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精霊物語─精霊の目覚め  作者: 痲時
第5章 如月の目覚め
31/37

第30話:あるトゥラスの入退場


 久しぶりにスティーク・ド=レス・ダカンタトゥラスが領地へ戻ってみれば、そこには難しい顔をしたグラン=クレナイが居た。たくさんの書類を抱え込んで、次へ次へと回す。その間ずっと、顔を顰めたままである。

「どうかしたのか、グラン」

「──当主」

 どうやら本気で帰宅に気が付いていなかったらしく、書類を持ったまま彼はこちらを向く。クレナイともあろうものが、堂々と帰って来た主に気が付かないとは、相当なことである。減給してやろうかとすら思うが、それを口に出す優しさはスティークにない。今まで書類に対して眉間に皺を寄せていたが、対象を変化させスティークをねめつける。

「どうした、珍しく怒ってるな」

「大変怒りを感じ、さらに困っております」

「そうかそうか」

 いつものことだ、と思いながら執務室に入り、スティークは長椅子に座った。行儀良く、というのはこの男の中にはない。どんと長椅子の上に足を乗せるその姿は、呆れを通り越して感動さえする。ここが執務室でありグランの持ち部屋だということも、彼は気にしていない。悔しいのはおそらく、その紳士とはかけ離れた座り方でも、美しく見えるからだろう。未だスティークは年齢を当ててもらったことがない。餓鬼臭く見えるヴァーレンキッドほどではないが、どうやら外見年齢は不詳らしい。すらりと細身の身体に白い頬の横には明るく長い青の髪を真っ直ぐ垂らし、目は柔らかく瞳は乾いたしかし暖かい赤朽葉。朱の薄い唇を寄せて笑えば、淑女はたくさん付いて来る。その点に付いては、スティークも雲の上のような父母に感謝している。



 だがしかしその美しい見目など、見飽きている侍従は気にも留めない。というよりも、その白い顔を壊してやりたいとすら思っているだろう。

「王太子殿下が行方不明でした」

「それは聞いた」

「聖職者が離脱しました」

「それも聞いた」

 領地に帰るのは随分と久しぶりだが、まさか4年も帰っていないわけではない。聖職者の話は大きな話題となっていたから、酒場で飲んでいれば嫌でも聞こえて来る。

 既に周知の事実を伝えてもグランは平然と流して、

「王太子殿下が帰還なさいました」

「──あ? そうなんだ?」

 初めての情報に思わず驚いてやる。だが、と彼は思う。それは既に予想の範囲内だ。子どもは嫌いだが大人になった彼は嫌いではない。だいたいに置いてスティークの好き嫌いの判断は簡単で、指図する人、放任してくれる人に分かれる。当然、指図される方が嫌いだ。嫌いというと軽い。大嫌いだ。その点、自由奔放に今まで暮らして来られたことには、本気で嬉しく思う。


しかしそれを許してくれないこの現状は、スティークを苛つかせるだけだ。

「王都は派閥争いで、こちらも呑み込まれそうです」

「俺を頼るかぁ?」

 スティーク・ド=レス・ダカンタトゥラス。安寧王12番目の子どもにして、御年43を迎えるも未だ独身。麗しい見目、冴える頭脳、そして末の3兄弟とまとめられるにしても立派な王と王后の息子である。ここまでくれば、貴族は放って置かない。幾ら年齢が上でも、我が家を格上げしようと掏り寄って来る。しかし繰り返すが、スティークは自由を奪われることが大嫌いなのだ。それこそ殺してやりたくなるほどに。


 自分は壊れているんだとは思う。王族という元から奇特な連中の多い中で、一番ぶっ壊れている。その壊れていると思う歴史の中で、一度だけ大事になったのはとある貴族といつの間にか結婚することになっていた時である。大暴れして事件を起こしたその日以来、ダカンタトゥラスには誰も寄って来ない。父たる安寧王ではなく、おそらく兄のガーニシシャルが片付けたが、とにかく静かになったのは嬉しい。壊れた男は、自分だけで良い。

 おかげで今は自由を勝ち取り、淑女との交遊に忙しい身の上だ。まさか誰かがスティークに近寄るなどとは、思いもよらなかった。



 ダカンタトゥラスの自由を奪ったものは、地獄を見る。だからこそ、ダカンタトゥラスを頼って来るとも云えるだろうが、それは命知らずだけだ。


 しかしそんな不満など気にもせずに、侍従は涼しい顔をして続ける。

「きっとこの波に乗って昇進しようと云う輩は、どんなに愚かで壊れている迷惑な男でも、一応はトゥラスだから頼りたいのでしょう」

「おまえどさくさにまぎれて凄いこと云ったな」

 自分を愚弄されることは別に嫌ではないので、とりあえず笑っておく。グランは相変わらず、スティークという男を理解してくれているから気楽で良い。

「それで、おまえの判断は」

「日和見でした」

 鬱陶しそうに、彼は云う。本当に煩わしいのだろう。

「平和なことだ。しかしその理想が、誰によって崩されたんだ?」

「もちろん王都の貴族ですよ、外堀の。──どなたの所為かおわかりですか」

「おっと。まさか俺の子どもでも連れて来たとか云うなよ」

 散々遊び歩いているスティークのことを知っている輩は、つけ込んで子どもができたと訴えて来たりもする。しかしスティークはそんな簡単なミスなどしない。そこまでして女と遊ぶスティークにグレンは呆れているのか諦めているのか、深々と溜め息を吐きながらも、顔はいつも通り涼しそうに平然としている。

