弧の森
暗く、霧の濃い道を歩く。
慣れない道の、さらに深い障害。
水辺を歩くとき、不安はわずかに増した。
底知れぬ沼、なにが潜むともしれない場所。
足下は見えず、やや泥濘みかけた地面に沿い。
ぼくは歩いて行く。
暗闇の中で。
そう、ぼくはその手に灯りを持つことをあまり好まなかった。
ただ、目をその闇に慣らし。
闇に体を慣らし、また、馴らすようにして歩く。
深淵を彷徨う、心細さ。
おもしろく思うのは、自分が持つその気持ちを。
どこか、確かに楽しく感じている部分が、どこかにあるということだ。
その気持ちは最初は小さく芽生え、次第に大きく自分の存在感を、ぼくに誇示しはじめる。
危険であれば、あるほどに。
先が見えなければ、見えないほどに。
生まれ、満たされるのは、恐怖であり、喜びでもあった。
それでも、くだらないことに。
ぼくは知っていた。
この世に恐ろしいものなど、なにひとつ。
時折、ざわめく木々の影にも。
水面が揺れる、この淀んだ沼にすら。
――――いないのだ、と言うことを。
そう、どこか冷静な部分が遠く、近いところで常に囁いているのを。
ぼくは知っていた。
……わかっているのだ、くだらないことに。
つまらない、ことに。
本当はここに恐怖と呼ぶ感情に値するものなど、存在しない。
なに、ひとつ。
いや、仮にいるとしよう。
いるとしても、それは。
野犬にしか過ぎず。
熊にしか過ぎず。
亡霊にしか過ぎず。
悪人にしか過ぎず。
狂人にしか過ぎず。
獣にしか過ぎず。
生者にしか過ぎず。
死者にしか過ぎず。
怪物にしか過ぎない。
人間が恐れるものなど、その程度にしか過ぎない。
怖いもの、とは、それがいつ来るか、何者なのか、その正体が一切不明だからこそ怖いのであって、予測できてしまえば、予想してしまえば、もうそれは。
考えた……範囲のもの、でしかない。
そのことを既に、知っている自分がいた。
何かがいるからこそ、怖いのでもない。
踏み出すことを躊躇うこともない。
何もいないからこそ、幻想に捕らわれ。
その闇に酔いしれることが出来る。
霧の目隠し。
ハイキングコースの名に相応しくない、足取り重い獣道。
見えないどこかにある気配。
そこから生み出される、あらゆる一切のこの不安とも似ても似つかない感情は、目の前に何も現れていないからこそ、継続される。
もし、何かが出てきてしまえば。
ぼくはもう、何も怖くなくなってしまう。
それが幽霊でも、人でも、狼でも。
適当に対応してしまう。
殺されるなら、抵抗するだろう。
迫られるなら、殴るだろう。
話しかけられるなら、答えるに違いない。
結果がどうあったとしても。
死ぬことがあっても、それはその程度の、最初から考えられる範囲の結果だ。
つまり、何が言いたいのかと言えば。
ぼくのこの時間は、今。
何もないからこそ、緊張感が保たれた充実した時である、と言うことだった。
でも、ぼくは見つけてしまった。
立ち止まって、しまった。
ふと、歩く中で。暗闇というものに対応するべく、いつもより鋭くなっていた感覚は、自分から先に、それを見つけてしまったのだった。
道から外れたその場所に。
獣道という、道なき道からようやく見える距離に。
木々の間から、そのたれさがるものを見つけてしまった。
そう、見つけてしまった。
同時にあるのは、驚きと(開いた口がふさがらない類のものだ)と安堵。
