7話 雨の中
6月といえば梅雨の時期。
連日の雨で運動場はぐちゃぐちゃ。
甲子園とかにいったりする学校なら、屋内練習場とかの設備があるかもしれない。だけど俺たちの野球部は、県大会で良くて1勝、2勝できるかの実力。そんな立派なものありゃしない。
だからといって、部活が休みになることは決してない。
「うらぁああっ!!」
「ファイットォオオオオオ!!」
放課後となり、生徒の姿がほとんどない校舎。その階段を、野球部のユニフォームを着たごつい集団が、掛け声を上げながらすごい勢いで駆け上がっていく。
通称「野球部・地獄の行進軍」。
「あと2往復っ!!」
「「「うーっす!!」」」
校舎の窓は開けているものの、雨が入らないように全開にはできない。蒸し暑い空気がこもっているなか、更に俺たちの熱気で1階から3階までの階段は、そりゃぁもう凄いことになっていた。
「休憩っ!」
何往復目かのあと、一階まで階段を降り切ったところで、ようやく主将から休憩のお許しが出た。
「うぅ、きっつぅ!!」
ばたばたと他の連中が床に横になる中、俺も息を整えるために床に寝転ぶ。
動くのをやめたとたん、全身から汗がどっと噴き出す。どうせ拭っても間に合わないのはわかっているから、床の冷たさを背中で感じながら流れるにまかせる。
「おらーっ! モップかけるからどきやがれ!」
寝っ転がったまま声の方に顔を向ければ、マネージャーのチカ先輩がモップを片手に、足元の部員を蹴飛ばしている所だった。チカ先輩は産業科の3年生で、なかなかの美人だ。
主将の彼女なのだが、それでも俺たち野球部のアイドルだ。
今の体勢だと、チカ先輩を下から見上げるおいしい角度。だが、生憎というか、当たり前というか、先輩は全身ジャージだった。ちょっと残念な思いで、それでも頭は勝手に制服姿のチカ先輩を連想してみる。
「チカさーん! ジャージじゃなくって、スカートで俺のこと踏んづけてよぉ!」
翔の声でふっと現実に引き戻される。
こういうことを、奴はさらっと言いやがる。
「ばぁーか。モップで顔の汗ふいてやろうか?」
言われたチカ先輩も、特に嫌な顔をせずに笑って返す。
俺にはとうていこういう事はできない。俺がやったら絶対にひかれる。
こういうエロネタを、軽い感じでさらっと女の子に対してかませる翔を、感心しつつもちょっと羨ましかったりする。
翔が女だと言われた後も、翔に対するこの羨ましさは変わらなかった。
浅くため息をついて翔の方を見れば、主将に踏まれてケラケラ笑いながら転げまわっているところだった。
結局、床や階段にモップをかけるチカ先輩に追い出され、俺たちはのそのそと渡り廊下に出てきた。
マネージャーはチカ先輩の他に、男が2人いる。俺たちが床に流した汗や、なぜか出てくる泥や土をきれいにモップがけしてくれるのは、ありがたくもあり、申し訳もない気分になる。
「俺には無理だな……」
校舎を眺めていると、俺の心を読んだように翔が隣に立ってぼそりと言った。
何が?と続きを促すように翔を見れば、慌てたようにぱっと口を押えた。意識せずにもらしたようだ。
俺が見てる前で、翔はせわしく視線をさまよわせ、言おうか言うまいか迷っている。
別に言いたくなきゃ言わなくても、と思ったところで、翔がおそるおそる口を開いた。
「いや、マネージャーって、すげえなと思って」
「俺もそう思ってた」
そんなこと言うのをためらっていたのか?と内心思っていると、翔はそのまま続けた。
「人のサポートだけずっとするなんて、俺には、無理だ」
「…………」
そりゃ、身体を動かすのが好きな翔が、大人しくマネージャーをするなんて無理だろう。正直なところ俺も、誰かに言われたわけでもないのに、他人のために自分の時間を使ってるマネージャという人たちを見ると、聖人君子か何か別の次元の人に思える。
そう返そうとして、翔のあまりにも苦々しい顔に、思わず言葉を飲み込んだ。
ふと思う。
今後翔がどんどん女になっていったら、翔は野球を続けることができるんだろうか。
翔の抱えている不安が、俺にも伝染したような気がした。そのまま足元からじわじわと染み込んでくるような錯覚におちいる。
レギュラーになれてもなれなくても、野球部をやめるなんて選択肢を考えたことはなかった。
それが、自分ではどうにもならないことで、いつか諦めないといけなくなる……?
