第1話 黒衣の男
背後から大きな音がしたかと思うと、そこで突然爆発が起こった。周囲には民家が多かったが、いきなりの爆撃を避けられた者は居ただろうか。わからないのが悔しい。だがそんなことは気にしていられなかった。数日前までは被害に遭った人々のところに駆け寄って手当てでもしていただろうが、今はそんなことに構っていられなかった。自分が生き延びるためには、ここから逃げるしかないのだ。自分がここから逃げれば、少なくともこの町は助かるはずだから。
少女は綺麗に光る茶髪が乱れるのも構わず、必死に道を走り抜けた。その後ろからどんどん爆撃は追って来る。まったく閑人も居るものだと半ば感心しながら走った。
このまま逃げてばかりでは埒が空かない。
彼女はそう思いながらも、動く足を止めることはできなかった。そのうち追いつかれて先に回られて、自分は死んでしまうのかもしれない。それでも最後まで、最後の最後まで走り抜けてしまいたかった。そうすることしか、彼女に目的はなかったのだ。こんな生活を始めて何日経ったのか、もう数えるのは止めてしまった。だからどれぐらい経ったのかは不明だが、逃げることに慣れてしまったのは確かだ。
さすがに足が疲れて来たのか、走りが遅くなった。一旦足を止めて振り返るともう爆撃は終わっていたが、あまり安心はしていられない。のんびりとしていたら、また来てしまうのを知っている。それはわかってはいたが、どうしても息が切れてしまって足が進まない。木の陰に隠れて息を切らし、その場に座り込んだ。
「どうしたんだ?」
息を整えていたところに、ふいに声が落ちて来た。どうやら少しも休ませてもらえないようだと思って絶望的になったが、そこに人の気配は感じられなかった。
「上だ、上!」
慌てて立ち上がって見上げると、そこには一人の男の姿があった。彼女が見上げた途端、木からすとんと降りて来る。結構な体格にも関わらず、体重を感じさせない綺麗な降り方だ。年齢はおそらく二十代前半、見上げるほどの背の高さにがっしりとした体躯。よく焼けた肌は充分健康的だ。あまり良い身なりをしていないが、良い育ちではありそうだ。
「どうした、追われてるのか?」
黒衣の男はなんでもないように訊いて来る。当然彼女は無言のまま、男を見つめ続ける。敵意は感じられないが、油断ならない。少女はすぐに男の腰元を見た。上着に隠れていてよくは見えないが、大層な代物が納められているのだろう。胸元には短剣ぐらい忍ばせてありそうだ。
すると男は肩をすくめて笑ってみせた。
「ちょっと俺を信用してみないか。意外に木の上は見つからない。そこに居るとそのうち焼き肉になるぞ」
そう云って上を見上げるが、彼女としてはあまり人を信用したくなかった。いや、したかったができなかった。
「──来る」
男は突然そう云うと、彼女を一瞬にして抱え込み木の上に登ってしまった。何日もろくな食事をしていない彼女の体重は、男の荷物にも感じられなかったようだ。文句を云う隙もなく、木の下で爆発が起こった。
「……ありがとう、助かった」
彼女は素直に礼を云って、下の枝へと降りる。一刻も早く男から離れたかった。この男の前で自分が無力であることを知られたくなかったからだ。食べていないから気力もない、力は元々ない。抵抗する間もなく、殺されるのが落ちだ。そんな彼女の警戒心を悟ったらしく、男は苦笑して云う。
「安心しろよ、おまえをどうこうするつもりはないから」
「それを信用しろと云うのか」
「現に今、おまえを助けてやっただろうが」
「単なる気紛れだろう。助けてくれたのはありがたいが、頼むから放って置いてくれないか。貴方が善意で助けてくれたとしても、私はそれに答えられない」
はっきり云って、もう疲れていた。逃げることも戦うことも、生きることにも。だが彼女には知る権利があった。せめてどうしてこんなことになってしまったのか、一刻も早く知りたい。どうせならそれが終わってから死にたいものだ。
──また今度、無事で会おう。必ず、迎えに行く。
どうしてこんなことになってしまったのか。約束を、守らなければならない。
そんなことを思いながら時間を稼ぐ間にも、男は諦めようとしなかった。
「どれぐらい追われているんだ?」
「……さあ、もう忘れた。半年は経っていないことを祈るばかりだ」
「それだけか、まだまだ新米だな」
「どういう意味だ」
「俺はその倍以上、逃げ続けている」
男の云い方は真剣味に欠けていて、信じるべきなのか疑うべきなのかよくわからなかった。取り敢えず彼女は男を一瞥してから、黙りを決め込んだ。
人は信用してはならない、故郷を出た時からの鉄則だ。そう自分に戒めたのだ。
彼女は辺りを見回してから、地面へと飛び降りた。もう充分休んだのだ。そろそろ出て行っても、攻撃から逃げることはできるだろう。
「助けてくれてありがとう、失礼する」
