1話
「……荘史郎……俺、本当は女だったんだ……」
高校に入学して一月、少し日差しが強くなってきたころ、俺の幼馴染でもありクラスメイトでもあり、同じ野球部員である京崎 翔が弱々しく言った。
いきなりの告白に、俺は何も言えなかった。
バリバリの野球部員な俺たちは、坊主頭で日焼けしている。
もちろん奴の姿はどこからどう見ても女には見えない。
そして、チビの頃から幼馴染で付き合いのあった俺は、翔の素っ裸も見たことある。
奴の股間には、間違いなく男のものがついているはずだ。
俺、一宮 荘史郎と京崎 翔は家が近所で歳も同じだったので、赤んぼの頃からの付き合いだ。
幼稚園、小学校、中学校と同じ所に通い、そして今は二人とも野球部に所属している。
いわゆる腐れ縁ってやつか。
俺は無愛想であまり人と話すのが得意でないが、翔は人懐っこくよく話しかけてくる。
よく近所のおばさんたちからは凸凹コンビと呼ばれていた。
幼稚園の頃は同じぐらいの背丈だったが、小学校の後半になると俺だけがどんどん背が伸び、アイツを置いていった。
成長痛で悩む俺の横で、「背が早く伸びた奴は、すぐに成長が止まってしまうんだ! 見てろよ、俺がすぐに追い越してやるからな!」と牛乳を飲みながらよく噛みついてきた。
俺たちは野球部だ。
一年生のうちはよっぽどのことがない限り玉拾いばかりだが、夏の試合が終われば三年生は部活を辞める。一年生も練習に本格的に参加できるようになるし、レギュラーの可能性も出てくるので果然部活の力の入れようも変わってくる。
俺は力でおすバッティング、翔は足の速さを活かしてレギュラー入りを目指して部活に励んでいた。
そんな五月に入ったときだった。
「う~、体がだりぃ……」
いつも元気の塊のような翔が、授業も終わったというのに机に突っ伏していた。
ホームルームが終わった途端にユニホームの入ったカバンを掴み、我先にと教室を飛び出していくのに……。
「深夜までエロ動画の見すぎなんじゃないか?」
部活用のカバンをつかみ、あいかわらず机に突っ伏している翔の横に立つ。
もちろん俺だってエロ動画に興味のあるお年頃なわけで、決してエロ動画を見ていないとは言わない。
だがそんな俺が引くくらい、奴はエロ動画を見まくっている。
そしてあれが凄かった、あの女の子がエロくて可愛かったと俺が聞いてもいないのにずっと語ってくる。
「……ちげぇよ、馬鹿」
いつもなら耳にうるさいくらいの大声で言い返してくるのに、今日は顔も上げずに弱々しい声で言い返すのみ。
ますますらしくない。
「おい、お前本当に大丈夫か?」
「風邪でも引いたかな? なんか頭がぼうっとして腰のあたりが痛い……」
翔の寝相の悪さを思い出す。
まだガキの頃に何度かあいつんちに泊まったことがあるが、布団を蹴飛ばすのは当たり前。
俺の腹や股間を思いっきり蹴飛ばした上に覚え居ていない最悪な奴だ。
おおかた布団を蹴飛ばしたうに腹を出して寝ていたんだろう。
「どうする、今日は休むのか?」
いまだ動く様子のない奴に声をかける。
ようやく顔を上げ、丸い人懐こい目が俺の顔を見た。
その顔は想像以上に白く血の気が無かった。
「一日でも練習を休めるかよ。レギュラーの座はぜってぇ俺がとる……」
「いや、お前本当に顔が蒼いぞ? 本当に大丈夫なのか?」
翔はのっそりと立ち上がると、カバンを掴んで俺を指差した。
「ふん、お前には負けん!」
「あぁ、そうかい」
無理に元気そうにしてみせる奴に、それ以上は何を言っても無駄だと俺もうなずき返す。
俺たちは連れだって部室に向かった。
そうして行った部活で奴はミスを連発して監督にこっぴどく叱られ、更に顔色の悪さを指摘されて強制的に早退させられた。
翔は肩を落としながら荷物をまとめて帰って行った。
そして次の日、翔は学校を休んだ。
朝練のときに奴の姿が無いのに気が付き、やっぱり昨日は無理してたんだなあのバカと思った。
近所だからって一緒に学校に行くわけじゃない。
だから休んだ理由なんか知らなかった。
そして次の日もその次の日も、翔は学校を休んだ。
さすがに2、3日も休めば理由が気になる。
担任は特に理由を言わなかった。
たまたま連絡用のプリントが出たので、近所という事もあり部活帰りに届けるついでに奴の様子を見に行くことにした。
見慣れた門のインターフォンを押す。
ふと二階の翔の部屋を見上げる。小学生のときに翔の家に遊びに行くと、インターフォンを鳴らす前に二階の窓からよく翔が声をかけてきた。
いつも開いていた窓は、今日はご丁寧にカーテンまで閉め切っていた。
少ししてインターフォンから翔のおばさんの声がしたので、名を名乗ってプリントを届けに来たことを告げた。
「荘ちゃん、来てくれてありがとう!」
玄関が開いておばさんが出てきた。
翔の家はおじさんが県外に単身赴任していて、おばさんと翔の二人暮らしだ。
俺たちが産まれる前からおばさんと俺の母さんは仲が良く、家族ぐるみでお付き合いしている。毎日パートに出ながら、母親業と時に父親業までこなすパワフルなおばちゃんだ。
なのに、今日はそんなおばさんの顔が、なんだかとても疲れているように見えた。
「翔、明日は来れそうッすか?」
差しさわりが無いような言葉を選んで聞くと、おばさんの顔がこわばったのがはっきりとわかった。
翔の奴、そんなに状態が悪いのか?