言葉にできない感情に、全身が強張ったときだった。
突然あがった叫び声に、はっと我に返った。
「うっはぁあああ、気持ちいいーっ!!」
「ちめてぇーっ!」
見れば、先輩たちが上半身裸になって、渡り廊下から外に飛び出していた。雨に濡れながら楽しそうにはしゃいでいる。
全身が汗でベトベトしているので、雨の中の先輩たちの姿がすっげぇ気持ちよさそうに見える。周りの連中も次々に上を全部脱いで、奇声を上げながら雨の中に飛び出していた。
俺も続こうと服に手をかけ、ふっと思いとどまる。
翔は上を脱げない……。
ほとんどの奴が雨の中ではしゃいでいる中、じっと見ている翔じゃない。ユニフォームのまま行くか?と聞こうと隣を見て、俺は固まった。
「遅ぇよ、お先!」
翔はいつの間にか上半身裸になっていて、唖然としている俺を置いて雨の中に飛び出していくところだった。
「お、おいっ!」
飛び出していく背中に、慌てて声をかける。
その背中は、タンクトップ水着のかたちに日焼けしていた。焼けた肩や首に比べてあまりにも白い背中に、何だか見てはいけないような気になって、つい目をそらした。
「荘史郎! 顔を上げてよく見ろ!」
翔の声に、反射的に顔を上げる。
翔は俺の方に向き直って立っていた。
しかも俺に見せつけるように、胸をはって腰に手を当てている。
胸に視線がいきそうになり、慌てて顔をそらす。そんな俺を咎めるように翔が叫んだ。
「見ろよ! 何かおかしいところあるか!?」
翔の声に押されるように、おずおずと視線を向ける。
そこには、普通の男と変わらない平坦な胸があった。どこからどう見ても男の胸にしか見えない。
「な? 隠そうとするからよけいおかしくなるんだよ」
翔が裸の胸を晒しながらあまりにも堂々としているので、何だか俺の方が間違っているような気になる。まるで男の胸にドギマギしている変態にでもなった気分だ。
大きく息を吸って気持ちを入れ替え、改めて翔の胸を見る。
少し薄いが男の胸板だ。
「…………」
翔の胸をガン見しながら思う。
なんで今まで動揺してたんだろう。俺って馬鹿じゃね?
見れば見るほどそんな思いになってくる。
翔は俺の視線を受け止め、肩をすくめて笑った。
「お前は真面目すぎるんだよ。何だか俺よりも深刻に悩んでるようでさ、見てて俺のほうが申し訳なく思っちゃうわけよ。大丈夫だから! な?」
「おぉい、一宮! もしかしてお前、脱ぐのを恥ずかしがってんじゃねえだろうな!?」
「ええっ、マジで!? おい、京崎ぃ、一宮をひん剥いてやれ!!」
自分を呼ぶ声に気が付けば、渡り廊下に俺だけが取り残されていた。雨の中の先輩たちが、翔に俺の服を脱がせるようにはやし立てている。
「すいませんっ! 出遅れましたっ!!」
翔が俺の方に一歩踏み出したのを見て、先輩たちに返事をしながら慌てて上着を脱ぎ捨てる。上半身裸の翔と目があい、なぜか「負けてられない」という闘志が燃え上ってきた。
「荘史郎!?」
俺は続けざまにズボンも脱ぎ捨てると、驚いている翔を置いてパンイチで雨の中に飛び出した。
「やべぇ、俺もまだまだだわ。一宮に負けた!」
「さすが荘史郎! わかってんなぁ!」
盛り上がっている皆は、パンイチの俺の背中を叩いて口々に誉める。
村瀬が調子に乗って俺のパンツを引きずりおろそうとしたので、容赦ない蹴りをくらわしてやった。
皆とはしゃいでいると、ベタベタだった身体が雨に洗われてさっぱりしていく。
ついでに頭の中もスッキリしていくようだった。
「あんた達バカなのっ!? いや、この大馬鹿ぁぁッ!!」
俺たちの半裸の水浴びは、掃除を終えて渡り廊下に出てきたチカ先輩の一喝により、終了となった。
そのままみんなでチカ先輩の前に正座させられ、説教を喰らう。
「あんた達がそんなんだから、野球部に女の子のマネージャーが来ないのよっ!! 私だっていい加減、女の子の後輩が欲しいのに! 聞いてるのかっ、一宮っ!!」
特にパンイチだった俺は、名指しで怒られる羽目となった。
その日から俺は、また前のように翔に接するようになった。
変に目をそらしたりしないし、トイレで翔と出くわしてもびびったりしない。
何ていうか、最近の俺は何か舞い上がっていたんだと思う。学校では先生以外、俺しか翔が女ってことを知らないから、何つうのかな……。今思うと鳥肌がたつくらいに気持ち悪いんだけど、『守ってやらないと』って寒い勘違いしてしまったんだろうな。……うん、自分で自分が物凄くきめぇ。
俺はすっかり冷静さを取り戻し、翔が女だなんて何かの勘違いだったと思えるくらいに、普通に過ごしていた。
「荘史郎、やべぇ。生理始まった……」
たまに不意打ちを食らうけど。