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精霊物語─精霊の目覚め  作者: 痲時
第3章 睦月の目覚め
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第13話:想いを持つ待ち人たち


 一人祈りを注いでいた。彼女には今、それぐらいしかすることがなかった。いや、できることなど他になかった。イシュタル城に入ることを禁じられ、彼女はただ一人肩見狭い中でも王宮貴族として祈るしかなかった。

「ここに居たのか、ドクトリーヌ」

「お父様……」

 広間の宗教像を前にしていた娘に、ヴァンガン・ドット・アセットは少し哀れむように声をかけた。

「祈ったって何も出てきやしないよ、ドクトリーヌ」

「わかっておりますわ。でも他にすることもございませんの」

 云って女性ドクトリーヌ・ル=ラ・アセットは優美に微笑んだが、果たしてうまく笑顔を向けられた自信はない。彼女が笑う度にヴァンガンは何所かしら複雑な表情を見せるのだ。しかし彼は彼で、敢えて慰めを云ってくることもなかった。

「では命じよう。セレリー卿より話があるらしい」

「……お父様、何を考えていらっしゃいますの」

 突然のことに、ドクトリーヌは焦った。今までその手の話は何度も断って来たはずだ。父にもその旨はしっかりと告げ、彼もそれを納得してくれていたはずである。


 しかし今日のヴァンガンはいつもと違った。

「ドクトリーヌ、殿下のことは本当に気の毒だと思う。だがおまえにも現実を見て欲しい」

「嫌です」

「殿下に何を云われたのか、覚えていないのか」

 殿下。その地位の差す人のことを思いだして、ドクトリーヌは胸を締め付けられる思いがする。いったい今頃、何所で何をしているのか。一人で不安ではないのか。彼はもしかしたら、ドクトリーヌのことなど──。どんどんと卑屈になっていく考えを捨てて、ドクトリーヌは毅然と答えた。

「私は何があってもウォレン様をお待ちします。それまで、自分の身のことなど考えて居られません」

「ドクトリーヌ、相手を思いやってしていることが、時に苦しめていることにも繋がるのだよ」

「……そんなこと」

 云ってから、想い人のことを思い出してどきりとする。彼が何を望んでいるのか、ドクトリーヌには痛いほどわかってしまったからだ。しかし彼女としては、彼のことを待ち続けていたかった。信じてずっと、待っていてあげたかった。



 そんな娘の気持ちを汲んだのか、ヴァンガンはふと優しげな笑みを浮かべて云う。

「殿下がおまえを頼りにしていることはわかる。だがそれとこれとは話が別なんだ、ドクトリーヌ、おまえももう23になる。今は王宮貴族としての今後をしっかり考えてくれないか」

「お兄様たちが居るわ、私のことなど、放って置いてください」

「ドクトリーヌ」

「お父様、私は今でもウォレン様を御慕いしております。この気持ちに変わりはありません」

「わかった……、また話そう」

 ふうと溜め息を吐いて、ヴァンガンはかぶりを振る。王宮貴族に恋愛結婚など有り得ない、そんなことは生まれた時からわかっていた。だがドクトリーヌは別段、家を継ぐわけでもないただの末っ子だ。そうして既に婚期を逃して10年近くになる今さら焦る必要もない。ここまで強い意志を持ち続けていることを最初は父も応援してくれていたのだが、最近になってからどうもドクトリーヌの意志を曲げようとする。それはもしかしらたら殿下が行方不明になってしまったからだろうか。

「だがセレリー卿とは会ってくれ」

「しかし……」

「王宮貴族としての体面を忘れないでくれ。それがおまえの臣下としての仕事だ」

「……わかりました、お会い致します」

 もう自分が既に若くないことなどわかっている。年頃の貴族らは20歳前に結婚し、ドクトリーヌぐらいの年になれば幼等部に通う子も居る。それが当たり前で、ドクトリーヌもそういった未来を思い描いていた時期があった。


 だがそれも今は遠い夢。

 ──ドクトリーヌのことは好きだよ。だからどうか、幸せになって欲しい。幸せにしたい。そのために、俺は在りたいんだ。

 意味ぐらい、云われてすぐに理解した。だがそれでも、ドクトリーヌは彼を忘れることができなかった。せめて無事な姿を一目確認してから、彼の笑顔を見てから、それからでも遅くはないと思う。


