第14話:彼らの置かれた現状
「イーリアム城?」
近くの故郷で思いを馳せている者が居るとも知らず、アリス・ルヴァガは今までの自分の生活からあまりにも離れた名前に首を傾げる。隣で新たな僕は煩いぐらいに頷いた。
「そう、ちょうど東にあるエトルっていう町にある城塞だ」
イーリアム城もエトルという町の名も聞いたことはあったが、詳しくは知らなかった。ただ穏やかなで自然の多い綺麗な町だと、級友が云っていたことを思い出すぐらいだ。東にあるその町の守り神は卯月。祠が一番近いという単純な理由だが確かそうだ。
「でもケーリーンを通らなければならないから、西に行った方が得策じゃないか?」
「それはごもっともな意見なんだけどね」
師走は云って溜め息を吐く。
レイシュ町の隣に大きな土地を持つのがケーリーンであることは、アリスも知っている。レイシュ町の南には2つの町、西のアスルと東のケーリーンがある。そうして双方の町の間にはカーレーンの森があり、2つを大きく隔てていた。 法術師の町ケーリーンと、召喚師の町アスル。それらは決して重なることのない町だった。
アスルは南にラム、テルム、そうして王都イシュタルがあるためにそこまで広くはないが、ケーリーンは海に面した外側にある町だから、それは王都イシュタルと同じぐらい広いと云える。
その現実に、師走は頭を痛めている。
まず彼が教えてくれたことは、王太子の仲間が城塞で云えば4組しかないという厳しい事実だった。最初はあらゆる城主が王太子を信じて待ったのだが、あまりにも遅すぎた。そのうちに法術師に呑まれていってしまい、仕舞いにはここまで堪えたのは東西一つひとつと南2つの城塞だ。西エルアーム、東イーリアム、南ラドリーム、クラファーム城。元々北に住んでいた上、逃げ回って北上してきたアリスが行くのはどれも遠い。そうしてアリスたちにはやらなければならない使命がある。
「良いか、俺たちはまず季節軸に合わせて睦月、如月と起こさなければならない。つまり俺たちは東回りでこの国を 一周することになる。そう考えるとここから一番近い城塞がイーリアムなんだ」
広いケーリーンの町には、2つの祠がある。それが睦月と如月だ。一番に起こさなければならない祠が、そんな危険な町に入らなければ行けないのである。
なるほどとアリスは納得したが、結局不安は残ったままだ。顔も割れているしきっと法術師はすぐに攻撃を仕掛けてくる。そうしたら町に居る法術師だって、アリスを狙って来るだろう。
「しかしケーリーンを通るなんて、あまりにも危険過ぎないか?」
「まあね、だからイーリアム城の奴らを頼るしかないよ」
云いながら師走はこれでよし、と先ほど呼び出した腹心獣霊をぽんぽんと優しく叩いた。すると鳥に犬がくっついたようなその召喚獣は嘴を広げて小さく呟く。
──ルウラ・カルヴァナ自害により、新たなる精霊召喚師が目覚めたり。道中ケーリーン通る故に、力を貸して欲しい。白雪の加護がありますよう。 師走
大人しく通知を出して、イーリアム城の連中に助けてもらう。
それが師走の出した、一番楽な方法であった。
「ここの領主も城主も、なんとまあ生真面目石頭の忠義深い奴らでさ。ウォレンを助けることになるなら、たとえ命を投げ出してでもやってくれるはずだ。だからきっと、ケーリーンで行動する時も静かにしていれば、そのうち助けが期待できる。まあ時間がないから、その間に俺たちは行動しないといけないけどね。要するにあいつらが俺たちの存在に気付いていれば良い」
云って彼は、召喚獣に紺色の瞳を向ける。
「頼むぞ、悧唱」
「御意」
鳥とも犬ともつかない不思議な獣、悧唱は頷いて大空に飛び立って行く。それを無言で二人は見送っていたが、やがてその姿が見えなくなった頃、師走が云った。
「それじゃあ、行こうか」
師走はそれが合図かのように、額布を巻いた。王宮貴族たちや召喚師は知っていても、そこらの町の庶民は人霊の顔など知らない。だから顔を伏せることはしなかったが、額の宝石はどうやっても目立ってしまう。額布を巻くぐらいしか方法はなかったためにそうなったが、 師走は王宮を抜け出す時よくやっていたと笑った。
