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サンガクッ

作者: 虹の箸
掲載日:2026/10/27

この作品のサウンドトラックも作ってみました。よかったら聴いてくださると嬉しいです。

https://music.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_kWpsUCaSP0BlHOwKkedQue2j0UQhUAIxE&si=hwncBAxQqjIXijrO

シングルバーナーの青い炎が、チリチリと心地よい音を立ててケトルの底を炙っている。

ここは私立・桜ヶ丘女学院の旧校舎三階、山岳部部室。

壁には年代物のピッケルや色褪せた地形図が飾られているが、中央の長机の上を占領しているのは、高級パティスリーの限定マカロンと、湯気を立てるアールグレイのティーカップだった。

「……うん、やっぱり山で飲む紅茶は最高だねぇ」

「穂乃果、ここ標高ゼロメートルの部室だけどね」

幼馴染の美咲(みさき)が、スマホの画面から目を離さずにツッコミを入れる。

山岳部部長の穂乃果(ほのか)は、両親ともに海外の未踏峰に挑むガチ勢の登山家だ。部室にあるチタン製マグカップや最新鋭のバーナーもすべて実家の余り物。しかし、幼い頃から親の背中を必死に追いかけるばかりのスパルタ山行に疲れ果てた彼女は、「自分のペースで歩けない山なんてこりごり。山は中腹の茶屋で団子を食べて帰るもの」という独自のゆるい哲学に行き着いていた。

「まあまあ、お二人とも。今週末の『高尾山・秋のスイーツ縦走計画』ですけれど、麓のイタリアンを貸し切りにしておきましたわ」

優雅に微笑むのは、国内屈指の財閥・白鳥グループの令嬢である麗華(れいか)。彼女が持参する「行動食」はいつも一粒千円越えのショコラで、部室の隅には彼女がポケットマネー(という名の部のスポンサー費)で購入した、プロ仕様の厳冬期用・超軽量テントが未開封のまま鎮座している。

三人の活動といえば、放課後にバーナーでお湯を沸かしてお茶を飲み、月に一度、ケーブルカーを駆使して近隣の低山を散歩することだけ。

そんな平和な楽園に、突如として落石警報が鳴り響いた。

廊下から近づいてくる、規則正しい硬い足音。

「……っ、生徒会!」

穂乃果が鋭く囁いた瞬間、三人は普段のゆるさが嘘のような見事な連携を見せた。穂乃果がコンマ一秒でバーナーのコックをひねって火を消し、美咲が熱々のバーナーごと金属製のバケツを被せ、麗華がその上にレースのテーブルクロスを優雅に広げてティーポットを置いた。

直後、ガラッと引き戸が開き、生徒会書記の眼鏡の少女が冷徹な視線とともに足を踏み入れた。

「……? なんだか少し、ガス臭くありませんか?」

「あら、気のせいですわ! それより、この最高級ダージリンの香りをお嗅ぎになって?」

麗華が華麗な笑顔で煙に巻く。書記の少女は怪訝そうに眉をひそめつつも、手元のバインダーから一枚の紙を突きつけた。

「まあいいでしょう。山岳部、現在の部員は三名ですね。学園規約の改定により、来月末までに部員が五名に満たない場合、あなたたちは『同好会』へ格下げ、およびこの部室の明け渡しとなります。なお、幽霊部員による名義貸しを防ぐため、『毎月一度、部員五名全員が山頂で撮影した活動報告写真』の提出が義務付けられましたので、そのつもりで」

「「「えええええっ!?」」」

書記が去った後の部室に、三人の悲鳴が木霊した。同好会になれば部費はゼロ、なによりこの快適な「お茶会スペース」が没収されてしまう。しかも、ただ名前を借りるだけのペーパー部員では誤魔化せない。

「やだやだ! ここの日当たり、昼寝に最高なのに!」と机に突っ伏す美咲。

「生徒会を買収……いえ、学園に新しい体育館を寄付すれば規約ごと揉み消していただけるかしら?」と物騒なことを言い出す麗華。

「だめだよ麗華ちゃん! こうなったら、あと二人、一緒にお散歩登山に行ってくれる新入部員をスカウトするしかない!」

穂乃果が拳を握りしめた。こうして、ぬるま湯に浸かりきっていた三人の部室防衛戦が始まった。

だが、彼女たちはまだ知らなかった。このスカウトが、自分たちを「底知れぬ魔物」の懐へと引きずり込むトリガーになるとは。

ビラ配りやポスター掲示が空振りに終わり、期限まで残り一週間となったある日の放課後。

三人は校舎裏の古いレンガ壁の前で、信じられない光景を目撃した。

一人の小柄な少女が、命綱もなしに、垂直のレンガ壁を指先だけでスルスルと登っていたのである。

「ちょ、ちょっと! 危ないよ!」

穂乃果が慌てて声をかけると、二階の高さにいた少女はチッと舌打ちし、わずかな窓枠の突起と雨樋を足場にして、まるで重力から解放された蜘蛛のように、わずか二秒で音もなく地面へとクライムダウン(下降)してみせた。

