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02 冷酷な竜王様と、温かいスープ

意識が浮上した時、最初に感じたのは、信じられないほどの温かさだった。

まるで、極上の羽毛布団に全身を包まれているかのような、柔らかな温もり。吹雪の中、凍えきっていたはずの身体が、芯から解かされていくのが分かる。


次に感じたのは、微かに鼻をくすぐる清冽な香り。冬の早朝の森のような、澄み切った空気の匂いだ。

ゆっくりと(まぶた)を開くと、視界に飛び込んできたのは、見たこともない豪奢な天井だった。繊細な氷の結晶を模したような彫刻が施され、中央にはシャンデリアが静かな光を放っている。


「……ここは?」


掠れた声が、自分の喉から出たものだと気づくのに数秒かかった。

上半身を起こすと、自分が天蓋付きの巨大なベッドに寝かされていたことが分かった。掛けられていたのは、驚くほど滑らかな手触りの、白銀の毛皮の布団。私が感じていた温もりは、この毛皮によるものらしい。


部屋の中を見渡す。

壁は磨き上げられた黒曜石でできており、暖炉の炎を静かに反射している。調度品はどれもシンプルながら、明らかに一級品ばかりだ。私が暮らしていた公爵家の自室など、足元にも及ばない。


(あの後、私は……氷竜に……)


記憶が蘇り、心臓が跳ねる。

そうだ、私はあの巨大な竜に連れ去られたのだ。ここは、あの竜の棲み処なのだろうか。私はこれからどうなってしまうのだろう。食べられてしまうのだろうか。


不安に駆られ、ベッドから抜け出そうとした、その時だった。


カチャリ、と扉が開く音がした。

びくりと身体を硬直させ、私は息を殺して扉を見つめる。


入ってきたのは、一人の男性だった。

その姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。


人間離れした、と表現するのが最も近いだろう。

背が高く、しなやかな身体は、黒を基調としたシンプルな衣服に包まれている。月光を溶かしたかのような銀の髪が、彼の動きに合わせてさらりと流れた。そして何より目を引いたのは、あの氷竜と同じ――全てを見透かすような、冷たい輝きを放つ青い瞳だった。


「……目が覚めたか」


低く、落ち着いた声が室内に響く。

その声には、聞き覚えがあった。馬車の中で、私の脳内に直接響いた声だ。


「あなた、は……」


「俺の名はゼノヴァルド。この地の主だ」


ゼノヴァルド、と名乗った彼は、感情の読めない瞳で私を見据えたまま、ゆっくりとベッドへと近づいてくる。

一歩、また一歩と彼が近づくたびに、尋常ではない威圧感が肌を刺す。この人は、ただ者ではない。間違いない、彼こそが、あの氷竜なのだ。


恐怖で身体が震えだす。後ずさりしようにも、背後はベッドのヘッドボードだ。

私の怯えに気づいたのか、ゼノヴァルドは数歩手前で足を止め、無感動な声で言った。


「怯えるな。害するつもりはない」


「…………」


「名は?」


「……フィーリア、です」


「フィーリア。お前、自分が何者か、分かっているのか?」


彼の問いの意味が分からず、私は戸惑う。


「オルタンシア公爵家の、長女……でした。ですが、もう……家からは追放されました」


自嘲気味にそう答えると、ゼノヴァルドはわずかに眉を寄せた。


「公爵家。なるほどな。だが、俺が聞いているのはそんなことではない」


彼は再び一歩踏み出し、私のすぐそばまでやってくると、その冷たそうな指先で、私の頬にそっと触れた。

ひっ、と息を呑む。触れられた箇所から、氷のような冷たさが伝わってくるかと思ったが、意外にも彼の指は熱を帯びていた。


「お前の持つ、その力のことだ」


「……力?」


「ああ。微かだが、温かい。生命の気配がする」


心臓が、大きく音を立てた。

まさか。この人は、私の秘密の力に気づいているというの? 治癒の力ではない、誰にも知られていないはずの、この力のことに?


私が言葉を失っていると、ゼノヴァルドは静かに続けた。


「この地は呪われている」


「呪い……」


「“枯渇の呪い”だ。草木は枯れ、大地は痩せ、動物たちは姿を消した。俺の魔力で、雪と氷に閉ざすことで、呪いの進行を遅らせているにすぎん」


彼の声には、深い絶望の色が滲んでいた。この地の主として、民と土地を想う、王の苦悩。


「俺はずっと探していた。この呪いを解くことができる、特別な力を持つ者を」


ゼノヴァルドの青い瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。


「フィーリア。お前は、この地を救うためにここへ来た。お前こそが、俺が探し求めていた“運命の(つがい)”かもしれん」


「つ、がい……?」


聞き慣れない言葉に、私の頭は混乱するばかりだ。

運命の(つがい)? この私が? 出来損ないと蔑まれ、家族にすら捨てられた私が?


