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精霊物語─精霊の目覚め  作者: 痲時
第6章 王太子の奪還宣言
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第34話:再会を果たし


 アリスが飛び起きるように目覚めた時は、まだ夜中だった。

 その事実と、自分の居る場所を思いだして溜め息を吐く。

 少しばかり寒い。本来は今、睦月だから冬の残り香が突き刺す季節である。しかし法術師が天候を操っているから、この寒さは嘘の寒さなのだろう。そう考え出すと、何が真実なのかまるでわからなくなる。アリスは手早く着替えると、廊下に出た。外の空気が吸いたくなり、そういえば屋上があったなと思い付いて、行儀が悪いとは思いつつも、部屋を出て廊下へ出た。




 階段を昇ったところで月明かりに照らされ、踊り場の姿見に映る自分を見つけてしまう。こうして自分を見るのはいつ以来だろうか。ずっと男装して隠していた髪は背中まで伸びており、逃亡生活の所為か少し痩せ過ぎている。だがこれも、すぐに直るだろう。湯浴みの後、女中らが身体を綺麗に整えてくれた。姿見に写る自分は、もう20歳の立派な女性に見えた。そう、まるで自分が自分ではないような。

 姿見には自分の知らない自分が居た。

 部屋から出て来たアリスを見て、人霊たちは唖然としていた。ここに来てから、いろんな人に見られている。新たな精霊召喚師という好奇心もあるだろうが、それとはまた別の面、おそらくリーシュカ・ルヴァガの生き写しとして。──いったいどんな人なのだろうと、初めて血縁に興味が沸いた。




「これはこれは、立派で美しい精霊召喚師の誕生だな」

 思わず立ち止まって姿見の前であれこれ考えを巡らしていたところに、突如声が響き渡る。朗々とした男性の少しばかり低い、しかしよく通る声。アリスが声の方を振り返ると、屋上に続く階段に一人の男が立っていた。彼は暗がりの中のアリスを認めると、にこりと人の良さそうな顔で微笑んだ。

「久しぶりだな、アリス」

「エース……!」

 そこに居たのは、まぎれもなくエースだった。逃げるアリスを海岸まで連れて来た、あのエースだ。城の者が世話をしてくれたのか、無精で伸びていたような髪は長いままだが整えられ、服もくたびれた絹ではなく、新調したらしいシャツとズボンにフロックコートという気軽な恰好だった。印象は変わったものの、少し癖のある笑いと強い光のある桔梗の瞳は間違いなく彼だ。笑顔のまま階段を降りて来るエースに、アリスは飛びつくように向かった。

「無事だったの?」

「悪運が強いらしい、あれぐらいでは死なないさ」

「どうしてここに居るんだ? 怪我は?」

 焦れるように尋ねるアリスに、エースは何がおかしいのか笑いっぱなしだ。そして手を上げたかと思うと、

「上、行かないか。星が綺麗だぞ」

 と階段の上を指される。確かに最初から屋上へ行く予定だったこと思い出し、アリスは承諾し先を行くエースに付いて行った。


「うわあ……」

 外に出てアリスは思わず感嘆の声を漏らす。屋上と簡単にとらえていたものの、それは少しばかり高価な家のものとは違う。城塞の屋上、本来なら戦いのために敵が見えるよう、遠くまで見えるよう作られたものだ。アリカラーナの東から臨むその風景はアリスを魅了する。ちょうど北側の入り口から出て来たアリスたちは、ケーリーンの夜の様子が良く見える。法術の光で瞬くその魔法の町では、三柱が相変わらず堂々とそびえ立ちまばゆく町を照らしている。

「絶景だろう」

 エースは慣れた様子でずかずかと塀の近くまで歩いて行く。夜も更けた町はしんとしていたが、時たまざんっと波の音が辺りを包む。ここからだったらアスルも見えるのだろうかと思ったが、小高い山になっているカーレーンの森に阻まれてそれは叶わなかった。アスルの中心地ミナヅキ地区の精霊城ぐらい見えても良さそうだったが、ここに比べれば精霊城は大したことのない城なのだろう。最もアリスも精霊城は幼い頃一度しか訪れたことがないから、あまり記憶にも残っていない。