「……なんだ、いいホールド(手がかり)を見つけたと思ったのに。ここも立ち入り禁止?」

彼女の名は、一年生の橘アキラ。のちに判明することだが、彼女はスポーツクライミングのユース世界大会を制し、次期オリンピックの代表候補に名を連ねる天才クライマーだった。ただ、あまりにストイックすぎて周囲と馴染めず、所属していた外部のジムのコーチと方針の違いで喧嘩し、校内で勝手に壁を登っていたらしい。

「あなた、素晴らしい指の力ですわね! 私たちの部に入りませんこと? 最新のクライミングギア、なんでも揃えますわよ!」

「ギアはどうでもいいけど……山岳部? 外の自然な岩(ナチュラル・ロック)を触れるなら、入ってやってもいい」

アキラの目は、獲物を探す猛禽類のように鋭く光った。かなり方向性は違う気がしたが、背に腹は代えられない。これで四人目。

そして最後の五人目は、意外なほどあっさりと見つかった。

数日前に二年生のクラスへ転校してきたばかりの、銀色がかった黒髪と琥珀色の瞳を持つ美少女、マヤ・シェルパ・シュミットだ。

いつも窓際でぼんやりと遠くの雲を眺めている彼女に、美咲がダメ元で「山岳部で一緒にお茶しない?」と声をかけると、マヤは不思議そうに首を傾げた。

「ヤマ……? いいよ。私、平地は空気が濃すぎて、少し息苦しいから」

祖父はエベレストの無酸素登頂記録を持つネパールの伝説的シェルパ、祖母はドイツの著名な女性アルピニスト。その両方の血を継ぐクオーターの彼女は、幼少期を高地で過ごした正真正銘の「山の申し子」だったのだ。

こうして奇跡的に五人が揃い、部室の立ち退きは免れた。

「あとは今週末、適当な山で五人の写真を撮ればクリアだね!」と胸をなでおろす穂乃果、美咲、麗華。

しかし、新入部員の二人は、部室のティーセットには目もくれなかった。

マヤは壁に貼られた古い地形図をじっと見つめ、アキラは麗華が買って放置していた本格的なギアの山を漁り始めたのだ。

「ねえ、部長」とアキラがチョークバッグを腰に下げながら振り返る。「次の週末、どこの岩場に行くの? まさか、舗装されたハイキングコースじゃないよね?」

「この地図の尾根……」マヤが細い指で、奥多摩の険しい急登ルートをなぞった。「風の通り道がきれい。ここ、歩きたい」

「えっ……あ、いや、私たちはいつもケーブルカーで……」

もしここで断って二人に退部されたら、部室は即没収。そして毎月一度の「五人全員での登頂写真」という規約が、三人の退路を完全に断っていた。

最初の試練は、晩秋の奥多摩・鷹ノ巣山だった。

標高差一〇〇〇メートルを超える、容赦のない急登の連続。

「はぁ、はぁ……っ、ちょ、もう絶対ムリ! 私、ここで帰る……!」

開始一時間で、美咲が登山道にへたり込んだ。それもそのはず、美咲と麗華のザックには「山頂で優雅にアフタヌーンティーを」という無謀な計画のもと、鋳鉄製のティーポットや折り畳みチェア、大量の高級食材が詰め込まれており、日帰りにもかかわらず十キロ近い重量になっていたのだ。

「遅い。そんな無駄な荷物、置いていけば?」と、遥か上の斜面からアキラが冷たく言い放つ。

「ちょっと、言い方ってものがあるでしょ!」と美咲が噛みつき、パーティーの空気は一気に険悪になった。

マヤは黙って美咲のザックに手をかけた。「貸して。私が持つ」

自分の荷物と合わせて二十キロ近くあるはずなのに、マヤはそれをひょいと背負い、涼しい顔で立ち上がる。

だが、その時、穂乃果が「待って、マヤちゃん、アキラちゃん」と凛とした声で二人を制した。

「パーティーを分断するのは絶対にダメ。……美咲、ちょっと靴を見せて」

穂乃果は美咲の前にしゃがみ込むと、緩んでいた靴紐を的確なテンションで結び直し、ザックのショルダーハーネスを美咲の骨格に合わせて瞬時に調整した。幼い頃、両親から嫌というほど叩き込まれた登山の技術が、仲間の苦しみを前にして自然と指先から溢れ出していた。

