美馬川芳人の再始動へのほっこり飯
どんよりとした曇り空が広がる京都の街を、美馬川芳人は力なく歩いていた。
大学4年生。
就職活動の真っ只中にある彼を包み込んでいるのは、出口の見えない深い霧のような絶望感だった。
芳人は、京都に拠点を置くIT企業「ゼネテクス株式会社」を設立した美馬川芳彦を祖父に持っている。
祖父が社長を退き、父である義重がその後を継いでからも、家柄と裕福な環境に守られ、彼は何不自由なく育ってきた。
これまでの人生は、まさに順風満帆。
エスカレーターを登るように進んできた彼にとって、社会という壁がこれほどまでに高く、冷酷なものだとは想像もしていなかったのだ。
しかし、現実は非情だった。
連日のように届く書類選考の落選通知。
画面に並ぶ「慎重に検討いたしました結果」という無機質な定型文を見るたびに、自分の存在を否定されているような感覚に陥る。
やっとの思いで漕ぎ着けた1次面接でも、面接官の事務的な態度に圧倒され、手応えを感じぬまま不採用の山を築いてきた。
それでも、血筋ゆえの立ち振る舞いか、幾つかの企業では社長や役員が立ち会う最終面接まで進むことができたこともあった。
だが、そこである社長から投げつけられた言葉が、芳人の心を粉々に打ち砕いたのだ。
「君はこの期に及んで卑怯ですね」
威圧感のある重厚なデスクの向こう側で、その女性社長は冷徹な声でそう言い放った。
「……えっ?」
言葉の意味を理解できず、芳人はただ呆然と座り直すことしかできなかった。
「さらに言えば、君の眼は死んでいます」
ピシャリ、と冷たい水でも浴びせられたような衝撃が走る。
その場では何とか取り繕って面接を終えたものの、2日後には案の定、自宅に不採用通知が届いた。
カサリ、と乾いた音を立てて机に放り出されたその紙を見つめながら、芳人は激しい悶々とした思いに囚われていた。
一体、自分の何がいけなかったのか。
なぜ、初対面の相手にあそこまで言われなければならなかったのか。
「卑怯ってなんだよ。俺はただ、聞かれたことに真面目に答えていただけじゃないか……」
「死んだ目ってなんだよ。鏡を見る限り、普通だろうが……」
怒りと悲しみ、そして底知れない自己嫌悪が混ざり合い、彼の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
誇り高き美馬川家の名が、今の自分には重すぎて、息をすることさえ苦しい。
とぼとぼと歩く足取りは重く、気づけば彼は、華やかな大通りを外れ、霧が立ち込めるような静かな路地裏へと迷い込んでいた。
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ある土曜日の休日、芳人は重い足取りで祖母の芳子の家を訪ねた。
厳格な両親には今の就活の惨状を相談することなど到底できず、唯一、優しく接してくれる祖母だけが彼にとっての救いだった。
玄関を開け、出迎えた芳子に芳人は消え入りそうな声で切り出した。
「おばあちゃん、ちょっと聞いて欲しい事があんねんけど……」
芳子は、孫の曇った表情を優しく包み込むように微笑んだ。
「そっか。ほな、御茶入れるでな」
彼女はそれ以上何も聞かず、台所へと向かった。
芳子が丁寧に淹れてくれた温かいお茶が、キッチンのテーブルに置かれた。
湯気と共に広がる茶の香りが、芳人の強張った心を少しだけ解きほぐしていく。
芳人がお茶を一口飲み、ようやく言葉を紡ごうとしたその時だった。
「おお、芳人、来とったんかいな」
豪快な声と共に、祖父の芳彦が部屋に入ってきた。
祖父はIT企業ゼネテクスの創業者であり、現在は会長職にある、この家の精神的支柱とも言える存在だ。
「お帰りなさい、芳彦さん。今、御茶入れますさかい」
芳子が微笑みながらもう一つの茶碗を用意する。
祖父母と向かい合う形になった芳人は、自然と居住まいを正した。
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「実は俺……就活、全敗中なんよ」
芳人は、膝の上で握りしめた拳を見つめながら告白した。
「俺、こないだの面接で、会社の社長に『卑怯者』とか『目が死んでる』とか、散々言われてん」
声が震え、これまで溜め込んできた苦しみが一気に溢れ出す。
「俺、ダメ人間なん? 俺の目は死んでるか? なあ、卑怯ってなんなん? 普通にちゃんと真っ正直に受け答えする事が、卑怯なことなん? 嘘つく方が卑怯なんとちゃうん?」
縋るような芳人の言葉に、芳子は慈愛に満ちた表情で答えた。
「芳人は卑怯でもあらへんし、綺麗な目してるで」
祖母の優しい言葉に、芳人の瞳に涙が滲みそうになった。
しかし、その直後だった。
正面に座る祖父の芳彦が、孫の嘆きを切り捨てるように、ふんっと鼻を鳴らした。
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芳彦は、持っていた湯呑みをコトリとテーブルに置くと、吐き捨てるように言い放った。
「なんや、就活程度で情けない」
冷淡な響きを含んだその声に、芳人は弾かれたように顔を上げた。
「え?」
信じられないという思いが、芳人の顔に張り付く。
しかし、芳彦の追撃は止まらない。
「そんなもん、ストレス耐性があるかどうかの、圧迫面接やろ。それに耐えてこそや」
腕組みをした芳彦の背後は、夕刻の光が差し込み、その影をより巨大で威圧的なものに見せていた。
「おじいちゃんはな、会社作って大きくしてる時は、それはもう大変やったで。就活如きとは比べもんにならへん」
自らの築き上げたIT企業ゼネテクスの栄光を盾に、芳彦は悠然と胸を張る。
「社会に出たら、そんなもんやないからな。その程度で音を上げてたら、社会人としてやっていけへん」
「その、程度……?」