 エースは慣れた様子で狭間に座ると、そっと空を仰いだ。危ないと云いたかったが、あまりにも手慣れていてそう感じさせない自然な動きだった。

「おまえとはぐれた後、レイシュの様子を見に行っていたイーリアム兵が通りかかって拾ってくれたんだ」

 さっきの質問に答えてくれたのだとわかるまでに、少し時間が要った。エースをじっと見返すと、

「怪我人だったから」

 そう云って左手首を見せる。簡単に包帯が巻いてあるだけなので、たいした傷ではないのだろう。そのことに安堵してそっと溜め息を吐く。するとエースも静かに息を吐いてから、ふわりと笑ってアリスを見る。

「それにしても、無事にここまで着いて安心した」

「知っていたのか、私が精霊召喚師だと」

「おまえから情報を集めてわかっただけだ。だから祠まで案内しようとした。──まあ俺が行くことは失敗したが、なんとか丸く収まったなら良かった」

 丸く収まったことは収まったが、エースが説明していたらもっと早かったのではと思わないでもない。しかしもう済んだことでもある。それにあの時アリスが精霊召喚師だなんて話をされても、信じることなどできるわけがない。エースの判断は妥当だったということだ。無事会えたという安堵感が優先され、そんなおこがましいことを云うのも気が引けた。



 アリスは師走に事情を聞いて王太子を頼り、ここまで来た顛末を簡単に説明した。思ったよりスムースに客観的な話ができたのは、未だこれが自分の話だと実感できていないからかもしれない。エースは口を挟むこともなく、静かに最後まで話を聞いてくれた。話し終えたところで、またエースを見る。包帯で巻かれている以外は怪我はない。擦過傷程度らしいし、ほとんど無傷と云っても良い。

「無事で良かった。実はさっき、城主に探してもらおうと頼むところだったんだ」

 そう云って話を締めると、エースは驚いたような顔をしたが、すぐに肩を竦めて笑顔を見せた。

「心配してくれたんだな」

「気がかりだったけど、師走が急いでいたから」

「そいつは良い臣下だと褒めよう、俺のことなんて放って良かったんだ。アリスがここに無事辿り着けたこと、今はそのことがこの城を一番に支えているのだから」

「私が?」

 師走にも説明されたことだが、あまりぴんとこない。

 反逆が起きたのだからウォルエイリレンは支持されるべきで、幾ら法的に5年で存在が抹消されるとは云え、それでアリカラーナから消して良いわけでもないはずだ。しかしそれはやはり生温い考えらしく、エースは静かに笑った。

「ああ、王太子が居るというだけでは、たいしたことにならない。4年も国を放っていたからな。信頼はそれなりに落ちているし、かつてから素行がよろしくないと云う反対派も居る」

「それは魔法使い側についている者の云い分だろう?」

「まあ、それはそうだがな……」

 エースにしては歯切れが悪い。なんでも断定的にすっぱりと決めて、どんどん先へ進んで行った時の彼の印象しか知らないアリスは珍しいと思えた。


「私は王太子を信じている」

 そんなエースにアリスがきっぱりと云えば、彼は僅かに顔を顰めた。何を云っているんだとでも云いたそうな、険のある雰囲気だった。

「師走が云っていたんだ」

 ──あいつが玉座に即くことを、俺は結構楽しみにしていた。

「私は精霊召喚師らしい。その臣下である人霊が殿下の話になると、ほとんどが嬉しそうな顔をする。だから私も、その人を信じて手伝いたい。臣下が信じる王を、私が信じなくてどうするんだ」

「4年間国を放っていたことは、気にしないということか。あくまで臣下の忠実さを信じて、王太子につくということか」

 いくらか棘のある云い方であることは、アリスも気が付いた。さっきからそうだ。王太子について話す時のエースは、何所か冷めた口調である。

「そうするしかないだろう。私は今まで王宮に無関係であったから、その場に居た人霊の話を聞いて判断するしかない。でも話を聞くに、王太子は国を放置できるようなお方ではないようだ。理由があったのだと思いたい」

