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精霊物語─精霊の目覚め  作者: 痲時
第4章 499年
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第20話:トゥラス


「宰法!」

 お待ちくださいと止める番兵をいとも簡単にあしらって中へ入って来たのは、ナナリータ・レンタ・シュベルトゥラスだった。通常イシュタル城への登城は断っているのだが、彼女ならば仕方があるまい。あまり彼女を怒らせるのは得策ではないからだ。それは無論彼女の気質もがそれより恐れるのは、夫のダズータ・バルクオリンズである。今は暴走するナナリータの様子を見ているようだが、彼がナナリータを見捨てることはまずないだろうし、加担されると余計に面倒である。ルジェストーバ王立学院はほとんどがダズータの人選に寄る職員を集めているために、自治町として反旗を翻された場合、王宮敷地内にあるルジェストーバは厄介であった。


 ひとまず酷く機嫌の悪そうな第一王女を丁寧に迎える。

「これはナナリータ様。直々にいらっしゃるなら最初にご連絡をしてくだされば」

「そんなことはどうでも良いのよ」

 拍車をかけて機嫌が悪い。

「ウォレンが帰って来たのですって?」

「──そのようです」

 しかしはて、いったい何所から漏れたのだろうかと思う。

 イーリアム城に先手を打たれてしまったのは、まさかの王太子の帰還という予想外の事態だった。もちろん今までもいつしか帰って来る可能性は考えていたが、まさか4年も経ってあの義理深いウォルエイリレンが出て来るとは思いもしなかった。

 ウォルエイリレン直々の書簡は年明けと共に各地に届けられているらしいが、大々的には広まっていない。今は少しでも情報を遅らせようとしていたのだが、ナナリータは既に知ってしまったらしい。まさかナナリータとウォルエイリレンに付き合いがあったとも思えない。やはりバルクオリンズとナナリータの夫婦は、完全に切れてはいないのだろうか。そう考えると目の前で態度でかく座る第一王女を、足蹴にはできなかった。

「まったく、お兄様のようにしぶとくて嫌になるわ。それにお義姉様を思い出して寒くなる。加えてバルバラン家やヒルトニア家が煩くて煩くて、本当に最悪よ」

 そう。恐ろしいのはこの第一王女にしても然りである。民の誰もが気が付かぬうちに王后ルナを追い出したのは、彼女であったという噂がある。定成王が崩御し葬儀が終わると共に、ルナは知らないうちに姿を消した。いったい何所へ追い出したのかと訊けば、しかしナナリータは知らぬという。

 ──あの女が勝手に出て行ってくれたのよ。あたしじゃあないわ。

 口ではそう云ったが、出て行けと最初に命じたのはどうやらナナリータであったようだ。それにルナが大人しく従ったとは思えないのだが、一人の法術師を連れてさっさと王宮を出てしまったらしい。昔から奔放なところがあってよくウォルエイリレンを連れて市井へ飛び出してはいたが、まさかこの王宮でさえ、いとも簡単に出てしまうとは予想外のことだった。


 ナナリータ第一王女はだから、思いの他厄介な人物である。


「それでどうなさったのです?」

 シュタインが尋ねれば、ナナリータは黙り込んだ。 早くしてくれと思いながらも、シュタインは彼女が何かを云い出すのを待つ。ここで何か云おうものなら、彼女の口はまた深く閉ざされると知っているからだ。そして彼女がなかなか口を開かないのは、まだ悩んでいる証拠である。いったいどんな面倒事を持ち込んだかと幾つか考えているうちに、彼女はふぅと溜め息を吐いてようやく口を開いた。


「シュベルトゥラスに今後益がないのなら、リレインを諦めてあげても良いわよ」

 それも王太子殿下帰還の報を聞いて気分が優れなかったシュタインに、朗報を与えてくれたのだった。


・・・・・


 レディアナ・ローズ・ガーデントゥラスは、扉の開く音を聞いた。無駄に広いがかつてのトゥラスが使っていただけあって古いから、きぃきぃと何度直しても鳴るのだ。なんとなく予想がついて先回りして玄関まで行けば、ちょうど彼が出て来たところだった。いつもの如く黒いレンズをかけているから動きはわからなかったが、気が付かれていることに少し驚きそして悔しがっているようだと判断できる。そうしたちょっとのことが、レンズ越しに見えるようになっている。