「そういう莫迦なお話ならたくさん来ていますが、生憎断れない私ではありません」

「そ、なら助かった。──美しい淑女が俺を待っているのだから、余計な傷は止めて欲しい」

 自由の身で遊び歩くのは気分が良い。人に縛られず適当に歩けるこの身体が最高に好きだ。


 グランのことだからおそらく、容赦のない断り方をしているはずだ。それを彼自身、楽しんでいただろう。しかし十年来の侍従は、とうとう厭きたようだ。

「いい加減つまらないその胡散臭いごっこ遊び、せめて私の前だけでもやめたらどうですか」

「いやーあと少しは続けないとね、クルーフクス兄さんの知恵でも戴いてこようか」

「生憎と我が当主にクルーフクス様のような知恵は付きません。そもそも御子は嫌いなのでしょう? もう欲しくないと仰っていたではありませんか」

「ああ、嫌いだ。だが、俺は餓鬼が嫌いなだけで、でかくなったら人によるぞ」

 それぞれ違う女との間に6人の子どもをもうけた、兄のクルーフクスだって充分におかしい。だがクルーフクスとスティークの分かれ目は、子どもが目の前に居ることと居ないことだ。その差は結構大きい。

「ならそろそろいい加減、方針を決めてくださらないと、私が適当に牛耳りますよ」

「それは怖い」

 冗談で云っているから今は怖くはないが、この男が本気で動いたらそれはそれで怖い。グランはぶっ壊れたスティークの侍従だが右腕でもある。充分に壊れている。あの優秀な暗殺者カロイヒ=クレナイの弟子なのだから、壊れているのも当たり前かもしれない。




 ちらりとグランを見れば、相変わらず涼しい顔をして主を見返して来る。

「どうかなさいました?」

 どうもこうも、今謀反の話をしていたのは誰だと云いたくなる。グランに裏切られたら死ねるのかなと考えたこともあったが、たぶんこの男は簡単に死なせてくれないだろう。間違いなく、今までの恨みつらみを込めて惨殺されると確信してからは、そんな莫迦なことも考えなくなった。


 ふんと笑ってから、スティークは話を元に戻す。

「どうせ他のところも日和見なんだろう?」

「さあ、すべて申し上げた方が良いですか」

 頷いてみせると彼は机の上を引っ掻き回すこともせず、諳んじてみせた。

「アランダ、バーテンの二家が今のところ殿下に回っています。シュベルとランディがリレイン様。ガーデンは行方不明。アルク、セラネーは不明。ショウディ、シャンラン、イリシャンが日和見。そしてエリングとパルツァンは、相変わらず無言のままです」

「意外だなぁ、リナリーティーシア姉さんがねぇ」

 美しいと評判であった腹違いの姉を思い出す。それまで王家の花であったレディアナも、彼女が生まれた途端墜落したほどだったと聞いている。腹違いだから手を出しても良いだろうかと云った時は、にっこりと笑って平手を喰らわせられた。そして夫のアサジークはいつものんびりとしているが、やはり笑ったまま言葉で殺された。

 もちろん、若い頃のちょっとしたやり取りだ。

 以来スティークもすっかりお気に入りであるアランダトゥラス夫妻の子は、残念なことに両者とも男だった。リナリーティーシアに似て綺麗な息子だが、スティークが求めていたのはリナリーティーシアに似た綺麗な娘である。



 そんな彼らを、グランも評する。

「根が正直な方です。王后の御子ではありませんが、トゥラスとしての後ろ盾は立派にありますから、揺らいでいる貴族も居るようです」

「そうか。──と云うか、アルクトゥラスが不明ってどうなんだ?」

 あの堅物シャルンガーとスティークは、そりが合わないようでいて合っている。王は決して潔白では居られない立ち位置だ。そして裏で汚いことを代理に請け負って来たのはスティークである。王であった兄が好きかと問われても、今は頷けないが嫌いではない。忠誠の気持ちだけでやって来れたわけではないが、それがあったからできた仕事でもある。もちろん定成王が亡くなってからは、その仕事もぱったりと途絶え放蕩三昧できる。

 そう、ある意味で自由、ある意味で縛られたまま。好きかと問われても、今は当然頷けない。


 進むべき道は逆方向ではあるが、忠誠の向く先は同じである。

「ローウォルト様に付く者が居ないのは、アルクトゥラスの意思がわからないからです」

「アルクトゥラスは当然ウォレンに付くだろう?」

「当主のメイリーシャ様はなんとも返事をしておりません」

「──お、そっか。あのメイリーシャ嬢が当主だったな」

 あまりに唐突で正式な形で行われなかったために、まだシャルンガーを当主だと思っている貴族が多いものの、実際は娘のメイリーシャに譲渡されている。王宮貴族だと云うのに奇人変人と忌ましめられてきたルダウン=ハードク家の地位は、格別に上がったことだろう。こうなることが既に予想の範疇内だったのかは不明だが、おそらくあの変人一家は何も考えていないに違いない。当主の興味は庭いじりだけである。

