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タロットゲーム  作者: 灰庭論
第2巻 女教皇編
10/60

SIDE OF THE FOOL   愚者

 ユウキが死んだと告げられても、すぐには言葉の意味が理解できなかった。死んだということは、もうこの世にはいないということなのに、それがまったく実感として湧かないのだ。いや、それこそが死の空虚さなのだろうか。

 目の前にいるアンナ先生も言葉を失ったままだ。言葉どころか表情もなく、生気のない顔で雪原に立ち尽くしている。これではどちらが死後の世界にいるのか分からなくなる。それも含めて死の体験なのかもしれない。

 ユウキの愛犬のマジックが俺を見上げている。言葉を発することはないが、その目は人間よりも心に強く訴えかけている。説明しなくても飼い主に何かが起こったことを知っているかのようだった。

「先生、ユウキの元へ連れてってくれませんか?」

「ああ、うん」

 アンナ先生の車でユウキが眠っている夜見湖へと向かった。でもその前に家に寄って母さんにマジックを預かってもらった。それはこれから向かう先がお祭り会場なので迷惑を掛けるかもしれないと考えたからだ。

 普段は大人しくて唸り声すらあげないのに、この日は珍しく玄関先で忙しなくしていた。その様子を見ていると胸が掴まれたように痛くなる。別れを理解できないというのは、ある意味において死を受け入れるよりもつらいことなのかもしれない。

 母さんとアンナ先生が玄関先で軽く挨拶をしていたが、やり取りは耳に入ってこなかった。母さんは元々俺に興味がない人なので、俺の友に不幸があったことを知っても、テレビでニュース番組を観るくらいの感想しか持たないだろう。

 昨日ユウキと別れた夜見湖までは車で三十分の距離にある。その車中では一切会話を交わさなかった。ただ延々とショパンの『別れの曲』をリピート再生させて聴いていた。その曲はユウキが好きだった曲だ。


「昨日より人が多いです」

「どうしようか」

 夜見湖の凍結した湖上で行われているスケート祭りは日曜日のお昼ということもあり、大変な賑わいを見せていた。昨日は千人未満だった来場者が、この日は四倍から五倍に膨れ上がっているように思われた。

「ちょうどあの辺りだったよね? 私はここから見ていたの」

 アンナ先生が見つめているのはユウキが消失マジックで自殺した場所だ。それを先生は俺たちが立っている二百メートル離れた湖岸から見守っていたわけだ。どんな心境でそれを見ていたのだろうか?

 現在、ユウキが消えた場所には火を入れたドラム缶が並べられ、その上で羊肉を食べる家族連れが群がっていた。誰も足元に中学三年生の死体があることを知らない。そういう俺もユウキが眠っているとは現実的に考えることができなかった。

「止めることができなかった」

 アンナ先生が自分を責めた。

「先生は何も悪くありません」

 もしも本当にユウキが自殺したというのならば、悪いのはすべてマリアこと隠者のせいだ。アイツが一人で友を追い詰め自殺に追い込んだのだ。神出鬼没の悪魔が相手では、いくら大事な生徒であっても何も出来なかった先生を責めることはできない。

「本当にユウキは死んだんですか? どうしてもそれが理解できなくて」

 先生が頷いた。しっかりと認めたというのに、やっぱり俺には友が死んだとは思えなかった。ユウキは魔術師なので、消失マジックを大成功させていて、俺を驚かせるために突然姿を現すのではないかと考えてしまうのだ。

 しかし一方で、アンナ先生は決して生徒に嘘をつかない人なので現実だと思ってしまう自分もいる。でも認めたくないので隣にいる先生もマリアが化けているのではないかと考えてしまうのだ。

「先生はユウキの自殺を手伝ったということですか?」

「ごめんなさい」

「あっ、いや、違うんです。責めてるんじゃなくて、先生もつらかっただろうなって思って」

「私のことはいいの」

 この反応は姿を変えたマリアではない。アイツはおしゃべりで、俺をからかって遊ぶのが好きだからだ。ねちっこく嫌味たっぷりに会話を引き延ばすはずだ。それで途中で笑いを堪えることができなくなり、最後にはバカ笑いするのである。