「ギルド、何所へ行くの?」

 小首を傾げて尋ねると、彼は少し笑って参ったというよう両手を上げた。

「すぐそこまでだ」

 彼女は少し考える。きっと出掛けるのは、何か手を打つためだ。それは先ほどの速報で届いた、王太子殿下帰還のことに間違いない。だとしたら、これは元々彼女の問題である。きっと自分のために、彼は何かしようとしている。

「気をつけてね、貴方は目立つんだから」

「わかってる、わかってる」

 本当にわかっているのかいないのか、いつも通りめちゃくちゃな調子だ。こんな時でも変わらないというのは、良い傾向だと思う。きっと彼はこんな調子で人生を乗り越えて行くのだろう。その裏であらゆる善行をしても、すべてを笑って見過ごされて行くのだろう。


 黙って行ってらっしゃいと手を振ると、ふとレンズに隠れた目が真剣なものになった。

「レディアナ」

「なあに?」

「そちらも準備をしておいてくれるか。──それなりに」

「ええ、任せて」

「そっちも、気をつけろよ。何かあったら、すぐに書簡を送れ」

 レディアナは微笑んで彼を見送った。きっとそのうち、知れてしまうだろうこの場所から。


 永遠の隠れ家なんて、何所にあるのだろう。


 彼女は青い空の下歩いて行く彼を見送りながら、たったひとりの娘を思い浮かべる。いったい今頃、何所に居るのだろうか。


・・・・・


「メイリーシャ様!」

 メイリーシャ・レイ・アルクトゥラスにとって、年が明けてもいつもの閑で退屈な朝であった。しかし珍しいことに侍従のハルガンが、息を切らして彼女の前に現れた。

「どうしたの、ハルガン」

「ああ、ええ、まずあの──」

 彼とは幼い時からずっと面倒を見てもらっているが、まごついている姿を見ることはあんまりない。メイリーシャは年明け早々珍しいものを見たとおもしろがって笑いながら言葉を待っていると、

「メイ、笑っている場合でもないんだよ」

 と、ハルガンの後ろから長身の影がひょっこり顔を覗かせて声をかけて来る。

「……ああ、ええ、まず、バックロウ様がご帰宅されました」

 ハルガンがやっと、と云った風に伝えたが、まずも何もメイリーシャはそれだけに驚かされる。


 思わず飛び出しそうになるのをぐっと堪えたものの、驚きはどうしたって隠せない。嬉しさと混じり合って複雑な表情のまま、彼を迎え入れる。

「バックロウ! 帰って来るなんて聞いていなかったわ」

「おやおや、不浄なるヴァンビーの悪魔は帰って来ない方が良かったかな?」

「そんなこと云っていないわよ。突然だったからびっくりしただけ。どうしたの?」

「どうもこうも、ちょっとへまをした。──済まないな、メイリーシャ」

 バックロウはずかずかとメイリーシャの部屋に入って、彼女の隣に腰掛けた。そしてあー疲れたと一息吐いた後、

「まぁその話の前に、メイへ朗報を一つ持ち帰ったんだ」

「朗報?」

「ああ、伝説のヨーシャから勇者が帰還されたぞ」

「もう、また御芝居に引っ掛けて云われても──」

 大事だ大事だと云いながらこんなときも好きな芝居に乗せて云うのだからと、メイリーシャが少し呆れながら真意を問いただそうとした時、幾ら芝居のわからないメイリーシャでもすぐに思い付くことだったと気付く。

「まさか、お従兄様が?」

「王宮とこことじゃ時間差あるなぁ、やっぱり。ウォレンからの書簡も、もしかしたらこれから届くのかもしれないけど……」

 バックロウは少しの間を置いた後、まあ良いやと切り返す。それは彼自身から書簡が届かない不安をメイリーシャに抱かせないためだったのだろう。こういう小さな気配りをきちんとしてくれるのは嬉しいが、たまに子ども扱いされていると思うことまでするから不満でもある。