「ダカンタトゥラスの意思は決まりましたか?」

「んま、当分は日和見組に入れさせてもらうよ」

「おや、意外ですね」

 そう云いながらも、ちっとも意外そうではない。壊れた2人組のダカンタトゥラスが動けば、この面倒な状況は簡単に終わりを迎える。スティークがウォレンに旗を揚げれば、エリンケも諦めるだろう。諦めずともスティークとグランが強硬すれば、エリンケを含めた法術師ほとんどが死んで終決が来る。これにウォレンと彼の侍従を加えれば、百発百中、全員が死ぬ。完璧だ。


 しかしこれは、国民が居なければ、の話である。


 国というものは当たり前だが、国民というものから成り立っている。無為な殺戮を行なって王位に即けば、その後の政権が成り立たなくなる。ここはアリカラーナで暴君は必要とされない。西大陸ではないのだ。あまりに無理なことをすると、アリカラーナは滅んでしまうだろう。

「ちょっと不穏な話を小耳に挟んだんだ。気は進まぬが、会って来るさ」

「何所へ?」

「すぐそこ、セラネートゥラスまで」

 後ろ暗い話を聞いた。こういう話を聞くと、自分の出番かと思う。<クレナイ>に依頼するまでもないものは、スティークがやることだ。これは別に強制されているわけではない。やりたいからやる、それだけだ。



 軽くこの間仕入れた話を説明してやると、グランは興味を持ったようだった。

「気が進みませんか、テーズランド様がまだ領地にいらっしゃいますが」

「──すぐ行って来る。戻るのは遅くなるかもな」

「止めてくださいよ、また姪っ子に手を出すのは。外聞が悪くなる一方です」

 引っ掛けておきながらそんなことを云うのだから、グランもグランで共犯だ。しかしそのグランも、流石にテーズランドのこととなれば声色が変わる。テーズランドはセラネートゥラス四姉妹の中で、一番美しく聡明と云われる娘であったが、なぜだか嫁には行っていない。スティークは理由を知っているが、何所で諦めたのかまでは知らない。おそらく彼女は、なんにも行動していないのだろうが、それで良かったとも思う。

 父親に似ず、四姉妹はみんなばらばらの性格をしながら自我を貫き通している。

 そしてその四姉妹を、グランは表向き口にはしないもののかわいがっている。告白もせず失恋し家に留まり続けるテーズランドは、特にだ。

「はは、まあバラスター兄さんがそう簡単に娘を差し出すはずもないだろうが。あ、でもトゥラスの特権で三親等は結婚できるんだぜ」

「いえ、問題はそこではありませんから。それよりもちゃんと道を進んで行ってくださいね。また領内を勝手に通行したとリナリーティーシア様より批難が来ては困ります」

 既にグランも突っ込みどころを失い気味である。まったく白々しいことこの上ないが、今さら軌道修正することもない。笑い話に仕向けたのはスティークで、それに従ったのはグランだ。ダカンタトゥラスらしく、歪んだしかし壊れることのない主従関係である。




 スティークがぽんっと勢いを付けて立ち上がると、グランもとんと書類をそろえる。どうやら話しながらもきちんと仕事をこなしていたらしい。まったく優秀で泣けてしまう。

「アカツキは? 見つかったのか?」

「──いえ、依然として行方がわかりません。東雲しののめ国からは流石にもう帰って来て居ると思いますがクレナイ本家筋がだんまりなので、少々怪しいかと」

「あーあーあーあー、面倒だねぇ」

 グランは心配そうな顔をするが、それはおそらくもう一人の主を心配してのことではあるまい。会いたいことは会いたいのだろうが、彼が何所かで死んでいるなどという、まったくもって有り得ない想像はできない。それは連絡がないことに対して、姿を見せないことに対しての不安だ。


 だが考えたところで仕方あるまいと、仕舞いにグランも肩を竦める。

「もしかしたらまだ向こうかもしれませんし、案外楽しくやっているのかもしれません」

「あっちの姫さんと?」

「この間のゲームで女王になったそうです」

 グランはやんわりと訂正しながら頷く。

「あれ、また動いたわけ」

「6年前にマスターが東雲に渡ったのは、彼女が女王になってしまったからなんですよ。スートが替わる前にゲームに参加してエースになろうとしたらしいのですが……」

 そのまま帰って来ない、そういうわけだ。異国のおかしなルールのことなんてスティークには無関係だが、グランはクレナイである限りそれに縛られることになる。そして彼はクレナイだけではなく、スティークにも縛られている。それは彼のもう一人の主にしろ、同じことなのだ。


 だからこそ、自分で云っておきながら、その言をまるで信じていない。この状態で彼が静止しているなど、ましてや遊んでいるなど有り得ない。アカツキ=クレナイだったらともかく、表の人間としては、このアリカラーナの現状に出て来ずには居られないはずだ。