 ということは本当にユウキは自殺してしまったということになる。それでも、それでも死体を見るまでは、どうしても現実として受け止めることができなかった。死体がなければ永遠に失踪者であり続けるからだ。

「ユウキ君が手品をやった場所は憶えてる?」

「はい」

「目印を付けておかなくても大丈夫かな?」

「大きな穴を開けたので今は塞がってると思いますけど、跡は残ってると思います」

「じゃあ人がいなくなるまで車の中で待ってようか」

 アンナ先生は俺の身体が冷えないように気を遣ってくれたようだ。そこで湖上から人がいなくなる夜まで車の中で待つことにした。体調のこともあるが、それよりも楽しそうにしている子どもたちを見ているのがつらいというがあったのかもしれない。


「ごきげんよう」

 駐車場で待機していたら、マリアが先生のミニバンに乗り込んできた。

「オマエ何しにきたんだよ?」

「その『オマエ』って言うのヤメてって言ってるでしょ」

「知るかっ」

 運転席のアンナ先生がバックミラーの位置を変えた。

 俺も振り返ってまで顔を見たいとは思わなかった。

「そんな冷たくしなくてもいいでしょ。せっかくアメリカンドッグを買ってきてあげたのにさ」

「いるか、そんなもん」

 先生は言葉も交わしたくない様子だ。

「そんなこと言わずに食べなよ」

 後部シートから強引に差し出すが、先生は一切反応しなかった。

「これユウキ君が好きだった食べ物だよ?」

 その瞬間、不意に悲しみが襲ってきた。

 マリアが口にした『好きだった』という過去形が胸に突き刺さったのだ。

「アメリカンドッグって、アメリカでは『コーンドッグ』って言うんだってね。衣が違うの」

 マリアは祭りを楽しんでいる子どものように陽気だった。

「ホットドッグってあるでしょう? 何で犬肉でもないのに『ドッグ』って名前がついたか知ってる? ソーセージといえばドイツじゃない。それでドイツ原産の犬種である胴長のダックスフントに似てるからそう呼ぶようになったんだって。それで勘違いしちゃったのよ。てっきりユウキ君は犬肉が好きなんだと思い込んじゃってさ、それで犬を殺すように命令しちゃったんだ。これでもユウキ君のことを思って指令を出したんだから、そこはちゃんと褒めてよね」

 嘘に決まっている。それでは俺にウサギを殺すように命じた説明がつかない。それも全部わかっていて話しているのだ。人をイライラさせて野蛮になるのを待っている。大人しい人間を乱暴にさせるように仕向けているわけだ。

「車から降りて」

 アンナ先生が感情を押し殺した声で言い捨てた。

「えっ? いま挨拶したばかりなのに」

 マリアのとぼけた口調が癪に障る。

「私たちの前から今すぐいなくなって」

 宇宙人の挑発に乗らない先生が頼もしかった。

「どこへ行けって言うの?」

「出て行って。これは私の車なの」

「ここは私の地球よ」

「この車は私がローンを組んで買った車なの」

 こんな怖い言い方をするアンナ先生を見たのは初めてだ。

 それでもマリアは余裕だった。

「なによ、カッコつけて。本当は怖くて仕方がないクセに。貴女ってさ、生徒がいる時だけマジメなスイッチが入るのよね。ああ、違う。隣にいるのがケント君だからかな? 一度でもいいから正直に生きてみたらどう?」

 そこで先生が怖い目で睨みつける。

「今すぐ降りなさい」

 小柄で可愛らしいけど、やっぱり先生は大人の人だった。

「はいはい」

 不貞腐れたマリアは俺の両手にアメリカンドッグを押し付けて車から降りて行った。

 車内で二人きりになると、気まずい雰囲気になった。

「お腹空いたでしょう?」

 重たい空気を破ったのは、いつもの優しい感じのアンナ先生だった。

「夜まで長いから食べた方がいい」

「じゃあ、先生も」

「私はいい。本当に食欲がないの」

「俺も」

「ケント君は食べなきゃダメ」

 先生は俺を母親から預かってきたという意識があるのだろう。

「いただきます」

 それからアンナ先生は古い洋楽を車内に流した。俺は疎いので知らないが、それもユウキの好きな曲だったらしい。たった一人の友なのでユウキのことは何でも知っていると思っていたが、先生と音楽で強く結びついていたのは初めて知った。

