魔王誕生
魔王視点、勇者視点のダブル主人公の物語です。
大手商社に勤務し、日々汗を流す『佐久間 実太』二十七歳は、日に億単位を転がす一流商社マンだ。
自分の為なら他人を蹴落とすなぞ微塵も思わない彼のことを、人は口を揃えて言う『佐久間 実太』だと。
そんな彼には、生活を狂わす程にハマッているゲームがあった。所謂、課金を目的としたオンラインゲーム『ドラゴンの牙』である。
このゲーム他と何が違うかというと、勇者視点か魔王視点かを選べるシステムがあるのだ。勿論ジョブは多彩で、冒険を楽しむもよし、勝手きままにスローライフを送るもよしと、プレーヤー任せのフリーシナリオである。
彼の選んだジョブは在り来たりな勇者。現実で叶わなかった正義感を『イセリナ』という女勇者に託していたのだ。一度のめり込むと納得のいくまでやらないと気がすまない彼は、全財産をゲームにつぎ込み、寝る間も惜しんで、憧れのイセリナと共に廃人同様の生活を送っていた。
そんな日々を過ごしていたある日、大事な商談を控えた朝にも拘わらず、あり得ない程心地好い目覚めが彼を襲った。カーテンの隙間から僅かに溢れる日の光。何気なく目覚まし時計に目をやると、針は八時を回ろうとしていた。明け方近くまでゲームをしていた為の愚行である。
状況を把握するのに、そう時間は掛からなかった。慌てベッドから飛び起き、スーツに袖を通し家を飛び出す。
商談の始まる時間は九時から。電車に飛び乗れば何とか商談にギリギリ間に合う……筈だった。
寝坊したとはいえ準備は完璧だと思われた瞬間、顎に手を伸ばすと髭を剃るのを忘れていたことに気付いたのだ。
――今日は大事な商談だ。このままでは失礼にあたる。
そう思った彼は、ふと目に付いた大都会の一角に細々と営業を続けて来たであろう古ぼけた理髪店を訪れた。
人一倍身だしなみに気を配ってきた彼は、普段有名美容室を利用していた。しかし訪れた理髪店は、こんな急を有する事態でもなければ、一生利用することもないような店構えだ。
立て付けの悪いうす汚れた硝子の扉を開くと、胡散臭い四十代後半くらいの店主が彼を迎え入れた。
「いらっしゃい。今日はどのように?」
揉み手をしながら、怪しい笑みを浮かべながらにじり寄る店主。彼は間合いを取りながら言った。
「髭を剃ってくれ。急いでいるんだ。早急に頼む!」
対応の遅い店主に苛つきを覚え、厳しい口調で煽った。
「髭だけで、いいんですね? かしこまりました。」
店主の返事を聞き届けると、どっと眠気が押し寄せた。
連日のゲームと多忙な仕事による睡眠不足、わかってはいても瞼の重さには勝てなかった。
そして、眠りの中夢を見た。
「魔王! 覚悟しなさいっ!」
何故かゲーム中で彼が育てた勇者イセリナが、彼の喉元目掛け剣を向け、彼のことを『魔王』と呼ぶ。
――どういうことだ?
と、叫ぼうとするが声が出ない。
全身にイヤな汗を感じながら意を決したその時、鈍い痛みと共に目が覚めた。
「お客様、すみません。ちょっとばかり、切れちまったもんで……」
鏡を覗くと、頬に真新しい傷跡から血が流れていた。
「何てことを……」
「お代は要りませんので……」
――先ほどの夢と言い、この店主と言い、朝から災難だ。
そんなこと思いながら勢い良く店を飛び出すと、赤ん坊を抱えた母親がタンクローリーの下敷きになろうとしていた。
彼に迷いはなかった。
佐久間 実太……元々彼は正義感のある男。高価な革靴でアスファルトを蹴り出すと、その親子に向かって突進していったのだ。
「危ない――っ!」
そう叫んだ瞬間、これまで味わったことのない衝撃と共に痛みが彼を襲った。呼吸を妨げる程の大量の血……。しかし、不思議と後悔はなかった。
これまで人を蹴落とすことでしか快感を得られなかった男。そんな彼が、親子が無事なのを見届けると血ヘドを吐きながら一言呟いた。
「良かった……」と。
結局、これが彼の最期の言葉になった。
◇◇◇◇◇◇
「お目覚めですかな? 大魔王イシュケル様。このマデュラ、どれほど、この時を待ちわびたことか……」
「俺が大魔王だと? 何を寝惚けたことを。俺はタンクローリーに引かれて死んだ筈だ」
「イシュケル様、どうかお気を確かに。イシュケル様は、今お産まれになったばかり……ご自分のお姿をご確認下さい」
傍にいたマデュラと名乗る年老いた魔導師のような男は、実太に向かって禍々しい装飾が施された鏡を見せ付けた。
「こ、これが俺の姿?」
髪は銀色に輝き、頭に二本の角が生えている。身体は黒光りし、手足の先には鋭い爪があった。
「どうです? ご理解できましたか?」
実太は記憶を辿ってみるが、まるでこれまでの経緯がわからなかった。ただ一つ言えることは、確かに自分は一度死んだということだ。
「我々魔族は長きに渡り、イシュケル様の誕生を待ちわびておりました。魔族復活にはイシュケル様の誕生が不可欠でした。どうか、憎き勇者イセリナどもを……」
「イセリナ?」
聞き覚えのあるその名に、実太はマデュラに問いかけた。
「敵は、勇者イセリナなのか? そして俺は、そのイセリナを倒す為に生を受けた魔王だというのか?」と。
マデュラは不敵な笑みを浮かべ、実太に言った。
「その通りでございます。イシュケル様どうか、我々魔族の為に……」
俄に信じがたい話。しかし、彼が此処で呼吸をしているのも事実だ。
「話はわかった。俺も悪魔と呼ばれた男。魔族の為に、やってやろうではないか」
「心強いお言葉。では、早速魔王としての訓練をお願い致します」
どうやらこの実太という男、タンクローリーに引かれ死亡したことにより『ドラゴンの牙』のゲームの中に転生したようだ。
そして、異世界での彼の役割は、自ら育てた憎き勇者イセリナどもを殲滅する、『大魔王イシュケル』。
数奇な運命を背負いし一人の男が、今この魔界に産声を上げた。
大魔王イシュケルの誕生である。
大魔王イシュケルはマデュラに導かれ、魔王としての訓練に入るのであった。