芳人は、震える声でその言葉を繰り返した。
自分がこれまで書類選考で何度も落とされ、必死に食らいついてきたあの時間の積み重ねが、祖父にとっては取るに足らない「程度」の低い事柄でしかない。
その事実に、胸の奥を鋭利な刃物で抉られたような痛みが走った。
「大体、若者はどんどん貧弱になっていってる」
芳彦は苛立ちを隠そうともせず、言葉を続けた。
「ワシも就活生と面接する事があるけど、ワシに説教されて泣いて帰る根性無しもおったくらいや。武士道はどこいったんや。最近、日本人らしさを失っていってるって思うんはワシだけか?」
「……」
芳人は拳を握りしめ、言葉を飲み込む。
「一社落されたくらいでなんや。次や次」
「……一社だけやないよ。もう、何十社や……」
消え入りそうな声で、芳人は事実を突きつけた。
だが、百戦錬磨の経営者である芳彦には、その悲鳴すらも甘えにしか聞こえなかった。
「百社くらい当たり前や。3桁応募してから本番やと思え」
そのあまりに無慈悲な数字の羅列に、芳子の顔も曇った。
「あなた、ちょっと待って」
芳子が制止の声をかけるが、芳彦の傲慢な勢いは止まらない。
芳人の瞳から、熱い涙が溢れ出し、頬を伝ってテーブルに落ちた。
「……就活してる若い人を、泣かせて楽しいんか?」
絞り出すような、けれど激しい怒りを孕んだ声だった。
「おじいちゃんは何人の人格と人生を否定して泣かして来たんや! こっちは真剣に苦しんどるんや!」
叫びと同時に、芳人は勢いよく椅子を蹴って立ち上がった。
ガタッ! という激しい音がキッチンに響き渡る。
視界を涙で歪ませたまま、芳人は踵を返し、その場から逃げ出すように駆け出した。
「芳人!」
芳子の呼びかけを背中で聞きながら、芳人は玄関へ飛び込む。
ガチャン! と扉を乱暴に開け、そのまま夕闇が迫る街へと走り去ってしまった。
後に残されたのは、冷めかけたお茶と、重苦しい沈黙だけだった。
「芳人……」
芳子は、遠ざかる孫の足音を、ただただ祈るような心地で呟きながら見送るしかなかった。
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芳人は、とにかくがむしゃらに走り続けて、気が付けばよく分からない場所まで来ていた。
街灯の光も届かないような細い路地。
漂う冷気と静寂が、昂ぶっていた彼の感情をじわじわと冷やしていく。
周囲を見渡しても、ここが京都のどのあたりなのか、自分でも見当がつかなかった。
焦燥感に駆られ、上着のポケットから携帯を取り出すが、画面は真っ暗なまま反応しない。
スマートフォンの電池が切れている。
「充電すんの忘れてた……そんな事まで忘れる程、俺、どうかしてるんや……」
呟いた声は力なく、夜の闇に吸い込まれていった。
面接での屈辱、祖父からの罵倒、そして今の自分の無様さ。
すべてが重なり、芳人は膝から崩れ落ちそうな感覚に耐えながら、とぼとぼと歩き出した。
「えらいこっちゃ」
不意に、背後から少し幼い響きの声が聞こえてきた。
驚いて振り向くと、そこには不思議な風貌の女の子がじーっとこちらを見つめて立っていた。
まん丸の目に、台形のような形をした口。
八の字になった眉毛がどこか愛嬌を感じさせ、黒いベレー帽にズボンスタイルの黒いセーラー服という独特な姿をしている。
「……えらいこっちゃ」
御嬢さんは、芳人の顔を覗き込むようにして、もう一度同じ言葉を口にした。
芳人は戸惑いながらも、こんな夜更けに一人でいる彼女を案じて声をかけた。
「どうしたん? えらいこっちゃって、迷子?」
「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や」
彼女は淡々と、けれど誇らしげに自分の名を名乗った。
「ああ、そうなん? じゃあ、えらいこっちゃん、迷子か?」
芳人が再び問いかけると、えらいこっちゃ嬢は小さく首を横に振った。
「迷子を見つけて、えらいこっちゃ」
「え、どういうこと?」
芳人が聞き返すと、えらいこっちゃ嬢はスッと細い指を突き出し、芳人の胸元を真っ直ぐに指差した。
そして、逃げ場のない真実を突きつけるように言い放った。
「人生の迷子になっとる、えらいこっちゃ」
その言葉を投げかけられた瞬間、芳人の胸にドクンと激しい鼓動が走った。
面接官に言われた「目が死んでいる」という言葉よりも、ずっと深く、核心を突かれたような衝撃だった。
「迷子の道案内するから、一緒に来よし。えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢は迷いのない足取りで近づくと、芳人の大きな手を迷わずぐいと引いた。
その掌は驚くほど温かく、絶望で冷え切っていた芳人の指先に、少しずつ血が通っていくのを感じた。
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
彼女は呪文のようにそう呟きながら、闇の向こう側へと芳人を導いていく。
芳人はその不思議な力強さに抗うこともできず、ただ導かれるままに、夜の帳の奥へと足を踏み出していった。
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えらいこっちゃ嬢に手を引かれ、芳人はなされるがままに夜の闇を歩き続けた。
絶望で鉛のように重かったはずの足取りは、彼女の温かな掌に導かれるうち、不思議と軽やかさを取り戻していく。
ふと、視界の先にぼんやりとした温かな光が見えてきた。
それは、重厚な瓦屋根と磨き上げられた木の柱が印象的な、和風でありながらどこか厳かな空気を纏った料理屋だった。
軒下には「摩訶不思議食堂」という、古風な書体で書かれた看板が掲げられている。
「えらいこっちゃな迷子さん御一名!」
