第16話:過去と未来への系譜
「アリスー、そろそろ出るよ?」
「んー……」
場所はちょうど、ケーリーンの少し前。レイシュ町も後少しというところで、アリスと師走は小休止を取っていた。歩きながら師走がべらべらとアリスに状況を教えているので、あまり頭を休める閑がなかったのだ。だから師走は気を遣って身体も共に休んだのだが、アリスは紙を片手に立ち上がる気配がない。
師走は思わず、溜め息を吐いた。
「アリスー、覚える必要はないんだよ」
「んー、そうなんだけど、あとちょっとだから……」
「そんな真剣になる必要はないよ、アリス」
師走が云ってもアリスは紙から視線を逸らさなかった。新たな主の真面目さを知らなかった師走は、さらりと書いてしまったことを後悔したが今さら遅い。
言葉ばっかりで説明しているからわかり難いだろうと、師走が王家の家系図を書いた。しかし師走がなんの迷いもなく書いた王家の家系図に、アリスは頭を悩ませた。そこまでわかり難いわけではないのだが、何せ14人も居るものだから、そして彼らの大体が既に新たなトゥラスとして家庭を持って居るものだから、何がどうなっているのかわからなくなってしまったのである。確認するためにあれこれ書き込んでいる間に時間が過ぎて、さらに師走の我慢も限界に達したのである。
「名前だけで人を覚えるのって難しいよ。またちゃんと覚えるのは会ってからで……」
「──うん、でも覚えた」
師走の説得も終わらぬうちに、アリスはすっきりした声で云った。
「え、覚えた?」
師走がぽかんとした顔で聞き返すと、アリスはさも当然の如く頷き返す。
「時間をもらったんだから、覚えられるよ。できれば次の休憩の時に、城主と領主のことを覚えたいんだけれど──」
「ちょ、ちょっと待って、アリス!」
次々とやる気を見せているアリスとは別に、師走は戸惑って叫んだ。アリスはきょとんとして彼を見るが、黙って彼の言葉を待っている彼女を見て、また師走はぽかんと間抜け面のまま黙り込んでしまう。そんな師走にアリスは苦笑を送った。
「ごめん、時間をかけすぎたか?」
「いやいやそうじゃなくて……。アリス、本当に覚えたの?」
「だから覚えたって云っているでしょう。紙にまとめてくれれば、だいたい覚えられる」
王家の正しい家系など、王宮貴族ですらあまりわかっていないというのに。師走は絶句して新たなる主を見る。しかし彼女は平然として説明をする。
「暗記は得意なんだよ。実技ができない分、そっちで点を稼いでいたの」
「とは云っても尋常じゃない早さだよね」
「──自然と入ってしまうんだ。もう止めないといけないとは思っていたけれど、どうやって止めるのかわからなくって、ずっと黙って使っていた」
「どういうこと?」
「──あ、え、ううん。なんでもない」
まただ。
師走は思う。
師走は久しぶりに、早いうちから心を許せる主と出会えたことが嬉しかった。しかしその主は、こちらに対してまだ心を閉じているのだ。もちろんいきなりの生活の変化で混乱しているのもあるのだろうが、彼女は意図的に話さないことがある。その度に師走が知らないふりして笑顔を振りまくと、彼女はほっとしたように溜め息を吐く。
これは、そんな時だ。若干不満を感じつつも、師走はそれは凄いやと阿呆を演じながらにっこり笑う。
「それじゃあ、安寧王の子全部云えたりしちゃうの?」
「まずはガーニシシャル・イシュタル・アリカラーナ、
シャルンガー・ロッド・アルクトゥラス、
レイシャン・ダガー・エリングトゥラス、
バラスター・ダナ・セラネートゥラス、
ナナリータ・レンタ・シュベルトゥラス、
リズバドール・ジーク・ランディトゥラス、
レディアナ・ローズ・ガーデントゥラス、
クルーフクス・ニー・ショウディトゥラス、
クロードバルド・カイ・パルツァントゥラス、
リナリーティーシア・リリア・アランダトゥラス、
ゴルゴーデン・バン・シャンメイトゥラス、
スティーク・ド=レス・ダカンタトゥラス、
ヴァーレンキッド・リュウ・バーテントゥラス、
レグルスアンド・バルド=サン・イリシャントゥラス──」
師走が確認する間もなく、あっと云う間にアリスは云い切った。トゥラスだけではなくまさか正式名までだとは思っていなかったために、師走はまたしても呆然としてしまった。しかし淀みのなかったアリスの声が突っかかり、行き場をなくして宙ぶらりんのまま、口を開けて虚空を彷徨っている。