「マヤちゃんにはティーポットだけ持ってもらおう。美咲は、私の踵(かかと)のすぐ後ろを見て。歩幅は靴半足分。足の裏全体で地面をフラットに踏んで、山の呼吸に、自分の心臓のリズムを合わせるんだよ」

穂乃果がゆっくりと、美咲の呼吸に寄り添うような絶妙なペースを刻み始める。言われた通りに足を動かすと、美咲の荒れていた呼吸が、嘘のようにスッと楽になった。

(ああ、そっか……)

後ろからついてくる美咲の安定した足音を聞きながら、穂乃果は胸の奥が熱くなるのを感じていた。親の背中を必死に追いかけていた時はあんなに苦しかった山が、誰かと歩幅を合わせ、仲間を支えながら登る今は、こんなにも愛おしい。

さらに中腹の露岩帯に差し掛かると、今度は麗華が足場を失って立ち往生した。

それを見たアキラが、岩の上からニヤリと挑発的に笑う。

「あれ、お嬢様にはこの程度の岩、やっぱり無理かー? 泥がつくのが嫌なら、おぶってあげようか?」

「……なんですって?」

麗華の瞳に、白鳥家のプライドの炎が宿った。

「見ていなさい! どう登ればいいの、言ってみなさいな!」

「フッ……いい目。まず左のスタンス(足場)に靴のインサイドを乗せて! 腕の力で引くんじゃない、膝を伸ばして骨格で立つ!」

アキラの的確すぎるアドバイスを受け、麗華が泥だらけになりながらも自力で岩場をよじ登る。爪が割れるのも構わず岩を掴み、上りきった瞬間、麗華の整った顔にこれまで見たこともない野性的な笑みが浮かんだ。

「すごい……! 私、自分の力だけで、こんな高い場所まで登れましたわ!」

そして、暗い樹林帯を抜けると、防火帯の切り開きによって視界が一気に開けた山頂へと飛び出した。

冷たい風が火照った頬を撫で、目の前には黄金色に輝くススキの原と、その向こうにそびえる真っ白な富士山の姿があった。

「……やば」

山になんの興味もなかったはずの美咲が、ザックを下ろすのも忘れて立ち尽くし、ぽつりと呟いた。

「なにこれ……ちょっと、ずるいよ、こんな景色……」

その日、山頂で穂乃果が沸かしたお湯で作った、ただのインスタントのカップスープは、部室で飲むどんな高級紅茶よりも、五人の五臓六腑に染み渡った。

それからの桜ヶ丘女学院・山岳部の変貌ぶりは、学園中の誰もが予想しないものだった。

部室からマカロンは消え、代わりに高カロリーな行動食の研究ノートと、登山計画書が机を埋め尽くした。

麗華のスポンサー力は「生徒会の買収」ではなく、穂乃果の両親の知人である国際山岳ガイドのチームを「外部コーチ兼引率顧問」として正式に雇い入れることと、最高峰のギアの購入へと正しく注ぎ込まれた。

プロの厳格な指導のもと、五人は春に丹沢の鎖場を縦走し、夏には北アルプス・穂高連峰の険しい岩稜帯『ジャンダルム』を全員で踏破した。

毎月生徒会へ提出される活動報告写真が、近郊の低山から『断崖絶壁の岩稜』へとどんどん常軌を逸していくのを見て、あの冷徹だった生徒会書記が「こ、これ合成写真じゃないでしょうね……!?」と引きつった顔で承認印を押すようになったほどだ。

底知れぬ「山」という魔物に、五人は完全に魅入られていた。苦しい。寒い。重い。足が痛い。なのに、一歩登るごとに日常の雑音が剥がれ落ち、命の輪郭がくっきりと浮かび上がるあの感覚を知ってしまったら、もう二度と「ゆるい日常」には戻れなかった。

そして迎えた、翌年の冬。

彼女たちが次なるターゲットに定めたのは、日本のアルパインクライミングの聖地にして魔の山・谷川岳。その一ノ倉沢にそびえる氷と岩の巨大な大斜面――通称『鬼スラ(鬼スラブ)』の冬季登攀だった。