それだけ云って、男からは逃れるはずだった。もう二度と、会わないはずだった。これまでと同じ、一緒に居て利用されるのも、利用するのも嫌だったのだ。
「おい、待てよ」
だが男はしつこくついて来る。やはり政府の人間だったのかと、自分の愚かさを呪った時だった。
「忘れもん」
その声にはっとして振り返ると、男の手には小さな石が置かれていた。慌ててその大きな手からひったくると、男はやや嬉しそうに彼女を見る。
「余程大切と見えるな」
「別にそういう訳じゃない。……ただ、あると落ち着くだけで」
「なあ、取りはしない、少し見せてはくれないか?」
彼女はただ石を握ったまま、何も云わなかった。この男を信用すべきかしまいか、未だに悩んでいたのだ。
「相当用心深いな」
男は苦笑して見せてから、慣れたもんだとばかりに溜め息を吐く。
「安心しろ。俺も政府から嫌われている身だからな」
「え?」
「たぶん俺を見つけたら、おまえより俺を狙うだろう。だから法術師からは一番遠い奴だと思ってくれて結構だが、それでも駄目か」
突然の告白は先ほどと同じく、信じるべきなのかどうなのかわからなかった。しかし手元にある石が、彼に差し出すよう云っているように感じられたのも確かだ。彼女がそっと石を彼の手に戻してみせると、男は笑顔で頷いた。
だが石を見た途端、男の顔から笑顔が消えた。真剣そのものでじっくり見たかと思うと、何かを諦めたようにかぶりを振った。
「この石はどうしたんだ?」
「……拾った」
「いつ?」
「追われる前に……」
「こんなただの石ころを?」
「なんだって?」
彼女はぽかんとする。その石を拾ったのは狙われる前、学校の訓練所だった。角度によって見える色が変わる、不思議な形をした石だったので拾ったのだ。
「とても綺麗じゃないか、十二色の石なんて見た事がない」
思わず彼女が素直に云うと、男はおもしろいとばかりにまた笑顔を取り戻した。
「ほう、おまえにはそう見えるのか」
そんなものは感性の違いなのではと思った彼女の気持ちを察したかのように、男は言葉を続けた。
「残念ながら、普通の俺にはただの灰色の石ころにしか見えないんだ」
「え、どういう……」
「まだ俺が信用ならないか?」
男は真っ直ぐその瞳を向けて来た。逃れられないようなその射るような目つきは、思わず反論する気を失せさせる。
「付いて来い」
やはり政府の人間かと思ったのも束の間、
「そうすれば、おまえが狙われている理由がわかるだろう」
「なんだと?」
「大変な旅になりそうだぞ、召喚師」
「なんでその事を……」
黒衣の男は大きく笑っただけで、その質問に答えようとしなかった。何か尋ねようとすると、来るぞと呟いて彼女の腕を引っ張ってその場から離れた。逃げたその場所に、爆撃が起こった。
「やばいな、これは……。俺も見つかったら死刑だし、ここからは早いところ逃げるべきだな」
男は周囲を気にしながら、再び口を開いた。
「少なくとも、俺が居ておまえに損はないはずだが、駄目か?」
「──本当に、私が狙われている理由がわかるのか?」
「……ああ、わかる。俺の名に懸けて、おまえをしかるべき場所へ送り届けよう」
未だ彼女は悩んでいたが、男の桔梗色の瞳を見てその躊躇が一瞬にして消え去った。その瞳は楝の瞳を持った彼を思い起こさせた。だがその強い眼光は、連想した人間とは似ても似つかない。この男は、正確にはこの男の瞳は、信じて良いような、そんな懐かしい気分にさせたのだ。
彼女がようやくこくんと頷くと、男はその体躯に似合わず、無邪気に子どもっぽく笑った。
「俺はエース。おまえは?」
「……ジーク」
「偽名を使う時、この国で一番多い名前を使うと逆に見つかり難いとでも教わったか?」
男はにっこりと笑って云う。
「あまりにも流布しすぎている名前を使うと、逆にわざとらしいぞ。数年前までその名はこの国の人口の約三割方居た。加えておまえが使うならエリーラの方だろう。今は知らんが、昔は女子が生まれることをエリーラが生まれると云ったほど多かったんだから」
「なっ……!」
「隠しているつもりだったのだろうが、最初からばれているぞ」
ぐっと言葉に詰まる。男装しジークという有り触れた名前を使って何日も経つが、名前と性別、両方がばれたのは初めてのことだった。やはりこの男は侮れない。
しかしこの男から漏れる眼光には、とてつもない魅力があった。その桔梗の瞳は彼女を照らし、この逃げ回るだけの生活を変えてくれるような気がした。
「……アリス」
「良い名じゃないか、男装して隠すなんてもったいないな」
男は良い笑顔を見せながら云った。
「……同じ名前だったな」
と何やら付け足したが、それははっきりと聞こえなかった。
「何か云ったか?」
「いや、別に」
男エースはかぶりを振ると、それじゃあ逃げるぞと突然駆け出した。アリスは自然と彼の後を追って、逃げ回っていた町を飛び出した。