「後、一人居るけど」
師走が敢えて云うと、アリスはやはり言葉に詰まった。しかし思い出せないというのではなく、少し躊躇ったようだ。躊躇って云うのを止めようとしていたらしいが、結局ぽんとその名は飛び出た。
「……シャエラリオン・ミレーネ・ハーレントゥラス」
「アリス……」
「──これで、全員かな」
アリスは言葉に詰まったことなどまるでなかったかのように、表情に上塗りをする。
「次は城主と領主か。できれば紙に書いて欲しいけど、お願いできる?」
師走ははっとして頷く。
「うん……」
シャエラリオン。シャエラリオン・ミレーネ・ハーレントゥラス。シャエラリオンの名を王宮貴族で知らぬ者は居なかった。バルバラン家とイシュタル家の決裂の原因ともなった第4王女で、安寧王最後の娘ではあるが兄である定成王との年齢差で既に親子ほどだったために、彼が特別にかわいがっていて、一部貴族には定成王の子だと認識されているほどだ。
そんなあやふやな記憶でも、人々の頭には残っている。いつでも冷静であった定成王が怒りのままに、エリンケという犠牲を生んだがために──。
シャエラリオンのことは王宮貴族では誰でも触れない。今では侍従を一人だけ置いてひっそりとサファイア城に身を置く生活をしているが、定成王が崩御しトゥラスが喪に伏して居る時も、彼女はそこから姿を現さなかった。子どもを連れて行かれてしまったことが、彼女の中の空洞を生んだようだ。
アリスはいったい、何を隠してるのだろうか。
師走は今頃になって、なんでも知っている気になっている自分を恥じた。師走はアリスのことを何も聞いていない。聞こうとも思っていなかった。ついでに彼女の話を聞いていて、なぜ知らないのかと思うことも幾つかある。ただこれから、彼女は深く世界に影響を及ぼして行くだろうことが予想されて、ならば早く訊かなければならないと思いながらも、彼女の笑顔を見る度に言葉に詰まる。
似ているのだ、あの人に。
師走を間違っていないと云ってくれたあの人に。
師走を正しいとは云わなかったあの人に。
そのまま姿を消してしまったあの人に。
「リーシュカ……」
ぽつりと呟くと、アリスがえ? と小首を傾げた。師走は思わず苦笑してかぶりを振った。いや、違う。それよりもずっと前の感覚。まだ自分が師走になったばかりの頃の、あの気持ちだ。
そうだ、彼女、初代精霊召喚師は云われた。
──なら、笑っていれば良い。
だから師走は、笑っていると決めた。
──私はそれで、随分落ち着く。
「はいはい、次は地方だね」
にっこりと、師走は微笑んで云う。そう、師走はこうでなくてはならない。アリスはきょとんとしていたが、彼女なりに気を遣ってくれたのか、彼女も穏やかに微笑んで笑ってくれた。
「ところで」
と歩き出したアリスは、また話を元に戻す。
「このアルクトゥラス家とシュベルトゥラス家は今、王位継承するとして、他の人たちは動かないっていったいどうしているの?」
「うーん、簡単に云えば黙認、かな」
「黙認?」
アリスは不思議そうに云うが、トゥラスはそこまで簡単に説明ができない。アリスが今ほぼ数分で名前を覚えたように、そこにある複雑な糸まではわからない。今師走が説明したところで、アリスにうまい具合に通じないだろう。そしてほとんどのトゥラスが今のところ、黙り込んでいるというのは確かなのだ。
「云い忘れていたけど」
と、師走は続ける。
「アルクトゥラスは王位を望んでいるわけじゃあないんだよ」
「え?」
「シャルンガーはロートが王位継承権をもらった時に、アルクトゥラスの全権を長女のメイリーシャに、つまりロートの妹に譲ったんだよ」
「その妹というのは?」
今何所にとか、今何をしているとかいろいろ聞きたかったのだろう。師走にもわかったがしかし、彼女が今何をしているのかは知らない。
「メイは生まれた時から身体が弱くて、王宮貴族の端の荒れた土地で養生しているんだ。あ、アリスはルダウン=ハードクって知ってるかな?」
「え、ああ、貴族、だっけ?」
かろうじて聞いたことがある、程度の認識でアリスが答えるのに、師走は笑って頷く。
「一応あれでも王宮貴族なんだけど、その現当主の息子がメイの旦那。メイは幼い頃から、ルダウン=ハードク家で暮らしているんだ」
「それは……許嫁とかそういう話?」