アリスはケーリーンを通ることがどうしても命取りのような気がして、いろんな案を出したがことごとく却下された。師走が先にイーリアム城に行けばという意見は、危険という一言で済まされた。イーリアム城の仲間を待ったらどうか、という質問に対しては、時間がかかり過ぎると云われた。ケーリーンとエトルの関係は良好ではなく、加えてケーリーンは法術師の自治町である。エトルの、しかも城塞の者がケーリーンに入るには許可のために何日もの時間がかかるらしい。
人霊を起こすのを後にして先にイーリアム城に行くという意見に、師走は一度頷きかけた。だが結局、それも却下されたわけだ。そうするのが一番良いのだろうが、現在人霊の力が足りない。一人でも多くの人霊が起きてくれないと困る、というのである。
「俺一人じゃ、とてもあいつらからアリスを守れないよ」
12の中の1つだけでは、こんなにも魔法が跋扈していては──。とても情けないけれど、と師走は淋しそうに笑った。
そうして結局、二人はそのイーリアム城に向かって歩いていた。もちろん祠に回らなければならないため、海岸沿いを歩くことになる。イーリアム城は海岸近くの城塞だから、二人にしては好都合だった。道中アリスは師走に現状を教えてもらいながら、旅を続けていた。師走は眠っていたが、その間に起きた出来事はすべて召喚獣から教えてもらったと云う。眠っている師走に召喚獣が教えてくれたのだと。眠っていると云っても、別に意識を手放しているわけではなく、祠で休んでいるようなものだ、とも。
そうして得た知識を今、噛み砕いてアリスに教えてくれているわけだ。
「今、次期王候補として3人の名があがっている」
エリンケ・バルバラン。ローウォルト・ディラ・アルクトゥラス。リレイン・シルク=ド・シュベルトゥラス。この3人が、現在のアリカラーナ候補だと云う。正直アリスには遠い名の人々で、誰がなんだかよくわかっていなかった。
「最初王候補として上がったのはエリンケとリレインだ。エリンケはバルバラン家の男だが、彼の父君は定成王だから唯一ウォレン以外に残された子息と云える。リレインは定成王の妹君の御子で、シュタインと交渉の故だと思う」
定成王、ガーニシシャルの血の繋がりはエリンケぐらいしか居ないために、今回引き合いに出されたのがリレインだったのだろうと師走は見解を述べる。トゥラスとシュタインの交渉と聞いて、思わずアリスは怪訝な顔をする。それを察したかのように、師走は苦笑して説明するために口を開く。
「リレインは第一王女、つまり定成王の5人目の子どもナナリータの一人息子だ。二男のシャルンガーは定成王に絶対服従をしていたし、三男のレイシャンは王宮に居ることを厭ってラドリーム城に隠居してしまった。四男のバラスターは元々争うことに頓着しない性格で、今回も無関係を装っている。そこで第5の子どもナナリータが出て来ても不思議じゃないんだが、実はこのナナリータは王后陛下の子ではないんだ」
あっけらかんと云われて、付いて行くのがやっとのアリスはますます難しい顔になる。そんな構えなくても、と師走は余裕しゃくしゃくで笑ってみせた。
「後宮に呼ばれた貴族でもない娘の子で、幾ら5番手と云ってもあまり扱いは良くないんだ。その反発心からか、ナナリータはこれ幸いとリレインを玉座に即けたがっていた。まあそんな母親とは別に学者肌のリーは剣術の長けているウォレンに憧憬を抱いていたけど」
「父君は誰なんだ?」
「ダズータ・バルクオリンズ。王立ルジェストーバ学院の理事長兼教師をやっている。研究命のあいつは元々玉座に立つ権限がないし、息子をなんて考えてもいなかったんだろうけどね」
「じゃあ父君も反対されているの?」
「あくまでシュベルトゥラス家の当主はナナリータだからね。彼女がやることに、彼はあんまり反対できない。頼りないように聞こえるかもしれないけど、あれでも頑固なところがあるし学者なだけに結構な切れ者で、俺は好きだけど」
好きだけど、血筋が良くない。あくまで望むのは定成王ガーニシシャルの血である。
だから彼が王になるのは望み薄だ。
王候補として一人しか出さないとあまりにもうさん臭さが出る。そのためにリレインという者をわざと引き合いに出した。2人の血統を比べればアリカラーナを継ぐにふさわしいのは一目瞭然と云えた。
しかしそこで、手違いが起こる。