「ユウキ君とは幼稚園で知り合ったんだっけ?」

「はい。ユウキの兄ちゃんたちよりも一緒にいる時間が長いです」

「どんな子だったの?」

「人を助ける子でした。部屋の隅で寂しそうにしている子を見ると放っておけなくて声を掛けてあげるんです。声を掛けられた子はそのうち新しい友達ができるんですけど、ユウキが話し掛けていなかったら、今頃どうしてたんだろうって時々考えることがあります」

「変わらないまま成長したのね」

「はい。俺を人間にしてくれたのもユウキのおかげですからね」

 アンナ先生が小さく笑う。

「え? どういうこと?」

「それは、その、真似しようと思える人がいたから、今の自分になれたんです。ユウキと出会えていなかったら、他人をバカにして、見ないように、なるべく人と関わらないように生きていたと思うんです」

 そこで唐突に小学生の頃の記憶を思い出した。

「六年生の時にマラソン大会があったんですけど、走る前にユウキと一緒に走ろうって約束したんです。それで実際に一緒に並走して、結果は、俺はいつも十位以内だったんですけど、その時は四十番台でした。でもいつも八十番台だったユウキが同じ四十番台でゴールできたんです。それがすごく嬉しかったんですけど、担任の先生からは『サボったんだろう』って言われました。その一言で自己嫌悪に陥って、自分は間違ったことをしたんだと思っちゃいました。それからずっと引っ掛かっちゃって、そのうち自分でもサボるためにユウキを利用したんじゃないかと思うようになったんですよね」

 車内にはずっと洋楽が流れている。

「でもある時テレビでマラソン中継を観ていたんですけど、そこでペースメーカーの存在を知ったんです。有名な選手に並走して走る人なんですけど、それを知ってから自分を悪く思う必要はなかったんだって考えられるようになりました。もちろんマラソンのことや、世の中にある仕事のことは何も分かりません。それでも俺はもう名前が出る人だけに注目するのはやめようと思えたんです。サポートする仕事に喜びを感じられる自分で良かったとさえ思うようになりました」

 先生が話の続きを待ってくれている。

「他人からは『逃げた』とか、『サボった』って思われるかもしれません。でも俺にはユウキの自己ベストを一緒に塗り替えたという思い出があります。他人からの評価にビクビクしてしまう自分がいますけど、そんなことで俺の思い出を奪われてたまるかって、今はそう思っています。泳げない人が溺れている人を助けるのは自殺行為だって分かっていますが、自己ベストを目指して走る友をサポートしないのとは別の話なんです。それに俺の順位なんて、結局のところは誰も興味や関心を持ちませんからね」

 いや、本音をいえば順位はめちゃくちゃ気になるが、俺は強がって生きるって決めたのだ。それがどんなに滑稽に見えても、本質を見抜かれたとしても、カッコ悪く見えても、バカにされ続けるのが愚者としての生き方だ。

 アンナ先生が遠い目をしている。

「先生の何気ない一言って、子どもにはすごく重たいのよね。それを自分も教壇に立って初めて理解した。まだ三年に満たないけど、これまで何度言ってはいけない言葉を引っ込めたか数え切れないもん」

 これは意外だった。

「アンナ先生にもそんな経験があるんですか?」

「あるよ。口から出掛かって言葉ごと飲み込んだのは数え切れないくらいある」

「そんな頻繁にあるんですか?」

「ごめん。それは言い過ぎた」

 今日のアンナ先生は親戚のお姉さんのような雰囲気がある。母さんの妹が丁度そんな感じだ。離婚して独身に戻ってからは雰囲気が変わったけど、それでも会えば毎回お小遣いをくれるので大好きな人だ。