「どうやらイーリアム城に居るらしい、昨日の会議の後に俺が帰ってからちょうど書簡が届いたらしいんだ。俺がまだ知らないだろうって、わざわざダズータ叔父上が早急に馬車を追いかけて教えてくれたんだよ」

 ダズータ・バルクオリンズ・シュベルトゥラス。趣味が高じて勤めることになった、バックロウの勤務先であるルジェストーバ王立学院の理事長であり、安寧王の第1王女ナナリータの婿、現在王位継承権を争うリレインの父でもある。



 ハルガンがいつ居なくなったのかわからぬ間に、お茶と共にルジンダを連れて来た。

「従兄上、お帰りなさい」

「やあやあ、ルジンダ。レーズインの黒帯から緑の戦士が戻ったよ」

「お願いだからバックロウ、家の中だけではわかるように話してくれないかしら」

 メイリーシャが横やりを入れると、なんだよと不機嫌そうに顔を顰める。そんな様子を見てルジンダはくすくす笑ってバックロウを見た。

「従姉上は淋しいんですよ、従兄上。話に入れないから」

「え、わかったの、ルジンダ」

「うん、キルーの『四季色の帯』でしょう」

 さらりと云われて唖然とする。兄妹同然で育って来たルジンダとは、たまに帰って来るバックロウに演劇の話をせがんだ。もう少し成長してからは、バックロウの気を引きたくて懸命に芝居の勉強をしたこともある。すべてルジンダと一緒に覚えたというのに、すっかり抜かれてしまっている。この国で一番の教養とされるのは演劇だ。演劇の主要演目なら幼稚部の子どもでも、だいたいのあらすじを知っている。成長するにつれてその知っている演目は増えていくはずであったが、メイリーシャは本を読むのがあまり得意ではなく、演劇を見るまで覚えられない。だが病弱なメイリーシャは舞台を見に行くこともなかなかできない身の上だ。ルジンダと差が出るのは当然なのだが、なんだか淋しい。ショックを受けて少し俯いていると、テーブルを挟んだ向かいに座ったルジンダが、

「僕はたまたま学校でやったんだよ、従姉上。そこまで落ち込まなくっても」

 いつもの調子で笑いながら云う。

 ルジンダ・ルダウン=ハードクは次にこのルダウン=ハードク家を担う者として、当主としての頭角を現し始めていた。けじめのつもりなのか同い年であるというのに メイリーシャのことを従姉上と呼ぶようになったのもつい最近のことだ。 気恥ずかしくなってやめてくれと云いたいのだが、彼を前にするとなんとなく云えない。バックロウに相談したらこの時ばかりは芝居に乗せず、放って置いてあげなさいと云われた。そう云われたら従うまでなので、結局そのままであるが、ルジンダが少し遠くなったようで淋しいのはある。淋しいのも気恥ずかしいのも、全部メイリーシャの勝手だからあまり強いことも云えない。


 今度教えてあげるよと隣でバックロウが囁いたが、笑いながらなので嬉しくない。きっとまた子ども扱いしているんだと悔しいぐらいである。バックロウが演じてくれるから子どものころのメイは話を覚えられたのだ。

「それで王太子殿下がご帰還されたと聞いたけれど──」

 と、ハルガンのお茶に手をつけながら、ルジンダは話を始める。

「ああ、たぶん各地青い風に乗って書簡が行っているはずだよ。あまり詳しいことは書かれていないらしくて、近いうちに発表するらしいけど。まったくいったい、どんな神隠しをしていたんだかね、あいつは」

 ウォルエイリレンが、あの王太子殿下が帰って来た。メイリーシャにとってそれは喜ぶべき報であったというのに、あまりに漠然としていて喜べない。早くその姿を見なければ、早く彼の声を聞かなければ、何か証明するものがなければ、彼女は声を上げて喜ぶ気にすらなれなかった。