「何していたのか、話を訊くつもりか?」

「どうして聞く必要がある? 何も無心で信じていろというわけではない。でも信じられる主なら、然るべき時話してくれるはずだ。──信じるってそういうことだろう?」

 何かを云う度に反発するその態度は幾らか度が過ぎていたからか、アリスが最後まで云い切るとエースはむっつりと黙り込んでしまった。さすがに機嫌を損ねたわけではないだろうが、こうして黙られると気分が落ち着かない。どうしようかと思っていたら、僅かに息の漏れる音が聞こえてエースを注視する。



 エースは笑っていた。腹を抑えて、突然それとわかるほどに笑い出した。あまりにもそぐわない唐突な笑いに、アリスはぽかんとするしかない。そんな彼女を見て悪いと思ったのか、腹を抑えながらもエースは済まないと連呼する。

「本当アリスはおかしな奴だな」

「……別に笑わせようと、おもしろいことを云った覚えはないんだけど」

 やけに達観した冷ややかな意見を次々と放り込まれて、アリスは緊張の中に居た。エースは王都で働いていたということしか知らないが、その分王太子には何か思うところがあるのかもしれない。王都で働いていて突然の失踪。そして4年の沈黙を破って今この城に助けを求めた。謀反など知り得ないで王に仕えていた者たちにとって、それは裏切りと同義だ。幾らでも対処の使用はあったであろうに、王太子はそれを放棄して逃げた。



「エースはいつまで居るんだ?」

 ふと気になって、アリスは思い付いたままのことを尋ねる。さすがに不躾だったかと思ったが、彼は気を害した風もなく、腹を擦りながらうんと頷く。

「取り合えず、宿泊代は払わないとな」

「イーリアム城を手伝ってくれるということ?」

「もちろん、イーリアム城には尽くす。まあ口煩い城主様からは何もするなと云われているが、たまには仕事をしたって良いだろう」

「イーリィが?」

 予想外だった。彼ならエースのような人材を放って置かないと思ったのだ。ただでさえ人が居ない時に、おそらく剣の腕も立ち国内状況にも詳しい者が転がって来たのだ。エースには悪いかもしれないが、使いたいと思う気持ちはわからなくない。だがしかし、エースは気にした風もなく、ちょっと笑って肩を竦める。

「俺が動くと面倒になると充分承知してるからだろう、昔っからそうだった」

「イーリィを知っているの?」

「え、ああ。前城主と一緒に王師試験を受けに来た時に初めて会った。随分と若い城主で驚いたものだが、あの性格だからな。その後からずっと腐れ縁だ」

 エースはそれから少し云い難そうに苦笑して、

「そもそもイーリィ・マケルを知らない貴族なんて、この国には居ないだろう。とぼけた生真面目顔をしているが、尋常ではない若さで城主になったんだ。幾ら先代からの推薦だったとは云え、それなりの人格者だとわかる。西方のカーム領主アクラ・ロスタリューは正体不明の所為かあれこれ囁かれるが、イーリィはここで生まれここで育った。それだけに周囲は優しい」

 批難されているわけではないだろうが、エースはさも当たり前のように云った。アリスはこれまで道すがら人霊に協力してもらって、ゼロだった知識をどうにか10ぐらいまで上げたつもりだ。それでもまだまだ、勉強することは山積みで、事実もっと知らなければならないと思う。


 だがそれは、アリスだけの所為ではない。

「おまえが国政に詳しいのと、私が無知なのは五分五分だと思うが」

 エースは無知なアリスを莫迦にした話し方を、一度たりともしなかった。ただ純粋に知らないことを驚いているようで、そこに既に誤差がある。しかしエースはそれだけではわからないようで、ふと笑みを消してアリスを見つめ続ける。

