04 初めてのお買い物と、街の人々の眼差し
ゼノヴァルド様のもふもふの尻尾に包まれて過ごした午後のひとときは、まるで夢のようだった。
すっかり体力が回復した私は、彼の背に乗せてもらって部屋まで送ってもらった。竜の背中は想像以上に安定していて、眼下に広がる美しい庭園の景色は、私の胸をときめかせた。
部屋に戻ると、マーサが心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「フィーリア様、お身体は大丈夫でございますか? あれほど広大な庭園を一度に再生なさるなんて、無茶でございますよ」
「ごめんなさい、マーサ。でも、どうしても、あの庭を元に戻したくて」
「そのお気持ち、よく分かります。私も、あの庭が蘇ったと聞いた時は、涙が止まりませんでした。皆、フィーリア様に感謝しております」
そう言って深々と頭を下げるマーサに、私は恐縮してしまう。
「やめてください、マーサ。私は、ただ自分のやりたいことをしただけですから」
「フィーリア様は、本当にお優しい方ですわね」
マーサは慈愛に満ちた瞳で私を見つめると、ふと何かを思い出したように手を叩いた。
「そうだ、フィーリア様。明日、街へお買い物に行かれるのはいかがでしょう? 気分転換にもなりますし、必要なものもおありでしょう?」
「街へ……?」
思いがけない提案に、私は目を丸くする。
私がこの城に来てから、まだ外へは一歩も出ていない。
「でも、私が行ってもいいのでしょうか? ゼノヴァルド様の許可が……」
「竜王様には、すでにお伺いを立てております。『フィーリアの好きにさせろ』と」
マーサは楽しそうに笑う。
「護衛も付きますし、何もご心配はいりません。ね、行きましょう?」
その言葉に、私の心は自然と弾んでいた。
街。
王都では、私はほとんど屋敷に閉じ込められていたから、街を自由に歩き回った経験などほとんどない。
どんな場所なんだろう。どんな人たちが暮らしているんだろう。
「……はい! 行ってみたいです!」
私の返事に、マーサは嬉しそうに微笑んだ。
◇
翌日、私はマーサと、護衛の騎士二人と共に、氷晶城の麓にある街へと向かった。
街は、石畳の道と、寄り添うように建てられた石造りの家々が並ぶ、こぢんまりとした場所だった。けれど、どこか活気がない。道行く人々の表情は硬く、肩をすぼめて歩いている。
呪いの影響が、人々の心にも影を落としているのが見て取れた。
私たちが馬車を降りると、街の人々が遠巻きにこちらを見ているのが分かった。
その視線には、好奇心だけでなく、どこか警戒するような色が混じっている。
「……マーサ、皆さん、私のことを見ているような……」
「お気になさらないでください、フィーリア様。この街に、これほど上等な服をお召しになった若い女性が来るのは珍しいのです。すぐに慣れますわ」
マーサはそう言うけれど、私は人々の視線に居心地の悪さを感じていた。
私たちはまず、日用品を扱う店に入った。
髪をとかす櫛や、リボン、ハンカチなど、女性らしい細々としたものを眺めるのは、それだけで楽しかった。
私が桜の木でできた櫛を手に取って見ていると、店の主人がぶっきらぼうに話しかけてきた。
「あんた、城の新しい客かい」
「え、あ、はい……」
「ふん。竜王様も、物好きなお方だ。こんな痩せた土地に、わざわざ王都からお人を呼び寄せるとはな」
その言葉には、棘があった。
私のような、いかにも裕福そうな身なりの人間が、自分たちの苦しみも知らずにのうのうと城で暮らしている。そう思われているのかもしれない。
胸がちくりと痛む。
何も言い返せずにいると、マーサが私の前に出て、毅然とした態度で言った。
「口が過ぎますよ、店主。このお方は、竜王様が特別にお迎えした、大切なお方です」
「へっ、分かってらい。悪かったよ」
店主はばつが悪そうにそっぽを向いた。
その後、何軒か店を回ったけれど、どこへ行っても人々の態度は似たようなものだった。
私に対する、よそよそしくて、冷たい眼差し。
それは、かつて公爵家で「出来損ない」と蔑まれていた頃の視線を思い出させた。
(やっぱり、私は、どこへ行っても歓迎されないんだ……)
せっかくの買い物だったのに、私の心はすっかり沈んでしまっていた。
そんな時だった。
広場を通りかかると、隅の方で小さな人だかりができていた。
何事かと思って覗き込むと、一人の少年が地面にうずくまって泣いていた。年の頃は、五つか六つくらいだろうか。