 自分の冷たさを感じながら、ふと素朴な疑問を思い付く。


「バックロウ、確かにお従兄様の件は嬉しいけれど、帰って来た理由はなんだったの?」

 バックロウはいつも学院が休みの週末にならないと帰って来ない。勤め先であるルジェストーバは王宮貴族の土地端であるこの土地から遥か遠く、毎日通える距離ではないい。加えて芝居狂の彼は、研究に没頭してしまうこともしばしばなのだ。そのバックロウが、2日もしないうちに帰って来た。メイリーシャが不思議に思って尋ねると、バックロウはにやけていた表情を静かに消した。瞬時にああと思う。彼はいつでも芝居の上の人である。表情をあらゆる風に変えて人の心を遊ばせてくれる。だから本気の話になると表情という表情が綺麗に消えるのだ。彼の特徴と云える、喜怒哀楽がすっぽりと消えてしまう。


「リレインがねぇ──」

「え、リーがどうかしたの?」

 いつも大人しいメイリーシャの従弟のリレインは、しかしダズータに似たのか真っ直ぐな人でもある。変なところ頑固で意固地になるために、今回の王位もこだわって拒否し続けている。殿下帰還の報を聞けば、なおその態度は強固なものとなるだろう。

「あいつ休学しているでしょ、あとたった3箇月で卒業だったんだけど」

「ええ」

 だがしかし学院の話になって、肩透かしを喰らう。あまり学院のことはよくわからないのだ。ダズータ・バルクオリンズ・シュベルトゥラスを理事長とするルジェストーバ王立学院。唯一王族にすら頭を下げず、全員が平等で過ごせる国家一の学び舎である。メイリーシャも幼稚部から中等部初年の七歳の時まで五年通っていたが、あまり記憶はない。 しかし王都に土地を持ちながらも、アスルやケーリーンのように、独自の自治町として機能している。 だから要求があれば王宮に回すこともできるのである。

「で、ルジェとしてはもったいないわけだよ、残り3箇月で卒業できないの。もう4年経つでしょ。幾らなんでも5年経つと除籍扱いだから復学しないかという御話をしているわけ。テッペルゲンの如く尊き方々に、博学なる正直なドクトリーが」

「僕でもわからないことはありますよ、重要な説明の時ぐらい芝居を抜いてください」

 ルジンダにぴしゃりと注意され、バックロウは静かに苦笑する。

「その要求がやっぱり跳ね返された。ダズータ叔父上が落ち込んでいたよ。なんだか何かしたくてつい一言、ナナリータさんにぶつけてしまったんだ」

「そうしたら?」

「それはアルクトゥラスとしての意見と取って良いですかと」

 メイリーシャは眉をひそめる。ナナリータは安寧王の第5子で第1王女だ。息子のリレインとはよく話すが、彼女とはあまり会った覚えがない。ただただリレインを王位に即けたいと思っていたらしいことはよく聞いた。そのためリレイン自身がしたいことをあまりできないのだと、ローウォルトから聞いたことがある。自分の身内がそういうことをしていると思うと、少し哀しい気持ちになってくる。


 要するに、身内からアルクトゥラスが手ひどく攻撃されたのである。


 ルジンダは納得したらしく、随分冷静に切り返した。

「そっか、あくまでシュベルトゥラス家を束ねるのはナナリータ様。バルクオリンズ博士がリレイン様に対して働きかけることは、教師との立場しかないのですね」

「そう、親子であることは関係ない。でも僕が出たらアルクトゥラスの言として取られたわけだ。愚かなる矛盾だよねぇ」

「バックロウ、そこで云い返したの? 教師としての言葉だって……」

「当たり前だよ。それはそれは、神父ルゲーの如く恰好良かったから、メイが見ていたら倒れていたかもねぇ」

 バックロウは言葉で随分ふざけながらも、結構なダメージを受けているようである。それはメイリーシャも同じだ。同じ身内から、そして同じく婿を取っている身からして、年長者から莫迦にされたとしか思えない。若いからと侮辱されたとしか思えない。