「ローウォルト・ディラ・アルクトゥラス。定成王の弟であられるシャルンガーの長男で、ウォレンの従弟に当たる。剣の腕が立つのに正式な雇用を嫌って、軍部の手伝いをしていた自由人だ」
師走は少し、複雑そうな顔をして云う。
「ルジェストーバの学生時代に2人で名を残したほど剣の道での同士で親友だ」
「それなのに、今は王候補なのか」
「まあ正直、リレインに行くより妥当なんだよ。誰がどう考えたって血筋で考えれば、一番ふさわしいのはエリンケで、次はシャルンガーになる。まぁ正直、血筋は同じだから生まれの順番なんて関係ないんだけど、他が黙っているから自然とシャルンガーになっちゃう」
まあ確かに、血筋で云えばそうだろう。バルバランの血筋がどうしても駄目だと云うのなら、先々代アリカラーナ──名をガタルレインダー、贈り名を安寧王と云う──の血を引くシャルンガーが王位を引き継ぐのが妥当と云える。最もガーニシシャルがイシュタル・アリカラーナとなったその時、彼ら弟妹は姓を変えて生きて行くことになるから純粋な血統とは云えない。しかし姓末にトゥラスがつく王族の印があり、尚かつシャルンガーも安寧王と正后の子であるから、彼の血統は充分と云えた。当の本人が反対しなければ、だが。
「ロートは一年前、突如として名乗りを上げた。国を放ったらかして何所かへ消えた男なんて知らないと、反旗を翻したんだ」
師走が不満げなのがありありと見て取れた。
「そんなに信じられないのか」
「……納得していない。俺は未だに覚えている。あの時、あの日、王宮から逃げ出すウォレンを一番に守ったのは、ルウラでも俺でもない、ロートだったのに」
苦痛に歪む師走の顔を見ていたら、顔すら知らない2人の姿が、アリスにも見えて来るようだった。定成王に弟妹は多く居たが、一番年の近かった二男シャルンガーは、兄を王として立てることだけを考え、第2王子で継承権も持っていた云うのに、早々とその道を諦め臣籍に下り、侍従のようなことすらしていたらしい。それほど信頼関係のあった2人の子どももやはり、同じぐらいに仲が良かったのだろう。
師走は辛い日のことを一瞬で忘れたかのように、無邪気な笑顔を見せた。
「まあ正直なところ、ロートの性格を考えればわからないでもないんだけどね。約束を破ったウォレンには怒っていると思う。だからって王になるっていうのはロートっぽくないけど、それほどエリンケに政権を渡したくなかったんだろうね。リレインは頑固に王位を継がないと云っているのに、リーに推しつけるのは辛いところだから」
血筋を第一に重んじるこの国では、今それだけ、リレインには勝ち目がない、ということか。
しかし、とアリスはそこでようやく事態に気付く。
「我ながら気付くのが遅いとは思ったんだが、魔法使いが牛耳っている王宮に、王太子に仲間してくれている人たちは幽閉されているんだったな」
「ああ、たぶん、今は入れないイシュタル城に間違いないと思うけど」
「それって誰も、一歩も出られないほどに強固なのか?」
「──あのね、王宮に居るのは、ほとんど人間なんだ」
人間。その言葉にどきりとする。
それは特別な力を持つ3術師とは異なり、本来ある力でアリカラーナを守る者。武道や剣術、王族はそれらをたしなみとして取得することが多い。つまり王宮に居るのは、そういった力を持たない人間ばかりということだ。
「しかもこの間聖職者は王宮を出てしまった。ルウラは死んだ。人霊が全員起きればまだしも、召喚師の力は相変わらず弱いだろう。 それに対して、法術師は何千、いや、何万単位で居るんだ。寝返った召喚師や聖職者が居ると考えても、王宮で動ける人は居ない。もし動いたとしても、外の民は信じちゃくれない。ね、王宮ってある意味で檻でしょ」
いつも豪奢で守られていると思っていた王宮は、一つ見方を変えるだけで簡単に闇の檻となり得るのだ。
アリスはその様子を思い浮かべて、ぞっと背筋に寒気が走るのを感じた。しかし――。
「だけど、誰も入れないというのは、やっぱり何所からか批判は来るだろう?」
「もちろん、王宮貴族から一番に批判が来たみたいだよ」
と、そこで思い出したかのように、海辺を見ていた師走がアリスを振り返る。
「王宮貴族はわかるよね?」