「庶民の国政に対する興味なんて、私ぐらいだと思う」

 実際にそうだ。今までのアリスが知っている「偉い人」というのは、精霊城のアエデロン・ルカナンだ。それ以上だと良くてルウラ・ルア。もちろんこれはアリスが召喚師見習いであったからだが、これが通常の人間であったとしても、当て嵌まる人が変わるだけでレベルは同じだ。最終的の国家権力として「王」が出て来るのは、もっと上だと云われるまで気が付かない。


 尚もエースは不思議そうに尋ねて来る。

「でも学校でやらなかったか? 政治学とか、教養には入っていないのか?」

「え、ああ、うん。召喚師学校はほぼ実技ばかりで、召喚師になるための勉強だけだ」

 なんと云ったって召喚師学校は安い。それだけ中身が絞られている。目的は召喚師にさせることであって、ほぼ実技だ。学科は精霊城のことやら、アスルのことやらと、やたら召喚師の現在ばかりで、人間や他の術師に目を向ける閑はない。その他国のことに関しては、自分で勉強しろということなのだろう。

「普通の学校とは、訳が違うよ」

「召喚師専門なんだな、本当に」

 やはりエースは知らなかったようで、純粋に驚いている。反対にアリスは、云っておきながら難だが、普通の学校というものを知らない。アスルには召喚師学校しかないし、隣町へ行くこともなかった。普通町には幾つかの学校があり、あらゆる分野に分かれているそうだが、生まれてから術師の道しか歩いて来なかったアリスには、人間の当たり前がわからない。

「そういうエースは、習ったんだな」

「え、ああ。俺はいろいろな学部をあさったな。通わせてもらえるんだ、素直に知りたいことをたくさん学んだ。──あの頃は……その、学院しか居場所がなかったから」

 エースの声が萎んで行き、ふと翳りを見せる。彼のそういう顔は初めて見た。 難しい顔をしたり、考え込んだりはしていただけに驚きも増す。


 しかしそれよりも何よりも驚かされたのは、

「学院?」

 声をひっくり返すほどのことだったのに、エースは逆に不思議そうな顔をする。

「ん? 知らないか、ルジェを。ルジェストーバ王立が……」

「し、知ってる! それは知ってる!」

 思わず慌てて訂正するが、尚もエースは困惑したようだ。


 アリカラーナで「学院」という言葉に当たるのは、ただ一つしかない。ルジェストーバ王立学院。それは王都トゥラス領の南をほぼ占領する形である。王や王族、王宮貴族が通う典型の王立学院だ。王都の貴族だって全員が通えるわけではない。金だけでも名だけでも許されないその関門を抜けるのは、なかなかに難しいと聞く。アリスからすれば雲の上のような、そんな学院の名前をけろっと出された。エースの身分が高いことはわかっていたが、まさかそこまでだとは思っていなかったというのが正直なところである。飾ったところがまるでない、無知なことを莫迦にされもしなかった。そんな印象から、エースを安く見積もっていたのかもしれない。

「エース……、おまえここに居て良いのか」

「何を云い出すんだ、突然」

 エースはアリスの豹変ぶりが、本当に不思議そうだった。周囲にはルジェストーバに通った人間しか居らず、他を知らないのかもしれない。こうやって人の世界は遮断されるのかと、おかしなところで納得してしまう。

「ごめん、素直にルジェストーバに通えるほどの偉いと思っていなかった。雲の上の人だったんだ、エースって……」

「そういうアリスだって、今じゃ雲の上の人だろう。それに代々ルヴァガ家はずっとルジェに通って、好き勝手な勉強をしていたらしいぞ」

 エースは笑いながら云うがしかし、アリスには何が可笑しいのかわからない。ルヴァガは失われた召喚師5家だとは知っている。だがアリスは未だ、ルヴァガという姓がそこまで高位だったことを納得できていない。しかし今の一言で衝撃を受け、実感も少しだけ沸いた。それだけルジェストーバが、庶民と呼ばれる存在にも価値がわかるぐらいに高いということだ。もちろんそれは自分と切り離されたところでではあるが、ほんの少し実感する。