 あれこれ考えていると、グランがそれより、と割って入る。

「そちらこそ、見つからないようですね」

「……そうだなぁ、見つからないなぁ」

 スティークは質問の意味を理解し、深々と息を吐きながら返す。グランはそうですか、と云ったきり何も続けようとしない。そう簡単に見つかるわけはないとわかっているために、それ以上何も云わない。期待を持たせるようなことを云ったところで現実はどうだかわからないし、スティークの捜し物は、おそらく一番見つけるのが難しい。かれこれ20年近く一緒に捜してくれているのだ。グラン自身、身にしみてわかっているだろう。情報力が命のクレナイの力を持ってしても見つからないなんて、飛んだ宝探しだ。

「最強だよ、兄上は」

 死んでしまっても、勝てない。それを強く思う。グランは何も答えない。グランはガーニシシャルと面識がないから、答えようもない。


「どうします、ご当主」

 グランは自分から振っておきながら、話を元に戻す。確かにダカンタトゥラス当主唯一の目的について、相談するのは莫迦けている。今さら話し合ったところで、解決する問題ではないからだ。ダカンタトゥラスの道。面倒だなと思う。代替わりは相当先であろうし、スティークはおそらく死ぬまでダカンタトゥラスの当主だ。

「まあさ。こちとら手を出す必要はあんまりないかなとは思っているが」

「殿下が王位に即かなかったら手を出す、と云うことでよろしいでしょうか?」

 頷いてスティークは伸びをする。


 所詮、事はそうなるのだとスティークは思う。ウォルエイリレンは王になる、そういう風に既に仕組まれている。だから余程のことがあって路線変更しない限り、スティークが手を出す必要ないだろう。


 清々しいほどの光を浴びながら、ダカンタトゥラスは遅れに遅れてようやく動き出した。それも、この話には関わらない、別の方向へ。かくもそれがいつしか交わってしまうことになるとは、この時誰も気が付かなかった。


・・・・・


 ──大学部在学生へ通達。

 事情によりルダウン=ハードク教授の講義等は一切休講。またルダウン=ハードク教授室の者は、書簡にてやり取りを行なうこと。書簡は学院の特急で送る故、必要あれば事務室へ来ること。それ以上に必要なことがあれば、事務室まで来ること。



 ダズータ・バルクオリンズがその書類を掲示して、既に一週間ほどが経つ。観劇科教授バックロウ・ルダウン=ハードクの不在を受けて、大学部校長のサルーはてんてこ舞いになっていた。殺到する生徒に事務の者がサルーに泣きつき、そしてサルーは理事へ救いを求めるのだ。

「バルクオリンズ理事……」

「悪いが我慢してくれ、ルダウン=ハードク教授をここに置いておくわけにはいかなかったのだ」

 おそらく手ひどく攻撃されたがために、アルクトゥラスはと云えど立場的に辛くなるだろう。いきなりの後継だった上、田舎から出て来ないトゥラスは、シャルンガーが引っ込んでしまってからまるっきり認められていない。メイリーシャはたぶん、それに堪えられるであろう。トゥラスらしい、我の強い娘だ。だがしかし、バックロウ自身が堪えられない気がした。あの気丈なバックロウがあの一言だけで、あれだけ落ち込むとは相当なものであったから──。



 サルーは軽い溜め息を吐いたが、すぐに失礼しますと出て行った。彼は有能だったが、このルジェストーバで地位を捨てることができない一人であった。今もおそらく、混乱の中であろう。もちろんウォルエイリレンに付くことは決定事項であるが、シュベルトゥラスとしてのダズータと、理事長としてのダズータを線引きできない。それでいてバックロウの不在で学院は大変なことになっている。彼の悩みもわからなくはなかったが、ダズータとしてはこれぐらいのことで揺らぎたくなかった。




 サルーと入れ替わるように、アサジークが入って来た。

「お邪魔でしたか」

「いや、大丈夫だ」

 座ったままダズータが答えれば、疲れているようですねと心配をされる。苦笑するしかない。元々こんな面倒を背負い込むのは苦手だったのだ。研究にのめり込むあまり、周囲にも過度な期待を求め過ぎてしまった。結果気が付けば理事長まで駆け上がり、ルジェストーバを治めている。人生はままならない、だからこそ楽しい。義弟ヴァーレンキッドが云っていたが、なるほどと実感する。


 アサジークは失礼しますと声をかけると、応接用のソファに腰掛けた。ダズータも自分のデスクから離れ、飲み物を用意するとアサジークの前に腰を下ろした。理事長たる権力者を前にしても、流石に彼は慣れている。ありがとうございますと、素直にカップを受け取った。義弟という仲だからというだけではない、なかなか貴族が簡単にはできない行動をしてくれるから地位にこだわらない学園では頼り易かった。

「そう云えばこの間、ギルドさんが来た様ですね」

「──ああ、見ていたのか」

「入ってはいけないかと思って、黙っておりました」

 王太子殿下と共に行方不明なったガーデントゥラス夫妻は、真っ先に王太子の行方を知っているのではと目を付けられた。その所為で前カーム領主ギルドバードの後を継いだアクラ・ロスタリューも、相当な被害を受けたはずである。ガーデントゥラスの一人娘であるディーミアムはなんとか通常通りの学院生活を送っていた。


