第17話:睦月の目覚め
それは、とある睦月の情景。
その間、睦月は眠っていた。あちこちでさざ波が聞こえるこの祠で、自分がここを出るその時が来るまで、毎朝の召喚の度に力を出していた。それが当たり前のことだったのだ。彼女にとっては、少なくとも。
理不尽にここで眠り、既に4年が経つ。外は何やら騒がしい。しかし眠っている彼女にその喧騒は届かない。声が聞こえた。外には出たくない、嫌だった。だがその声がとても懐かしく、知っている人に思えた。そんなわけはないのに、まさか自分にもそんな情が残っているとは思わなかった。師走でもないのに。水無月でも、まして長月でもないのに。
私は睦月。流れ行く物事をそのまま受け入れる睦月で居る。しかしどうやら、そう大人しく済む問題ではない。
「睦月、目覚めなさい」
彼女はその声に、惹かれている自分を感じた。
・・・・・
「え?」
振り返るとそこに居るのは幼馴染の姿。いつになく真剣そうな顔をして、あたしを見て来る。
「なんだよ」
「聞こえてたでしょう」
こみ上げる感情を抑え込むように、彼は静かに云った。彼と対峙して、冷や汗が出たのは初めてだ。武術も勉学も、彼は人並みだった。むしろ武術はいつもあたしが勝っていた。だからこいつに恐れを感じることなんてないはずだった。
「変わるんだよ、この国は。ガーネット」
彼は続ける。あたしを呼んで、彼は続ける。
「陛下はこの国がこのままでは死ぬことを恐れている。枯渇して何もなくなってしまうことが、とてつもなく恐ろしいことに感じる。それは俺も同じだよ。ガーネット、君もそうは思わないか?」
この国で生まれ、この国で育った。地位と財産を手に入れた両親を持って、あたしはのんびりと暮らしていた。だからこの国が崩壊すると聞いても、どうも現実味が沸かない。だが目の前の風景を見れば、それは火を見るよりも明らかで、何よりも心に打ち付けられる現実だった。
「だから俺は、行かないといけないんだ」
「あんたがそんなこと、する必要ないでしょ?」
正義感に溢れた奴ではない、ただ単に純粋なのだ。純粋にこの国が好きで、この国がなくなることを恐れている。それは陛下と同じだ。だから彼はこの国のために捨てる。自分の地位を。自分の財産を。自分の宝を。この国を守るために、すべてを捨てるのだ。
「あんたがそんなことして、どうするのよ」
「問題ないよ、俺は元々王子なんて向いていなかったんだ」
その目を見れば、何を云っても無駄だとわかっていた。だから、あたしにできることは一つしかなかった。
「じゃあ、あたしも行くよ、クウォルト」
・・・・・
師走の時のように石を祭壇に置くと、まばゆい光が放たれた。反射的に目をつぶって光が収まった頃に目を開けると、そこには一人の女性が立っている。
背はアリスより少し大きいから、女性にしては高いほうだろう。無表情なその顔は中性的で、短い髪から一瞬男性と間違えそうになる。その額に埋められているその赤い石が、人ではないことを物語っていた。
彼女はアリスを一瞥し、それから師走を見て顔を顰めた。
「──師走、なんでおまえが先に起きているんだ」
「おはよう、睦月。でも偶然だよ、師走祠が一番近かったから。悔しい?」
師走があっけらかんと返せば、睦月は不満そうに頷いた。すると師走もうんうんと頷いて、
「俺もできれば、睦月の寝起きには関わりたくなかったんだよ」
と軽口を叩く。すると睦月は素早く彼の横に来て、ぱんと師走の頭を叩いた。
「暴力はんたーい」
「まったく、莫迦かおまえは」
云って睦月はぐいと師走の手を取る。師走は顔を顰めてその手を振り払おうとするが、睦月の力が強いのかもがく形になり解放はされない。睦月がさらに力を込めると、そこに赤い光が広がった。師走は嫌そうに顔を顰めたままだったが、黙ったままその成り行きに任せている。赤い光が止んだ瞬間、睦月は唐突に師走の手を離した。力が入っていた彼は反動で倒れて、その場に座り込む。
「あのねぇ、睦月……」
息も切れ切れに師走が何か云おうとするが、睦月は涼しい顔で返す。
「どれだけの力を無謀に使ったんだ、おまえは」
「だってしょうがないじゃん。状況は睦月が思っているより悪いんだ」
「これからは変な力の使い方をするなよ。それ以上歪みを増やされたら困るんだ。ただでさえ、魔法使いが調整者の不在でジンを溜め込んでいるってのに」
師走はその気迫に押されたわけではないだろうが、黙って頷いた。そこでようやくアリスは腑に落ちる。今まで師走とたった二人きりであったから、おそらく彼はずっとアリスにガードをかけていたはずだ。何かあっても完全に守れる自信がないと彼は云っていたから、少し無茶をしていたかもしれない。しかしそれは今、法術師が使っているような禁忌魔法と隣合わせの力だ。あまり使って良いものではない。それによって生まれる歪みが、召喚師をぐらつかせる。睦月はその歪みを今消し去ったのだ。召喚師が召喚師としての力を得て作られてしまう歪みは、人霊によって片付けられる。片付けられなければ召喚師は滅びを迎えてしまう。養母であるラナが、昔教えてくれたことだった。