 妙なところで落ち着いたアリスとは逆に、エースは困ったように慌てている。

「そんなに驚くようなことだったか? 済まない、黙っていて悪かった」

「軽く接していた私が許されない気がする」

「俺が構わないんだから、そのままで居てくれ。俺は堅苦しいのが苦手なんだ」

 あまり慌てた素振りを見せない人が少し動揺しているのを見て、アリスは思わず笑いそうになる。エースでもこうやって戸惑ったり困ったりするのだと、なぜか安心できたのだ。

「昔からよく云われたんだ、リーやイーリィを見習えと。俺には無理だ」

「リーって……」

「ああ、今じゃあ次期王候補のリレイン・シルク=ド・シュベルトゥラス。人霊から聞いていないか? 生真面目で頑固で、イーリィみたいな奴だ」

「……シュベルトゥラス子卿とも知り合いなの」

「ああ、大事な友人だ」

「じゃあ殿下とも知り合いなの?」

「──そうだな、話の前提をまず云っておくべきだった」

 エースが詳しく幾つなのか知らないが、学院ならば会うこともあるだろう。だがあまりにもレベルの高い話に付いて行けない自分と、それをなんとも思っていないエースに理不尽なもどかしさが募る。せっかく今落ち着いたというのに、エースには事の重大さがまるでわかっていない。


 頭の中で話を広げていたところに、エースは狭間から立ち上がると、居住まいを正してアリスを見る。身奇麗になったからかレイシュ町で会った時とは雰囲気が違う、町に居る気易い青年になっている。

「アリス、挨拶が遅れてすまない。知り合いというか、俺がその当人だ」

「え……?」

「俺はウォルエイリレン・エース・イシュタル。4年間国を放置した、王太子本人だ」

 気易い青年エースは今までとなんら変わらない調子で、そう自分の名を紡ぐ。ざばんとまた波の音が遠くで響いた。

「……エースが?」

「ああ」

「王太子殿下?」

「信じられないか?」

「──うん……あ、いや、そういうわけじゃあなくて」

 アリスが動揺して云うのに、エースはくすくすと笑う。

「無理もない。悪いな、城塞に戻ってからは隠すつもりもなかったんだが、今日は会えなくて話せなかった。まさかこんなところで会うとは思わないからな、最初の話の流れで云うタイミングをまた失った」

 すまないと繰り返し云うものの、頭はそう簡単に事実を受け止めきれない。つまりアリスが信じきっていたエースという男がアリスの探すべき主だったわけで、それは結局、今まで信じてきたものを裏打ちしただけに過ぎない。


 ──必ず迎えに行く。

 そうか、もうこれ以上延ばすことなどできないのか、と思い至る。初めてエースに会った時はもちろん、疑心暗鬼の塊で誰も信じることができなかった。だがこうして再会し思い返せば、あの旅の間、アリスは久しぶりに少しだけ心に余裕が持てた。あの時はあまり感じることができなかったが、人を疑って逃げてばかりいた醜い自分の皮が少しだけ剥がれたきっかけだったのかもしれない。

「……そうか」

「アリス?」

「あ、いや、ありがとう。教えてくれて」

「そこは黙っていたことを怒るところじゃないのか」

 くつくつと笑うエースを見て、アリスはしかし怒りなどもちろん沸かなかった。ルジェストーバ王立学院に通うほどの貴族というので衝撃が抑えられていたのか、ただ単純にすとんと納得できた。それと同時にアリスは、彼の臣下になることを決めた。人霊から聞いた話だけではない、エースならば従おうというそれは、アリス自身が決めたことだ。そのきっかけは本当に小さなものだったのかもしれないが、積み重ねた小さな欠片が重なった結果だ。


「いや、教えてくれたから覚悟ができた。無力な私でも、エースの力になれることがあるならやらせて欲しい」

 王太子殿下の下で働く。そう云ったら、ダークはどんな顔をするのだろうか。そんな不安が過るもののそれだけだ。不思議と精霊召喚師をやめようとまでは思えない。むしろ精霊召喚師で居させてもらえるのだろうかという不安の方が大きいかもしれない。


