元々信じられる話じゃないんだから絶対に話したらダメです」

 予想通りの答えでした。

「でも、もう本当につらくて」

 それはユウキ君のご両親を見ているのがつらいということでもあります。

「夜見湖の捜索はしていないんですか?」

「何も聞いてない」

「先生から尋ねてないですよね?」

「聞こうと思ったけど、ケント君の言葉を思い出してやめた」

「よかった。関係者に伏せてるだけかもしれないから」

「でも遺体が見つかったら伏せられないと思うけど」

「そうですね。でも言ったらダメです」

 ケント君は保身ではなく、私を守ってくれているのでしょう。そのために一生懸命考えてくれているので裏切ることはできません。私が生徒を守らなければいけない。それが先生の役目だからです。


 それから紅茶を持って二階へ上がり、ケント君のお部屋にお邪魔しました。それは彼が音楽を聞きたいと言ったからです。きっと無言が耐えられなかったのでしょう。まだ話したいことがあるようだったので断らずに応じました。

 男の人の部屋に入ったのは生まれて初めてでしたが、生徒の部屋なので意識はしませんでした。それでも好奇心は抑えられるものではないので色々と気になって眺めてしまいます。中でも目についたのはタロットカードでした。

「いつから占いに興味を持ったの?」

 勉強机の椅子を勧められたので、そこに座りました。

 ケント君はベッドに腰掛けました。

 そこが彼の指定席だそうです。

「覚えてないけど、好きな子ができてからだと思います」

 しまった、という顔をして伏せてしまいました。

 その赤くなった顔がちょっとだけ可愛らしかったです。

「先生も占い好きなんだ」

「へぇ、意外ですね」

「え? なんで? 女の子はみんな大好きだよ」

 自分で『女の子』って言ったら、またお母さんに怒られてしまいます。

「どういう占いが好きなんですか?」

「星占い」

「ああ、俺もタロットの次に興味があります」

「何座だっけ?」

「おとめ座です」

「秋生まれね」

「先生は?」

「ふたご座だよ」

「ユウキと一緒だ」

「そうなんだ」

「でも星占いって、ぶっちゃけ当たりませんよね」

「個人の性格を分類するのは難しいと思う」

「はい。それに運勢も当たらないんですよね」

「それは違うよ。ケント君は少しでも当たるように心掛けたことがある?」

「どういうことですか?」

 軽く、ほんとに初歩的なことだけ軽く説明することにしました。

「まず星占いの基本は星について考えることなの。特に重要なのが太陽と月なんだ。その二つの星の引力が地球の水に影響を与えているわけじゃない? 水というのは私たちの身体でもあるの。だから、星は関係ない、ということがあり得ないことなんだ。では何をすべきかというと、太陽に合わせて生きるのは基本だよ。そして同じくらい重要なのが月の満ち欠けなの。新月は始まりを意味するから、何かを始めるなら新月がポイントになるし、満月はそこから欠けていくわけだから、何かを手放すなら満月がポイントになる。その二つのポイントを心掛けて、はじめて星占いで影響を感じられる身体になるんだ。どんな占い師であっても、占ってもらう側が何も準備していなかったら当てようがないんだよ」

 もう少しだけ捕捉しておきます。

「それと星占いというのは決して願掛けではないということを理解しておく必要があるの。占い師は願いを叶えてくれる存在ではないの。だってそうでしょう? 人類にはお金を使わない時代があったり、自由に恋愛ができなかったりした時代があるんだもん。それでも星は有り続けたんだよ? 現代の価値観だけで星占いを学ぶのは無理があるんだ。だからって金運や恋愛運を占う占い師を否定しないんだ。それも含めて学問だからね。学問に終わりがないように、占いにも終わりはないの。自分にとってのお金とは何か? 恋愛とは何かを考えるヒントが、星占いにはあるっていうことなんだ」

 あと少しだけ話しておきたいことがあります。

「これで星占いについて興味を持ったら、今度は水星や金星などの惑星の動きについても勉強したくなる。それらの星にも一つ一つ意味があって、その動きによって、同じように地球に影響を与えていることが分かるようになるの。星占いというと非科学的だと思われがちだけど、星を知ることほど科学的な学問はないでしょう? 私は人間を知るために星占いを勉強し続けたいと思っているんだ。それに、別に科学的である必要もないもんね」