えらいこっちゃ嬢は勢いよく扉を開けると、芳人を促すように店内へと引き入れた。
芳人が圧倒されて立ち尽くしていると、彼女はくるりと踵を返す。
「ウチは常連さん連れてこなあかん。えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
それだけ言い残すと、彼女は再び夜の闇の中へと風のように去っていった。
一人残された芳人は、戸惑いながらも吸い寄せられるようにカウンター席へと腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しに声をかけてきたのは、作務衣に割烹着を纏った、柔和な微笑みを湛えるお地蔵さんだった。
そのあまりに穏やかな姿に、芳人は毒気を抜かれたように小さく頭を下げた。
「あ、今晩は……」
「私は、この店の店長をさせて頂いております。地蔵店長と皆さんが呼んでくださいます」
地蔵店長は、菩薩のような慈愛に満ちた笑顔で自己紹介をした。
芳人は、ふと我に返り、手元の空虚さに気づいて俯いた。
「地蔵店長……あの、この店って……和食を出してくれるんですか? 俺、高い料理は、その、手持ちが……」
祖父との言い争いの末に飛び出し、財布の中身も心許ない。
そんな芳人の不安を見透かしたように、地蔵店長は優しく首を振った。
「御代は、お布施形式にしておりますゆえ、御心配なさらずとも、宜しゅう御座いますよ」
お地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、店長は静かに問いかけた。
「空腹だと、気分も沈みやすくなりましょう。何か、食べたいものは御座いますかな?」
芳人は、乾いた喉を鳴らし、ふと思い浮かんだ甘味の名を口にした。
「……じゃあ、その……白玉善哉、とか、出来ますか?」
かつて、落ち込んだ時に芳子が作ってくれた、あの温かくて甘い記憶。
「畏まりました。猫子さん、お願いしますね」
地蔵店長が厨房の奥へ声をかけながら、自らも準備へと向かう。
「おいでやす、おこしやす。少々お待ちくださいな~」
ひょっこりと顔を出したのは、黒髪の美しい女性だった。
しかし、その頭頂部には、ぴんと立った本物の猫の耳がついている。
猫子と呼ばれた彼女は、棒のように細く長い目を細め、穏やかな表情で芳人をじーっと見つめた。
どこか浮世離れした、けれど不思議と安らぎを感じさせる独特の空気。
彼女が音もなく厨房へと戻っていく後ろ姿を、芳人は目を丸くして見送った。
「ほ、本物の猫耳だ……」
就活の悩みも、祖父への怒りも一瞬だけ忘れ、芳人はただ、目の前で起きている摩訶不思議な光景に心を奪われていた。
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暫くすると、厨房の奥からふわりと甘い、どこか懐かしい香りが漂ってきた。
猫子が両手で大切に抱えるようにして、出来立ての白玉善哉を運んでくる。
漆黒の器の中では、暖かな湯気がゆらゆらと立ち上り、ふっくらと炊かれた小豆の海に、真っ白な白玉団子が7つ、仲良く顔を覗かせていた。
猫子はそれを芳人の目の前へ静かに置くと、使い込まれて滑らかな手触りの、木で出来た匙を手渡した。
「……有難う御座います。頂きます」
芳人は小さく震える手で匙を握り、小豆と共に白玉を一口掬い上げた。
熱さと甘さが口の中で解け、舌の上で白玉が心地よい弾力を持って弾ける。
ほんのり甘い白玉団子に、程よい甘さに調えられた小豆の風味が、絶望で冷え切っていた芳人の体にじわじわと染み渡っていく。
「おばあちゃんの善哉と、おんなじだ……優しい、善哉……」
堪えていたものが、決壊したように溢れ出した。
大粒の涙がポロポロと零れ落ち、善哉の湯気の中に消えていく。
「しんどい時、いつもこれをおばあちゃんが作ってくれた。『甘い善哉は、体も心もあっためてくれるんよ。おばあちゃんも大好きなんやで』って言って……」
芳人は泣きながら、けれど一滴の汁も残さぬよう、ゆっくりと、大切にその味を噛み締めた。
小豆の粒の一つひとつに、祖母の慈しみと温もりが宿っているような、そんな不思議な感覚に包まれていた。
やがて、芳人は全てを綺麗に食べ終わると、空になった器を前にそっと手を合わせた。
「……御馳走様でした。おばあちゃんも、この店に来たのかな。おんなじ味だったから」
その呟きに、地蔵店長は菩薩のような穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「御婆様とお会いした事は御座いませんが、あなたが今、一番食べたいものであり、そして、一番必要な食を持っておもてなしさせて頂く事になり切っただけで御座います」
すると、厨房の入り口から猫子がひょっこりと顔を出した。
彼女は棒のような細い目をさらに細め、優しく芳人を見守っている。
「あなたの事を、よーく見せてもろて、ただただ、あなたの身も心も御もてなしする白玉善哉を作る事になり切らせて貰いました。御口に合って、何よりですねえ」
猫子の穏やかでいて芯のある言葉が、芳人の心に優しく着地した。
「本当に、最高の御もてなしです。本当に有難う御座います」
芳人は深く、深く頭を下げた。
感謝の言葉を口にするたびに、胸の中にあった黒い澱が消えていくのを感じる。
しかし、その安らぎの中で、芳人はハッとしてある事実を思い出した。
「……そうだ、俺、おばあちゃんに弱音を吐きたくって、そして、この白玉善哉を食べたくて、会いに行ったのに……途中で逃げ出したんだ」
自分を一番愛してくれている存在から逃げ、自分を一番傷つける言葉を投げた祖父に逆上して、すべてを放り出してきた。
温かな善哉の余韻の中で、芳人は自らの不甲斐なさと、祖母への申し訳なさで胸がいっぱいになった。