もう、出会い終えたことに対する安心。
それは、おそらく。
首吊り死体、と言うものだった。
*
ぼくは迷った。
ずいぶんと、めずらしいことに迷った。
それを見に行くかどうか。
どうあっても、それはもう見つけてしまった。
見つけてしまった、が。
これでこのまま帰るのも、なかなか怖いもの、だろう。
何とも言えぬものを抱え、見間違いではないかと、自らを疑いながらこの夜を過ごす。
――――悪くはない。
それどころか、普通はそうするだろう。チェスや将棋で言うところの、定跡というやつだ。
選んで、確実に間違いのない選択。
背後から足音でも聴こえてくれば、何かが追ってくるのなら、またひとつ、怪談が出来上がるだろう。
だけど、ぼくは。
いや、だからこそぼくは。
歩き出した。
怪談など読み飽きている。
こういうものは、自分で体験するのと、他人から体験談を聴くのとでは大違いだ。
だが、その結末をあらかじめ予測出来るのなら、出来てしまったのなら、それはもう単なる予定をこなすだけになってしまう。
これでは、授業に出ることや電車に乗ること、朝食を済ませることと、ぼくにとっては何も変わりないのだった。
いつも通りの日常よりは。
死体という、たまに出会うくらいの日常の方がわずかに好ましい。
そういう打算的で、子供のような底の浅い考えで、ぼくは判断したのだった。
計算つくして行動するという、もしもぼくがホラー映画の登場人物であれば、退屈で仕方のない人物と思われるに違いない。
どうせ、脇役だろうけど。
あえて言えば、最初の犠牲者……あたりだろう。おそらく。
そういった、くだらないことを頭の中でつぶやいて。
ぼくは霧の立ち込める沼を背にし。
山林のさらに深い闇へと、一歩踏み出したのだった。
今、思えば、ぼくは計算をしたのではなく、欲をかいたと言うことなのだろう。
より怖い想いをしたい、と。
欲をかいて深入りする、それこそ、ホラー映画の被害者思考だった。
それはともかくとして。
林の中は、思ったよりも歩きやすく。
その死体のような影に近づくことには、不便さを感じなかった。
まぁ、もしも、そんな入り組んだ様相なら。
ぼくは発見できなかったろうし、なによりも、わざわざ首を吊ろうなどとはしないことだったろう。
そう、苦労してまで、そこまで深い場所では首は吊るまい。
ぼくには理解できないことだ、ぼくだったら誰にも見つからない場所を選ぶ、が普通は(自殺しようという心境や状況が普通か、はぼくは知らない)目立たず、それでいて誰かに必ず見つかるように場所を選び抜いてから、死ぬ……らしい。
……つまり、寂しいのだそうだ。
死んだことにすら気づかれないのは。
ただ、そうは言っても、霧が深く見えずらいことには変わりなく。
歩くことには注意を要した。
そうして注意を向けているうちに。
目の前のたれさがるもの、を見失い。
ようやく、先ほどの発見が、霧が薄くなっていたせいだと気付く。
本来、林には防霧林と言って霧を見やすくする効果がある、とそう聞いたことがある。
が、あれは嘘だろう。
だって、見えていない。
ぼくが、現実に。
だが、たいした距離ではなかったはずだ。
夜の闇にも、発見出来る程度の遠さ。
むしろ、歩きすぎている気がする。
……その時、なぜか風を感じた。
異臭と共に。
それは腐臭ではなかった。
文字通り、異臭。
風は上から、か?