 これ以上は積極的に興味を持ってくれないと説明が難しくなります。

「なんか、音楽の授業よりも熱いですね」

 それは自分でも自覚している部分です。

「あっ、そうだ。先生に聞きたいことがあるんですけど」

「なに?」

「占いに興味を持つということは、自分の未来が気になるということですよね? だから、その、アンナ先生はどんな夢を想像しているのかなって。いや、漠然としたものじゃなくて、現実的に叶えたいことはありますか?」

 生徒に将来のことを聞くことはあっても、反対に聞かれたのは初めてのことです。

「想像通りの答えかもしれないけど、先生は子どもの頃から演奏家になりたかったの。ピアノを演奏しながら世界中を旅することができたら素敵だなって思ってた。でもケント君の年齢の頃には諦めてたかな。もうね、早い段階で分かっちゃうものなんだ。『強く弾かなければならないところは強く弾く』っていう、当たり前のことができないんだもん。それでも音大に入る十代の頃までは誤魔化せてしまうのよね。何を誤魔化すって、自分自身を。上手くいってる部分は『才能がある』と自惚れて、上手くいかない部分は『まだ身体が成長しきっていないからだ』って言い訳するの」

 夢を持つことは、言い訳を用意する生き方になる、という弊害も生まれます。

「大学に入って一月も経たずに教員免許を取ろうと思った。取らない人や保険のつもりで取る人もいるけど、私はそこで先生になるって決めちゃった。それは教壇に立つことを意識して取らないと使い物にならない免許になる、って教えてくれた人がいたからなんだけどね」

 音大の先生は私に現実の厳しさを教えてくれた恩人でもあります。

「でもその先生は『城さんが学校の先生になったら子どもたちに音楽で夢を持たせてあげて』とも言ったの。その時に、先生って素敵な仕事だと思った。後で知ったんだけど、その先生は一人一人話す相手によってアドバイスを変えていたのよね。つまり私が望んでいる言葉を言ってくれたんだ。それはそう簡単にできることじゃないって、自分が教壇に立って分かるようになった」

 ケント君が退屈な授業を聞いているような顔をしている。

「何を聞いたんだっけ?」

「先生の叶えたい願い事です」

「ああ、そうだった。つまり、先生はもう叶えちゃったってことかな?」

 それはケント君が望んでいる答えではないみたいです。

「叶えている最中と言った方がいいかな?」

 それも彼が求めている答えとは違うようでした。

 そこでケント君が補足説明します。

「何て言ったらいいのかな? あっ、そうだ。願望はありませんか? お金が欲しいとか、結婚したいとか。そういうのがなんでも簡単に叶えられるんです。なんか叶えてほしい願望、いや、欲望でも構いません。そういうのはありませんか?」

「それはもちろんあるよ。海外旅行がしたい。でもそれは自分で実現させることができるから、やっぱり違うのかな。大人になると自分の時間を持てるから、やろうと思えばある程度は実現できるものなのよね」

 そこで大人になることが叶わなかったユウキ君のことを思い出しました。

 今も凍った湖で眠っているのです。

 想像すると胸が苦しくなりました。

「この状況を早く終わらせたい」

「それがアンナ先生の願いですか?」

「うん」

「お金や名声よりも?」

「終わってほしい」

 そう言うと、ケント君がホッとするのです。

「やっと俺も迷わずに済みそうです」

 何を言っているのでしょう?

「この悪夢を終わらせます」

 そう言うと、ドアの方に顔を向けました。

「マリア? いるんだろう? 出てきてくれ」

「はいはい?」

 そこで戸隠マリアがノックもせずに部屋に入ってきました。

「うれしいい」

 そう言いながら、ケント君に抱きつくのです。

「何がだよ?」

「だって初めて会いたいと思ってくれたんだもん」

「そんなんじゃねぇよ」

「ケント君から離れなさい」

 堪らず注意してしまいました。

「やだ」

「くっつくなよ」

 私の言葉を無視したクセに、ケント君の言葉には従うのです。

「照れなくてもいいでしょ? 一緒にお風呂に入ったこともあるんだから」

「照れてねぇよ」

「ドキドキしたクセに」

「オマエが勝手に入ってきたからビックリしたんだよ」

「オマエて言うのやめて」

 これはマリアが私にわざと会話を聞かせているのだと思います。ふしだらな話を聞かせて、想像させて、感情的になるのを待っているのです。挑発的な言動を繰り返す彼女らしいやり方です。そんな卑劣な挑発にはもう乗りません。

