表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/20

08 癒えない傷と、初めての涙

ゼノヴァルド様の腕の中で、私は彼の鼓動を聞いていた。

それは、いつも落ち着いている彼からは想像もできないほど、速く、そして力強く脈打っていた。

彼がこれほど感情を露わにするのを、私は初めて見た。


しばらくして、彼はゆっくりと私から身体を離した。

その顔には、いつもの冷徹な仮面が戻っていたけれど、瞳の奥にはまだ動揺の色が残っている。


「……すまない。取り乱した」


「いいえ……」


「今日のところは、もう戻れ。お前も疲れただろう」


彼はそう言って、私に背を向けた。これ以上、自分の内側を見せたくないという、明確な拒絶の意思表示だった。


私は、彼の背中に向かって、そっと頭を下げた。


「分かりました。失礼します」


書庫を後にしながら、私は彼の傷ついた手のことを考えていた。

あの火傷の痕。そして、私の言葉に、あれほどまで動揺した彼の姿。

あの傷は、彼の心に深く刻まれた、決して消えない痛みの象徴なのだ。


(私に、何かできることはないだろうか……)


私の『生命の祝福』は、生命そのものに働きかける力。

それは、身体の傷だけでなく、心の傷にも届くのだろうか。



その夜、私は自室のベッドの上で、膝を抱えていた。

ゼノヴァルド様は、きっと今頃、一人で痛みに耐えているのだろう。そう思うと、居ても立ってもいられなかった。


(行こう。彼のそばへ)


たとえ拒絶されてもいい。

ただ、一人にだけは、しておきたくなかった。


私はそっと部屋を抜け出し、彼の執務室へと向かった。

扉の前で、深呼吸を一つ。中からは、何の物音もしない。

控えめに扉をノックするが、返事はなかった。


「ゼノヴァルド様……? フィーリアです」


声をかけても、応答はない。

胸騒ぎがして、私はおそるおそる扉を開けた。


執務室の中は、薄暗かった。

暖炉の火も消えかかっていて、大きな机の上には、飲みかけの酒瓶とグラスが置かれている。

そして、彼は、執務用の大きな椅子に深く身を沈め、目を閉じていた。


「ゼノヴァルド様……?」


眠っているのだろうか。

私がそっと近づくと、彼の顔色の悪さに気づいた。額には脂汗が滲み、呼吸も浅く、苦しそうだ。

そして、彼は、あの傷のある手で、自分の胸のあたりを強く押さえていた。


「……っ、う……」


苦痛に満ちた、呻き声が漏れる。

これは、ただの悪夢ではない。あの古い傷が、彼を苛んでいるのだ。


「ゼノヴァルド様、しっかりしてください!」


私が彼の肩を揺すると、彼はうっすらと目を開けた。

その青い瞳は焦点が合わず、虚ろに宙を彷徨っている。


「……母、上……?」


「え……?」


「熱い……助けて……いやだ……!」


彼は、私ではない誰かの名を呼び、怯えた子供のように首を振った。

彼の意識は、今、過去の悪夢の中に囚われているのだ。


見ていられなかった。

私は、彼の胸を押さえている、傷ついた手に、自分の両手を重ねた。

そして、目を閉じ、全ての意識を集中させる。


(お願い! 彼の痛みを、和らげてください!)


私の力の全てを、彼に注ぎ込む。

それは、庭を再生させた時のような、力強い光ではない。

もっと、穏やかで、優しくて、全てを包み込むような、月光のような光。


『大丈夫。もう、怖くないですよ』


心の中で、彼に語りかける。

すると、私の手のひらから伝わる光が、彼の身体の中へと、ゆっくりと染み込んでいくのが分かった。

彼の心を蝕んでいた、黒く、冷たい棘のようなものが、光に触れて少しずつ溶けていく。


彼の強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていく。

荒かった呼吸も、次第に穏やかな寝息へと変わっていった。

そして、その表情から、苦悶の色が消えていく。


(よかった……)


安堵のため息をつくと、どっと疲労感が押し寄せてきた。

心の傷を癒やすのは、身体の傷を癒やすよりも、ずっと多くの力を消耗するらしい。

私は、彼のそばの床に、ずるずると座り込んでしまった。


しばらくして、彼が静かに身じろぎした。


「……ん……」


ゆっくりと(まぶた)が開かれ、その青い瞳が、私を捉えた。

今度は、その瞳には、はっきりと私の姿が映っている。


「……フィーリア? なぜ、ここに……」


彼の声には、戸惑いの色が浮かんでいた。


「俺は……眠っていたのか……?」


「……はい。とても、うなされていました」


「そうか……。また、あの夢を……」


彼は、自嘲するように呟くと、自分の手に視線を落とした。

そして、気づいたのだろう。自分の胸を押さえていたはずの手に、何の痛みも感じないことに。

そして、あの古傷が、いつもより(うず)いていないことに。


「……お前が、やったのか?」


静かな問いに、私はこくりと頷いた。


「ごめんなさい。勝手なことを……」


「……いや」


彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がると、私の前に膝をついた。

そして、私の頬に、そっと触れた。

その手は、もう震えていなかった。


「……温かい」


彼は、まるで初めて触れる宝物のように、私の頬を優しく撫でた。


「俺のこの傷は、幼い頃、暴走した俺自身の炎で負ったものだ。力を制御できず、多くのものを傷つけ、そして……母を失った」


彼の口から語られたのは、あまりにも痛ましい過去だった。


「それ以来、俺はこの力を恐れ、心を閉ざしてきた。この傷が(うず)くたびに、癒えない罪悪感に苛まれてきた。誰も、この痛みから俺を救ってはくれなかった。……お前が現れるまでは」


彼の青い瞳が、潤んでいる。

その瞳から、一筋の涙が、静かに頬を伝った。


氷竜王が、泣いている。

ずっと一人で、孤独と痛みに耐えてきた、彼の、初めて見せる涙。


私は、たまらず彼を抱きしめていた。

小さな身体で、彼の大きな背中を、ぎゅっと抱きしめた。


「もう、大丈夫です。あなたは、もう一人じゃありません」


「……フィーリア」


「私が、あなたのそばにいます。だから、もう泣かないでください」


私の腕の中で、彼の身体が微かに震える。

彼は、私の肩に顔を埋め、子供のように、声を殺して泣き続けた。


どれくらいの時間が経っただろうか。

やがて、彼の嗚咽が止まり、穏やかな寝息が聞こえ始めた。

私の腕の中で、彼は、本当に安らかな顔で眠っていた。


私は、彼の銀色の髪を優しく撫でた。

彼の深い孤独に、ほんの少しだけ、触れることができた気がした。

そして、分かった。


私のこの力は、呪われた大地を救うためだけにあるのではない。

目の前にいる、この傷ついた、たった一人の竜を救うためにこそ、あるのだと。


その夜、私たちは、執務室の冷たい床の上で、寄り添うようにして眠った。

暖炉の火はとっくに消えていたけれど、少しも寒くはなかった。

二人の間には、何よりも温かい、確かな絆が生まれていたのだから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