 エースは笑い顔を引っ込めてアリスを真っ直ぐに見て来る。その桔梗の瞳の強さに、不思議な力強さを感じる。この人が人霊の信じる人なのだ改めて実感する。


 しかしエースは私に答えることをせず、唐突にアリスの手を引いてしげしげと指先を見る。

「怪我はこの程度、か。──本当に、よく無事だったな」

「え?」

 云われて初めて、指先に擦過傷があることに気が付いた。だが痛さもない。傷に気が付く前に治ってしまいそうな、簡単なものであった。

「ああ……、気付かなかった」

「人霊が治したんだろうな、彼らは主を守るための力を持っている。──もう、無茶なことはするなよ」

 じっとその桔梗の瞳に見つめられて、その瞳に動揺する自分が映っているのがわかるぐらい近い距離で、エースは声を絞り出した。そこでようやく、大河での一件を云われているのだと気が付いた。

「……知って、いたのか」

 エースの言葉の強さに気圧されて、アリスの声は少しだけ掠れた。

「ああ、おまえが飛び込んだ後、大河をさらってやろうかと思った」

「……ごめん」

「せっかく助かった命なんだ。もう無茶はしないでくれるのなら、それで良い」

 エースは今度、そのまま静かに笑う。こんなにもころころと表情の変わる奴だったかと、数箇月前の彼を思い出そうとしたが、なかなか記憶は曖昧で出て来てくれない。


 手がそっと離され笑顔が見えると、今までの緊張がようやく解ける。

「アリスにもうああいう危険な目に遭って欲しくはない。俺の力になると云う言葉をくれただけで、俺は充分だ」

「それは……臣下としては無理ということか……?」

「いや、俺自身矛盾していることはわかっているんだ。──俺は何がなんでも王宮に戻らなければならない。だからそのために力を貸して欲しい。これからよろしく頼む、アリス」

 そう云って頭を下げる姿は、間違いなくレイシュ町で会ったエースそのものだ。王太子とか、次期王とか、そういったものを超えて、ただ一人の青年が、アリスの信じられる青年がそこには居る。

「こちらこそ……よろしくお願いします。王太子殿下」

 なんとなく照れくさいままに頭を下げると、ふっと小さく笑う声が聞こえた。

「ありがとう。──アリスには頼みごとがたくさんだ。無茶はしないこと、人霊を頼ること、そしてアリス、できれば俺には気軽に話してくれないか?」

「え?」

「あまり難しいことを考えないで、俺と今まで通り接してくれないかと思ってな」

「えっと……でも、良いのか?」

 臣下としてなら流石にそうもいかないのではというアリスの疑問に、エースは空を見上げた。

「あそこには何もなくて良いよな」

 と星を見つめながら呟く。アスルよりはあまり綺麗に見えないが、それでも冬の澄んだ空に輝く星々たちはとても美しい。転々と輝くあんな綺麗なものが死んでしまっているなんて信じられない。

「たまに憧れるんだよ、そういうものに。だからできれば、そのままで居て欲しい」

 そう云いながら視線をアリスに戻すエースの表情は、何所となく儚げだ。なぜそう思ったのかわからない。笑ってはいるがでも、何かを堪えるような、諦めるかのような。

「うん……エースが良いのなら」

「助かる、ありがとう」

 痛々しそうな表情に釣られて返事をしてしまった。だがいきなりかしこまるのも無理な気がして、アリスはひとまずエースの望むとおりにできることをしようと思った。王宮に着いてからは臣下の分をわきまえなければならないが、それまではエースの厚意に甘えさせてもらおうと。

「アリスには本当に、感謝しているんだ」

「私は何もしていないんだけど」

 とアリスは断ってから、

「エースがそう思ってくれているなら、私はエースに会えて、精霊召喚師になれて良かったと思う」

 エースは虚を突かれたかのように、目を丸くしてアリスを見ている。


 きょとんとしていたエースは、ふと力を抜くと先ほどの良い笑みで答えてくれた。

「やはり俺は、おまえに感謝するよ、アリス」


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