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ガラガラと心地よい音を立てて木製の引き戸が開き、えらいこっちゃ嬢が店に戻ってきた。
彼女の後ろからは、黒い作務衣をゆったりと身に纏った、小柄な男性が続いて入ってくる。
短めの黒髪に、40代後半ほどに見える穏やかで優しい顔立ち。
その瞳には、すべてを見透かした上で包み込むような深い静寂が宿っていた。
「常連さん御一名、えらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢はそう言い放つと、迷いのない足取りで男性を芳人の隣の席へと案内した。
「今晩は、お邪魔しますえ」
男性は芳人に向かってにっこりと慈愛に満ちた微笑みを向けると、静かにカウンター席へ腰を下ろした。
「あ、ど、どうも、今晩は……」
突然現れた「常連さん」の不思議なオーラに圧倒され、芳人は慌てて居住まいを正しながら会釈を返した。
いつの間にか白い割烹着姿に着替えて戻ってきたえらいこっちゃ嬢は、そのまま他の怪異たちの接客へと回っていく。
ふと店内の隅々にまで視線を巡らせた芳人は、そこでようやく、この店の異様さと温かさが共存する光景を直視することになった。
「うわ!? よく見たら、お化けとかいっぱい……」
隣のテーブルでは、体が薄らと透き通った者や、頭に小さな角を持つ異形たちが、楽しげに湯気の立つ料理を囲んでいる。
店内の至る所で、人間ではない者たちが当たり前のように酒を酌み交わし、笑い合っていた。
驚愕で固まる芳人の様子を察したように、隣の男性が穏やかな声で語りかけてきた。
「ここは、人間も怪異も分け隔てなくもてなして下さる店ですからな」
男性はそう言って地蔵店長を見つめ、慣れた様子で注文を告げた。
「地蔵店長、私にも、猫子さん御手製の白玉善哉、7つ入お願いしますえ」
「いらっしゃいませ。畏まりました」
地蔵店長がニコニコと応じると、厨房の奥から猫耳をぴんと立てた猫子がひょっこりと顔を出した。
「此岸さん、おいでやすおこしやす、少々お待ちくださいな〜」
彼女は棒のような細い目をさらに細めて笑顔で挨拶を交わすと、鼻歌混じりに準備に取り掛かる。
芳人は、目の前の「此岸さん」と呼ばれる男性が放つ、どこか世俗を離れたような落ち着きに惹かれ、思わず自分から口を開いた。
「此岸さんっておっしゃるんですね。俺は、美馬川芳人です」
此岸と呼ばれた男性は、芳人の名を聞いた瞬間、ほんの一刹那だけさらに目を細めた。
しかしすぐに、春の陽だまりのような柔和な笑顔に戻り、静かに名乗った。
「此岸優哉、此岸彼岸の此岸に、優しいの字に、善哉の哉で、『しがんゆうさい』と申します」
その名前の響きは、まるで芳人の荒んだ心を清める祈りのように、優しく店内の空気に溶けていった。
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えらいこっちゃ嬢が、出来立てで湯気の立つ白玉善哉を、木の匙と共に優哉の前に置いた。
優哉は柔和な笑みを浮かべ、静かに頭を下げた。
「有難う御座います」
その声は穏やかで、まるで周囲の空気を浄化していくような響きを持っていた。
優哉は胸の前でそっと両手を合わせ、合掌する。
「われここに食をうく、つつしみて天地の恵と人々の労を謝し奉る」
凛とした声で食前の言葉を唱えると、続けて「南無阿弥陀仏」と、十回、一音一音を大切に念仏を称えた。
最後に深く「頂きます」と頭を下げるその姿に、芳人は思わず見惚れてしまった。
「お坊さんみたいだ……」
芳人が呆気に取られたように呟くと、地蔵店長がカウンター越しにニコニコと教えた。
「優哉さんは僧侶ではありませんが、御念仏と共にあられる方です。今、優哉さんが称えられたのは、浄土宗の食前の言葉ですよ」
優哉は匙を手に取り、実に丁寧に、そして無駄のない綺麗な所作で善哉を口に運び始めた。
一口ごとに慈しむように味わうその姿は、見ている側まで心が洗われるような静謐さに満ちている。
やがて最後の一粒まで食べ終えると、優哉は再び静かに合掌した。
「われ食を終りて、心豊かに力身に満つ、おのがつとめにいそしみ、誓って、御恩にむくい奉らん」
食後の感謝を捧げ、再び十回の「南無阿弥陀仏」を唱えてから、「御馳走様でした」と深く頭を下げた。
その一連の美しい所作を目の当たりにした芳人は、自然と背筋が伸び、居住まいを正していた。
単なる食事の風景が、これほどまでに荘厳で、尊いものに見えるとは思いもしなかった。
ふと、優哉が空になった器を見つめ、優しく微笑んだ。
「白玉団子が7つ、ですか。感慨深いですな」
「え? 白玉団子の数に、意味があったんですか?」
芳人が驚いて尋ねると、優哉はどこか確信めいた様子で頷いた。
「ええ。仏教的に、とても。その辺りは、地蔵店長と猫子さんが、芳人さんの御姿を見て、これが一番の御もてなしやと感じ取らはった事によるんでしょう」
地蔵店長が、深く首肯しながらニコニコと口を開いた。
「流石は、優哉さんもお気づきでしたか」
芳人は、自分の器の中にも確かに7つの団子があったことを思い出し、首を傾げた。
「あの、どうして7つなんですか? ラッキーセブンとか?」
その問いに、厨房からひょっこりと顔を出した猫子がにこやかに答えた。
「それも確かに、ありますねえ。それに加えて、仏さまの教えを、文字通り、頂いて欲しゅう御座いましたからねえ」
地蔵店長は、芳人の目を真っ直ぐに見つめ、穏やかな笑顔で告げた。
「では、白玉団子を何故7つにしたのか、御話致しましょうか」
店内の賑わいが不思議と遠のき、芳人の心は地蔵店長の紡ぎ出す言葉を待ちわびていた。
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## 第2話:美馬川芳人の再始動ほっこり飯・七つの白玉が照らす正直な心
