第十一話「絶対零度の滑走」
「次、ランクA、氷室 零。位置につけ」
阿久津の呼びかけに、氷室は感情の読み取れない瞳で一歩前へ出た。
彼女がスタートラインに立った瞬間、周囲の空気が物理的に「重く」なった。湿気が凍りつき、キラキラとダイヤモンドダストが舞い始める。
「……術式展開。固有空間定義――『絶対零度』」
彼女が呟くと同時に、レーン上の空気が一変した。
九条院が「加速」のためにエネルギーを放出したのに対し、氷室は逆に、世界からエネルギーを「奪い去った」のだ。
氷室の術式は、自分を速く動かすものではない。
彼女は、自身の進行方向に存在する空気分子と地面の運動エネルギーを瞬時に奪い、『完全な静止』へと追い込む。
「……世界を凍結させる。私の行く手を阻む『抵抗』という名の不純物を」
彼女の足元から、一本の透き通った氷の道がゴールへと伸びる。
しかし、それはただの氷ではない。分子レベルで平滑化され、摩擦係数が限りなくゼロに固定された「絶対的な滑走路」だ。
「用意……」
ドンッ!!
号砲。しかし、氷室は「蹴った」のではない。
前傾姿勢を取った瞬間、彼女の背後にわずかな逆位相の圧力を発生させ、その反動だけで「滑り出した」のだ。
「……っ、速い……!?」
観客席の生徒が声を上げた。
氷室の動きには、走る際の上下動も、筋肉が軋む音も、風を切る音さえもない。
ただ、純白の残像となって、氷の上を滑走する。
摩擦がない世界において、初速は一切減衰することなく、移動距離に応じて対数的に加速していく。
『……演算ログ更新。大気抵抗:0。路面摩擦:0。ベクトル:固定』
掲示板に流れる彼女のログは、九条院の激しい雷の波形とは対照的に、水平で冷たい一本の直線を描いていた。
一分の狂いもない、静かなる暴走。
彼女は氷の女王のごとき冷徹さで、ゴールラインを無音で切り裂いた。
『計測終了:ランクA、氷室 零。記録――8秒05』
九条院の記録を、さらにコンマ16秒上回る。
それは、九条院の「努力と情熱の加速」を、彼女の「論理的な静止」が嘲笑うかのような結果だった。
氷室はゴール地点で、自身の術式によって発生した霧の中に立ち、静かに息を整える。
その視線は、記録に驚愕する周囲を通り越し、スタートラインで所在なげに立っている達磨を、冷たく射抜いた。
「……理解できたかしら。速さとは、熱量を注ぐことではなく、無駄を排除した先に残る『静寂』のことよ。宇津志達磨」