「詳しく何所の誰がとかはわからないけど、要するに王宮の敷地内に邸宅を持ってらっしゃる貴族だろう?」
「らっしゃる、ってアリス……」
と何か云いたそうにしたが、師走はそのまま言葉を濁して笑顔だけを向けた。
「まあ、良いや。とりあえず、王宮貴族や城下町の貴族らからはもちろん不審を上げる声があった。でも宮内の貴族らが仕方がないとなだめてしまったから、うまいこと丸まってしまった。それに加えて、云い分はあくまで王の不在だから、みんな強く出ることはできないんだ」
イシュタルが第一のこの国で、彼の不在を出されてしまえば、それは不満の声を出し難いだろう。加えて回りの法術師寄りの人々が説得してしまえば、それ以上口を出すことは得策とは云えない。
「地方からの批判はなかったんだな」
「まあ地方だからね。あくまで首都とは無関係だよ。領主は領地が取られなければ、城主は地位が剥奪されなければそれで良いという人も居る」
地方も案外冷たいものだが、それはそれで仕方ないとも思える。王宮貴族らから出たのは、あくまでイシュタル城に入ることに対しての批判なのだ。地方で土地を守っている貴族らは、イシュタル城に用などない。
今はただおとなしく、地方を守っているのが得策と云える。
あくまで文句を云ってくるのは、本当に王宮の様子をいぶかしく思っている者か、便乗して王宮入りしてやろうと思っている者だけだろう。最も王宮に入りたい者たちにとっては、イシュタル城に入れないのは事実辛いところである。今最も王に近いローウォルトにしろ、次だろうと思うエリンケにしろ、アリカラーナの問題が出た後、彼らはイシュタル城から滅多に出てこない。取り入る隙もない、というのがおもしろくはないだろう。
「簡単に云えば、王宮貴族とは、イシュタル門の外に邸宅を構えることのできる人たちを云う、加えて昔はトゥラスを名乗っていた王族だ。召喚師5家もこれに入る。その他に魔法使い、聖職者、人間ももちろん居る」
「そうそう、アスルに属しているとも云っていたが、普段はどちらに居るんだ?」
「両方共家臣に守らせるから、だいたい両方空いていることはない。たいてい当主が居るのは王宮が多い。例外はその家が四師総帥に選ばれている場合だけ自分の陣地に居る。代わりに他の家の当主が王宮に入って、総帥を補佐する形になるな」
「魔法使いと聖職者、人間も決まっているのか?」
「まあ、だいたいは。──もちろん、シュタイン家もその中に入る」
「シュタイン……、ああ、今のロアか」
グレアル・ロア、と人々は呼ぶが、アリスの今までの生活でその名はあまり出てこなかった。せいぜい「あの魔法使いめが」という罵倒の言葉を、学校の教師が吐く程度である。だからどうにも、法術師の話になると、さらにアリスは付いて行けない。
しかしその法術師が、本当に「悪者」だったとは。アリスは妙な気持ちと共に、複雑な気分になる。
「今は息子のアルベランがケーリーンの宅に居る」
そんなことはおかまいなしに師走は続けるが、声はしかし苦々しい。そういえば、あの「使えない莫迦息子」というのも聞いた覚えがあることを思い出した。敢えて尋ねることはせず、アリスはそのまま聞き流すことにした。
「王宮貴族でありイシュタル城に自由に出入りのできるシュタインは、今も王宮内で権威を持っていると云えるだろう。もちろんだからと云って一法術師であるシュタインが勝手にイシュタル城を閉鎖することはできないから、誰かしら、その中に居るのだろうな」
ぼかして云う師走に、アリスは精いっぱい頭をはたらかせて付いて行く。王族でもない法術師、だがしかし、四師総帥の一人がイシュタル城を閉め出す。
「じゃあ、もしかして」
とアリスが口を開くと、師走は複雑そうに笑ってかぶりを振った。
「他のトゥラスたちはやけに静かだから、まだ日和見なのかもしれない。──でも今は既に、王候補が揃っているわけで、トゥラス内で一番有力なローウォルトが出ているだけに、他トゥラスとしては出難いわけだ。だから正直なところはわからない」
わからないと云いつつ、師走の考えは一つの方向へ向かっている。話の最初に出てきた第5王女ナナリータ・シュペルトゥラス。見たこともないその女性を思って、アリスは背筋に寒気が走る。本当に王宮というところは、血にこだわりながらその血を互いに殺して行くところなのだ。血縁というものを生かしながら殺していく、そんなおどろおどろしい場所。今まで王宮など遠い遠い、それこそ異国の楽園だと思っていただけに、知るとどんどん恐ろしく思えてくる。