 病弱でわがままな引きこもりトゥラス。自分がなんと云われているかぐらい、理解している。

「ハルガン」

「はい、お嬢様」

「王都の地図を持って来てくれるかしら。できれば賃借者までわかるものを」

「かしこまりました」

「ああ、それなら僕も行くよ。ハルガン。書庫で入り組んでいると思うんだ」

 ルジンダが立ち上がって、ハルガンと一緒に出て行った。その様子を見送りながらも、メイリーシャは自分が久しぶりに怒っていることを自覚する。


「メイ、怒っているね?」

 残ったバックロウが、そっと彼女の顔を覗き込んだ。いつもと違う、無表情。

「つまらぬことで帰って来て済まないね」

「違うわよ、バックロウじゃない。ナナリータ叔母様よ」

 トゥラスのくせに病弱でルジェストーバを卒業できず、挙げ句殿下と婚姻せず、わがままを貫き通す困ったアルクトゥラスの長女。そんな噂はわかっている。ナナリータはきっと、メイリーシャをその噂通りの人だと思っているだろう。メイリーシャはしかし、そんなわがままだけで居るつもりはない。すべて自分の正しいと思った通りにした。そしてそれは正しかったと今でもわかる。だから敢えて堂々と暮らしているのだ。それは現在のルダウン=ハードク家の当主、つまりバックロウの父であるスタンダーから教わった姿勢である。自分に恥じるところがないから、堂々とこの地で暮らしている。それを利用して大事な人が傷付けられるのなら、メイリーシャも黙ってはいられない。



 メイリーシャは覗き込んで来たバックロウに微笑んでみせた。

「正直お父様からの引き継ぎが中途半端でまだ不安はあるけど、当主として見くびられたら黙っているわけには行かないもの。当主には家族を守る義務があるの」

「汚い仕事は、全部僕に任せてくれないかな、メイリーシャ」

「嫌よ、黙ってお留守番なんて、もう飽き飽きしたわ」

「君は田舎に何をしに来ていたんだっけ?」

「もうそんな昔みたいに引きこもっていなくたって平気よ」

 椅子にだらしなくもたれながらも珍しく突っかかるバックロウを、メイリーシャは嬉しく思う。そこでひるめばかわいらしい上品なトゥラスとなれるのだろうが、この突っかかりはメイリーシャを大事に思うからこそ止めたい一心で生まれてくる言葉なのである。そう思うと嬉しくて仕方がないから、逆に反発したくなる。


「バックロウ、貴方は招待状がないパーティに行っても間抜けなだけと云ったけれど、私は招待状を発行してもらいたいのよ。もちろん、私メイリーシャ・レイ・アルクトゥラス宛にね」

 毅然として云い放つと、椅子にもたれていたバックロウは身体を起こしてメイリーシャを見つめる。

「メイ、当主は生きなくてはならないよ。たとえ誰が死んでもね」

「ええ、わかっているわ」

 それは既にアルクトゥラスを継ぐとローウォルトと約束した時にできている覚悟だ。何があっても生き延びる、たとえバックロウを失ってもローウォルトを失っても、自分は、メイリーシャは生きなければならない。病気になんて負けていられない。


 強い決意で云い直したというのに、バックロウは苦笑している。メイリーシャのことをアリカラーナで一番理解してくれているその彼は、おそらく彼女が本気であることも、そして本気だから突っ走ることも重々予想しているのだろう。

「頼むから、危ないことだけはしないでくれよ。悪い意味ではないが、ナナリータさんのあの性格は、君たちにも通じているよ」

「かわいげがないのは認めるわ。……でも平気よ。私がやるのだから、地味に手助けになることしかできないもの」

「危険が及ばなければ、それで良いんだ。手を貸そう。どうせ今は仕事もないし、閑な身なんだ」

「え、学院には戻らないの?」

「理事からしばらく実家にこもっていろとの指示さ」

「──ありがとう、バックロウ」

 メイリーシャが感謝を込めて云えば、バックロウは静かに微笑んだ。この静かな優しさが、メイリーシャにはありがたかった。いつもは賑やかな仮面で隠している冷静さは、たぶんあまり知られていない。その仮面を破ったのはメイリーシャだったが、あの頃の自分を思い出すと一人で突っ走っていたようで少し恥ずかしい。あの暴走を覚えているからこそ、バックロウはメイリーシャ一人で行動させまいとしているのだろう。



