昔話の伴奏
『Lippen schweigen, 'sflüstern Geigen:
Hab' mich lieb!』
「はいコーヒー」
「うん。」
「濃く、ない?」
「ああ。」
『All' die Schritte sagen bitte,hab' mich lieb!』
「…新聞、面白い?」
「……」
「コーネル…」
「ああ、なんだい?」
「……」
「はは、ごめん。」
「…撫でていつも機嫌が治るってわけじゃない…」
「知ってるさ。そこらの犬じゃないんだから。」
「そのとーり。」
『Jeder Druck der Hände
deutlich mir's beschrieb』
「じゃあ、夜咄でもすれば機嫌は治るかい?」
「しっかたないな…それで手をうってやる。」
「じゃあ、僕の昔話をしよう。」
「奥さん?」
「おまえはいつも僕の昔話となるとそれを聞くね。」
『Er sagt klar, 'sist wahr, 'sist wahr,
du hast mich lieb!』
「昔話自体そんないつもしてるわけじゃない…」
「そうだったかな?僕も年だな。」
「で、どうなんだ。」
「もちろん、昔話といったらうちの妻の話以外あってどうするんだい。」
「それもそうだ…」
『Bei jedem Walzerschritt
Tanzt auch die Seele mit
Da hüpft das Herzchen klein
es klopft und pocht:
Sei mein! Sei mein!』
「むかし、むかし、昔の話だよ…吸血鬼街に小さなコンサートホールがあった。今となっては歌声じゃあなく、酔っ払いの声と女の囀りしか聞こえないがね…」
「…それに吸血鬼の唸り声。」
「それは迷信さ。まぁ、妻とそこに当時流行っていたオペレッタを観に行ったわけだ。妻は柄にもなくおめかしをして、私は仕事着のまま。」
「うわぁ、最悪だ」
「妻は僕の格好なんて興味なんてないさ。あの時の彼女は、少女のようにそのオペレッタの主人公に恋をし、ヒロインに憧れていた。」
「それは、それは…美しい歌曲ばかりだった。天にも召される心地になった。」
「…で、実は?」
「妻には今でも申し訳ないと思っているが、寝ていた。」
「だろうと思った。奥さんに今もきっと呪われてるよ。」
「そうだといいな…今流してるレコードは、そのオペレッタの曲なんだ。…その蓄音機も、レコードも妻が遺していった。」
「そうなんだ…」
「そう顔をしかめると、顔がレーズンになるぞ。」
「ならない。」
『Und der Mund er spricht kein Wort,
doch tönt es fort und immerfort:
Ich hab dich ja so lieb,
Ich hab dich lieb!』
「妻が死んでからだ、この歌を知ったのは。」
「男二人で聴いても、不毛すぎだろ…これ…」
「年寄りの懐古癖さ。自分でも寒気がする。」
「でも、この街は最悪だ。きっと昔より。」
「そう思うかい…例えると?」
「ぐるぐるしてる…二日酔いの時に似てる。」
「おまえも、このオペレッタ見たことあるのかい。」
「いいや?なんで?」
「このオペレッタに、男たちが酒を飲んで酔いながら、女を語るシーンがある。…そこだけ起きていた。」
「なんだそれ…オペレッタってもっと上品なもんじゃないのか。」
「そうでもないさ。少なくともこれはね。」
「起きてなかったのにわかるんだ。」
「…妻が説教まじりに教えてくれたものの受け売りさ。」
「…いい気味だ。」
「そんなこと言わないでくれ。本当に怖かったんだ。」
『Jeder Druck der Hände
deutlich mir's beschrieb
Er sagt klar: 'sist wahr, 'sist wahr,
du hast mich lieb!』
「…おまえは今のこの街は最悪だと言ったが、今も、そうかい?」
「それは違う!コーネルがいて、飯があって、コーヒーがあって…」
「そうだね…僕のはそういうのさえあれば、どんな時代になっても、妻が居なくても、生きていける気がするよ。」
「あと、奥さんの遺したレコードの曲?」
「はは、それも必要だ。昔の笑い話を思い出す伴奏代わりになる。」
「そっか。」
「そう思わないかい。」
「そうかもな…コーネルの『奥さんに怒られ体験談』面白いし。」
「酷い言い方だな…まぁ、それもそうか。」
「そうだよ。」
「そろそろ曲も終わったことだし、寝よう。」
「そうしよっか。」