 しかしたまに領地に帰って来る彼らを捕まえた時には脱力したものだ。面倒だから、逃げたのだと。<酔狂ガーデン>とは王族を随分と蔑ろにした、 下手をしたら侮辱罪に当たるような渾名だが、的を得ているような気がする。


 当主レディアナは王位目当てで近寄って来る相手があるならば、容赦なく殺すとまで云い切った。それほどまでに、そういった関係を持ちたくなかったのであろうが、まるで子どもの云い分だ。以来やはり酔狂だと放置されていて、今もまだ何所に居るのかわかったものではない。たまに領地に帰って来ているようだが、あまり表沙汰にはして欲しくないらしい。そしてなんとかトゥラスとのとっかかりを見つけようと必死な貴族は、彼らを追い回しているらしい。どっちもどっちで、正直気が抜ける。


 この間現れたのは、そんなガーデントゥラスの婿ギルドバードとその娘ディーミアムである。

「あいつも抜け目ないな。高等部のルージン校長だけに話を通そうとした」

 云って簡単に経緯を話してやる。事は卒業を今年に迎えたディーミアムが、休学にしたいと云ったことから始まる。いったい何事かと思ったが、ディーミアムにも殿下帰還の連絡は行っていた。そしてもし殿下が帰還されるのならば、その力添えになるために休みたいと。そのためには親の了承が居るからと突っぱねた。何もウォルエイリレインのために後少しの学院生活を無駄にする必要はない。そのための方便だったのだが、ディーミアムはしっかりと父親を捕らえてやって来た。ダズータは約束を違えることもできず、仕方なしに許したがあまり納得もしていない。


 聞き終えたアサジークもへえと頷いておきながら、納得はしていないようである。

「ディーミアムが休学、とは。何をさせるつもりなんでしょうね」

「知らないが、しかし今回はディーミアムの意志が先だったからな」

 流石の酔狂でも、娘を面倒に巻き込むつもりはなかったらしい。だからこそ彼女だけは学院に通わせていたのだ。それを卒業間近になって引き止めたのは、他ならぬディーミアム本人に他ならない。ならばダズータも尊重してやるべきだろう。



 だがしかし、ギルドも落ち着かない男だ。

「まったく、領主の癖が抜けないな。エトルと仲が良いというのは本当なのかね」

「それは本当みたいですね。そもそもガーランダ・エトルも、情報収集にかけては天才です。ギルドさんを見て学んだらしいですよ」

 西と東の領主でいったいどのような関わりがあったのか、詳しいことは知らないが悪影響だ。別にギルドが嫌いなわけではない。むしろ好きな方だ。だが何を考えているのかまったく明かさない点では、こちらを苛つかせる。まるで本当の弟を抱えたような気分になる。




 溜め息を吐くダズータに対してやんわりと笑ったアサジークは、手渡されたお茶を静かに飲むとことんと音を立ててカップを置く。それが合図だったかのように、ふといつもの生真面目な顔になってダズータを見遣る。

「どうするのです?」

「何がだい?」

「この間、キッドが云っていたことですが……」

 それが本題だったらしいと、遅まきながら気付く。この間、ルーシアとマリノに付き合って話していた時のこと、その後訪れた義弟ヴァーレンキッド。こっちもこっちで手間のかかる弟である。

「この間ちょろっと王宮に帰ろうと思ってな」

 なんでもないことのように、彼はそう云った。今王宮には入れないというのに。

「入れたのか?」

「いんや」

 だろうな、とダズータは思う。自治町として生徒に、シュベルトゥラスとして息子に甥姪に会いたい。そう主張して中へ入ろうと試みたこと再三、全敗なのだ。王宮から嫌われている不良トゥラスが、突然帰って来て入れてくれというのも無理であろう。特に宰法シュタインとキッドでは、逆にシュタインを苛つかせることになりそうで、それがまた恐ろしい。 これ以上余計な火種はたくさんだった。


 しかしキッドは、なんてことのないように云う。

「でも中の様子はちらと見えたぞ」

 云って笑うのは、簡単に城門からちらりと覗いたからではない。現在王宮の警備は半端なく厳しい。最初は核となるイシュタル城を守っているイシュタル門だけだったのが、今ではその周囲にある暦門までがっしりとガードされている。開けることすらあまりないという。そんな状態でまさか、中が見えたはずがない。強硬突破したか金でも渡したか、最悪の場合自ら登ったか、だろう。

 ダズータの考えを読んだわけでもないだろうに、キッドはさらに愉快そうな顔をする。

「凄い勇気、凄い慧眼。褒めてくれて良いぜ?」

「誰が褒めるか」

 一応、即答しておいた。キッドはあらゆる人の場所に押し掛けるが、その中でもルジェが一番多い。それはきっと義兄を気に入ってくれているということで嬉しいがしかし、彼には学生の時から迷惑をかけられっぱなしである。義弟であるよりも前に教え子だけあったからか、彼の性格は充分に理解できているつもりだ。扱いにも慣れている。