そんな世界を知らぬ自分に、できるのだろうか。
イーリアム城へ行き、法術師の悪政を訴えることなど。だがやらねばならない。ひとまずアリスができることは、それしかない。しかしそのためには、まだまだ知らなければならないことがそれこそ大量にある。アリスはそれを思うと、深々溜息を吐いてしまうのだった。
「まだまだ、勉強することは山積みだな……」
「そうだねぇ。アリスは珍しく、王宮関係を知らないようだから」
「珍しい、のか?」
ここでも劣等か、とアリスはいっそ笑うしかない。
「まあな、祠でも説明したけど、精霊召喚師に選ばれるのは王宮貴族として王都に領地を持つ精霊5家で、アスル・ミナヅキ地区にも邸宅を構えているんだが、それは知っている?」
「……いや」
「本当に何も知らないんだ」
「いいや。悪いけれど、ミナヅキ地区には行ったことすらないんだ」
近寄るなと云われていたとはなぜか云えなかった。しばらくアリスをじっと見ていた師走は、一瞬真剣な顔を見せたが、すぐにすべて忘れたかのようにまたしても笑顔を振りまいた。
「仕方ないよ。それにそれだけ知らない方が、逆にわかりやすいかもしれない。俺こそ流して説明しちゃってごめんね」
その師走の笑顔の裏に何があるのだろうと思ってしまうのは、やはりまだ人のことが信用ならないからだろうか。今目の前に居るのは紛うことなく人霊で、人ではない神聖なる生き物なのだが、それでもアリスは、まだ信用することができないのだろうか。
アスルの風景を思い出して、ずきりと胸をえぐる。
思い出して嫌な気分になる故郷に、思わず苦笑したくなる。
「だから知っているだろうけど、一応初歩から説明するぞ」
師走の言葉に、アリスは黙って頷いた。何か言葉にすれば、不安が溢れ出そうだった。
「精霊には人間と同じく階級がある。下から獣霊、物霊、大気霊、そして人霊だ」
それぐらいは召喚師学校に14年も通っていたアリスもさすがに知っている。
「召喚師が霊魂を召喚することによって、獣や物、大気までもが精霊として蘇る。その中で一番尊いとされているのが人霊、つまり俺たち暦精霊だ」
アリカラーナが北の大国や西の連合国に何もされていないのは、ひとえにその12人の人霊が存在するためである。彼ら人霊が居るためにアリカラーナは豊かで平和な国で在るのだ。この恵まれた環境を他国は羨むよりむしろ神聖視し、アリカラーナに近寄ることは滅多にない。
つまり人霊とそれを操る精霊召喚師、ひいて国王はこの国にとって要なのである。
「俺たちは他の獣や物とは違い、元々存在がある。眠っているだけだ。だからそれを召喚師が呼び起こすことによって、人々に肉体を見せることができる。ただし呼び出せるのは、選ばれた召喚師、つまり精霊召喚師だけ。今回はアリス・ルアということになるな」
ルアというのは王に仕える精霊召喚師の称号で、民はほとんどそう呼ぶ。王宮での官名は宰喚となり、 この地位は昔から精霊が選ぶために神聖視されて来た。因みに残りの2術師は王による任命で決まり、法術師は宰法、聖職者は宰聖という官名になる。
つまりアリスは、民からはアリス・ルア、官たちからは宰喚ルヴァガと呼ばれることになる。最も精霊召喚師はずっと高いところに居るため、そう呼ぶのは同じく王に仕える宰法、宰聖、宰相、そして王であるアリカラーナだけであろう。今まで天上の人だと思って呼んでいた人の名前の一部が自分に来るなど、なんとなく実感が沸かない。
「話を戻してっと。人霊に選ばれた召喚師は俺たち人霊しか呼び出せない。だが精霊の中では階級があり、すべての精霊は人霊に逆らうことができない。だから、俺があいつを呼べたわけ」
と、長い説明を締めくくって、相変わらず晴天の空を見上げた。先ほど飛んで行った悧唱は師走の呼んだ獣霊で、 ずいぶん長いこと師走と時を共にしているらしい。
「だから人霊を操ることのできる精霊召喚師は、精霊の中で最も尊い存在になる。つまりその他精霊は、気高い人霊を呼び起こすことのできる召喚師と話せるような地位ではないということ」