「それより願いを叶えてほしいんだ」

 それをケント君はマリアに頼むのです。

「もう時間切れ、って言いたいところだけど、制限時間を決めてなかったから、今回だけは特別に許してあげる。なんでもいいよ。私に叶えられないことはないんだから。それを見せてあげようじゃない」

 それでケント君は私に願い事を聞いたのですね。十代の男の子ならば色んな願い事があったことでしょう。それを内緒で叶えることだってできたと思います。それでも彼は私に願いを聞いたのです。なんて心の優しい子なのでしょう。

「ユウキを生き返らせることができないのなら、せめて遺体を両親に返してやってくれ」

「そんなことでいいの?」

「できるのか?」

「できるけど、なんかつまんないね」

「じゃあ、生き返らせてくれよ」

「やだ。それはもっとつまらないんだもん」

 ユウキ君の命がつまらないという表現で語られていることに吐き気を覚えました。

「ユウキの遺体を返してあげることはできるんだな?」

「そんなの一瞬だよ。床が濡れるけど大丈夫?」

「あ?」

 ケント君だけではなく、私もマリアの言葉が理解できませんでした。

「湖の遺体を移せばいいんでしょう?」

「ここにか?」

「他にどこがあるの?」

「ちょっと待て!」

「なによ?」

 そう言いつつ、マリアは薄ら笑いを浮かべるのです。

「そんなことしたら、結局は俺が警察に捕まることになるだろう? 殺してなくたって死体遺棄罪というのがあるんだよ。人間の死体というのは止むに止まれぬ事情がない限りは絶対に動かしたり損壊させたりしたらいけないんだ。っていうより、オマエさ、わざと俺たちを追い込もうとしてるだろう?」

 マリアが口を尖らせる。

「じゃあ、どうしたらいいのよ?」

 そこでケント君が考えます。

「捕まらない方法……、捕まらない方法……」

 私は考えているケント君の力になってあげることはできませんでした。

「そうだ」

 閃いたようです。

「預かったままのテントと釣り具を利用しよう」

 それから私に尋ねます。

「土曜日のことですけど、夜見湖まで車で行きましたよね?」

「うん」

「誰かに話しましたか?」

「親にも話してない」

「向こうでコンビニは利用しましたか?」

「買い物はしてない」

 そこで思い出しました。

「でも給油はしたかな」

「そっか」

 そこでケント君が考え込みます。

「だったら正直に話しましょうか。ユウキの死体が見つかったら、今度は生活安全課ではなく刑事課の捜査員が先生のところに行くかもしれません。そこで先生は土曜日に夜見湖へ行っていたと話すんです。でもユウキの姿は見なかった。なぜ夜見湖へ行ったかと訊かれたら『サッカーボールホッケーを観戦しに行った』と答えてください。俺も先生に誘われたから日曜日の決勝戦を観に行ったと答えます。もちろんそれは訊かれたから答えるのであって、自分から積極的に話してはいけませんけどね。今年はどんな試合が行われてどのチームが勝ったかは後で俺が調べてメールします。先生もルールを把握して去年と今年の試合が動画で上がっているので、できればそれを観ておいてください」

 生徒を守るためなら何でもしようと思いました。

「それじゃあ俺は準備があるので先生は真っ直ぐ家に帰ってください」

「準備って何をするの?」

「夜見湖へ行ってきます」

「一人で?」

「ここから先は、先生は何も知らない方がいいです」

 ケント君がそう言うのなら、そうした方がいいのでしょう。

「心配いりません。誰一人俺たちに疑いの目を向ける者はいなくなります」

 そこでずっと私のことを睨んでいたマリアが口を開きました。

「さっさと帰ったら? いつまで男子生徒の部屋に居座るつもり?」

 ユウキ君の遺体が発見されるまで何を言われても我慢するしかありません。

「せっかく捕まらないようにしてるんだからケント君に手を出さないでよね」

「先生がそんなことするわけないだろう」

 ケント君が庇ってくれました。

 ユウキ君の言葉を思い出します。

 そこで初めて友のために命を捧げた彼の気持ちが分かったような気がしました。



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