「言えないことって、たとえばどんなことが頭に浮かぶんですか?」

「それは言えない」

 表情から察するに、どうやら本当に言えないようだ。

「それでもこんな私が無事に卒業生を送り出せるのも、みんなのおかげかな。だって本当に生徒に恵まれたんだもん。他の先生から羨ましがられるくらい『いクラスだ』って言ってもらったからね」

 それはアンナ先生だから『良いクラス』になったのだが、本人は気付いていないようだ。

「特にユウキ君には感謝しているの」

 そこでしばらく無言のまま洋楽を聴くこととなった。

 俺としても無理に話を変えたくなかったので黙っていた。

「私たちが『神さまの家』で楽しく過ごせるのはユウキ君のおかげだよね。もちろんホームの子たちがみんな良い子というのもあるんだけどね。でもときどき施設訪問が行われるけど、その時とはみんなの顔が違うもんね。無理して笑ってないというのが分かるんだ」

 児童養護施設――俺や先生は『児童ホーム』と呼んでいる――も多様化しているので一括りにはできないけど、『神さまの家』は多い時で四十人の子どもを預かることもあるので、個人を尊重してあげるのがとても難しいと、前に先生から教えてもらった。

 基本的に一番大事なこととして認識しておかなければならないのが、そこら辺の家庭で起こることは児童ホームでも起こる、ということだ。つまり、俺たちと何も変わらない、ということを先生は強調していた。

 それなのに児童ホームで問題が起これば、なぜか「施設の子だから」という枕詞がついて偏見を持たれてしまう。ただでさえ恵まれた環境ではないというのに、その上、施設という大きな運命共同体という責任まで背負わされるのだから、ホームの子は苦しいに決まっている。

 これは自分に置き換えて想像すれば簡単に分かることでもある。世帯調査という名目で知らない人がぞろぞろと自分の家に入ってきたら、反抗期ではない子どもだって歯向かうことだろう。俺だったら絶対に自分の部屋には入れたくない。特に同年代の子には見られたくない。

 それでも『神さまの家』の子どもたちは、大人に気を遣いながら、しかもその気を遣っているということを隠して職場訪問や施設見学を笑顔で受け入れているのだ。自分に同じことができるかと問われたら、自信を持って「できる」とは答えられないのが本当のところだ。

 また、働いている大人も大人で気を遣っていると教えられた。閉鎖的であってはならないということで、社会に開かれた存在を目指しているわけだ。事実、そのおかげで俺もホームの子と知り合うことができたわけだ。

 俺が考えているようなことは、もうとっくに大人たちの間で何度も話し合われていることだろう。その中で結局は「知ってもらう」ということが一番だと判断したわけだ。無関心が一番恐ろしい、ということなのかもしれない。

 ちなみに俺やアンナ先生が児童養護施設のことを『児童ホーム』と呼んでいるのは、所長さんの奥さんがそう呼んでいるからだ。その理由は、名称にはカタカナを含めた方が親しみやすさや柔らかさや温かさが感じられるからいい、ということで特に他意はないそうだ。

「ユウキ君が『神さまの家』に行きたいって言い出したのは、やっぱりホームの子どもたちを助けたいっていう気持ちがあったからなのかな? みんなユウキ君のことが好きだったのよね。どういう気持ちで接してたのかな?」

 もう今は想像することしかできない。

「そういうんじゃないと思います。手品を見せて喜んでいただけかもしれません。『生きがい』っていう言葉を使ってたことがあったんで、まず、自分が楽しんでいたんだと思います。あそこの子は、歌は下手だけどリアクションは最高なので」

「歌は気持ちがこもっていれば、それでいいの」

 やはりアンナ先生は音楽のことになると真剣だった。

「すいません」

 先生が深く息をついた。

「でも、楽しむって本当に大事だよね」

 考えてみれば、ユウキが手品に夢中にならなかったら『神さまの家』に行くこともなかったし、当然俺も行かなかったわけで、そうなるとレンちゃんにも出会えなかったわけだ。つまりユウキの存在がレンちゃんとの出会いを導いたということになる。

 人との出会いというのは一体なんなのだろうか? たった一人の友と出会えなかっただけで、その後に出会う何十人もの人たちと出会えなくなるということがある。目の前にいる、たった一人の人を大切にすることが重要だっていうことなのかもしれない。