感じた首筋を手で抑え。
ふりむく。
思ったのは、「やっぱりか」とやはりその位のこと。
舌はよだれとともに、どろり、と垂れ下がり。
首は不格好にも長くなっていた。
人ひとりの重量を支えるようには、首は出来ていないらしい。
異臭の正体は、糞尿が出てのもの。
こういう死因だと、さして驚くものでもない。
ようするに、本当に首吊り死体だった。
ここで驚ければ良かったのだろうか。
予想した通りに、予想通りの結果。
過去に死体を探した少年の映画を見たが、意外となにも出てこないものだな、と自分の番になって思った。
死体は男。……どうやら、サラリーマンのようだ。
……サラリーマンだった、ようだ。
男は眼鏡をかけていた。
ただそれは、大きく本来の位置からずれていて、あれじゃ見えないよな、と考えそうになり、ずれているのはぼくの発想だと、自分で突っ込みそうになった。
目は充血し、左右に向いている方向が違った。
左目だけが、ぼくを見下ろしている。その目は濁っているというのか、死者の目はぼくを映すことはない。
――そう、もうないのだ。
ふと、その足下を遺書はないのだな、と思った。
靴はぬがないんだな、とまぬけな部分を調べていた。
ぼくは右手で、自らの髪を掻く。
ごわごわ、と少し痛んでいる髪の感触。
手入れをしてやろう、とは思わなかった。
ただ、こんなものか、とそう考えていた。
じっくり観察していても、さすがにふとした瞬間に、こう……来るものはある。
ゾクッとするものくらいは……ある。
なぜ、風が来たのかと、思い返すだけで、鳥肌が立つ。
だけど。
恐ろしくて、恐ろしくて、気が狂うほどに、死にそうなくらいに、とか。
逃げだすほどでもない。
…………。
こんな姿になってでも、誰かに見つけて欲しいもの、かな。
ひどく醜いこの姿。
首吊り、……水死体ほどひどくはないらしいけど。
ぼくなら見せたくない。
醜い、見にくい、姿。
……自らの人生の結末。
ぼくなら大切な人にも、見知らぬ他人にも見せたくないけれど。
……それほどまでに寂しいものか。
死んでも人は寂しいものか。
死んだからこそ、寂しいものか。
そう、か。
そうならば、ぼくは、死にたくないな。
さすがに体が冷えてきたな。
引き返す、か。
……いや、待て。
それは違うだろ。
その時、ぼくはようやく気が付いた。妙だと。
気が付く……というよりは、思い付いたが相応しい。
考える前には口にしていた。
「誰かいるのか?」
そう、目の前の光景はおかしかった。
死体の足下。
そこにはなにもない。
遺書、もない。
あるとすれば、糞尿の汚れと、異臭ぐらいだ。
そう、なにもない。
おかしいだろう?
木で首を吊くるには。
踏み台が必要だったはずだ。
……返答は返ってこない。
だけど、ぼくは一方的に話す。
「人は死ぬなら真夜中を選ぶ、誰も来ない時間を。その場所に来るときですら、誰も会わずにいられるように。だが今時、零時なんかまだ単なる夜中でしかない」
人の、生者の時間は今やながい。となれば、死ぬ時間は限られる。
「今までぼくは、誰ともすれ違っていないし、ここに来るまででさえ、人の気配すらなかった」
つまり、誰も人間は歩いていない。
「死体は今日、それも今さっきのものだろう? 真夏なのに腐臭はしないし、排泄物の臭いは未だに強い……からね。それに、口元の唾液は乾いてすらいない」
正直、自分でも半信半疑だ。
今、ぼくが言っているのは、すべてその場限りの出任せで。
はったり、だ。
死体の足下で、一人で話している痛い奴。
その可能性を、ぼくは信じていた。
もちろん、返答はない。
ながい、ながい沈黙。
草木のざわざわ、とした音すらなく。
無音、にして、静寂。
やっぱり、な。そうだよな。
と、ぼくは勝手に納得し、頷いて。
帰ることにした。
……だが、そうならなかったのは。
目の前に白い服が視界に入ったからだ。
いや、違う。最初から見えていた。
霧が……彼女を隠していただけのことだったのだ。
彼女は堂々と、目の前に現れた。
いや、ぼくが後から来たのだから、その言い方もおかしいだろう。
彼女は堂々と、その場にいた。
彼女は白いワンピースに、これまた白いカーディガンを着ていた。
頭がおかしいんだと思った。
こんな、山奥にそんな格好でくるなんて、ありえないと思った。と言うか、とり合わせも、おかしいと思った。
そう、ここはちょっとした山奥。キャンプ場が近いとは言えだ。
彼女の足下を見てみると、さすがにスニーカーだった。いや、それはそれで取り合わせとしては、おかしいと思った。
しかも、こんな時間に一人でこんな所に来るなんて。
やっぱり、頭がおかしいんだと思った。
初対面の相手にそう思うのは、初めてだった。
ただ、黒く長め髪が霧にはよく映えていて、それでいて闇に溶け込む。それだけが彼女に対する好感の持てる部分だった。
ぼくは言った。
「きみも死にに来たの?」
後から思い直すと失礼だった。
でも、ぼくはこんな所にわざわざ来る用事がそれくらいしか思い浮かばず、違うのなら狂人だろう、と常識的に考えていた。
自分のことは、考えないことにしておいて。
すると、彼女は答えた。
「いえ、私は付き添いで来ただけだから」
付き合い、でなく。
彼女は、付き添い、とそう言った。
誰の?