 まあそれは良い。へらへらとして一行に進まない話を、どうにか短縮させたには、

「クロードバルトが、なあ……」

 王宮内に、少なくとも暦門より中に、クロードバルト・カイ・パルツァントゥラスが居るというのだ。ガーデントゥラスと並んで、しばらく行方のわからなかった安寧王9番目の子である。彼の一つ上の兄クルーフクスの子どもたちは王宮内に居ると聞いていた。そしてごたついている王宮を手伝いたいから、休学したいとの通達も来ている。 しかしそれは実父クルーフクスが許可していないことなのだから、不穏で仕方ない。クロードバルトの居場所については不明のままだったが、まさか王宮内とは。



 クロードバルトという男は、非常に素直な男だ。そう聞くと実直で誠実な男のように聞こえるが、クロードバルトは素直過ぎるのだ。そしてそれを改める気配もない。表で上っ面をかぶることがまるでできない彼は、結果権力の中で確執ができた。王宮という権力の集まる場所には合わない、早々に王宮から遠いトゥラス領内を譲り受けた。

 だが彼の薬草に関する知識はガーニシシャルを魅了した。クロードバルトを王宮薬師として雇い入れることを諦め切れなかったガーニシシャルは、ルジェストーバに勤めるよう勧めた。クロードバルトは最初こそ受けようとしたが、最終的には諦めた。彼は組織というものの中には居られない。必ず波風を立たせてしまう。そんな彼は領地でひとり研究に没頭するのが一番だ。一番仲の良い隣領地のクルーフクスが窓口となってつなげば、王宮専属薬師として使えないこともなかった。

 ルジェはトゥラスの中で、交流の基点のような場である。それだけに多くのトゥラスがダズータを訪ねたり、頼ってくれたりする。クロードバルトの領パルツァンはルジェと真逆にあり、訪れるのも一苦労だが彼は割と顔を見せに来ていた。しかし王宮は研究の時だけであとは素通りするだけだった。クロードバルト自ら、王宮は避けるほどには面倒な場所で、そういう結論が出て20数年、なんとか平穏を保ってやって来たはずだったが、その彼が静かな領地にも妻子の居る下町の家にも居らず、王宮に居るという。


「王宮に確認したところで、撥ね付けられるだけか……」

 ダズータの回想を断ち切るかのように、アサジークがぽつりと呟いた。そこでようやく、ダズータの頭はここ数日考えたことに向かう。

「クロードバルトが王宮に居たとして、何か利があるのか?」

 逆に苛つかせるだけではないか、と思う。それとも誰かが王宮で病で床に臥せっているとでも云うのだろうか。だとしたらそれを隠している意味もわからない。


 黙ったダズータたちの元に、またしてもこんこんとノックの音が響く。

「失礼致します。──ああ、レイフォン教授もこちらでしたか」

 顔を覗かせたのはダズータの秘書ベル=ドア・クランドンである。理事長でありながら教壇に立っているダズータと同じく、ベル=ドアも授業を担当しており、召喚学部大気霊科の科長である。ほとんど研究室にこもりながら秘書としての仕事も充分にしてくれているのは、おそらくいつも連れている業幽ごうゆうという大気霊のおかげだ。人の良さそうな顔でアサジークに頭を下げると、ちらと戸の向こうを見る。

「どうした?」

「唐突に申し訳ないとのことですが、理事とレイフォン教授にお客様がお見えです」

「──客?」

「私にも、ですか?」

 アサジークが警戒を見せた。王太子殿下の帰還を受けて、ここ最近特に身内の出入りが激しい。次の時代に残せる若い闘士バックロウが居ないことが、今ダズータを少し弱気にさせている。おかげで一瞬ナナリータが頭を過るが、安心せよと云う風にベル=ドアは微笑んだ。


「ええ、ランディトゥラス卿がお見えです」

 予想外のことに、ダズータとアサジークは顔を見合わせ、しかし一瞬で頷き合う。

「ここに通してくれ」


・・・・・


 カレン・ルナンベスはその日、買い出しに出掛けた。


 今日の当主の予定はお昼から近所貴族との会食があり、午後からはそのままリネルン様の領地を拝見なさる。遅くても日が暮れるまでに帰って来て、いつものように執務室で書類仕事を裁く。女中頭の言葉を反芻しながら、カレンはいつもの道を歩いていた。とりあえず会食の準備を今屋敷ではしているから、カレンはいつも通り買い物をして帰らなければならない。どうせならエントランスを綺麗に飾るために、花を買って行っても良いだろう。どうも当家の主人はそういったところに無頓着で、豪勢さに欠けてしまう。よく云えば堅実、悪く云えば質素だ。


 あれこれ考えながら歩いていたら、唐突に前から歩く人にぶつかってしまった。買い出しリストの入ったかごを、ごろんと落としてしまう。しかしそれよりも先にぶつかった人だ。最悪なことに、まだ貴族領内から出ていない。町中だったらまだしも、何所かの貴族にぶつかったら閑を出されてしまうかもしれない。下町では流石に馬車だが、貴族領内では貴族もよく歩いて散歩を楽しんでいることがある。


 慌てて見た先には、カレンの知らない美しい女性が立っていた。何所かの貴族の夫人であろうか、身のこなしは美しいが見たことのない顔だ。思わずじろじろと見てしまって、そしてそれが不躾なことにしばらくしてから気が付いた。