地蔵店長は、カウンター越しに芳人の目を真っ直ぐに見つめ、穏やかな笑顔で話し始めた。
「仏教には『七仏通誡偈』と言う教えが御座います」
「諸悪莫作。」
「衆善奉行。」
「自浄其意。」
「職是諸仏教。」
店長は、一言ずつ慈しむように言葉を区切った後、その意味を噛み砕くように続けた。
「諸々の悪を作すことなく、もろもろの善を行い、自ら其の意を浄くす。是がもろもろの仏の教えなり、と言う意味です」
地蔵店長は、芳人の反応を待つように一度間を置いてから、ニコニコと言い添えた。
「禅の話では、3歳の子供でも分かる事ではあるが、80歳の老人でも出来ていない事、と言うのもありますな」
その言葉に、隣に座る優哉が深く頷き、目を細めた。
「悪い事をせず、善い行いをする。簡単なようで、実際に出来ていると胸を張れる方は、どれだけいらっしゃるでしょうなあ」
優哉は自らの内面を見つめるように、少しだけ寂しげに、けれど優しく微笑んだ。
「勿論、私も全く出来ておらんと日々思い知らされます。まさに、私こそ悪人であると思い知らされることですなあ」
地蔵店長は、優哉の謙虚な言葉を受け、芳人を優しく諭すように言葉を継いだ。
「そして、それを自覚すらせずに生きている人の方が、多い事でありましょう」
すると、カウンターの端で忙しく動いていたえらいこっちゃ嬢が、ぴょんと椅子に飛び乗って口を開いた。
「子供でも分かる事を大人が出来とらん。まさに、お前が言うな案件、えらいこっちゃ!」
彼女の真っ直ぐな指摘に、店内の空気がふわりと和らぐ。
「ええ、まさしく。そして、その行いや、あり方は、全て、仏様はお見通しです」
地蔵店長がそう締めくくると、優哉が芳人の顔を覗き込むようにして問いかけた。
「芳人さんは、こんなことを言われた事はありませんか? 『お天道様が観てる』と」
その言葉を聞いた瞬間、芳人の脳裏に幼い日の記憶が鮮明に蘇った。
「ええか、芳人。悪い事はしたらあかん。善い事をするようにしよし。お天道様はちゃんと見てくれてはるで」
祖母の芳子が、縁側で日向ぼっこをしながら、優しく微笑んで教えてくれたあの声。
それ以来、芳人は何となくずるをしようとしたり、嘘をつきそうになったりするたびに、空高く輝くお天道様を意識した。
そして何より、背後から祖母に静かに見守られているような気がして、どうしても最後の一線を踏み越えることができなかったのだ。
「俺……昔、中学の頃だけど、カンニングしようとしたことがあったんです」
芳人は、誰にも言えなかった過去の告白を始めた。
「定期試験で、先生も居眠りしてて隙だらけだったから。やろうと思えば、できたんです。でも……」
芳人は、当時の手のひらの汗と、鼓動の音を思い出しながら言葉を絞り出した。
「何故か、おばあちゃんに見られてる気がして、出来なかったんです」
その時の自分を思い返し、芳人は少しだけ情けないような、けれどどこか誇らしいような不思議な感覚に包まれた。
すると、再び椅子に飛び乗ったえらいこっちゃ嬢が、小さな手で芳人の頭をぽんぽんと優しくなでた。
「ずるせんかったあんさんは、えらいやっちゃ! そう育てたおばあちゃんも、えらいやっちゃ!」
彼女の台形の口が、満面の笑みの形に変わる。
芳人はその温かな手のひらの感触に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分を「卑怯」だと切り捨てたあの社長の言葉よりも、この小さな「えらいやっちゃ」という言葉の方が、ずっと深く心に染み渡っていく。
「……うん、俺も心からそう思う。有難う」
芳人は目に涙を溜めながらも、久しぶりに本当の笑顔を見せた。
その瞳は、祖母が言った通り、清らかで真っ直ぐな光を宿していた。
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芳人は、膝の上で震える拳を見つめながら、絞り出すような声で問うた。
「地蔵店長、俺……卑怯じゃありませんよね? 卑怯者では、ありませんよね?」
その震えは、己の根底を否定されたことへの恐怖と、それでも信じたいという切実な願いだった。
地蔵店長は、カウンター越しに芳人の目を真っ直ぐに見つめ、菩薩のような穏やかな笑顔で答えた。
「ええ。少なくとも、ずるい事をしなかったその時の芳人さんは、卑怯者ではないと言えましょう」
その一言が、芳人の胸に重くのしかかっていた呪縛をふわりと解いていく。
「肝要は、そういった局面は、この先も多々ありましょうから、その都度、七仏通誡偈を思い出して頂く等して己を調え、御婆様の教えを思い出し、卑怯な行いをせずに生きる事ですかな」
地蔵店長は、未来を指し示すように、優しく、けれど力強く諭した。
「……はい」
芳人は居住まいを正し、地蔵店長に向かって深く、深く頭を下げた。
視界が涙で滲んだが、今度は悲しみではなく、温かな決意によるものだった。
隣に座る優哉が、まるで自分のことのように嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
「真に仏の教えがしみ込まれたようですな。芳人さんなら、きっと心配いりませんえ。芳人さんは、卑怯な方やありません。胸張って宜しゅう御座います」
「有難う御座います、優哉さん」
芳人は、初対面とは思えない不思議な安心感を覚える男性に対し、心からの笑みを返した。
すると、カウンターの端にいたえらいこっちゃ嬢が、ぴょんと椅子に飛び乗って優哉の頭をなでた。
「じっちゃんと孫を一緒くたにせん優哉さんも、えらいやっちゃ」
「ははは、有難う御座います、えらいこっちゃん」
優哉はくすぐったそうに、けれど慈しみ深く笑った。
その光景に、芳人は首を傾げた。
「え? どういうことですか?」