「ウォレン様……」

 何所に居るのかも知れない彼に、女性は想いを馳せる。


・・・・・


 ダーク・クウォルトが食卓へ行くと、ラナが一人、ぼんやりと椅子に座っていた。だがそれもほんの一瞬で、気配を感じたのか彼女の目は鋭くダークに向けられる。その琥珀色の瞳で来たのがダークだと認識すると、瞬時に彼女は相好を崩して微笑んだ。

「ダーク、まだ起きていたの?」

 なんでもないように、そう云って微笑むその顔は慣れ親しんだ養母そのものだ。しかしラナはいつも、そうやって警戒ばかりしていた。先ほど帰って来たばかりの彼女は、いつもに増して警戒心が強かった。




 あの騒ぎの後、法術師は召喚師に何もせず帰って行き、その後音沙汰はない。突然の来訪を阻止したとして何か事情を聞かれるかと覚悟していたのだが、どうもそう簡単に動ける話ではないようだった。法術師は慌ててアリスを追ってこのアスルを出たが、その後どうなったのかダークはまるで知らず、試験合格により学校を卒業し召喚師となった今は閑を持て余している。本来ならば学校側が生徒の成績に合わせていろんな仕官先を探してくれるのだが、ダークは敢えてそれをすべて断り、不定召喚師として悠々自適の日々を送っている。


 そうして静観するダークとは違い、アリスが居なくなってからラナの警戒心は強まるばかりだった。和らげた瞳の奥で、彼女は何かに警戒していた。しかしダークはそんなことに気が付いていないふりをして、不適に笑みを作ってみせる。

「召喚師になったからねー、もう自由の身でしょ。何しようかなってさ」

 気が付かないふりをして、ずっとここに住まわせてもらっている。もうあれから15年ほど経つのだ。よく得体も知れない者を、ラナが預かってくれたなと思う。

「そんな甘っちょろいこと云って居られるのも、今のうちよ。王宮へ行くんでしょう。もう伝手はできているんだから、さっさと行ってくれば良いのに」

「今の王宮じゃあ、俺が行った所で歓迎されないのはわかっているし」

「まあ、そうだけど」

 ラナは視線を彷徨わせる。そのいつにも増して強い眼光を見せる瞳を見て、ダークは決意を深くした。


 ──もう彼女を、解放してあげよう。


「ねえ、ラナさん。本当は俺が王宮に何をしに行くか、わかっているんでしょ」

 ダークが深い決意を持って出した言葉は、簡単に声となって彼女に届いた。ラナはその言葉の意味を噛み締めているのか、無表情のまま彼を見つめる。

「……アリスの両親は王宮に居ないわ、これは本当よ」

「そう。──アリスと一緒に王宮へ行くっていう約束だったんだけど、居ないのか」

 今のラナの一言で、ダークと彼女の甘ったれた関係は瓦解した。ラナは昔から、常に何か重たいものを背負っていた。ダークは幼い時からそれに気が付き、その荷を解いてあげたいと思うと同時に、解きたくないという矛盾した心を持ち合わせていた。その理由はひとえに、その重たい荷というのが自分たちのことであると理解していたからであり、 ダークは優しいラナの傍を離れたくなかったからである。

 しかしもう、彼女の傍を離れられないほど子どもではない。彼女はこの20年、アリスとダークを育てるために人生を捨てた。もうそろそろ、彼女を解放してあげなくてはならない。そういう衝動に突き動かされていた。




「俺、もうアスルを出るよ」

 話の流れから理解できた行動なのか、ラナは何も云わず無表情のままダークを見つめ続ける。そうしてその眼光はやはり、射抜くように強い。いったい何を考えているのか、やはりわからなかった。彼女はダークに越えられるような簡単な力の持ち主ではないのだ。

「早くアリスを取り戻して来る。アスルじゃなくても別に良い、何所か違う土地で、静かに暮らしたいんだ」

「ダーク、あんたは……」

「……ずっと俺たちは軽蔑されていた。わかっているんだ、ラナさんだって嫌な思いをしただろう。 出自の所為で、出自が魔法使いと関係あるってだけで、だいたいの召喚師は関わるのを避ける」

 ダークがつまはじきにされていたのは、もちろんその性格もあったが、最初は単なる誤解であった。

 ルヴァガの姓を持ちながらも嫌煙されるアリスは、狭いハヅキ地区で目立った。それを勝手に補佐していたのはダークである。一緒に住んでいると云えど、避けることは幾らでもできた。だがダークはそれをしなかった。向けられる悪意に勇敢にも立ち向かって行くアリスは、守るべき人が必要だったのである。アリスは最後の最後まで気が付いていなかったようだが、ダークが厭われていたのは親が居ない所為ではない。親が居ない子どもなら、このアスルに溢れるほど居るのだ。それはただ単にアリス・ルヴァガと親しいものだったからに他ならない。それに加えて警戒心の強さが、あらゆる家の批難を買ったのだろう。だがそれは、ダークが望んで得た結果だった。