だが、登山計画書を詰める部室で、麗華と美咲は静かに顔を見合わせ、ある決断を口にした。

「穂乃果さん、アキラさん、マヤさん。今回の『鬼スラ』、壁に挑むのはあなたたち三人のアタック隊だけで行きなさい」

「え……? ちょっと待ってよ麗華ちゃん、美咲! 五人全員で登るって約束じゃ……!」

戸惑う穂乃果の手を、美咲が優しく握った。

「穂乃果、私は歩荷(ぼっか)とパッキングには自信があるし、麗華も天気図を読むことにかけてはプロ並みになった。でもね、純粋なミックス壁のクライミング技術では、どうしてもアキラとマヤ、そして穂乃果には及ばないの」

「厳冬期の鬼スラは、一瞬の停滞が凍死や雪崩に直結する世界ですわ」と麗華が凛とした声で続ける。「もし私と美咲がロープに繋がれば、登攀スピードが落ちて日没までに壁を抜けられなくなる。それは足を引っ張るどころか、全員の命を危険に晒すことになります」

二人は、自分たちの現在地と「山の冷徹な論理」を誰よりも冷静に理解していた。悔しくないはずがない。それでも、仲間を生かし、チームの目標を達成するために下した誇り高い決断だった。

「だから、私たちは『サポート隊』に回りますわ。宿泊用の重いテントや温かい調理器具は私たちが背負います。あなたたち三人は、最小限の緊急用ツェルトと行動食だけの『スピード・アタック装備』で、極限まで身を軽くして壁を駆け上がってきなさい!」

「重い装備と温かいお茶の準備は、私と麗華が一般ルートの天神尾根から全部背負って先回りする! 鬼スラを登りきった頂上の稜線で、絶対に待ってるから!」

美咲と麗華の真っ直ぐな瞳に、アキラが唇を噛み、マヤが深く頭を下げた。

「……わかった。絶対に遅れないでよね、サポート隊!」

「うん。夜明けの山頂で、五人で写真を撮ろう!」

決行の未明、午前二時。氷点下十五度、谷川岳・一ノ倉沢。

漆黒の闇の中、ヘッドランプの光だけを頼りに、穂乃果、アキラ、マヤの三人は蒼白く氷結した『鬼スラ』の巨大な壁へと取り付いた。すぐ脇の別ラインには外部コーチのガイドチームが伴走し、万が一のバックアップ体制を敷いている。

アイゼンの前爪を数ミリの氷の突起に蹴り込み、ダブルアックスを振り下ろす。一歩間違えれば数百メートル下まで滑落する極限の垂直世界。

その頃、アタック隊よりもさらに早く出発していた美咲と麗華は、サブガイドと共に吹き荒れる地吹雪の天神尾根をラッセルし、すでに一ノ倉沢の真上にあたる頂上稜線(トマノ耳付近)へと到達していた。

『こちら頂上稜線の麗華ですわ! 穂乃果さん、聞こえますか!?』

核心部の悪場を前に、穂乃果の胸元のデジタル簡易無線から麗華の力強い声が飛び込んできた。直下の壁を見下ろす稜線からの通信は、驚くほどクリアだった。

『今、真上から一ノ倉沢の雲の動きを観測しています! 高層の風向きが変わりましたわ! あと十五分で、壁の上空に一時的な「風の止み間」が来ます。でも、そのあとは猛烈な寒気が吹き降ろしてきます! 勝負はそこです、一気に抜けなさい!』

「了解! ありがとう麗華ちゃん! ……マヤちゃん、ラインは見える!?」

穂乃果の問いかけに、マヤが暗闇の中で鼻先をかすめる風と雪の匂いを嗅ぎ分けた。

「右のルンゼは雪が吹き溜まってる。表層雪崩が来る……左の凍りついた岩稜の弱点ライン、あそこなら雪が乗っていない。行ける」

「よし、アキラちゃん、左のラインをリードお願い! ロープは私が絶対に止める!」

穂乃果が凍てつくロープを巧みに繰り出し、前に出すぎるアキラの呼吸とテンションを完璧にコントロールする。

マヤが天性の嗅覚で見極めた安全なラインへ、アキラが渾身の力で躍り出た。凍りついた岩の僅かな亀裂(クラック)にカム(支点ギア)をねじ込み、岩盤を覆う数ミリの薄いベルグラス(氷)にアックスの先端を引っ掛けて体を引き上げる。インドアの女王だった少女は今、自然の猛威と完全に同化していた。

自分たちは三人だけじゃない。吹雪の稜線で、誰よりも重い荷物を背負い、空を睨みながら待っていてくれる二人がいる。その事実が、凍えそうな三人の指先に炎のような力を宿らせていた。