アリスの素直な解釈に、師走は思わず笑ってかぶりを振る。普通はそう思うだろう。あの奇人変人と囁かれるルダウン=ハードクに王弟シャルンガーが大事な娘を預けたのは、彼女の病が生まれた頃から深刻で、かの地なら治せると云うルダウン=ハードクからの申し出があったからだ。その言を鵜呑みにしたわけではなかったが、ガーニシシャルもそうするよう勧めて、メイリーシャは学院を中途退学し王宮を離れ、ルダウン=ハードクの家で暮らすことになった。
それは彼女の身を案じるのも当然のことながら、将来ウォレンの妻に、未来の王后になる可能性がある者へ、ガーニシシャルからの処置でもあった。だが病状も良くなりガーニシシャルがその話を出した時、彼女の心が既にバックロウ・ルダウン=ハードクにしか残っていなかったのは、誰もが考え付かぬ多いなる誤算だった。まさかあの人物がと、今では舞台の喜劇にもなるほどにおかしな展開であった。
この可笑しさは当人に会わないとわからないだろうと、師走はアリスへの説明を打ち止める。
「メイは身体は病弱でも暴れ馬だからね、今回のことを知ったら黙ってないと思うんだけど」
「それじゃあ彼女自身は事実を何も知らないんだ?」
「うん、唐突にウォレン大好きなロートが王位を狙って、シャルンガーから当主を譲られたから、意味わからない状況に動揺しているのかもね。だからアルクも実のところは黙認。動いているのはシュベルのナナリータぐらいなんだよ」
彼女だけだ。法術師に良いように扱われている彼女だけが、見事術中に嵌まって動けなくなっている。もしリレインが脱落したらおそらく、エリンケ援護に付くだろう。
歩き続けて唐突に開けた景色の先には海岸があり、ざんっと波の音が響いた。ずっと海側を歩いていたから波の音は聞こえていたが、目の前で見ると迫力が違った。
「うわぁ……」
アリスがその広い海原を見て声を上げる。その無邪気そうな笑顔に、師走はほっとする。アリスがいったい何を隠していようが、時折見せる年相応の笑顔に嘘はないのだろうと。
アリスは白い腕をすっと海に伸ばして、ずっと遠くを見遣った。
「ねえ、この外には、いったいどれだけの人が居るんだろうね」
「え?」
「私アスルで育ったから海にもあまり出たことなかったけど、これだけ広いんだから、外の世界にはもっと大勢の人が居るんだろうね」
師走はあまりの発言に、言葉に詰まる。
「その人たちは、いったい何を考えて日々楽しく暮らそうとしているのかなぁ」
──だったらお姉様のやっていること、間違っていないと思うのよ。
──私たちがそれだけ幸せということなら、おまえたちが居ない国はどうなのだろうな、師走。
記憶が流れ込んで来る。
人霊はかれこれ500年、この国と共に生きて来た。記憶は消えないが日々消化されていく。そうでないと、記憶がこんがらがるからだ。彼らなりにけじめをつけて、新たな精霊召喚師に付き従い新たな王に叩頭する。良い思い出もある。その分、嫌な思い出もある。ただその跋扈する記憶の中で、色褪せず綺麗なまま残っている記憶もある。
アリスはそれを、思い出させてくれる。
──この国のために、どうしておまえは犠牲になる。
師走は微笑んで答えた。
「きっとその答えを、今出している人が居るよ」
「え?」
「そのうち、アリスにはわかるよ」
いきなり嬉しそうな顔をしたからか、アリスはきょとんとして首を傾げていた。そんなアリスに、師走は今まで黙っていたことをようやく話せた。
「ねえ、アリス、ここまで云って難だけど、正直な話をして良いかな」
「ああ、構わない」
不思議そうな顔をしていたアリスが、真顔で頷いた。
「アリスが立ち上がったところでウォレンが出て来なかったら、この戦い、なんの意味もなさないんだ」
そう、それはわかっていたこと。
4年、何せ4年だ。それも法術師から姿を消すなど、並大抵のことではない。国外に出たかもう生きていないか、はたまた芝居の上の、伝説の土地にでも逃げ込んだか。それぐらいしかなく、幾ら呼び込んだところで来ない可能性が断然高かった。
だが──。
「だけど俺は、ウォレンを信じている。4年間放置されていた苦しみは、俺にはわからない。ずっと眠っていただけだから、ルウラの自害も俺は責められる立場じゃない。ルウラもウォレンを責めるために命を捨てたわけではないから。だけどあいつは、やっぱり戻って来ると信じている」