そこでまた、にっこりと笑って師走はアリスを見る。
「答えは?」
「精霊召喚師は人霊以外呼び出せない」
「わかれば良いんだよ。──あと、精霊召喚師ということを自覚すればね」
その話を知らなかったために、アリスは師走に召喚ができないことを正直に話した。だが師走はそれを一蹴して、今ようやく説明をしてくれたわけだ。召喚師学校で習うことはあくまで通常生活面のことで、遥か尊きルアのことなどわざわざ説明などされなかった。だから精霊召喚師が人霊しか呼べないことに、アリスは驚くと同時に納得する。
何も知らない自分に思わず溜め息が漏れるが、師走はそれを笑って許してくれる。
「今のうちに勉強して、ルアとして立つ時に文句を云われないような度胸をつければ良い」
そうは云われても、劣等感の塊と相反する孤高の強さを保って来たアリスとしては、この状況をうまく理解することが果たしてできるのか不安であった。
アリスは問答無用でウォルエイリレンを王太子にすると云った。4年間も姿を暗ました王太子を。会ったばかりの師走の言を信じて、だ。自分にそんな決断力があったことに、アリス自身驚いていた。しかしあの時は本当に一所懸命話す師走に、心打たれたのである。
4年前、宰法グレアル・シュタインの奸計により、王太子ウォルエイリレンが王宮を追い出された。奪還の手はずはできて居たというのに、王太子はそのまま本当に行方不明となってしまった。その間法術師は禁忌魔法で世界を牛耳り、静かに政界の頂点を治めて来た。それをルウラ・カルヴァナ精霊召喚師が止めるために、自害して道を開いた。その先にできた新たな道、つまり精霊召喚師がアリス・ルヴァガなのである。アリスは法術師の奸計を暴くため、ひとまずウォルエイリレンを擁護しながら、仲間を集めつつ、イーリアム城を目指す予定だ。
王宮ではその間に、王位継承が謳われた。エリンケ、ローウォルト、リレインの3人である。
果たしてこの国の行く先はどうなるのか。
アリスはふと、空を見上げる。晴れ渡っているその風景は、この世の暗さを見せつけない。本当にこの国は、危機が迫っているのだろうか。禁忌と呼ばれる魔法で作られし、この四季は。
「──あ」
「手の込んだことをするねぇ」
晴れ渡る空の元舞い降りて来た白いものに、アリスは目を細める。
「これはこれで風情だけど、いけないよ、やっぱり」
師走はふわりと手を差し出して、落ちて来る雪を見上げる。その先には太陽、落ちて来る雪は冬の香り。
「太陽が照る間、雪が降ってはならないのに」
云う師走の声は、絶望に満ちている。
「ねえ、アリス」
その師走が突如にこやかな笑みを浮かべて、アリスを見た。何と目だけで訴えると、師走は笑ったまま眩しそうに太陽を指差した。
「いつだったか忘れたけど、絵画の好きなアリカラーナが居てね。彼が描いたんだ。この風景を、突然何を思ったのか知らないけど、きっとアリカラーナとしての責任を知った日だったんじゃないかな」
アリカラーナとしての責任というのがなんなのか、アリスにはまったくわからなかったのだが、師走はにっこりと笑顔のまま続ける。
「題名、想像できるかな?」
アリスはふと考える。確かに綺麗な風景だけれど、四季が崩れるその後に来るもの。
「歪み、か」
「──それはやっぱり、知っているんだね」
淋しそうな顔をして、次々落ちて来る雪を見つめる。
「題名は、『終焉アリカラーナの見た風景』」
師走の声は時々そうして曇ることを、アリスは知った。
「これはこの世の終わりの風景なんだ」
いつしか、来てしまうのだろうか。歪みが爆発すれば、法術師は終わりを迎える。法術師どころではない、この国はどうなってしまうのだろう。やはりこの風景が見れてしまうのだろうか。アリスはかぶりを振った。呑まれてはいけない、そう思ったのだ。
アリスは手を挙げて、師走を見つめる。
「これを、止めてくれるんだろう」
きょとんとした顔の師走に、アリスは微笑みかけた。
「おまえたちの信じる王太子が、止めてくれる。そしてもっと自然な美しさを見せてくれる。──そうなんだろう?」
師走は一瞬目を見開いて眩しそうにアリスを見た後、にっこりと微笑んだ。それは一点の曇りもない、正直な微笑みであった。