 どうして俺だけ生き残ってしまったのだろうか? 生き残るべきは恩返しをしなければいけなかったユウキの方だ。それなのに、いなくなってから大事なことに気が付く鈍感な俺が残されてしまった。

 色んなことに素早く気が付くユウキだから、こんな結果になったのかもしれない。頭の良いユウキが死んで、頭の悪い俺が生きているのは、世界の方が間違っているとしか思えない。いや、実際に世界は狂っている。

 こんなことなら俺が死ねばよかった、と口だけなのが俺の性格だ。ユウキの死を感じている今も、心の中では死ぬ必要はなかったと思っているからだ。マリアに俺たちを殺せる能力など、やはり「ない」と思ってしまうのだ。

 そこでアンナ先生がボソッと呟いた。

「みんなに伝えなくちゃいけないのよね」

 話せるものなら俺の口から全部ありのままを伝えたかった。ユウキの死は自殺なのではなく、俺の命を救うために犠牲になったと。それ以外の方法がなかったんだと、ちゃんと説明してやりたい。

 それができないのはホームの子どもたちをマリアの計画に巻き込みたくないからだ。殺せる能力はないと思っているのに、それと同じくらい、ひょっとしたら殺されるかもしれないと考えてしまうのだ。

 これは死に対する感情に似ている。いつかは確実に死ぬことが分かっているのに、なぜか今は絶対に死ぬことはないだろうと考えてしまうのだ。俺はやっぱりトコトン愚かなのだろう。いま生きていられるのはやはりユウキのおかげだ。

「あっ、この曲」

 そこでアンナ先生がカーステレオのボリュームを上げた。

「ユウキ君が一番好きだった曲だよ」

 それは俺たちが生まれる前に書かれた曲だった。

 そういえばユウキがよく聴いていたのを憶えている。

 先生が日本語に訳された歌詞カードを見せてくれた。

 とても美しいメロディに心が締めつけられる。

 繊細な歌声なのに心強さが感じられた。

 そこで火傷しそうなほど熱い涙が込み上げる。

 なぜならユウキがその歌詞を語り掛けているように感じたからだ。

 隣で先生も同じように涙を流していた。


 一人になりたいと外に出たアンナ先生が駐車場に戻ってきた時、外はすっかり暗くなっており、来場者も帰路についていた。そこで俺も車から降りて、ユウキが眠っている夜見湖の凍結した湖上へと向かうことにした。

「暗いけど大丈夫?」

 お祭り会場の後片付けも終わっていて、辺りを照らすのは月明かりのみだった。

「大丈夫です」

 と言ったものの、昨日ユウキがテントを張った場所を特定できないでいた。子どもの身体が落ちるくらい大きな穴なので、やはり安全面を考慮して塞いで整地してしまったのかもしれない。

 そういう俺も昨日は小さい子どもが誤って落ちてしまわないように夜まで見張りながら穴を塞ぐ作業をしていた。それはユウキからお願いされていたことで、特に念を押されて頼まれていたことだ。

「昨日は冷え込みが厳しかったもんね」

 そのおかげで結氷が進み落とし穴にならずに済んだので良かった部分ではある。

 しかし見込みが甘かったのは事実だ。

「すいません」

「ケント君が謝ることじゃないのよ」

 夜見湖は二百ヘクタール以上もある大きな湖で、いくらポイントが絞り込めているからといって、そこから凍結した湖面の下にある死体を探すのは困難だ。氷といってもガラスではないので湖中を覗くこともできない。

「二人だけでは無理かもしれません」

 一応、ユウキから預かったままのチェーンソーと千枚通しは持ってきたが、死体がわずかでもズレていたら、その都度穴を開けて、しかも湖中を手探りで探し当てないといけないわけだ。どう考えても困難な作業だ。

「ごめん、先生も甘く考えてたみたい」

「悪いのは隠者です」

 といっても早く見つけなければいけないことに変わりはなかった。春になって湖面の凍結が解かれるのはいいが、その時にはもう死体は浮いていないからだ。死体にガスが溜まっている間しか死体を引き上げるのは難しいと考えた方がいいだろう。