 気恥ずかしさを誤魔化すように、メイリーシャは俯いて考える振りをする。

「動かせる資金はどれだけあったかしら」

「それはどちらの?」

「この際どちらでも良いわ、アルクトゥラスの全権は私が持って居るのだし」

「何を思い付いたんだい、メイリーシャ」

「地味なことよ、とってもね」

 云ってメイリーシャは微笑み、夫に打ち明ける。

「なるほどね、確かに地味だ」

「ルダウン=ハードク家の動きなんて、みんな見てないもの。みんなアルクトゥラスの全権はまだお父様のものだと思っているから。この田舎ならでは、王宮外ならまだ自由に動けるはずよ」

「なんなら早速、行動しようか」

「ええ、地図を持って来てくれたら、行動開始よ。地味でしょう?」

「──ああ、そういえばそうだった。忘れていたよ」

「遅いわね、でも」

「僕たちがいちゃつく時間を作ってくれたんじゃないのかな」

「バックロウ」

「冗談だよ、メイリーシャ」

 だがきっと弱っているバックロウを見て、ルジンダ辺りは気を遣ってくれたのだろうと思っていた。さっきはナナリータに対する怒りでそれどころではなかったが、優しい従弟に感謝をする。バックロウはそんなメイリーシャの頭を軽く撫でる。前ならこれだけで嬉しかったのに、今は物足りない気持ちになってしまい、ついぽすんと彼の胸に倒れる。

「おやおや、どうしたの、メイリーシャ」

「──お従兄様、帰って来たのね」

「そうだよ、メイリーシャ。やっとだよ」

 バックロウは良かったね、とは云わなかった。ウォルエイリレンが帰って来ること、それはメイリーシャは絶対だと断言した。バックロウもそうだろうねと笑って請け負ってくれた。二人の中で彼が帰って来ることは当たり前なのだ。だから別に良かったねというわけではない。正しくやっとだった。


 しかしじわじわと、その嬉しさと不安が押し寄せて来る。 まだ正直、ウォルエイリレンが帰って来たという実感はない。だがこれから先を考えると、憂鬱な気分になるのは事実だった。

「これから、どうなるのかしら……」

「荒れるね」

 バックロウは端的に、しかし事実を述べた。その通り荒れる。今まで静観していた事実と対面しなければならない。


 兄のローウォルトが王位を継ぐと騒いだ時、メイリーシャはその事実に呆然とした。実の兄弟なのではないかと云うぐらい仲の良かったあの2人が仲違いするなど、それこそ世界が崩壊すると云われた方が現実味があった。そんな事実を簡単な文字でいくら説明されたって実感なんてできないと、慌てて王宮へ出向いたところ、父のシャルンガーには面会を断られた。ローウォルトはいつも通りだったものの、ウォレンに関しては何も話してくれなかった。

 ──すまないな、こんな形で俺はおまえにアルクトゥラスを継がせるつもりはなかったんだ。

 病弱なメイリーシャが後継ぎを産めるかどうかは、正直難しいところであった。だがそれでも、メイリーシャは兄の思いを聞いて、きっと継いでみせると約束したのだ。大好きな兄の思いを叶えてあげたい、その一心で取り付けた、シャルンガーも知らないローウォルトとメイリーシャだけの、束の間の秘密の約束だった。6年前結婚した時からその意思はずっと変わっていない。

 数日後シャルンガーはただ一言だけアルクトゥラスを頼むと壁越しに伝えて来た。面会すらしてくれないのはなぜなのかと問うたら、ローウォルトを殺すまでは家族と会わないと宣言した。不思議と恐ろしいと思わなかった。実に父らしい台詞だったからか、メイリーシャはそれだけを聞いて大人しくルダウン=ハードク領に帰って来た。