決まっている。
でも、ぼくはあえて聞いた。
誰の、と。
彼女は、誰かを指さす。
「彼の」
……自殺の付き添い。
自殺の付き合い、だったら心中だったろう。
だいぶ、わかりやすい。
だが、言った。付き添い、と。
それは、お見送りとでも言うべきか。
その、見送られた彼、とはもちろん目の前の、いや、目の上の死体だった。
世の中には色々、あるものだ。
一回りも二回りも年下の女の子に、見送られて、付き添われて、逝く中年もいるなんて。
それを実行する女の子がいるなんて。
彼女の背後には、折りたたみ式の……それも、頑丈で重そうなタイプの奴だ……を立て掛けていた。
……持ち帰るのだろうか。
なかなかの重量だろう、女の子が持ってくるには一苦労だ。ならば、行きは、持って来てもらったのだろうか。
……男に。
――自分の使う踏み台を? 持ってここまで?
それはどういう気分なのか。これは……どういう関係なのだろうか。
浅からぬ関係でなくばありえない、ような気がする、が、
娘、だろうか。
それも、どういう気分だろうか。
「あなた、は……」
今度はぼくが彼女に聴かれた。
なんでも、答えるつもりだった。
「死にに……来たのね」
「…………」
そう決めつけられた。
質問されずに、断定された。
「いや、ぼくは」
「ああ、邪魔だったら私は帰るから、気にしないで」
「じゃなくて、ぼくは」
「ああ、あなたも見守って欲しいの?」
「違う。だから……」
「そうね、子供じゃないものね。一人で出来る年齢だし」
「そういう問題じゃない」
「ああ、じゃあ、やっぱりひとりだと寂しい?」
「――――っ」
ひとり。
一人。
独り。
……独人。
それに関しては否定しないが。
「椅子、使う?」
そう言って、彼女は指し示す。
親切心でもなく、あるわよ、と気軽に。
当たり前のように。
少し、ぼくのなかの当たり前が。
常識がぐらついた。
それは、少し、魅力的な誘いだった。
だけど、残念なことに。
「……ぼくは死にに来た訳じゃない」
そう、死にに来た訳じゃない。
それは本末転倒と言うもの、だ。
「あら、そう」
死のう、と思うほどの人生はまだ生きていない。
死んだら孤独は増すものだ。
独人だからこそ、楽しめるものもある。
こうして、今さっき、とか
「なら、間違えたのたのは謝るわ」
「いや、別に」
ここにいる時点でそう思われるだろう。
「そういう顔してたから」
「誰が」
「あなた、が」
顔、か。
どんな顔してるんだ、ぼくは。
初対面の相手に自殺しそうと言われたぞ、しかも、本物を見た人間に。
それも、今さっき、直前まで見てた人間に。
……本気でそうだ、ってことだよな。
その時、彼女は口を開く。
「違うのだとしたら」
「……ああ」
落ち込み気味にぼくは返す。
彼女はぼくに、ここで初めて問うた。
「どうして、ここに?」
答えられなかった。
なんでも答えるつもりのぼくも。
答えられなかった。
説明は難しすぎた。
理由を言えば理解はされずに、不審者と思われずとも、不信とは捉えられるだろう。
こんなところで、今更なんだろうが。
「ああ、それは……」
とりあえず、口を開く。
だが、彼女はぼくの答えを聞く前に頷いた。
自らの力で答えを見つけたかのように。
そして、当然のように彼女は言う。
「貴方、頭がおかしいのね」
「今、どこで判断した?」
さすがのぼくも怒るぞ。
彼女は悪びれずに言う。