俺の不安が顔に出ていたのか、おばさんが慌てたように笑顔を浮かべた。
だけどその笑顔が引きつっているように見え、よけい不安になる。
「あぁ、そんなに心配することないの、もう学校に行けるんだけど翔がその気分にならないって言ってるの……」
「翔がですか!?」
俺の知っている翔は、熱があろうが骨折していようが隠して学校に行こうとするやつだ。
ますますおかしい。
「荘ちゃん、ちょっと上がって行って」
「…じゃあ、少しお邪魔します」
おばさんの不安そうな声に誘われ、俺は家に上がった。
一階のリビングを見渡すが翔の姿はない。
「翔は部屋にいるから、上がって行って」
「わかりました」
俺が来たと知らせてもいないが、いきなり部屋に行けとは珍しい。
何があったのだろうかと俺はゆっくりと階段を一段一段上がって行った。
翔の部屋の扉の前に立つ。
いつもは開けっ放しの扉が、今日は来るものを全て拒むかのように閉まっている。
閉まっているのが普通なんだと分かっているが、どうしても違和感を感じてドアノブを握るのがためらわれる。
「……翔、俺だ。入るぞ?」
少しの間ドアの前で立ち尽くしていたが、意を決して声をかけると、ドアノブをゆっくりと回した。
カチャリと音がして扉が開く。
翔の部屋は相変わらず野球小僧って感じで、壁にはプロ野球選手のポスターや応援チームのユニフォーム。棚には小学校の少年野球のときに取ったトロフィー、床の道具入れにはバッドやグローブなどが置かれている。
翔の姿を探すと、ベッドの上で布団に丸まった塊がいた。
「翔、具合はどうだ?」
返事はなかったが、俺の声に反応するようにベッドの布団がもぞもぞと動いた。
「明日は来れそうなのか?」
ゆっくりとベッドに近づきながら声をかける。
いつもなら遠慮なんて必要ないのに、今日はなんだか慎重に動かないといけないような妙な緊張を感じる。
俺の足の下でギシリと床がきしみ、頭から布団をかぶっている塊がビクッと大きく震えた。
こんなの俺の知っている翔じゃない!
心の中では激しい違和感がぐるぐるとうずまく。
あと一歩踏み出せばベッドだというのに、その一歩が踏み出せず俺はただ立ち尽くした。
「……なぁ、荘史郎……」
もぞもぞと動くん布団の中から、くぐもった声がおずおずとかけられる。
「……なんだよ、勝手に入ったってんなら、お前のおふくろさんが入っていいって言ったんだぞ。俺は悪くねえからな」
奴がそんなこと言いたいわけじゃないのは、もちろんわかってる。
でも、いつも通りに振舞いたくって、ついぶっきらぼうに奴の声を遮った。
「…いや、そうじゃない……。……なぁ、荘史郎……」
そんな俺の気持ちなんか知らずに、また気弱な声が返ってくる。
言いようもない不安と違和感に落ち着かず、自然と声が強くなった。
「何だよ、話がしたいなら顔見せろよ! 布団の中からもごもご言ってたってわかんねえよ」
俺はつい大声を出してしまい、思わず口を押えた。
あぁ、こんなに苛ついた声をだしたかったわけじゃないんだ。
見ろよ、さっきまで弱々しいけど喋っていたあいつが、ピタリと黙ってしまった。
布団の塊もピタッと止まったまま動かない。
どうして俺はいつも気の利いたことがいえないんだろう。
どうしたらいいのかわからないまま、静かな部屋でただ立ち尽くしていた。
このまま時間が止まってしまったんじゃないかってころ、翔がもぞもぞと布団の下から顔を出してきた。
久々に見る顔は少し疲れた様子はあったが、おもったほど顔色も悪くなく、何だかほっとした。
「……わりぃ、……っかく来てくれたのに」
「あ、いや。俺も病人にでかい声出して悪かった」
そこまで言った後、二人して黙りこくってしまう。
大体いつもは翔が何か話して、俺はそれに相槌をうつだけなので翔が黙ってしまうと会話が続かない。
「…………」
「…………」
「……そこ、座っていいか?」
「……あぁ…」
しばらくの沈黙の後、俺が言えたのはそれだけだった。
ゆっくりと刺激しないようにベッドに腰掛ける。
ギシリと音を立てて体が沈み込む。
俺は隣を見ずに、壁のポスターに視線を向けた。ポスターの選手はちょうどホームランでも打った直後なのか、バットを放り投げながら空を仰いでいるところだった。
今はポスターであっても、誰かと目を合わせる自信がない俺にはちょうど良い。
そうやって決してこちらを向くことのない選手の横顔を眺めながら、翔が何か言うのをじっと待っていた。