「上、抜けたよ! アンカー構築完了! 国境稜線だ!」

アキラの叫びとともに、マヤと穂乃果が最後の雪庇(せっぴ)を突き破り、谷川岳の頂上稜線へと這い上がった、まさにその瞬間だった。

麗華の予告通り、吹き荒れていたブリザードがピタリと止み、東の空の分厚い雲の切れ間から、夜明けの圧倒的な朝日の光が爆発するように溢れ出した。

眼下に広がる大雲海と、朝日に染まるモルゲンロート(朝焼け)の白銀の峰々。

そして、ダイヤモンドダストがキラキラと舞う頂のすぐ先に――鮮やかな「黄色のテント」がすでに設営され、大きく手を振る二つの人影があった。

「美咲! 麗華ちゃん!」

「おーい! 遅いよアタック隊! こっちはもうお湯が沸いちゃってるんだからね!」

かつて部室の隅で未開封のまま埃を被っていた、あの麗華の「プロ仕様の超軽量テント」だった。

三人は最後の力を振り絞って駆け寄り、出迎えた美咲と麗華の胸に飛び込んだ。ゴアテックスのグローブ越しに五人でぎゅっと抱き合い、そのまま転がるようにして温かいテントの中へと潜り込む。

外の世界から隔絶された小さなテントの前室では、シングルバーナーの青い炎がチリチリと心地よい音を立てており、雪を溶かした小鍋から甘い湯気が立ち上っていた。

五人が肩を寄せ合うと、それだけで凍えた体にじんわりと血が巡り始める。美咲がゴーグルを上げ、白い息を吐きながら悪戯っぽく笑った。

「……ねぇ、穂乃果。私たち、最初は部室でお茶するために集まったんだよね?」

「うん。確か、高尾山で団子を食べる部活だったはずなんだけどなぁ」

穂乃果が泣き笑いのように答えると、麗華が小鍋から煮出したばかりの熱々の飲み物を、五つのチタンカップへと優雅に注ぎ分けた。

「皆さま、最高の登攀でしたわ。今日はマヤさんに教えていただいた、ネパール風の濃厚なスパイスチャイを煮出しておきましたの。さあ、冷めないうちに召し上がれ!」

「おっ、さすが麗華! バターたっぷりでカロリー高そう!」

「……うん、美味しい。指先まで温まる」

それぞれの役割を全うし、五人の総合力で掴み取った過酷な白い頂き。

小さなテントの中で湯気の立つチタンカップをカチンと鳴らした彼女たちは、生徒会に提出するための「五人全員での記念写真」を撮るために、再び眩い朝日の輝く外の世界へと顔を覗かせた。

〜〜〜〜〜

スマートフォンの中で再生される動画には、吹雪の谷川岳・一ノ倉沢の頂上稜線で、黄色いテントから顔を出して無邪気にピースサインをする五人の女子高生の姿が映っていた。

『現役JK五人組、厳冬期の魔の山「鬼スラ」を完全踏破!』

そのニュースは、登山界という狭いコップの中を飛び越え、SNSを通じて日本中へと爆発的に拡散された。

銀髪碧眼の神秘的な美少女に、誰もが知る巨大財閥の令嬢、スポーツクライミングのユース女王、そしてどこにでもいそうな親しみやすい笑顔の少女たち。過酷なアルパインクライミングのイメージを覆す華やかなルックスと、「部室でお茶をするために登った」という嘘のような本当の話は、瞬く間に彼女たちを時代のアイコンへと押し上げた。

だが、周囲の狂騒をよそに、五人の視線はすでに日本の山にはなかった。

高校卒業を控えた春。穂乃果(ほのか)、美咲(みさき)、麗華(れいか)、マヤの四人は、国内最高峰の学府・帝都大学の門をくぐった。

麗華が世界中から招聘した超一流の家庭教師陣によるスパルタ受験対策と、高校生の枠を超えた登山実績を武器に、総合型選抜入試を突破したのだ。

なぜ、白鳥財閥の無尽蔵の資金とプロのガイドチームを持つ彼女たちが、わざわざ規律の厳しい既存の「名門大学山岳部」に入部したのか。理由は極めて戦略的なものだった。

帝都大学山岳部が百年の歴史の中で蓄積してきた「ヒマラヤ未踏峰の非公開ルート資料」の閲覧権。そして、外国政府から難関峰の登山許可証(パーミット)を「学術調査」の名目で最優先に取得できる特権。世界のまだ見ぬ壁に挑むため、彼女たちにはどうしてもその二つが必要だったのである。