「無茶をさせていたようだな。気付かなくてごめん、師走」
アリスがすっと手を差し伸べると、師走は笑って大丈夫だよと答える。
「あんた……」
そこでようやくアリスを認めた睦月が、いきなりぽつりと呟いた。振り返ると彼女はあ、と云ってかぶりを振った。
「あ……いや、もしかして、ルヴァガ家の者か?」
「ああ、うん。アリス・ルヴァガだ、よろしく、睦月」
睦月が少し驚いたようだが、アリスの横で師走はさらに驚いている。
「あれ、本当にルヴァガのアリスだったんだ」
「え、云っていなかったっけ?」
「師走、そんなことも確認していなかったのか?」
「いや聞いてたけど……良いじゃん、ちょっと慌ただしかったの。──睦月もちょっとは考えて物を云いなよ。いちいち反応されていたら、アリスだってやり難いんだから」
「へえ……」
睦月は物珍しそうに師走を見る。その容赦ない雰囲気に、師走はまた嫌そうに顔を顰める。基本的に人の良さそうな笑顔ばかり見せていただけに、アリスはなんだか新鮮な気持ちでやり取りをみてしまう。
「なんだよ」
「いや、師走の言葉だとは思えないほど、優しかったからな」
「それは否定しないよ、自分でもびっくり」
師走は苦笑して答えたものの、しかし顔を上げた時にはその笑みも消えていた。祠でアリスに石を渡した時の、しっかりとした強い表情に満ちていた。
「でも俺はもう、忠誠を誓ったから。アリスの後なら何所にでも行く、そう決意を固めた」
「──そう、おまえが、まさかね」
睦月はそれこそ珍獣でも見るかのように師走をじろじろと見る。しかし彼は予想していたようであり、じっと真顔で彼女に返していた。
睦月の反抗的な態度はしかし、アリスから見れば別に不快感などなかった。それはむしろ、人霊として警戒して当然の、ごく当たり前の感情なような気がした。加えて今回は特殊だ。知らぬ間に前の主が死に、こうしていきなり現れた新たな主は、いかにも頼りない20歳前の娘で、劣等の塊である孤児なのだから。
「睦月が信じたくないのなら、別に私を信じる必要はない」
「アリス」
「だけど私は自分の信じた道を行く。私は師走を信じた。だから今起きていることも、自分のことも、すぐには難しいが受け入れて行くつもりだ。私は師走を信じてその上で自分の道を作った。だから睦月も、私が幾ら主だからって、無為に信じる必要はない。私に付いて来たくないのなら来なくても良い。──私はおまえに、来て欲しいと思うけれど」
それはアリスの本心だった。劣等感の塊であるアリスは、まだ正直、自分が精霊召喚師であることなど認めていない。だが事実はそうだと云う。ならそれを信じるしかない。だから人霊には居て欲しい。しかし彼ら人霊はどうだろうか、こんな自分を新たな主として認めて良いのだろうか。認める認めないに関わらず、彼らはアリスに付いて行かなければならないのだ。そう考えると彼らが付いて来るのはアリスではなく、単なる精霊召喚師だ。それがなんとなく、嫌だった。傲慢だと思われるかもしれない、だがアリスとしては、自分に付いて来て欲しかった。師走が王太子殿下を慕うのではなく、ウォルエイリレンを慕うように、アリス個人に付いて来て欲しかったのだ。
やがて睦月は、付き物が落ちたかのように肩を落とすと、
「まったく」
と呟いた。
「だからルヴァガは、本当に嫌になるんだ」
「睦月」
師走の咎める声にも彼女は耳を貸さず、アリスの元に行くとすっと手を出した。アリスも釣られて手を出せば、ぽんとそこに置かれた。睦月の石、ガーネット。
「よろしく、アリス」
睦月は涼しげに笑って云う。
「あんたしか居ないんだ。ウォレンを連れ戻して、魔法使いを抑えられる人は」
起きたばかりであるというのに、彼女もやはり、詳しく事を理解していた。アリスはただ頷いて渡された石とは別の手を伸ばした。睦月はきょとんとしていたが、また照れくさそうに笑ってその手を握った。
しかし手を離した次の瞬間にはまた無表情に怒りを収めるが如く、師走の頭を叩いた。
「先に起きたのなら、情報を整えておけ。まったくおまえともあろうものが」
「ウォレンのことはだいたい教えたから、他は睦月に任せるよ」
「このサボり魔が」
どうやらこの二人はいつも、こんなやり取りのようである。
「ごめん、元はと云えば、私が無知なのが良くないな」
アリスが苦笑して云えば、睦月がきょとんとした顔で彼女を見返す。
「まあ、精いっぱい勉強にも努力はするから、よろしく頼む」
師走が痛い痛いと騒ぐ横で、睦月は小首を傾げ、それからにっこりと微笑んだ。 綺麗な笑顔だった。
アリスが2人目の仲間を手に入れたのは、もうすぐ年が明けイシュタル歴499年を迎えるという、師走も終わる頃であった。