「失礼致しました! 突然のご無礼を……」

「構わないのよ。こちらこそよそ見をしていたの、失礼」

 しかし女性はさして気にした風もない。決して若くはない。おそらく50代、若く見積もっても40代後半だ。だが昔は、あらゆる男性にもてはやされたのではないだろうか、結い上げている黒髪は艶やかで、そのために見える首もとははっとするほどに白く美しい。貴族の女性に特徴的な、田畑仕事を知らない白さである。

「どうぞ」

 声にはっとしてカレンが横を見ると、老紳士がそこに立っていた。白髪をきっちりと固めて、手には杖、北大陸お得意のタキシードと呼ばれる正装に身を包み、まるで絵に描いたような執事の恰好だ。白手袋に包まれた手にはカレンの落とした買い物かごがあり、すっと手渡される。

「あ、ありがとうございます。大変失礼致しました」

「お気に為さらず。──我が主にも、非はございますから」

 カレンが大人しくかごを受け取ると、老紳士はそう返してにこやかな笑みを浮かべたまま、女性を見遣る。

「危ないではないですか、勝手に一人歩かれては」

「じっとしているのも危ないと云っていたわ」

 涼しい顔をして云い訳する女性は、なんだか子どものようである。老紳士も老紳士で、にこやかな笑みを浮かべつつも若干怒っている様子だ。

「外へ出たら危険ですからその場を動かずにと云いましたよ。貴女のことです。探査の手を数分免れる術ぐらい、持って居るはずでございましょう?」

「そんな昔の教えは忘れたわ」

「そんなことを云って、また王都をかけずり回りたくなったのでしょう。悪い癖をここで出すことは止めてくださいと、あれほど申しましたのに……」

 やれやれと溜め息を吐く老紳士と、ふんとそっぽを向く女性。


 カレンとしては、気まずい。


「あの、大変申し訳ありませんでした。私が悪いのです。気を取られていて……」

 庇ったわけではなかったがとにかく、ぶつかったことは謝らなければならない。云って頭を下げるとしかし、その場の雰囲気がふと柔らかくなったような気がした。

「顔をお上げなさい、お嬢さん」

 云い方が貴族らしい。それも上流。ここに上流貴族がまさか居るとは思っていなかったが、もしかしたら交流で来ていることも充分に有り得る。よく女中頭にも怒られるのだが、まったくもってここが貴族の領地だということを忘れてはならない。頭に入れるだけでなく、常に意識をしなければ。


「貴女のおかげで迷子から連れを見つけられたわ、ありがとう」

 云われた通り頭を上げると、逆に今度は軽く頭を下げられた。そのことに呆然としてしまうが、彼女はさして気にした風もない。

「それで貴女は、見たことがございませんわね。済みません、私最近の世相に疎いんでございます。──何所かの貴族の娘さんでしょうか?」

「わ、私自身はそんな、大層な者ではありません。リリアンレードン家当主バーアンド様の女中カレン・ルナンベスと申します」

 慌てて憧れの当家当主の名を告げると、彼女は満足そうに深々と頷いた。

「良い主にお仕えしておりますね」

 云って微笑まれると、ほっと安心してしまう。仕える主が褒められるのは嬉しい。


 その笑顔に引きずり込まれるかのように、女性は突如、居住まいを正して咳払いをする。

「名乗りもせずに失礼致しました、私はビバルディ・ヒルトニア。こちらは侍従兼契約法術師のクリュード・エンペルトと申します」

 隣で侍従が頭を下げるが、カレンは驚きのあまりに目を見開く。

「エ、エンペルト様?」

「はい、私はエンペルトでございます」

 クリュード・エンペルトと云えば、定成王時代の法術師の頂点だ。無論権力では現在も王宮貴族シュタイン宰法に適うことはないが、クリュード・エンペルトと云えば稀代の法術師であったルーク・レグホーンの師匠。その名声は法術師の権力が高鳴ると同時に、次第に大きくなっていったものである。カレンの驚きを察したらしいが、彼は相変わらず飄々としている。

「今はご主人様に御仕えするただの契約法術師でございますれば、あまり当方のことはお気に為さらずに」

 にこにこと、あくまで人の良さそうな顔をしてそんなことを云う。しかし知ってしまったからには、驚く他ない。ただでさえ、4年ほど前から法術師を雇えるのは真の貴族だけになって来ている。成り上がりの貴族では彼らに思うような支給ができず、結局辞められてしまうからだ。法術師という術師を雇うだけで相当であるのに、あのエンペルトをその女性は雇っている。


 ヒルトニア。何所かで聞いた覚えがあるその名に、カレンは首を傾げる。


 しかし当のビバルディは考える隙を与えず、侍従と同じくにこやかに続ける。

「厄介ついでに、少々お願いしたいことがございます」

「は、はい、私にできることであれば、なんなりと」

 咄嗟に答えてしまう。身分の差を考えればおこがましいかもしれないが、ぶつかってしまったのだ。できることがあれば彼女たちが満足する形でお返しをしたい。当主もおそらくそう云うだろう。