しかし、光が強ければ、落ちる影もまた濃い。

「ここはな、お嬢様たちのママゴト遊びの場じゃないんだよ!」

薄暗い大学の部室で、山岳部の古参OBや既存の先鋭クライマーたちは、彼女たちに露骨な敵意と冷笑を浴びせた。

資金調達という登山最大の壁を、麗華のスポンサー力で軽々と飛び越えていく五人。最新鋭のギアを揃え、ヘリコプターや最新の気象衛星システムを惜しみなく投入する彼女たちのスタイルは、泥をすすり、爪に火を灯すような貧困とハングリー精神で山に挑んできた旧世代の登山家たちにとって、許しがたい「冒涜」に映ったのだ。

『白鳥財閥の金で安全を買っているだけだ』

『シェルパと最新テクノロジーにおんぶに抱っこの商業登山。あんなものは真のアルピニズムではない』

ネットや専門誌に溢れる辛辣な批判。だが、五人は言い訳をひとつも口にしなかった。代わりに、圧倒的な「結果」で世界を黙らせに出たのである。

美咲と麗華は、自分たちの専門領域である「極地ロジスティクス」と「高所気象解析」を極限まで磨くための実戦訓練として、五大陸の過酷な極地遠征を主導した。厳冬期のアラスカ・デナリ、南極大陸のヴィンソン・マシフ。マイナス四十度を超える極寒の地で、美咲は一グラムの無駄もない完璧な補給線とベースキャンプを構築し、麗華は局地的なブリザードの隙を突く神がかり的な気象予測でチームを無傷で頂へと導いた。

一方、穂乃果とマヤの二人は、先鋭的な高所クライミングの最前線へと突き進んだ。パキスタンの七千メートル峰で高所順応と高速登攀の技術を研ぎ澄ますと、大学二年の冬、ついに人類史上でも数えるほどしか成功者のいない「エベレスト冬季・無酸素登頂」という歴史的快挙を成し遂げたのである。

そして、一学年下だった最後のピース――橘アキラが動いた。

夏季オリンピック、スポーツクライミング決勝。

世界中のカメラが見つめる中、最終課題をまるで重力など存在しないかのように完登し、圧倒的なスコアで金メダルを確定させたアキラは、ヒーローインタビューのマイクの前で、金メダルを無造作にポケットにしまいながら言い放った。

「今日で、競技クライミングは引退します。人工のプラスチックの壁はもう飽きました。……私には、世界で一番高い場所でお茶を飲む約束をした仲間がいるので」

会場がどよめく中、アキラはその足で空港へと向かった。

スポーツクライミングの選手は、重力に逆らうため極限まで脂肪を削ぎ落とした「無酸素運動・瞬発力特化」の肉体を作る。しかし、その体ではヒマラヤの八千メートル峰の極寒と低酸素には耐えられない。

一年遅れで帝都大学へ入学したアキラは、穂乃果とマヤの領域に追いつくため、丸一年間、パキスタンの大岩壁トランゴ・タワー周辺の六千メートル地帯に籠もった。皮下脂肪と心肺機能を根本から作り変える過酷な肉体改造と高所順応。血を吐くような鍛錬の末、彼女は「インドアの女王」から、氷と岩の複合壁を無酸素で駆け上がる「高所の怪物」へと変貌を遂げた。

シングルバーナーの青い炎が、チリチリと心地よい音を立ててケトルの底を炙っている。

場所は、母校・桜ヶ丘女学院の旧校舎三階、山岳部部室。

休日、卒業生として特別に許可をもらって忍び込んだ懐かしい部室の長机には、あの頃と同じ高級パティスリーの限定マカロンと、湯気を立てるアールグレイのティーカップが並んでいた。

「……うん、やっぱり山で飲む紅茶は最高だねぇ」

「だから穂乃果、ここは標高ゼロメートルの母校の部室だってば」

美咲がスマホを置きながら笑う。五人が日本でこうして顔を揃えるのは、実に二年ぶりのことだった。

だが、テーブルの端に広げられているのは、高尾山のハイキングマップではない。帝都大学のアーカイブから引き出した門外不出の古地図と、パキスタン政府から届いたばかりの分厚い公式登山許可証だった。

「それにしても、山岳部のOBの方々も相変わらずうるさいですわね」

麗華がティーカップを傾けながら、上品にため息をついた。

「穂乃果さんとマヤさんが冬季エベレストを無酸素で登ってもなお、『ベースキャンプの贅沢な設備や、外部のサポート隊のおかげだ』『純粋な自分たちの力ではない』などと週刊誌にコメントしていらっしゃる。……そろそろ、完膚なきまでに黙らせて差し上げたいところですわ」