ずっとウォレンを見ていた。定成王が54歳にしてようやく設けた第一子であった。定成王に遠慮して子どもが居なかったトゥラスにも、次々に子が産まれた。その中で既に王としての頭角を現していたウォレンは、定成王から教えられる厳しさと、王后ルナから教えられる優しさと、両方をうまく呑み込んで王としての気質をうまく兼ねそろえていた。
しかし途中でそのバランスが崩れてしまった。崩したのはそして、定成王である。
10歳の誕生日に定成王はウォレンを呼び出した。父から呼び出しを受けることは滅多になく、おめでとうの一言でも云ってもらえるのだと期待して彼は行ったと云う。しかし定成王の部屋に行って、連れて行かされたのは後宮であった。
定成王は焦っていた、と王佐ヴァルレン・アゴアードは云った。
定成王は真剣だった、と宰相ルダウン・アガットは云った。
定成王は迷っていた、と宰聖デュロウ・ライロエルは云った。
定成王は悩んでいた、と宰喚ルウラ・カルヴァナは云った。
すべてであったと師走は思う。そもそもウォレンが生まれたのが遅かったし、定成王は国に何も与えられないことに焦っていた。だからせめて自分の子どもが、自分の血がつながる誰かが確実に居て欲しかった。世継ぎを残し、後世にも自分の血を継ぐ誰かが玉座に上がること。誰も知らぬことではあるが、その王としては当たり前のことが、このアリカラーナを存続させる上で重要で、アリカラーナとしての最大の仕事であった。
アリカラーナとなる者はこのアリカラーナの摂理を教えられる。しかしそんな摂理があることは、アリカラーナと人霊しか知らない。そしてそれはアリカラーナの血を継ぐこと、分家には譲ってはならないことに直結している。だからなんとしてもウォレンに王の座を継ぎ、そして世継ぎが自分が生きている間に生まれて欲しかった、のだと思う。それはもちろん、師走の勝手な想像で、実際定成王が何を考えてウォレンに接していたかはわからない。
しかしそれも叶わぬ夢となった。
定成王としては現実を見るために、そして少しは思いやってしたことであった。だがしかし、それは息子の為には何もならなかった。むしろマイナスに傾いた。ウォレンは歪んでしまった。内々に行なわれていた縁談にも冷めた調子で、 結婚するのかと訊いたらどうだろうねとまったく興味を示さなかった。剣には熱く、勉強にも熱心で、しかし縁談となると表情を消す。あの壊れた表情を、師走としては見てなど居られなかった。いつも無邪気に微笑んでいたウォレンに、突然あんな顔などして欲しくなかった。だがなんとしても、ウォレンは玉座に即けなければならない。王が居ないのなら、 この世の摂理を知る唯一の存在として、自分が動かなければならない。
師走はアリスに向き直って云う。
「だから君をここまで巻き込んだ。──怒るか?」
アリスの口が動いたが、ざあっと波の音で消された。訊き返そうとしたが、途端にアリスが大きな声で云った。
「莫迦じゃないか、おまえ」
「え?」
しかしアリスは静かに怒っているようだった。
「そんなことで怒っていたら身が持たない。第一、私は取り敢えず精霊召喚師として立ち上がったんだ。今国に精霊召喚師が居ない、それは私に取って立ち上がるに値することだと思う。今さらおまえがそんなことを訊いたことに少し苛立ってはいるが、殿下に対しての怒りはない」
あっさりとした声で云う彼女は、目を細めて後ろを振り返った。師走も釣られてみるが、そこには何もない。ただ遠くに町の風景が見えるだけである。
──ここから王都は、遥か遠く。
あそこで今、とにかく波乱は起きている。ならそれを正すことが、彼女の役割だ。ウォレンが来る来ないも関係ない、悪を正す善となれ、確かにその通りである。
くるりと振り返ったアリスは、射抜くように彼を見た。
「でも、師走」
「何?」
「おまえは殿下が戻って来ると信じているんだろう」
そうして彼女は、まるで何も憂いなどない、無邪気な笑顔で笑った。
「なら、それで良いじゃないか──」
信じる。
それは簡単なことではない。信じた末に裏切られることなどまま在るのだ。特に人霊は何があっても精霊召喚師には逆らえない。精霊召喚師に召喚してもらっている身であるから、逆らえば己を封印されて終わりだ。師走は忠実に主を信じた。選ばれてやってくる主を信じた。彼らはたいてい優しかった。