優哉は一度、芳人の目を静かに見つめ、それから独り言のように呟いた。
「……まさか、えらいこっちゃんが『あってあげて欲しい迷い人が御来店中、えらいこっちゃ!』と仰って、来てみたら、まさかお孫さんとお会いするとは、仏縁ですな」
「え? あの、俺のおじいちゃん……祖父母を御存じなんですか?」
芳人の問いに、優哉は一瞬だけ悲しげに目を細めた。
「芳人さんにとっては、酷な話になるかもしれませんなあ」
芳人は、その言葉の裏にある「何か」を感じ取り、背筋に走る緊張を感じた。
「あの、祖父母とはどういうご関係ですか? 孫として知りたいです! それに、酷な話って……」
居住まいを正す芳人を見て、地蔵店長が静かに引き取った。
「私からお話致しましょうか。優哉さんが初めて御来店されたのは、芳人さんの御爺様も関係しておりますゆえ」
「教えて下さい! お願いします!」
芳人は再び頭を下げ、真実を求めた。
地蔵店長は、かつての光景を思い出すように、静かに、一点を見つめながら語り始めた。
「かつて、就職活動中だった大学4年生の頃の優哉さんは、ある社長から『この期に及んで君は卑怯です』『君の眼は死んでいます』と言われて、その後も散々人生や価値観を否定され続け、死を考えるほどまでに追い詰められていた時に、摩訶不思議食堂に来られたのですよ」
「!?」
芳人は、息をすることさえ忘れて固まった。
その言葉、そのフレーズ。
それは、数日前に自分が投げつけられ、今も胸を焦がしているあの言葉と全く同じだった。
パズルの一片が、音を立てて嵌まっていくような、悍ましいまでの感覚。
「その社長って……ゼネテクスの、美馬川芳彦、ですか?」
恐る恐る、けれど確信に近い問いを芳人が放つ。
優哉は、否定も肯定もせず、ただただ、すべてを許したような優しい顔で芳人を見つめた。
そして、静かに、けれど揺るぎない事実として頷いた。
「……ええ」
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まだ20代前半だった優哉は、当時はまだゼネテクスの社長だった芳彦と、役員3人の計4人の大人を相手に、最終面接の場に立っていた。
重苦しい空気の中、「大切にしている事は?」という問いに対し、優哉は真っ直ぐに「不言実行の在り方」と答えた。
しかし、その瞬間に芳彦から投げつけられたのは、あまりにも無慈悲な人格否定の言葉だった。
「この期に及んで君は卑怯だ」
「君の眼は死んでいる」
芳彦は優哉を卑怯者扱いし、その存在そのものを冷徹に切り捨てた。
「不言実行なんて駄目だ、言わなきゃ伝わらない」
さらに、アルバイトは何をやっているか聞かれ、書店であると答えると、芳彦はさらに畳みかけた。
「そんなバイトなんかして受け身になっている」
その後も、何を言ってもすべて否定される始末。
自らの信念も、積み重ねてきた生活も、すべてを否定される言葉の暴力が次々と優哉に突き刺さった。
面接の最後、芳彦は勝ち誇ったようなニヤニヤとした笑みを浮かべ、傲慢に言い放った。
「ほかに就職活動のアドバイスが欲しいか?」
そのニヤけ面に、優哉は心の中の何かが音を立てて崩れるのを感じた。
存在そのものを粉々にされた気持ちになった優哉は、帰りの地下鉄の駅で、線路を見つめながら「電車に飛び込んだ方がいいのか」と考え始めていた。
生きる気力を失い、駅を出てフラフラと夜の街を彷徨っていた時。
霧の向こうにぼんやりと灯る「摩訶不思議食堂」を見つけ、彼は吸い寄せられるようにその暖簾をくぐったのだった。
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優哉は、遠い目をして当時を振り返りながら、穏やかに語り出した。
「初めてこちらに寄らせて貰ろた時、頂いたのは、梅干しの入った御粥でした」
その時の味を思い出すように、優哉は唇に微かな笑みを浮かべた。
「それから、一杯の御茶を頂きましてな。『喫茶去』という禅語を教わりましたんや」
芳人は、優哉の穏やかな横顔を食い入るように見つめていた。
「その時、ただただお茶を飲むことになり切ったのはいつ以来か、と思い知りましてね。就職活動をしている学生であったり、そもそもとしての此岸優哉としての己をも忘れ・・・ただただ、御茶を飲むことになり切る、その行為そのものになり切って、ね」
優哉は、自分の掌を見つめながら言葉を継いだ。
「そうすると、不思議と、御茶を飲む事だけになっていると、苦も何もなくって、ホッとしたもんです」
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「それから、私は就活は全敗しましたけど……その事が良い方向に転じて、色々な仕事を経験出来て、道半ばでうつ病も経験して心療内科のお世話になる事もあったりしたけれども、また仏様の御縁で立ち直る事が出来て、今ではAI関連の仕事を細々としながら、粛々と生きてます」
優哉の言葉は、まるで静かな川の流れのように芳人の心へ染み渡っていった。
芳人は、自分の祖父がこの慈愛に満ちた男性を死の淵まで追い詰めたという事実に、胸を締め付けられるような思いがした。
「……死を考える程苦しめてしまって、すみませんでした」
芳人の瞳から、熱い涙が次々と溢れ出した。
彼はカウンターに額をこすりつけるようにして、深く、深く頭を下げた。
優哉は、芳人の肩にそっと手を置き、春の陽だまりのような声で諭した。
「芳人さんが私を苦しめたわけやありませんよ。それに……その御縁があったからこそ、仏縁結ばれた私がおります」
優哉は、芳人が顔を上げるのを待ち、真っ直ぐにその清らかな瞳を見つめた。
「人を苦しめんように……改めてお互いに、七仏通誡偈、大事にして生きましょう」