「だね」と、たくましい体躯へと成長したアキラが、マカロンを一口で放り込みながら獰猛に笑った。「金も、外部のシェルパも、酸素ボンベも、固定ロープも一切使わない。完全に私たち五人だけの力で、誰も登ったことがない壁をぶち抜けば、ぐうの音も出ないでしょ」

マヤが静かに視線を落とし、古地図の一点を細い指先でトントンと叩いた。

「ここ。一番風の音が強くて、一番神様に近い壁」

五人の視線が、地図上のその一点に集まった。

世界第二位の高峰にして、エベレストを遥かに凌ぐ致死率から『非情の山(サベージ・マウンテン)』と恐れられる標高八六一一メートルの魔峰・K2。

その中でも、巨大な氷塔(セラック)の崩壊と雪崩が絶え間なく発生するため、世界のトップクライマーたちですら近づくことを諦めた人類未踏の絶壁――『K2東壁』だった。

「K2東壁を、外部サポートなしの完全なアルパインスタイルで……」

穂乃果がゴクリと喉を鳴らし、それから、悪戯を思いついた少女のようにパッと顔を輝かせた。

「ねえ、みんな。次のお茶会、このK2の東壁の上でやらない?」

「あはは、標高八六〇〇メートルのティーパーティーかぁ。お湯が沸く温度が低くて大変そうだね」と美咲が肩をすくめる。

「問題ありませんわ、美咲さん。圧力鍋を改良した特製の高所クッカーを開発させましたの」

まるで週末にお散歩へ出かけるようなゆるい会話で、登山史を塗り替える狂気の計画が決定した。

二ヶ月後。パキスタン奥地、カラコルム山脈・バルトロ氷河。

標高五〇〇〇メートルのK2東壁ベースキャンプ(BC)には、外部の人間は誰一人としていなかった。

ここまでの過酷なキャラバンと、一トンの機材・食料の輸送計画、そして氷河上の完璧なキャンプ設営をすべて一人でマネジメントし抜いたのは、美咲だった。かつて日帰りで十キロの荷物に泣いていた少女は、今や世界最高峰のロジスティクス・ディレクターとして、アタック隊が最高のコンディションで壁に挑める環境を盤石に整えていた。

そしてBCの通信テントでは、麗華が三台のモニターと、前線に設置した独自気象レーダーの解析画面を血走った目で睨みつけていた。

「K2東壁がこれまで人類を拒み続けてきた理由は、壁の上部で吹き荒れるジェット気流と、気温変化による氷塔の崩壊ですわ」

麗華が画面の気圧配置図を指し示す。

「ですが、明日の未明からわずか四十八時間だけ、チベット高気圧の張り出しによってジェット気流が北へ押し上げられます。三年ぶりの『気象の窓』が開きますわ! この四十八時間のうちに、標高差三〇〇〇メートルの東壁を一気に駆け上がり、頂上を踏んで降りてきなさい。一分でも遅れれば、再び吹き荒れる暴風に捕まって全員凍死します」

「四十八時間のスピード・アタック……」

穂乃果、アキラ、マヤの三人は、極限まで削ぎ落とした装備を点検した。酸素ボンベはない。固定ロープもない。あるのは最小限のクライミングギアと、緊急用の超軽量ツェルト、そして数日分の高カロリー行動食だけ。

「穂乃果、アキラ、マヤ」

出発の直前、美咲が小さなアルミの包みと、ひとつのバーナーを穂乃果のザックのポケットに押し込んだ。

「これ、麗華がブレンドした特製のチャイの茶葉とスパイス。あと、私たちが高校の部室で最初から使ってた、あのシングルバーナー。……絶対に、五人で飲むんだよ」

「……うん! 行ってくるね、美咲、麗華ちゃん!」

五人はゴアテックスのグローブ越しに固く拳を合わせ、アタック隊の三人は漆黒の闇が支配する氷河へと踏み出した。

一日目、標高七二〇〇メートル。

東壁の核心部、垂直にそびえ立つ巨大な青氷のセラック(氷塔)帯。

酸素濃度は平地のわずか三分の一。一歩足を踏み出すごとに肺が焼き切れるように痛み、脳が鉛のように重くなる。

だが、その極限の世界で、マヤはまさに「山の申し子」そのものだった。無酸素のエベレストを経験した彼女の心肺は、希薄な空気の中でも全く衰えない。雪の結晶の軋む音、風のわずかな匂いから、今にも崩壊しそうな氷塔の危険地帯を本能的に嗅ぎ分け、暗闇の中に一本の「生きるためのライン」を描き出していく。

