第4話:師走の目覚め
ぼんやりとしていた意識が、次第に目覚めだす。
アリス・ルヴァガはようやくはっきりと意識を取り戻した。頭がずきずきと痛み、あちこちにできた擦過傷が塩水で疼いたのだが、それが急速に弱まって行くのを感じた。何所だかはわからないが、自然と安心できた。
いったい私は、どうして。
記憶をたぐって、自分に起こった出来事を思い起こす。あれから半年近く、日々続く攻撃から逃れていたところ、エースと名乗る男に出会った。そうしてその男は、アリスの正体を確かめると海にまで出て来た。
そうだ、そこで襲撃にあったのだ。高波がアリスたちを襲い、飲み込んだ。助かったのは奇跡とでも云えるのだろう。
はっとしてようやく起き上がり、初めて辺りを見回した。
居ない。エースと名乗る、あの男は居なかった。静かさだけが、ここにはある。少し変わってはいたが、彼も政府の人間だったのかもしれない。巧みに海へと連れ出して、アリスをこんな目に遭わせたのかもしれない。本当に彼がアリスを助けてくれたのだとしても、あの攻撃で生き延びるのは難しいかもしれない。
エースのことは取りあえず保留、アリスはすぐにそう決めた。とりあえず今は、自分が現在何所に居るのか、それが先決だ。周囲を観察して驚いたのが、壁が玉でできているということだ。アリスにはどれだけ高価なものかは判断がつかないが、そこら庶民が手出しできるものではない。地面は軽く海水に浸かっていた。振り返ってみると、そこに海がある。薄暗い場所から外へと出て周囲を見渡し、アリスは唖然とした。彼女が居るそこは、四方を海に囲まれた孤島だったのである。
──北の孤島だ。
エースの声が耳に蘇る。本当に孤島へ来たのだ。偶然とは云え、ここに辿り着いた。しかし完全のエースが居なくては、来てもなんの意味もなさない。アリスは外から自分の流れ着いた場所をもう一度確認した。外側からすべてが玉でできている。周囲は海に囲まれ、出入り口は今アリスが立っている目の前しかない。
「もしかして、本当に祠なの……?」
アリスは自分の居る場所の可能性に思いついて、瞬時に危険を悟った。ここは最強精霊である人霊の眠る祠の一つだろう。単なる見習い召喚師ごときが入って良い場所ではない。不用意に侵入した場合、精霊の怒りに触れる。講義で淡々と話していたレールの言葉が蘇った。幾ら事故でも、突然こんな場所に居てはまずい。だが外は海。陸は見えるが泳いで帰れる距離でもなし、こんな季節に泳いだら凍死するだろう。加えてそんな無防備なところで攻撃が来るかもしれない。
どうやって出れば良いのか、現状を理解したアリスに選択肢はなかった。
(どうしろって云う……)
半分諦めかけたその時に、奥から暖かな風と一緒に声が流れて来た。
──お入りください。
「え?」
──お入りなさい。
「誰……?」
それきり声はしなくなった。今度は幻聴かと思いつつ、ここで呆然とたたずんでいても仕方がない。追撃者は休憩中、外に出ても生きて出られる確率は低い。ならば精霊の怒りに触れて死ぬほうがまだ良いというものだ。仮にも見習いだが召喚師だ、すぐに人霊の怒りに触れることはないだろう。アリスは腹を括って中へと足を踏み入れた。
中は玉の光で明るさを見せていた。太陽がまったく当たらないから寒いかと思えば、ちっとも寒さを感じない。これが最強の精霊と呼ばれる人霊の、暦精霊の力なのだろうか、とても不思議な空間であった。
そろそろと進んで行くと、中は意外に狭かった。狭い空間の中で突如アリスの目の前に現れたのは、祭壇の奥に祭り上げられた青年である。身体のあちこちに蔦が巻かれている上、玉に封じられている。異常な光景なのに綺麗だとつい魅入ってしまう。何所かで見たことのある顔だったが、すぐに思い出せなかった。不可思議なその光景は、人を惹き付ける何かがある。
──光をください。
またしても聞こえた声に驚いてアリスは周囲を見回すが やはりアリス以外誰も居ない。
──光を、我々の魂を、玉をそこに。