だが、一人だけ、違う人が居た。ただ一人異質なその人は──。
師走はかぶりを振る。思い出したくはなかった。
だけどアリスは、信じてくれるという。信じると云う。会ったこともないウォルエイリレンという男を、師走の言葉だけで簡単に。ならば師走は、責任を持ってウォレンを信じること。それだけができることだ。
「ありがとう。──それじゃあ行こうか、アリス」
「うん」
睦月祠は、そこに見えていた。
・・・・・
アカギ・スズガは目を覚ました。
なんだか寒気がして目が覚めたのが、そこでうつらうつらしているうちに、今度は暑くなって来た。
──どうにも慣れない。
美しいところよ、とあの人は云った。見て来たいなら見てくると良いとも。だが流れ着いたスズガは果たして何所をどう行けば良いのか、あの人の名すらわからないまま、こうして一年あちこちをほっつき歩いた。こうしている分は別に問題などない、だがこの気候にはどうも慣れない。
スズガの国は快適な温度をいつもくれる。時に暑く時に寒いが、この国よりはずっと平生である。だがこの国は一年もの間、どうしてこんな不安定なのか。訊いて尋ねるに、ここ数年のことであると農家の人は云った。ここ数年、たった数年でそうなるのかと、スズガは不思議に思わずに居られない。
そろそろ移動するかと起き上がったところで、バタバタと騒がしい音がした。どうやらスズガの居る木が生えているでっかい屋敷に、数人の役人が乗り込んで来たようである。領主の家に武装した役人とは、朝っぱらからなんとも穏やかでない景色にスズガは顔を顰めた。出て行く雰囲気ではないと高みの見物を決め込むことにする。
「これはこれはマデレン卿。いかがなさったのかな」
無賃でスズガを泊めてくれた心優しい領主バルーム・テリスは、穏やかな微笑みで彼らを迎え入れた。一方マデレンと呼ばれた役人の筆頭に立つ男は、険しい顔をしてうむと頷く。
「アスルで見習い召喚師が大罪を犯し逃げ出したのだ、テリス領将」
「見習い召喚師が?」
いきなりの話に、テリスも白い眉に隠された細い目をぱちくりとさせる。しわしわのその顔に浮かんだのは、紛れもなく困惑と皺である。
「はてさて、見習い召喚師が罪を犯しますかな」
「見習いだからこその罪であった。詳しいことは自治町のことで云えぬが、知らぬか」
「知らぬなぁ」
テリス卿はぽりぽりと頭を掻いて、そしてまた、はてと続ける。
「それよりどうしてアスルのことであるのに、法術師が手を出しているのだね、マデレン卿」
ただの疑問だよと云うように、不思議そうに尋ねるとマデレンは目を細めた。
「法術師にも関係のあることだからだ。詳しくは話せぬ」
「法術師と召喚師、両者に関係のあることと来たかね」
マデレンをまるでからかうように、彼は大声を上げた。
「そんなことは一つしかなかろうに」
「──失礼した。この者を見かけたら、至急教えて欲しい」
云ってマデレンは紙をテリスに手渡すと、役人と共にさっさと姿を消した。やれやれと云った風に役人を見送ったテリスは、ぐいとそのまま顔を上げて叫ぶ。
「もう出て来ても良いだろう」
「──どうもありがとう、テリスさん」
よっと身を起こして、やっとのことで地面に降りた。軽い身のこなしですとんと地面に着地すると、テリスは御見事と笑ってくれる。
「朝っぱらから騒がしいことこの上ないですねぇ」
挨拶代わりにそんなことを云ってみるが、予想外にテリスは困った顔をしている。彼の視線を手渡された紙へと目が行っている。そこに似顔絵が掲載されているのは、一人の少女であった。その微笑みには似合わぬ、下には指名手配の文字が飾られている。
「あれ、彼女……」
スズガが怪訝に思ってそれを見つめると、テリスははっとしたようにそれを丸めた。
「は、いかんなぁ、やはり、そういうことなのか、いやしかしなぁ──」
「どうかしたのですか、テリスさん」
よくわからないままに尋ねてみると、テリスはふっと不適な笑みを浮かべて答えた。
「いやぁちょっと異国人にはうまく説明できぬが。もしかすると、もしかするのかもしれない、そういうことですわな」
この国に来て一年しか経たないスズガには、その意味など理解できようもなかった。だがしかし、その人はどうやら、スズガの探し求めていた人のようであった。名前は、アリス・ルヴァガ。