「あっ、たぶん、ここだと思います」

 それでも何とかテントを張った位置を特定できた。

「じゃあ、ここからユウキ君が落ちたんだ」

 先生がしゃがみ込んで見つめている箇所は泥の雪が混じっているので、そこだけ周囲と色が変わっていた。雪が降っていたら絶対に特定はできなかっただろう。近日中に降雪がありそうなので目印が必要かもしれない。

「先生、どうしますか?」

 昨日帰り際に地面を強く踏んでも割れなかったので、もうすでに凍結した氷は分厚くなっているはずだ。それでもチェーンソーで穴を開けて、湖中に手を入れることはできる。それでも俺はユウキが見つかるとは思えなかった。

「穴を開けて見つからなければ、釣り人が落ちないように塞がなきゃいけないんだったよね? 見つからなければ穴を広げるか、別の場所に新しく穴を開けなくちゃいけないわけでしょ? こうも暗いと事故が起こるかもしれない」

 アンナ先生がブツブツ言いながら考えている。

「止めましょう」

 それが先生の下した決断だった。

「はい」

 俺は先生の判断にホッとした。

 そんな心境になった自分に不快感が生じているのも事実である。

「手を合わせましょうか」

 アンナ先生に従って死者に手を合わせることにした。

 でも俺はまだユウキが死んでいるとは思えなかったので真剣になれなかった。


 それから車に戻って今後について話し合うことにした。途中で自販機に寄って、アンナ先生が温かい飲み物を買ってくれた。先生はコーヒーで、俺はココアだ。そのココアを飲んでもやっぱりユウキと一緒に飲んだ場面を思い出すのだった。

「警察に電話しないとダメだね。始めからそうしないといけなかったんだ」

 そこは先生と意見が違った。

「でもそうすると、俺だけじゃなく先生も自殺幇助になるかもしれませんよ?」

「よくそんな難しい言葉を知ってるね」

「ちっちゃい頃から推理アニメが大好きなんです」

「今のアニメって、そんなことまで教えてくれるんだ?」

「先生が生まれた頃に連載が始まったマンガですよ?」

「へぇ」

 アンナ先生はずっと音楽に打ち込んできたので知らなかったのだろう。俺は生まれる前に放映されていた初期の放送回も観ているし、マンガだって『金田一少年』や『コナン』は何度も繰り返して読んでいた。

 他にも刑事ドラマが好きで、古いけど『踊る大捜査線』や『古畑任三郎』は全部観ているし、『相棒』は録画しながらリアルタイムで観ている。残念なのはユウキがそういったジャンルの作品に一切興味を持たなかったことだ。

「でも俺が心配しているのは自殺幇助の罪に問われることではなくて、最悪の場合、殺人の容疑者として扱われるんじゃないかってことなんです。ユウキの死体を発見しても自殺と判断してくれる保証はありませんからね」

 先生が悩んでいる。

「でもユウキ君のご家族のことを考えるとね」

 ご遺族という言葉を使わなかったことで、先生の中でもまだユウキの死が処理しきれていないというのが分かった。ちょっとした言葉遣いの変化で心の内が理解できるものだ。しかし俺の場合は推理アニメの観過ぎかもしれない。

「このままというわけにもいかないでしょう?」

 先生の話はもっともだ。昨日の夜の段階でユウキから家に連絡がないことに心配しているだろうし、翌日の今日にはご両親が警察に行って行方不明者届を提出しているかもしれないので大騒ぎになっていることだろう。

 しかしまだ担任である先生の元に連絡が来ていないので状況は不明だ。ユウキの両親は週末になると札幌に行くので、小牧市にある実家を留守にしていることが混乱と遅延を招いているのだろう。

 それとユウキがスマートフォンを所持していないというのも事態の把握を遅らせている原因の一つだ。子どもに持たせることに不安があっても、安全のためのツールという側面を無視していいわけではない。いや、ユウキの場合は所持していても救うのは無理だったが。

「もう、どうしたらいいんだろう」

 先生がなすすべもなく思い悩むのも無理のない話だ。俺たちは人類史上例のない事態に遭遇しているからである。いや、実際は俺が知らないだけで、同様のケースはすでに起こっていたのかもしれないが、すべては想像するしかない。