云われてアリスは、何のことを云われているのかようやくわかった。訓練所で拾ったあの石が、この祠と同じ色で輝いているのである。ただならぬものを感じつつ、アリスは困惑する。何が起こるのか、不安でならなかった。だが彼女に他の行動は残されていなかった。わからぬままに、アリスは石を祭壇に置く。途端、眩しいほどの光が周囲を照らした。
「なに……!」
眩しさに目が暗んで後ずさったアリスに、突如明るい声が聞こえて来た。
「あー、やぁっと出られたぁ!」
驚いて目を開けば、そこから既に光りは消えていて、代わりに一人の青年が居た。突然現れたその青年は、その場で身体を左右上下と動かし始めた。体操でもしているつもりなのだろうが、生憎とアリスはそこまで楽天家ではない。
「貴方……誰?」
呆然として慌てて周囲を見回すが、誰かが入って来られそうなところはまるでなかった。
「え、何所から現れたの?」
「──へえ、君か」
「何が……」
「その石だよ」
「え?」
気付けば石は、アリスの手元に戻っていた。
「その石が俺を目覚めさせた」
はっとしてその青年をじっくりと見て、アリスはようやく気が付いた。慌てて祭壇奥の石を見ると、そこに先ほどまで蔦にまみれて封印されている青年の姿が消えている。
「……もしかして……」
アリスはその可能性に思い至って、呆然としてしまう。だが目の前の青年はにやりと笑って、手をひらひらさせながら云う。笑うと青年というより少年と云っても良い幼さが若干残っていた。そうだその顔を、見習い召喚師であるアリスが見たことがないわけがない。
「まあ落ち着いて、きちんと説明するからさ。 でもその前に一つ質問。その石はいつ何所で手に入れたか覚えてる?」
「──追われる前……三月ぐらい前、訓練所で」
「お、時期もだいたい合ってるな」
満足そうに青年は頷いてから、じっくりとアリスを試すように見つめた。
「それで、俺が誰だか、わかる?」
アリスはなんとなくわかったが、黙りを決め込んだ。云うことが、恐ろしくなってしまったのだ。すると青年は肩を竦めて、まあ良いやと言葉を続けた。
「俺は師走、師走の月を司る人霊だ」
予想通りのその言葉は、アリスをずきりと刺した。
アリスは召喚師の町アスルで育った。そこを追われてひたすら北上し、レイシュ町でエースと出会った。そのまま北上して辿り着いた先が、あの海岸だった。その先にあるのは、精霊召喚師のみが召喚できる人霊、師走の祠である。普段なら人霊は精霊召喚師について王宮で暮らすのだが、今は12月、師走の月。師走がこの祠で眠ってアリカラーナを守り、この国に四季を与える季節なのだ。
それをアリスは、起こしてしまった。アリカラーナを支える四季を乱した。それは精霊の怒りに触れることと同義だ、アリスはそう考えてがっくりと肩を落とした。
「ごめんなさい、私……」
謝る言葉すらろくに云えず、アリスは力なくその場に座り込んでしまった。これだけではない。三箇月にも及ぶ逃亡生活に、心底疲れ果てていたのだ。加えて見習いと云えど召喚師を目指していたというのに、召喚師のトップである精霊召喚師の臣下である人霊の怒りに触れてしまった。
それだけアリスは絶望に感じたのだ。
だが予想に反して、師走は平然とした顔で驚くようなこと云った。
「なんで謝るんだ、こっちがお礼を云いたいぐらいだ。ありがとう、助かった」
「え……」
「なんて、まだお礼を云うには早い段階だけど、取りあえず起きることができて良かったよ」
ぽりぽりと頭を掻きながら、師走は無邪気に笑ってみせた。アリスは呆然としたまま、師走を見ているしかできない。こうして快活に話す姿は、人霊というより本当にただの青年のようだ。
「どっから説明すれば良いかな。──取りあえず、君が封印されていた俺を召喚したんだ。ありがとう」
「え、私はまだ見習いで、召喚なんてとても……」
まともに獣を呼び起こせたこともないというのに。それにどうして、師走は召喚されたことを感謝するのだろうか。今この国は師走の月を迎えているというのに、師走は祠で眠っていなければならないというのに。しかしそんなアリスの疑問を気にした風もなく、師走は平然と云ってのける。
「その石さ」