「右の氷柱は死んでる。左のオーバーハングした岩と氷のミックス帯……あそこしか道はない」

「オーバーハングね……上等じゃん!」

マヤの示した絶望的なハング(逆傾斜)の壁に、アキラが躍り出た。

一年間の過酷な肉体改造によって、高所の低酸素下でも爆発的な出力を維持できるようになったアキラの躍動は、もはや人間の領域を超えていた。アイゼンの前爪を数ミリの岩の結晶に引っ掛け、氷にアックスを叩き込み、重力に引きずり下ろされそうになる三人の命綱を、圧倒的なフィジカルでグイグイと引き上げていく。

そして二日目、標高八二〇〇メートル。『デスゾーン(死の領域)』。

生命維持すら困難な超高所で、三人の意識が朦朧とし始めたその時、穂乃果の胸元の衛星無線機がノイズとともに鳴り響いた。

『こちらBCの麗華ですわ! 穂乃果さん、聞こえますか!?』

吹雪の底、三〇〇〇メートル下のベースキャンプから届く、麗華と美咲の声だった。

『大変です、予定より六時間早く偏西風の蛇行が始まりました! あと三時間で東壁の上部に秒速五十メートルのジェット気流が戻ってきます! 今すぐその氷壁を抜けないと、退路を断たれますわ!』

『穂乃果! アキラ! マヤ! 足を止めないで! 私たちがここでずっと見守ってるから!』

二人の必死の叫びが、凍りつきかけていた穂乃果の脳を激しく揺さぶった。

(みんなを……絶対に、生きて美咲と麗華ちゃんのところへ連れて帰る!)

「アキラちゃん、マヤちゃん! 私の踵のリズムに合わせて! 呼吸をひとつにするよ!」

穂乃果がリーダーとして最後の力を振り絞り、自らが先頭に立って胸までの深い雪をラッセルし始めた。

かつて奥多摩の山で美咲の歩幅に寄り添ったように、穂乃果は極限状態にあるアキラとマヤの鼓動を感じ取り、三人が最も力を発揮できる奇跡のペースを刻み続ける。親の背中を追うのではなく、仲間と共に歩むために培ってきた彼女のリーダーシップが、デスゾーンの悪魔をねじ伏せていく。

最後の垂直の雪壁にピッケルを打ち込み、体を強引に引き上げた瞬間――。

それ以上、登るべき壁はどこにもなかった。

足元に広がるのは、地球の丸さすら感じさせる果てしない大雲海と、遥か眼下に小さく見える周囲の八千メートル峰の頂。

標高八六一一メートル、K2山頂。人類が初めて『東壁・アルパインスタイル』を完全踏破した瞬間だった。

「……着いた。本当に、着いちゃった……」

アキラが雪の上に膝をつき、マヤが空を見上げて静かに微笑む。

穂乃果は震える手でザックを下ろし、嵐が来る前のわずかな静寂の中、緊急用の黄色いツェルトを素早くかぶった。そして、美咲から託されたあの古いシングルバーナーを取り出し、点火する。

チリチリと、標高八六一一メートルの希薄な空気の中で、小さな青い炎が灯った。

山頂の雪をクッカーに詰め、溶かした湯に麗華の茶葉とスパイスを投入する。立ち上るシナモンとカルダモンの甘い香りが、冷え切ったツェルトの中を一瞬で「あの放課後の部室」へと変えた。

穂乃果は無線機のスイッチを押し、三つのチタンカップに熱々のチャイを注いだ。

「……美咲、麗華ちゃん、聞こえる? 今、山頂でお湯が沸いたよ」

無線機の向こう、三〇〇〇メートル下のベースキャンプのテントの中で、泣きじゃくる美咲と麗華の声が返ってきた。

『ええ、聞こえていますわ! こちらも今、同じチャイを淹れたところですの!』

『穂乃果、アキラ、マヤ……! 本当に、本当におめでとう……!』

「五人全員で登ったんだよ。さあ、生徒会じゃなくて……世界中のうるさい大人たちに提出する記念写真を撮る前に、乾杯しよう!」

穂乃果がカップを無線機に近づける。

山頂の三人と、ベースキャンプの二人。標高差三〇〇〇メートルを隔てながら、五人の心はひとつの小さな部室の中で完全に重なっていた。

「「「「「乾杯!」」」」」

カチン、とチタンカップが触れ合う軽やかな音が、無線機越しに響き渡る。

世界一高くて、世界一過酷で、そして世界一贅沢な五人だけのお茶会。一口すすったスパイスチャイの温もりを胸に、彼女たちは再び、自分たちの待つ場所へと続く白い稜線へ力強く足を踏み出した。


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