「どうしたの、坊や」
私が声をかけると、少年はしゃくりあげながら答えた。
「……お母さんが、病気なんだ。ずっと、咳が止まらなくて、苦しそうなんだ……」
少年の言葉に、周囲の大人たちが同情的な溜息をつく。
「可哀想に。ライラのところの子か」
「呪いが流行らせた、あの肺の病気だろう。医者も匙を投げてたって話だぜ」
それを聞いて、私はいてもたってもいられなくなった。
私は少年の前にしゃがみ込むと、優しく語りかけた。
「あなたのお母さんがいる場所へ、案内してくれる?」
「え……?」
「私、少しだけ、治癒の力が使えるの。もしかしたら、力になれるかもしれない」
私の言葉に、少年だけでなく、マーサや護衛の騎士、そして周りの人々も驚いた顔をした。
「フィーリア様、なりません! そのようなことをして、もし何かあったら……!」
マーサが慌てて止めようとする。
けれど、私は首を横に振った。
「大丈夫です、マーサ。それに、困っている人がいるのに、見て見ぬふりはできません」
私の真剣な眼差しに、マーサはそれ以上何も言えなかった。
少年は、私の手をぎゅっと握りしめると、希望に満ちた瞳で私を見上げた。
「本当……? お姉ちゃん、お母さんを助けてくれるの?」
「ええ。一緒に行きましょう」
◇
少年が案内してくれたのは、街の端にある、小さな家だった。
中に入ると、薬草の匂いと、重苦しい空気が漂っていた。
ベッドには、顔色が悪く、痩せた女性が横たわっていた。彼女が、少年のお母さんのライラさんなのだろう。
「ケホッ、ケホッ……トム? その方たちは……?」
「お母さん! このお姉ちゃんが、治してくれるって!」
ライラさんは、訝しげな目で私を見た。無理もないだろう。見ず知らずの貴族令嬢が、突然家を訪ねてきたのだから。
私は彼女のベッドのそばに膝をつくと、自己紹介をした。
「はじめまして、フィーリアと申します。少しだけ、あなたの力になれればと思って……。お身体に、触れてもよろしいでしょうか?」
ライラさんは戸惑いながらも、こくりと頷いた。
私は、彼女の胸にそっと手を当てる。
目を閉じると、彼女の肺が、黒い靄のようなものに覆われているのが視えた。これが、病気の原因。呪いの一部だ。
(私の力で、この靄を払えるだろうか……)
治癒の力ではない。『生命の祝福』の力で。
私は、光をイメージした。温かく、清らかな光が、私の手を通して彼女の身体に流れ込み、黒い靄を浄化していくイメージ。
すると、私の手のひらが、ぽかぽかと温かくなってきた。
光が、黒い靄を包み込み、溶かしていく。
『あたたかい……光が……』
ライラさんの、安堵したような心の声が聞こえる。
しばらくして、私が目を開けると、彼女の呼吸が穏やかになっていることに気づいた。苦しそうな咳も、止まっている。
「……あれ? 息が、楽……?」
ライラさんが、信じられないといった様子で、自分の胸に手を当てている。
顔色も、さっきよりずっと良くなっている。
「お母さん!」
トム君が、嬉しそうに母親に抱きついた。
その様子を、家の入り口から、街の人々が固唾を呑んで見守っていた。
誰かが、ぽつりと言った。
「……治った?」
「ライラの咳が、止まってるぞ……」
「まさか、あのお嬢さんが……?」
ざわめきが、波のように広がっていく。
人々が私に向ける視線から、先ほどまでの警戒心や冷たさが消え、驚きと、そして畏敬のような色が浮かんでいるのが分かった。
「あ、ありがとうございました……! あなた様は、一体……?」
ライラさんが、涙ながらに私に感謝を述べる。
「いいえ、お気になさらず。トム君が、あなたをとても心配していたから」
私が微笑むと、ライラさんは私の手を取り、深々と頭を下げた。
その時だった。
「――何をしている」
低く、地を這うような声が響き、その場の空気が一瞬で凍りついた。
皆が恐れるように振り返った先には、氷のように冷たい表情を浮かべた、ゼノヴァルド様が立っていた。
「ゼ、ゼノヴァルド様……!」
いつの間にいらしたのだろう。
彼の青い瞳は、真っ直ぐに私を捉えていた。その瞳の奥に、見たことのない激しい感情が渦巻いているのを、私は感じ取っていた。
それは、怒り、だろうか。
それとも――。
「フィーリア。城へ帰るぞ」
彼は有無を言わさぬ口調でそう言うと、私の腕を掴み、歩き出した。
私は、街の人々の呆然とした視線を背中に感じながら、なすすべもなく彼に引かれていくしかなかった。