「石……?」
「俺たち12の人霊は、選ばれた召喚師にしか仕えない。その召還師が精霊召喚師だが、その人が死ねば俺たちは眠りにつく。自分の魂を石に預けて、それが次なる精霊召喚師の元に渡るよう、地上に残して」
「その石が、これ?」
「そう。その石が特殊に見え扱えるのは、精霊召喚師だけだ」
そこで師走は、群青の瞳でひたとアリスを見据えた。
「俺の怒りに触れたわけじゃない。──君は新たな精霊召喚師だ」
師走の言葉は聞こえていた。だがそれは記号のようで、とても理解できるものではなかった。精霊召喚師とは召喚師のトップに立つ者であり、このアリカラーナ王国の周囲に浮かぶ十二の祠を司る十二の人霊の唯一の主であり、彼らを召喚することによってこの国に季節を与える者だ。王宮では宰喚と呼ばれ、他の宰相と共にアリカラーナを補佐する役目を持つ者のこと。
決していつの間にか指名手配され、謎の襲撃を受ける成人前の女性のことではない。加えて現在の精霊召喚師にルウラ・カルヴァナという、有能な男が居る。
「カルヴァナ精霊召喚師はまだご存命で、王宮に……!」
そこではっとして顔を上げると、沈痛そうな面持ちをした師走と目が合った。アリスはその師走の顔と、エースに話した現在の国の状況を思い出して、ある可能性に行き当たってしまった。
──カルヴァナ精霊召喚師は元気か?
──ずっと王宮に閉じこもって居られる。
まさかと思いたかった。しかしそれに追い打ちをかけるように、エースの言葉が蘇る。
──それをこれから、君がいったい何者なのか、確かめに行く。
無言のまま師走と見つめ合っていたが、やがて師走の目が瞬時に鋭くなり、アリスの腕を奥へと引っ張った。
「危ない!」
師走に引かれて祠を奥へと入れば、先ほどまでアリスが座っていた付近に丸く穴が開いた。何度も何度も見た、あの襲撃だ。
「……うわぁ、魔法使いも悪趣味だねぇ。俺の家にすらこんなことすんの」
「私が精霊召喚師というのなら、なぜこんなことをするの……?」
「それについてはまた、深い話がある。取りあえずはまあ、陸に戻ろうか。本来ならここは魔力が及ぶところじゃないけど、俺一人じゃ無理みたいだ。近場の誰かを起こさないと、このままじゃあ力が弱過ぎる。祠が壊れても困るしね」
何所かで見た顔だと思ったのは、人霊だったからなのだ。アスルの町の聖堂に人霊十二人の像が置かれているのを見て育ったから、アリスはなんとなく彼の顔に見覚えがあった。しがない見習い召喚師が本人を見るのは、無論初めてのことだった。
その姿は一見普通の青年である。大きな群青の瞳がある顔はすっと細く通っていて、その横に走る紺の髪は少しばかり長く、わざとなのか無造作に伸ばされている。立ったその姿はアリスより少しばかり大きく、すらっとしているのにたくましくも見えた。精霊は神秘的で美しい召喚獣だと聞いていたが、こうして見るとただの端正な育ちの良い貴族だ。
しかし額に埋まる石こそが、彼を人霊であると物語っていた。
12月の彼が持つ石、ラピスラズリ。青色の、この祠の色と同じだった。
外に出ると海がこれでもかというぐらいに荒れ狂っていた。完全にこれには人の手が加わっている、それがあからさまにわかるような荒れ方だった。
「弱者を相手にあいつら、本当悪趣味だねぇ」
師走の言葉は冗談半分のようだったがしかし、口調には憤りが滲んでいた。愚痴をこぼす時間も惜しいというぐらい、もの凄い早さでアリスに何かの術を施した。今のはと訊く閑も与えないほどの素早さだ。
「質問は安全地帯で受け付ける。だから今は取り敢えず、俺に従ってくれ」
口を挟むことも憚られて、アリスはただ頷くに留めた。師走は頷くアリスに微笑むと、アリスの手をしっかりと握る。
「海に飛び込むんだ」
「え……」
この荒れ狂った海を見ていては、流石にうんとは云えなかった。しかし師走は真剣な顔をして続ける。
「君が精霊召喚師なら、俺は全力で君を守る。──大丈夫だ、絶対助かるから」
そう云われてはこの海に飛び込むしかないのだろう。半分はもうやけだ。アリスは頷くと、狂った波の中に身を投げた。