その優しい笑みに、芳人の心の中にあった祖父への憎しみや、自分への不甲斐なさが、雪解けのように消えていく。
「……はい」
芳人は力強く頷き、涙をぐいと拭った。
もう、彼の眼は「死んでいる」などとは誰にも言わせない、確かな光を宿していた。
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ! 二人とも、えらいええ顔になった! えらいやっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢が、二人の周りを嬉しそうに飛び跳ね、店内の怪異たちも温かな拍手でその再始動を祝っていた。
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会計の段になり、優哉は懐から手入れの行き届いた財布を取り出した。
「店長、今日はこの方の分も合わせて納めさせてください」
優哉は穏やかな笑顔を崩さず、2人分の御代としてのお布施をそっと差し出した。
それを受け取ったのは、割烹着姿のえらいこっちゃ嬢だ。
「毎度あり! 二人分えらいこっちゃ!」
彼女は嬉しそうに声を弾ませ、小銭が触れ合うチャリンという音を店内に響かせた。
芳人は驚き、慌てて優哉に向き直った。
「有難う御座います、御馳走様です」
丁寧にお礼を言う芳人に対し、優哉は優しく肩を叩いた。
「こうして出会えた事、嬉しゅう御座います」
優哉は一度言葉を切ると、何かを確信したような真剣な眼差しを芳人に向けた。
「芳人さんと面接された社長さん、もう一度お会いして、話を聞いてみても良いかもしれませんな」
「え? あの社長に、もう一度ですか?」
芳人は、あの冷徹な言葉を思い出して思わず身を固くした。
しかし、優哉の言葉には静かな重みがあった。
「時期からして、私が会社説明会で御爺さん……芳彦さんから聞いた話と合致するんですよ」
「どういうことですか?」
芳人が身を乗り出すと、優哉は静かに記憶の糸を解き始めた。
「あの時、芳彦さんが勝ち誇ったように『面接で女子学生が泣きながら帰って行った』と言う話を聞いたことを思い出しましてな。その社長はもしかしたら、と思いましてな」
その推測に、芳人の脳裏にあの日対峙した女性社長の姿が鮮烈に蘇った。
自分を「卑怯」と呼び、「目が死んでいる」と吐き捨てた彼女の怒り。
それは芳人個人へというより、その背後にある「美馬川」という名への、何十年越しの悲鳴だったのではないか。
「あ、確かに女性社長でした、優哉さんと同じくらいの年の頃の」
芳人が思い当たる節を口にすると、優哉は慈しむように目を細めた。
「そうでしたか」
優哉はそれ以上は語らず、ただ芳人の決意を待つように佇んでいた。
二人は互いに向き合い、しっかりと力強い握手を交わした。
「色々教えていただいて、本当に有難うございました。俺、もう一度、向き合ってみます」
芳人の瞳には、迷いのない光が宿っていた。
二人は摩訶不思議食堂の重厚な扉を開け、清々しい夜気の中へと踏み出した。
地蔵店長は、カウンター越しに静かに合掌した。
「御来店、誠に有難う御座います」
その優しい笑みは、新たな道を歩き出す二人の背中を、どこまでも温かく見送っていた。
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家に帰ると、既に日付が変わるほどの深夜になっていた。
玄関の明かりが点いており、リビングには心配で顔を強張らせた両親が待っていた。
「携帯の電池が切れて連絡できなかったのはごめん。でも、心配いらないから」
芳人はそれだけを告げると、両親の詰問を避けるようにさっさと自分の部屋へ戻った。
部屋に入り、携帯に充電器を差し込んでベッドに倒れ込む。
泥のように深い眠りの中で、あの善哉の温かさと、優哉の穏やかな微笑みが何度も浮かんでは消えた。
翌朝、目が覚めると同時に芳人は、祖母の芳子へ「心配いらないから」と短いメッセージを入れた。
直後に「無事でよかった。いつでもおいで。白玉善哉作って、待ってるで。」という、湯気のように優しい返信が届く。
その慈しみに胸を熱くしながら、芳人はスーツを纏い、決然とした面持ちで家を出た。
午前中の眩しい光を浴びながら、芳人は数日前に自分を「卑怯者」と断じた女性社長の会社へと向かった。
受付に立ち、淀みのない声で告げる。
「美馬川芳人です。社長に合わせて下さい」
受付の女性は、突然の来訪者に怪訝そうな顔で首をかしげた。
「アポはとっていらっしゃいますか?」
「ありません。でも、『美馬川芳彦の件で話がある』と言えば、わかります」
芳人は真っ直ぐに彼女を見つめ、言葉を継いだ。
「もし門前払いする気なら、『美馬川芳彦の孫が怖いか?』と言って下さい」
深く頭を下げる芳人の態度に、受付の女性はただならぬ気配を感じ、社長室へとその旨を伝えた。
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暫くして、ロビーに鋭い靴音が響いた。
眼鏡をかけ、隙のないズボンスタイルに身を包んだ阿川社長が、凛とした姿で自ら現れた。
社長自らの出迎えに、受付の女性が驚愕の表情を浮かべる。
阿川社長は芳人の前に立つと、射抜くような視線で彼を凝視した。
「こっちにいらっしゃい、美馬川さん……いえ、芳人君でいいかしら」
彼女の声には、隠しきれない刺々しさが混じっていた。
「今でもあの社長、今は会長だったわね、この世から消したいほど憎んでいるから、奴を連想する名字で呼びたくないの」
阿川社長の剥き出しの敵意を真正面から受け止め、芳人は静かに、けれどはっきりと言い放った。
「そうして下さい。俺も……あの老害は許せへん」
その言葉に、阿川社長の瞳が驚きに揺れた。
数日前、彼女の言葉に傷つき、死んだような目をしていた青年とは、放つ熱量が全く異なっていた。