「こんなところに一人。それが自殺志願じゃなければ、頭がおかしいか、悪いか、のどちらかでしょう?」
言い返せなかった。
いや、言い返したかったが、自分が同じようなことを考えていたので、言い返す前に反省した。
ぼくは、ここまでひどいことを考えていたのか。
自分の考え方を一から百まで見直したくなった。
「ああ、違うの。……じゃあ、頭がわ」
「キャンプの下見だ」
咄嗟にぼくは言葉を隔たった。
彼女の科白を聞く前から、嫌な予感がした。嫌と言うほど、嫌な予感がした。絶対にろくなことは言われない。
ありえないぐらいに傷つけられるだろう、と予測した。
彼女はぼくの言葉に顔の表情を動かさない。
「それなら明るいうちに来るんじゃないの」
「……肝試しの下見だ」
「こんな時間、しかも霧の夜に」
「だからこそ、だよ。ちょうどいいんだ。肝試しして大丈夫か安全性を確認するには、ね」
事実、キャンプ場は近くにある。
歩いて、15分くらいだろう。
男の足なら、だが。
「そう」
「ああ、だから、別に妙な理由もなにもない」
自分からぼくはそう言った。
むしろ、見え見えだった。
死体の足下でなにを言っているのか。
口元だけを動かし、出される声。
「なら」
次は何をいわれるのか。
「通報は頼むわね」
「通報?」
何を言っているんだ、こいつは。
通報だって?
「……なぜ、ぼくが」
「……通報もしないのに、ただ死体を見に来たの、あなた」
言葉に詰まる。
そうだ、とも言えない。
「君がすればいい」
「私はそうしない約束でここまで来たのよ。だって、面倒じゃない」
この時間に、こんなところまで来て。
椅子まで持ち出してるのに、面倒だと彼女は言った。
「でも、彼。早く帰りたいらしいから、ちょうどよかった」
「帰りたい?」
「家族のところへ、帰りたい、ですって」
……彼女はどうやら、家族でも何でもない様子だった。
それどころか。
名前も知らなそうだった。
「じゃあ、私、帰るから」
ぼくはそう彼女が言うのを、止める理由もなく。
見送る。
このまま話していて、困るのはぼくの方だった。
重そうに椅子を持って行く様子を見て、心配にもなった。
だけど、一緒にこれ以上いるのも、躊躇われた。
すぐに見えなくなる、その背中。
霧の暗幕に隠されて。
足音だけが聞こえた。
足音に追われることは考えたが。
足音を見送ることは考えなかった。
それを見送りながら、嫌になった。
自分の冷たいところが。
彼女への気遣いよりも、自分の保身や都合を優先している自分が。
嫌だった。
こうして、ぼくは始めて死体と二人きりになったのだ、と気付いた。
彼……を見上げる。
彼はあくまで、怨みがましそうに、嫉ましそうに、羨ましそうに、見下ろしていた。
……そう、ずっと。
彼女と、ぼくを。
見下ろしていたんだった。
ぼくは彼を忘れかけていた。ぼくの中で、彼が恐怖の対象ではなくただの飾りに成り下がっていた・
おい、そんな目をするなよ。
ぼくが悪いんじゃない。
ぼくは彼に話しかける。
「アンタは自分で選んだんだろう。寂しくても、孤独でも」
他の奴には見られたくない姿だった。
今のぼくも。
大切な人にも、見知らぬ人にも。
「アンタはそれでいいんだろうけどさ、ぼくは生きてるんだよ」
都合というものがある。
保身というものもある。
なにより、明日がある。
「付き合い、ってものはあるんだ。生きてるモノ同士の」