 悔しかった。悲しかった。そして何より、わからなくなった。兄と慕う二人が背いてしまった事実に、メイリーシャは何をしたら良いのかわからなくなった。できることはただ、田舎で静観すること。いつしかウォレンが帰って来たその時に、真実を尋ねようとずっと心に決めていた。要するに先延ばしにしただけなのだが、問題の真ん中にいながらもまったく相手にされていない事実に、自分の無力さを思い知った。悔しい悲しいそのやるせない思いすべてを受け止めてくれたのは、バックロウたちルダウン=ハードク家のみんなだ。メイリーシャにとって、彼らだって守るべき家族の一員だ。何があってもこのルダウン=ハードク領は守ろうと決めた。

「怖いかい?」

「……ううん、どちらかと云うと、不安だわ」

「そう、その不安は僕にだけ、吐き出してくれよ、メイリーシャ」

 頭を撫でていた手がぽんと軽く頭を叩いた。子ども扱いだなと思ったものの腹は立たなかったので、ゆっくりバックロウを仰ぎ見る。

「頼むからメイリーシャ、僕とハルガンを置いて行かないようにね。 年寄りは先に死ぬっていう相場があるんだから」

「あら、でもアリカラーナでは男性の方が10歳ほど長寿だそうよ。 だから私たちが死ぬのは、大体同じ時期じゃあないかしら?」

「じゃあ新人教師に伝えておこう、嫁は中等部から迎えろと」

「もう、そういう話じゃあないでしょう」

 冗談混じりに返す彼を見て、メイリーシャは微笑んだ。メイリーシャの知らない学院で、外の世界できっといろいろあったのだ。その彼がここに帰って来て安堵しているのなら、メイリーシャはそれで生き甲斐がある。


 自分の役割を思い出して、彼女はそっと安心の溜め息を吐いた。


「まあでも、死ぬ前にせめて王宮入りを考えておこう。王宮入りをするのなら、僕としてはウォレンが居てくれた方が有り難いわけだし」

「そうね、まさかバックロウがナナリータ叔母様とやっていけるとは思わないわ」

「そういう冗談にもならない恐ろしい話をしないでくれるかい、考えただけでゴードンハウスに居続けたハサムになった気分だよ」

 流石のメイリーシャも、その作品は知っていた。アリカラーナで最も古いとされる喜劇で、作者不詳ではあるが、国民のほとんどが知っている芝居だろうとされる『ゴードンハウス』。 年に一度は王都の劇場で必ず公演され、バックロウはいつも招かれている。 ついでにメイリーシャも付いて行っているが、何度見ても厭きない芝居である。


 山の近くにあるゴードン家。町の人たちからは恐れられている一家だ。なぜなら彼らは権力を恣にし、圧制を敷いていたからである。そんな寒い町中に紛れ込んだ孤児のハサムは、ゴードン家の下僕となった。毎日が地獄のようで、何度も逃げ出そうとしてその度に失敗し、暴力を加えられる。



 メイリーシャはしかし、そこで首を傾げる。

「あら、ハサムはゴードンハウスに入って幸せになったのじゃなかったかしら?」

「そこにリアンダが来たからね」

 云ってバックロウは、メイリーシャに囁くように云う。

「ここにメイが来たように、地位を捨てて平和に暮らすのだよ」

「いつも以上にお芝居くさいわ、バックロウ」

「おやおや、フラれて撃沈か。それはハサムも驚きの結末だ」

 くすくすと笑って、メイリーシャはしかし考える。

「お従兄様、変わってないかしら」

「ふん、あいつが変わることがあるかねぇ」

「お従兄様にもリアンダが来れば良いのに」

「来るんじゃないかな、きっと」




 そういえば、とバックロウは開け放されたままの扉を見遣る。

「地図、来ないね」

「ええ、大丈夫かしら」

「大丈夫だよ。──もう少し、いちゃついていようか」

 笑いながら彼は云う。それに甘えさせてもらって、メイリーシャはバックロウの手を握る。


 病弱だが強気の当主がアルクトゥラスとして動きだすのは、もう少し後の話──。



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