「公衆電話から匿名で電話をするというのはどうかな?」

 意見を求められたのが嬉しかった。

「匿名通報の窓口があるはずなので、それなら問題ないと思います」

「よかった」

「でも、電話する場所は選んだ方がいいと思います」

「どういうこと?」

「発信場所が特定できるので、あとで事件性を疑われた時、問題になったら困りますから」

「そうなんだ」

 ということで市街地に戻って公衆電話を探すことにした。湖から死体が発見されれば、当然警察に掛かってきた匿名電話の発信者が事件に関係していると思われるだろう。そうなると俺は自殺だと分かっていても、第三者からは殺人事件だと思われる。

 捜査本部が設置されれば、匿名電話の発信源周辺を調べるはずで、そこから監視カメラの映像も調べるかもしれない。特定は不可能だと思うが、冤罪で捕まるわけにはいかないのだ。なぜなら宇宙人の存在が法廷で認められるとは思わないからである。

「ちょっと停めるね」

 スマートフォンに着信が入ったので、アンナ先生は車を路傍に停めた。

「あっ、どうしよう? ユウキ君の家の固定電話からだ」

 先生がひどく不安そうだ。

「ちょっと待ってください。俺と先生が一緒に祭りに行ったことは母さんが知っているので、もし聞かれたら正直に答えてください。ユウキのことは聞かれるまで答えたらダメです。もし聞かれたら、そこで逆に質問して、ユウキの安否を気遣うんです。さらに最近の様子を聞かれるようなことがあったら、受験でナーバスになっていたと答えてくれませんか。俺も後で色んな人に同じことを聞かれると思うんで、先生と同じように答えます」

 先生が頷いてから電話に出た。

「もしもし、城ですけど――」

 それからアンナ先生は打ち合わせ通りに受け答えしてくれた。ちゃんと芝居ができるか不安だったけど、「私も捜してみます」とアドリブを入れてくれたので、問題なく乗り切ることができた。

「ちょっとお待ちください。いま代わります」

 そこで先生は俺に電話を差し出した。

「ユウキ君のお母さん」

 俺の家にも電話したと思うので、先生と一緒にいることは知っていたのだろう。

「もしもし、代わりました。――」

 そこで俺も先生と同じように芝居をして対応した。

 それから、居場所を知らないということを告げてから、先生に電話を返した。

「はい。それでは私も久能君を送り届けてから警察署の方へ向かいますので、学校への連絡は任せてください。――はい。それでは失礼いたします」

 電話を切った先生は深く息を吐き出した。

「すごく嫌な気分」

 俺も同じ気持ちだった。

「悪いのはすべて隠者のせいです」

「そうね」

「それより明日からは状況が予測できなくなるので早めに警察へ電話しないと」

「うん」

 これ以上、先生を不快な芝居に付き合わせたくなかったが仕方がなかった。

「声を変える機械がないけど大丈夫かな?」

「今はボイスチェンジャーで加工された声を元の声に復元できるみたいです」

「そうなんだ」

 先生の緊張した心臓の鼓動が俺の胸にも響いてきているように感じられた。

「受話器に布を押し当てて、普段は使わない低い声で話すしかありません」

 そんなことを先生にさせなければならないのが心苦しい。

「それよりも大事なのがユウキの特徴を伏せることです。『小さい子どもの死体』っていうキーワードだけでもユウキを連想させますからね。そうなると発信者がユウキの周辺にいる人物だと思われてしまいます。昨日は女性用のスーツを着用していたので『黒い服を着た女の死体が凍った夜見湖の底に沈められている』ということにしましょう。警察への電話はすべて録音されるので余計な言葉を付け足すのは控えてください」

 先生が何か言いたそうな顔をしているが堪えている感じだ。

「わかった」

 何か頭に浮かんだ嫌な言葉を飲み込んだのだろう。ユウキが死んだ直後なので俺も冷静でいたいとは思わないが、これもすべては冤罪で捕まらないための方法なので徹底して演じ切るしかないのである。



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