08 癒えない傷と、初めての涙
ゼノヴァルド様の腕の中で、私は彼の鼓動を聞いていた。
それは、いつも落ち着いている彼からは想像もできないほど、速く、そして力強く脈打っていた。
彼がこれほど感情を露わにするのを、私は初めて見た。
しばらくして、彼はゆっくりと私から身体を離した。
その顔には、いつもの冷徹な仮面が戻っていたけれど、瞳の奥にはまだ動揺の色が残っている。
「……すまない。取り乱した」
「いいえ……」
「今日のところは、もう戻れ。お前も疲れただろう」
彼はそう言って、私に背を向けた。これ以上、自分の内側を見せたくないという、明確な拒絶の意思表示だった。
私は、彼の背中に向かって、そっと頭を下げた。
「分かりました。失礼します」
書庫を後にしながら、私は彼の傷ついた手のことを考えていた。
あの火傷の痕。そして、私の言葉に、あれほどまで動揺した彼の姿。
あの傷は、彼の心に深く刻まれた、決して消えない痛みの象徴なのだ。
(私に、何かできることはないだろうか……)
私の『生命の祝福』は、生命そのものに働きかける力。
それは、身体の傷だけでなく、心の傷にも届くのだろうか。
◇
その夜、私は自室のベッドの上で、膝を抱えていた。
ゼノヴァルド様は、きっと今頃、一人で痛みに耐えているのだろう。そう思うと、居ても立ってもいられなかった。
(行こう。彼のそばへ)
たとえ拒絶されてもいい。
ただ、一人にだけは、しておきたくなかった。
私はそっと部屋を抜け出し、彼の執務室へと向かった。
扉の前で、深呼吸を一つ。中からは、何の物音もしない。
控えめに扉をノックするが、返事はなかった。
「ゼノヴァルド様……? フィーリアです」
声をかけても、応答はない。
胸騒ぎがして、私はおそるおそる扉を開けた。
執務室の中は、薄暗かった。
暖炉の火も消えかかっていて、大きな机の上には、飲みかけの酒瓶とグラスが置かれている。
そして、彼は、執務用の大きな椅子に深く身を沈め、目を閉じていた。
「ゼノヴァルド様……?」
眠っているのだろうか。
私がそっと近づくと、彼の顔色の悪さに気づいた。額には脂汗が滲み、呼吸も浅く、苦しそうだ。
そして、彼は、あの傷のある手で、自分の胸のあたりを強く押さえていた。
「……っ、う……」
苦痛に満ちた、呻き声が漏れる。
これは、ただの悪夢ではない。あの古い傷が、彼を苛んでいるのだ。
「ゼノヴァルド様、しっかりしてください!」
私が彼の肩を揺すると、彼はうっすらと目を開けた。
その青い瞳は焦点が合わず、虚ろに宙を彷徨っている。
「……母、上……?」
「え……?」
「熱い……助けて……いやだ……!」
彼は、私ではない誰かの名を呼び、怯えた子供のように首を振った。
彼の意識は、今、過去の悪夢の中に囚われているのだ。
見ていられなかった。
私は、彼の胸を押さえている、傷ついた手に、自分の両手を重ねた。
そして、目を閉じ、全ての意識を集中させる。
(お願い! 彼の痛みを、和らげてください!)
私の力の全てを、彼に注ぎ込む。
それは、庭を再生させた時のような、力強い光ではない。
もっと、穏やかで、優しくて、全てを包み込むような、月光のような光。
『大丈夫。もう、怖くないですよ』
心の中で、彼に語りかける。
すると、私の手のひらから伝わる光が、彼の身体の中へと、ゆっくりと染み込んでいくのが分かった。
彼の心を蝕んでいた、黒く、冷たい棘のようなものが、光に触れて少しずつ溶けていく。
彼の強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていく。
荒かった呼吸も、次第に穏やかな寝息へと変わっていった。
そして、その表情から、苦悶の色が消えていく。
(よかった……)
安堵のため息をつくと、どっと疲労感が押し寄せてきた。
心の傷を癒やすのは、身体の傷を癒やすよりも、ずっと多くの力を消耗するらしい。
私は、彼のそばの床に、ずるずると座り込んでしまった。
しばらくして、彼が静かに身じろぎした。
「……ん……」
ゆっくりと瞼が開かれ、その青い瞳が、私を捉えた。
今度は、その瞳には、はっきりと私の姿が映っている。
「……フィーリア? なぜ、ここに……」
彼の声には、戸惑いの色が浮かんでいた。
「俺は……眠っていたのか……?」
「……はい。とても、うなされていました」
「そうか……。また、あの夢を……」
彼は、自嘲するように呟くと、自分の手に視線を落とした。
そして、気づいたのだろう。自分の胸を押さえていたはずの手に、何の痛みも感じないことに。
そして、あの古傷が、いつもより疼いていないことに。
「……お前が、やったのか?」
静かな問いに、私はこくりと頷いた。
「ごめんなさい。勝手なことを……」
「……いや」
彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がると、私の前に膝をついた。
そして、私の頬に、そっと触れた。
その手は、もう震えていなかった。
「……温かい」
彼は、まるで初めて触れる宝物のように、私の頬を優しく撫でた。
「俺のこの傷は、幼い頃、暴走した俺自身の炎で負ったものだ。力を制御できず、多くのものを傷つけ、そして……母を失った」
彼の口から語られたのは、あまりにも痛ましい過去だった。
「それ以来、俺はこの力を恐れ、心を閉ざしてきた。この傷が疼くたびに、癒えない罪悪感に苛まれてきた。誰も、この痛みから俺を救ってはくれなかった。……お前が現れるまでは」
彼の青い瞳が、潤んでいる。
その瞳から、一筋の涙が、静かに頬を伝った。
氷竜王が、泣いている。
ずっと一人で、孤独と痛みに耐えてきた、彼の、初めて見せる涙。
私は、たまらず彼を抱きしめていた。
小さな身体で、彼の大きな背中を、ぎゅっと抱きしめた。
「もう、大丈夫です。あなたは、もう一人じゃありません」
「……フィーリア」
「私が、あなたのそばにいます。だから、もう泣かないでください」
私の腕の中で、彼の身体が微かに震える。
彼は、私の肩に顔を埋め、子供のように、声を殺して泣き続けた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
やがて、彼の嗚咽が止まり、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
私の腕の中で、彼は、本当に安らかな顔で眠っていた。
私は、彼の銀色の髪を優しく撫でた。
彼の深い孤独に、ほんの少しだけ、触れることができた気がした。
そして、分かった。
私のこの力は、呪われた大地を救うためだけにあるのではない。
目の前にいる、この傷ついた、たった一人の竜を救うためにこそ、あるのだと。
その夜、私たちは、執務室の冷たい床の上で、寄り添うようにして眠った。
暖炉の火はとっくに消えていたけれど、少しも寒くはなかった。
二人の間には、何よりも温かい、確かな絆が生まれていたのだから。