 アリスにはいつか必ず、何かが起こる。それを察知したダークは、いち早く味方に回ったのだ。おかしな虫が付かないように、おかしな流れに呑まれないように、純粋な彼女を守った。

「それぐらいの関係なら、俺は要らない。そんなもの、価値もない」

 アリスに何を求めているのかはわからないが、近寄って来る輩も居た。遠退く輩も居た。だからダークは彼らを見極め、アリスとの関係を作った。

「ラナさんは気にしなくて良い、もし召喚師として戻りたいならそれも良い。もうアリスのこともかばってくれなくて充分だ。だけど俺には、アリスが必要なんだ。アリスは強いけど、だけどやっぱり、アリスにも俺が必要なんだと思う。今まで一緒に暮らせて楽しかったし感謝してる。でも俺たちのことはもう、忘れてしまって構わない。罵倒したって良い。それでも俺たちは、ラナさんだけは忘れない、ずっと感謝している」

「ふざけないで!」

 突然の激昂に、ダークは少なからず驚いた。それは単に驚いたというだけでなく、何が起きているのかすら理解できていなかった。ダークはきょとんとしたまま、怒りのあまりか立ち上がったラナを見続ける。

「あんたに価値もないって云われた関係を続けろって云うの? もうなんでもない召喚師の私が、ルカナン様に跪いて貴方たちをけなせって云うの? 莫迦なこと云わないで! ここまで育てた私の意志を勝手に決めないで!」

 あまりの気迫にダークは息を呑んだ。まさかここまで激昂されるとは思いもしなかった。ラナのことだから冗談を云って終わりだと思っていたのに、もしかしたらラナはずっとこの微妙に歪みのある信頼関係に気が付いていたのかもしれない。

「……ずっと訊きたかったんだけどさ、ラナさん」

 掠れそうになる声で、ダークは声を絞り出す。

「何よ」

「ラナさんは、どうして俺を育ててくれたのかな」

 いきなりの質問だったからか、今度はラナがきょとんとした。

「俺は今まで、ラナさんに出自の話を一度もしていないよ。どうして育ててくれたの?」

「……あたしが今云ったこと、聞いていなかったわけ?」

 ラナはますます顔を怒りに変えて云う。

「正直に云うわ、最初は命令よ。だけどそれからすぐに、迷いなんて吹っ飛んだ。あんたたちと居て私は進むべきを間違えたとは思っていないの」

 ラナは優秀な召喚師であった。学生の頃はミナヅキ地区の召喚師学校で特待生扱いとなり、精霊城の主ルカナンにも一目置かれていた存在である。迷うことなどない出世の道を歩いて行けた。だがそれをねじ曲げられてここまで来たことに、彼女は後悔などないという。最初は命令だと断言したものの、だがそれに間違いはなかったと。



 怒りを落ち着かせたらしいラナは、また椅子に座り込むと疲れたように一息吐いて頬杖を吐く。

「それから一つ、あんたは勘違いをしているわ。ここアスルの誰もが、アリスの出自を知っているわけではないの」

「……え?」

「あんたは知らなくても無理ないかもしれないわね。だけどそうよ。ただアリスはルヴァガの姓を持ちながらも、素性がはっきりしないから疑われているだけなの。知っているのは召喚師学校のレール教官ぐらい」

 てっきり法術師との関わりがあるからこその迫害だと思っていただけに、その告白は衝撃だった。

「だが……」

「だいたいは察しが付くでしょうね。だからこそ、アリスはこの地に招かれたの。召喚師が堂々と領地に置く子どもが、まさかあの事件の子どもであるはずがないだろうと。──ルウラ・ルアが考えに考え抜いて、ここに置くことを決めたのよ」

 ルウラ・ルア。王都居る王の従者。その彼がアリスをここに置いたということに、ダークは少なからず戸惑っていた。どうしてそこでルアが出て来るのだろう。


 ルウラ・ルア。召喚師にとっては王よりもずっと身近で崇拝する相手。アリスは自分がなぜここに置かれているのか、詳しい経緯を知らない。だから今まで彼女がここに連れて来られた意味など知らなかった。だがルアが関係すると云う点は、驚かずに居られない。