「……まるで別人ね。こちらへいらっしゃい。社長室で話しましょう」
彼女は背筋を伸ばし、芳人を促すように歩き出した。
二人の間に流れる空気は依然として緊張感に満ちていたが、それは一方的な拒絶ではなく、一対一の人間としての対峙へと変わり始めていた。
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社長室に入ると、阿川社長は自ら珈琲を淹れ、芳人の前に置いた。
テーブル越しに対峙するように座る二人。
静寂を破ったのは、意外にも阿川社長の側だった。
彼女は静かに立ち上がると、芳人に向かって深く頭を下げた。
「まずは、先日は失礼な言動であなたを傷つけてしまいました。申し訳ありません」
凛とした彼女の声に、淀みのない謝罪の意が込められていた。
「あなたは、あの老害とは違う。でも、あなたの履歴書を見て、一発であの老害の孫だとわかって……つい、恨みをぶつけてしまったわ。あなたには、あいつが私にした仕打ちとは全く関係がないのにね。本当に、申し訳ありませんでした」
阿川社長は再度頭を下げ、かつての自分を縛っていた憎悪の深さを露わにした。
芳人はその謝罪を真っ直ぐに受け止め、静かに口を開いた。
「いえ……」
芳人は珈琲の熱を指先に感じながら、昨夜の出来事を語り始めた。
「俺は昨日、俺の祖父からあなたと同じ目にあわされて、死を思うほど追い詰められた人と会うて来ました。丁度、あなたと同じ頃に就職活動をしていて、祖父に傷つけられた人です」
阿川社長は驚きに目を見開き、芳人の言葉を待った。
「その人は、恨みや復讐とは違う道を選ばれました。仏さまの教えと出会われて」
「……私はそこまで立派にはなれなかったわ。復讐心を糧に、会社を興して、ここまで大きくしたの」
阿川社長は自嘲気味に微笑み、過去の記憶を吐露した。
「美馬川芳彦から『あなたは企業経営をやってはいけない、社員を路頭に迷わせるのがおちだ』とまで言われたわ。その反発の意味もあって、ね」
その言葉の棘は、何十年経った今も彼女の心に刺さっていたのだ。
「結果は、100人規模の企業にまで成長してますよね。あのじじい、人を見る目がないって事を証明してるなんて、皮肉な話です」
芳人が淡々と言い放つと、阿川社長は少し驚いたように彼を見つめた。
「……あなた、随分と御爺さんが嫌いなのね」
「昨日、大っ嫌いになりました。人の事を平気で傷つけて、それに気づかへんくそ老害やって、今は思うてます」
芳人は感情を隠さず、悔しさを滲ませて続けた。
「人の痛みがわからん奴なんです。その事を思い知りました」
奥歯を噛み締め、歯ぎしりをする芳人の姿には、かつての「死んだ目」の面影はどこにもなかった。
阿川社長は、今の芳人の中に宿る強い生命力を確かめるように問いかけた。
「今日は、私にその事を話しにわざわざ来たの?」
「それもありますけど、社長がうちの老害じじいから傷つけられた人かどうかを確かめに来たんです」
芳人は真っ直ぐに彼女を見据え、一族の罪を背負う決意を込めた。
「阿川社長も、傷つけられた一人やったんですね。ようわかりました……祖父が、あなたの人格と人生を傷つけてしまいまして、誠に申し訳ありませんでした」
芳人は立ち上がり、阿川社長に向けて深々と、心からの謝罪を込めて頭を下げた。
阿川社長はその姿に、かつての自分を苦しめた亡霊が消えていくのを感じた。
彼女もまた立ち上がり、柔和な表情を浮かべて頭を下げた。
「……こちらこそ、八つ当たりしてしまって申し訳ありませんでした」
そして二人はテーブルを挟んで、力強く握手を交わした。
世代を超えて連鎖していた憎しみという名の呪いが、今この瞬間、摩訶不思議な縁によって解き放たれたのだった。
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阿川社長の会社を後にし、初夏の眩しい光が差し込む街路を歩きながら、芳人は物思いに耽っていた。
祖父・芳彦という存在に、価値観や人格、そして人生そのものまでも否定された二人の大人。
阿川社長と此岸優哉。
きっと、その背後には記録にも記憶にも残っていない、傷つけられた人達が他にも大勢いるに違いない。
阿川社長は、絶望の淵から這い上がり、今もなお消えることのない怒りの炎を糧に戦い続けていた。
その炎が余りに激しかったからこそ、孫である自分にまで恨みをぶつけずにはいられなかったのだろう。
一方で、此岸優哉は、恨みや復讐と言った負の感情に飲み込まれることなく、仏の教えを体現し、静かな湖面のような穏やかさで生きていた。
「俺は、出来れば優哉さんの道を歩きたいな」
芳人は誰に聞かせるでもなく、独り言のように呟いた。
「そして、おじいちゃんのような・・・いや、美馬川芳彦のような、平気で他人を傷つけるような事をする人間にはならんで……絶対に」
空を仰ぎ、芳人は自分自身に強く誓いを立てた。
ごちゃごちゃ美辞麗句を並べるのではなく、己の在り方、そしてその行動によって示していく。
祖父が否定してきた「不言実行」こそが、自分の守るべき宝物なのだと今なら確信できる。
帰り道の景色は昨日までと何も変わらないはずなのに、今の芳人の目には、世界が驚くほど鮮やかに映っていた。
「俺は、まずは目の前の就職活動に、もう一回、しっかりと向き合おう」
芳人は、昨日までの自分を脱ぎ捨てるように、カバンを握る手に力を込めた。
「そして、またあの摩訶不思議食堂へ行って……今度は、俺が優哉さんに御馳走するんや」
その時、がっつりしたものを食べるのか、それともまた甘い善哉を囲むのか。
いずれにせよ、そこにはきっと、今日よりもさらに晴れやかな笑顔の自分がいるはずだ。
芳人は拳を固く握り締め、迷いのない、しっかりとした足取りで前へと踏み出した。