ビバルディはカレンの返事に満足したのか、にこやかにではと続ける。

「実は私、人を捜しているのです」

「はぁ、探し人、ですか……」

 それだけだと、カレンはあまり役に立ちそうにない。返す言葉も短くなってしまう。

「恰好から云えば、背はそれなりに高く、みすぼらしいかもしれませんが、貧しくはない恰好をしているはずです。髪は私と同じ黒、瞳の桔梗は目立つでしょう。剣術の心得があるので剣を持っていると思います。こういう云い方はあまり良くないかもしれませんが、おそらくそれなりに見栄えする、二十代半ばの男性です」

「残念ながら私には……」

 元々、カレンは買い出しの他は外に出られない。たまに当主が外出に誘ってくれることもあるが、あまりうかうか乗っても居られない。しかしだからと云って、この二人を放って行くのも気が引ける。

「あの──」

 カレンはなけなしの勇気を絞って提案してみる。

「よろしければ詳しいお話を伺ってもよろしいですか? あ、あの、もちろん、私ではなくて我が当主にお話戴くことになりますけれど──」

「良いの、かしら?」

「お力添えになれるかどうかはわかりませんが、屋敷にお招きすることは構いません」

 本当に、力になれるかどうかはわからない。だがエンペルトを連れているともなれば、無断で誘ったことを女中頭に叱られることはないだろう。それに当主に頼めば、彼らの目的が叶うかはわからないが、努力することはできる。

 リリアンレードン家自体は元々、そこまで大きな家ではない。カレンたちが日々かしずいている人々が、もっと上の貴族に奉公に出ていることもある。だからこそ、奉公している人の気持ちを良くわかってくれている。ついでに云えば、法務官がやるような仕事を、町役場のように請け負っていたりする。人情に厚いというか、とにかく厄介事を引き受け助けてくれる。このあまりお高くはない貴族領内で、リリアンレードン家の信頼は厚い。



 カレンが勧めると、ビバルディは一瞬エンペルトを見た後、どうしようかしらというように、小首を傾げて宙を見遣る。その動作の一挙一挙が洗練されていてとても美しい。

「リリアンレードン家……、確か御長男は奉公に出ておりますわね?」

「え、ええ。アルクトゥラス……卿がご生誕なさった時から、侍従をなさっております」

 アルクトゥラス卿と云うと仰々しいが、現在のそれは麗しきメイリーシャ嬢を差す。彼女が生まれた時からずっと侍従であったがために、カレンはあまり会ったことがない。次期当主の座を早々に諦めて臣に下ったという話だけ、小耳に挟んだ。


 ビバルディは何かに決意したかのように頷いた。

「お世話になろうかしら」

「喜んで、お力添えをさせて戴きます」

 できるかはわからないが、無下に断って後からリリアンレードンに迷惑をかけたら大変だ。カレンは恭しく頭を下げると、徒歩で済みませんがと断って案内する。買い物は出直しだ。



 歩き出したカレンに続いて、しかしビバルディがぽつりと呟いた。

「でも恥ずかしいわね。身内の端をさらすようで」

「お身内?」

 独り言のようで独り言ではないらしかったので、つい訊いてしまった。するとビバルディは、ええ、と少し恥ずかしそうにする。

「探し人というのは、実は私の息子なのです」

「え?」

「ご存じではありませんか、エース・ヒルトニアという男。犯罪者が息子で、その事実を云い回って捜すというのは、恥じですわよね」

 ビバルディというこの女性に子どもが居るというのに、なんだか違和感をもった。しかしカレンはそれを一瞬で忘れ、ぴたりと足を止めてしまった。

「……エース・ヒルトニア?」

「あら、ご存じ?」

 ビバルディは本気で驚いたようだが、カレンはそれどころではない。


 ──エース・ヒルトニアだ。また必ずここに来る、今日はありがとう。

 記憶が蘇る。何度も思い返したのはその場面ではなかったから、すっかり忘れていた。

 ──瞳の桔梗は目立つでしょう。

 毎日一度は思い出す、あの日、夕日の下町の中で、どんよりと光る桔梗の瞳。

 ──ううん、なんでもない。じゃあ、またな、カレン。

 10年前だ。今年の10月で11年目を迎える。彼が突然居なくなってから、11年。


 気がつけばカレンはここで築き上げてきたものをすべて忘れて、 ビバルディに掴みかかっていた。

「エースが犯罪者って、どういうことですか?!」

 エンペルトが咄嗟に動いたがビバルディはそれを止め、そのまま力なくしゃがみこむカレンの背にそっと手を置いた。

「──まさかあの子の知り合いがこの場に居るとは、思いもしませんでした。……私も配慮がございませんでしたね、申し訳ございません」

 淋しそうに謝った彼女は、エンペルトに向き直って頷いた。


「リリアンレードンまでこの娘を送りますよ、エンペルト」

「かしこまりました」

「ま、待ってください、私、訊きたいことがいっぱい……」

 おそらく屋敷に着いてしまったらカレンは話など聞くことはできない。力が抜けてしまった身体に活を入れ、どうにかビバルディに訴える。すると彼女はにっこりと微笑んでカレンに手を差し伸べた。

「リリアンレードンに着いたら必ずお話するとお約束致します。だからどうか、貴女の事情も教えてもらえるかしら?」

 その優しい笑顔に力づけてもらいながら、カレンは帰り道、昔話をした。


 11年前、突然消えてしまった少年のことを。


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