だから。
「助けて欲しいなら、そこから降ろして欲しいなら」
同じ目線に立って言え。
同じ目線の奴に言え。
死んだ奴にでも言え。
「ぼくを巻き込むなよ」
アンタはアンタの都合で死んだんだから。
ぼくもぼくの都合で生きてくよ。
そう言って、ぼくは彼に背を向けた。
もう風が吹くことはない。
呼び止められることもない。
一度だけ、振り向くと。
揺れていた。
ロープが揺れていた。
他の木々や、草むらは揺れず。
他のモノは何一つ、動いていなかった。
彼はまだ下を見ていた。
揺れながら。
俯いたままだった。
「ずっと、そうしてろよ」
足音が追って来ることはなかった。
こうして、彼とぼくは独人になった。
独人と独人。
孤と孤になった。
元々、そうだったのだろうから。
なにも変らなかった、のだろう。
もし、変ったのだとすれば。
全てを覆い隠す、霧や。
風もないのに、ざわめく草むらや。
何かがはねる、仄暗い沼や。
林の向こうの物音、何かの気配は。
まったく、もはやぼくの感情を揺らすモノでも。
恐怖の対象でもなくなった、ということぐらいだろう。
ぼくは、それを。
……彼女のせいだと、思った。
いや、本当なら。
元はと言えば。
ぼく自身のせいなのだろう。
もっと怖い思いをしたいと、そう欲をかいたせいなのだろう。
つまり、これは。
自業自得、というものらしかった。
なにも、怖くも、楽しくも。
……なくなってしまった。
翌日。
ぼくは当たり前のように学校にいた。
いつものように、朝食を食べ……ずに抜いて、電車に乗って、授業を受けて、適当に友達と話した。
予想通り、予測通り。
適当に対応出来る範囲の物事。
日常の中の、いつも通りのこと。
恐怖も、喜びもなく。
わかりきったことだけが続く世界。
朝食はいつも通り、食べたくないし。
電車は時間通り、変わりなんかないし。
授業は教科書通り、読めばわかるし。
友達は表面通り、関わっていればいいし。
台本でも用意されているんじゃないだろうかと。
決まってる通り、話して、過ごしているだけじゃないかと。
思ってしまうような、一日。
いつも通りだった。
違うのは、手に傷が出来ていたくらいだ(たぶん林で引っかけたのだ)。
ああ、もう。
いっそ、台本をよこせ。
台詞を全て読み切ってやる。
歌いきってやる。
これ以上はないほどに、演じきってやる。
拍手は……もらえないだろうな、脇役だし。
……残念だった。
自由にやったら、怒られるだろう。
締め上げられるかな、それとも、吊し上げか?
どっちでも、いいか。
それでも、自分の都合を通して生きてるからには。
他人の都合も、通してやらなきゃならないんだよな。
ああ、退屈だ。
そう、今度はどこへ行こうか、と。
今日は、ノリがイマイチだなぁ、同級生に言われながら廊下に出ると。
すれ違った。
何人も連れだって歩く、女子生徒。
その一人。
ポニーテールの、眼鏡を掛けた女子とすれ違った。
なにもかも、違うのに。
ぼくはなぜか気付いた。
ぼくと同じように、その手に傷があるのを見て。
あの時の、彼女だと。
間違いない。
なぜか、そう確信した、
彼女は振り返りも、ぼくを一瞬たりとも見ることもなく。
歩いて行く。
他の女子に紛れて。
同じように。
結局、なにも変らない。
いつも通りの一日だった。
ただ、ぼくは。
想定外がぼくのとても身近なところに、紛れ込んでるのを知った。