 ──申し訳ありません、しばらくの間、お忘れください。

 もう16年も前のことだが、ダークははっきりと覚えている。ルウラ・ルアは信じて良いと思えた、あの感覚をはっきりと覚えている。そのルウラ・ルアから、訳ありの子ども二人を預かるラナは、確実に彼へ繋がっているのだ。



 あらゆることは考えられたが、それはすぐに頭の中から散った。

 考えても、どうしようもないことである。今は現状をどうにかする、それがダークのやるべきことなのであった。


「じゃあ、俺、行くよ」

「……待ちなさい、ダーク」

 あらゆることを話したのは、もうこれでラナから離れるつもりだったからだ。ダークやアリスがここに居る限り彼女は奇異の目で見られ落ち着いた生活を送れない。だから最後に感謝の気持ちだけを伝えたかった。それを伝えれば、もう後腐れなどない。ラナも自分の意志を汲んでくれると思っていたが、そこで激昂されたのは意外であった。しかしラナは深々と溜め息を吐いて、またそれきり黙ってしまう。

「どうかしたの、ラナさん」

「アリスを追うのはやめなさい」

 まさか止められるとは思っていなかったため、ダークは何も云えなかった。そんな彼を諭すように、彼女は言葉を紡ぐ。

「今アリスが何所に居るかもわからないのに、動いたところでどうするの。そのうち所在がはっきりするまでは、ここで大人しくしてなさい」

 その声は既に母のそれに切り替わっていた。表情は厳しいものの、琥珀の瞳からは暖かなものしか感じられない。その優しさに対抗するかのように、ダークはなんとか言葉を紡ごうとするが、うまい言葉が何も思い付かない。

「あんたがアリスを不安に思うのはわかるわ、私も同じよ」

 彼女はそこで、優しく微笑んで見せる。

「私だってまだ少しは上に伝手があるわ、やれるだけのことはやる。だからどうして魔法使いがあんな動きに出たのか、またアリスの所在がわかるまで、あんたはここで大人しくしていなさい」

「ラナさん、何を知っているの」

「……何も、本当に何も知らないわ」

 そう云って彼女は淋しそうに笑うだけである。彼女はダークよりも少しは何かを知っていそうだったが、その一言で、彼女が自分の無力さを嘆いていることがよくわかった。


 ダークとしてもアリスの所在がわからない限り、迎えに行くこともできない。取り敢えずケーリーンに行くなどという莫迦なことはしていないだろうが、少し召喚獣を放って様子を見るぐらいしか今のダークにはできない。




 押し黙ってしまったダークを見て、ラナはにっこりと笑う。

「ダーク」

「何?」

「……アリスを、頼むわ」

 それは召喚師試験の前に冗談みたいに交わされた約束の返事であると、ダークはすぐに察した。

「どうにかなるとは思っていないけれど、アリスのことがわかったらちゃんとあんたにも云う。その時アリスを迎えに行くのはあんたの役目よ。わかった?」

「案外、早かったね」

「だけど、アリスの気持ちを最優先するのよ。決してあんたの独断で決めないこと」

「わかってるよ、それぐらい」

 意外にも簡単に答えが出たものである。あの時は本当に養母相手に緊張したものだが、ラナは意外に真剣に話を聞いてくれ、そうして今一つの答えをくれた。それはダークという人間を、育てたラナ自身所在の知れない男を信用してくれたということだった。その信用に答えなければならないと、ダークはまた気持ちを高くする。ラナの言葉は嬉しく思えたがしかし、今そのことを伝える相手は何所にも居ない。いったい何所に居るのかもわからない。なぜここに居ないのかもわからない。それに加えて、──ダークは笑うしかない。

「でもね、ラナさん。あいつ約束を忘れているんだ」

「え?」

「一緒に王宮へ行って家族に会うって約束を、もう忘れてるんだよ。一緒に召喚師になるっていう約束しか、覚えていないみたいでさ」

「だからアリスの父母は王宮に居ないと云っているでしょう」

「──知ってるよ」

 ラナは再びその言葉を繰り返した。それでダークは、すべてを理解した。だが気が付かなかったふりをして、ダークは笑いながら続ける。

「二人でラナさんを助けて生きて行く、それだけが今の目標だけど」

「ありがとう。でもダーク、それよりも、アリスを大切にするのよ」

「もちろん」

「お願い……。絶対にあの娘を助けて」

「ああ、必ず」

 ラナの座る食卓に、席は三つ。しかしそのうちの一つは、いつになく淋しく見えた。


 3人分の暖かい食事、それだけを、ダークは望んで居た。

 それがもう、永久に叶わないことだとは知らずに。


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