「ありえません……。私には、そんな大した力はありません。私の治癒の力は、小鳥の怪我を治すのがやっとで……」


「治癒の力ではない」


ゼノヴァルドは、私の言葉をきっぱりと否定した。


「お前の力は、もっと根源的なものだ。生命そのものに働きかけ、その輝きを増幅させる力……『生命の祝福』。そう呼ぶべきものだ」


彼の口から語られた言葉に、私は衝撃を受けた。

『生命の祝福』。

それは、私が枯れた花に力を注いだ時の、あの感覚そのものだった。


「どうして、それを……」


「竜は、魔力の流れに敏感だからな。お前が馬車で捨てられた時、吹雪の中でお前の魂から漏れ出す、微かな光を見た。それは、この凍てついた大地で唯一の、生命の色をしていた」


だから、私を?

偶然ではなかった。彼は、私を選んでここに連れてきたのだ。


「フィーリア。お前の力が本物か、試させてもらう」


ゼノヴァルドはそう言うと、有無を言わさぬ口調で告げた。


「呪いが解けるか、あるいは、お前の力が偽物だと判明するまで、お前は俺の所有物としてここにいろ。衣食住は保証する。だが、俺の許可なくこの城から出ることは許さん」


それは、あまりに一方的な宣告だった。

けれど、私に拒否する権利などあるはずもない。行き場のない私を拾ってくれただけでも、感謝すべきことなのだ。


「……分かりました」


私が小さく頷くと、ゼノヴァルドは満足したようにわずかに口角を上げたように見えた。


「良い返事だ。……腹は、減っているか?」


唐突な質問に、私は戸惑いながらも、こくりと頷く。そういえば、昨日の昼から何も口にしていなかった。


「支度をさせよう。何か食べたいものは?」


「あ、あの……なんでも、結構です。残り物でも、なんでも……」


染み付いた卑屈な答えに、ゼノヴァルドの眉間の皺が深くなる。


「残り物だと? お前は客だ。いや、客以上だ。遠慮はいらん。言え」


強い口調に、私はおずおずと口を開いた。


「でしたら……温かい、スープが飲みたいです」


「スープか。分かった」


彼はそれだけ言うと、部屋を出て行った。

一人残された部屋で、私はまだ夢を見ているような気分だった。

追放されたはずが、気づけば竜王の城にいる。そして、この地を救う存在かもしれないとまで言われた。


(私の力……本当に、役に立つのだろうか)


期待と不安が入り混じった、不思議な気持ちだった。

今まで誰にも必要とされず、価値がないと信じて生きてきた。もし、この私でも誰かの役に立てるのなら。この冷たい土地に、温かな光を灯すことができるのなら。

それは、生まれて初めて抱いた、小さな希望の光だった。


しばらくして、侍女らしき女性が食事を運んできた。

銀の盆の上には、湯気の立つスープと、焼きたてのパン、そして新鮮なサラダが並んでいる。こんなにちゃんとした食事を一人でいただくのは、いつぶりだろう。


「竜王様より、フィーリア様のお食事です。どうぞ、ごゆっくり」


侍女は丁寧にお辞儀をすると、静かに部屋を退出していった。


私はまず、木製のスプーンでスープを一口、口に運んだ。

野菜の優しい甘みが、じわりと身体に染み渡る。美味しい。けれど、どこか物足りない。野菜たちが、少し元気をなくしているような気がした。


(もしかして……)


ふと思いついて、私はスープ皿にそっと両手をかざした。

そして、あの枯れた花にした時のように、目を閉じて意識を集中させる。

私の温かな力を、このスープに注ぎ込むイメージ。


『ありがとう……温かい……』


野菜たちの、喜ぶ声が聞こえる。

目を開けて、もう一度スープを口に運ぶ。


「……!」


驚いた。味が、全く違う。

野菜本来の甘みと旨みが何倍にも増し、ハーブの香りも豊かになっている。まるで、採れたての新鮮な野菜をそのまま食べているかのような、生命力に満ちた味だ。


夢中でスープを飲み干し、パンをちぎって最後の一滴まで拭って食べた。

こんなに美味しい食事は、生まれて初めてだった。


食事が終わるのを見計らったかのように、再びゼノヴァルドが部屋に現れた。


「口に合ったか?」


「は、はい! とても、とても美味しかったです!」


満面の笑みで答えると、彼は少し意外そうな顔をした後、ふっと口元を緩めた。彼が笑ったのを、私は初めて見た。


「そうか。それは良かった」


彼の視線が、空になったスープ皿に向けられる。


「……だが、妙だな。この城の厨房では、味の濃いスープは作れんはずだが」


どきり、と心臓が鳴る。

私がやったことが、バレてしまっただろうか。


「そ、それは……」


私が言い淀んでいると、ゼノヴァルドは何かを察したように、私の手を取った。


「やはり、お前の力か」


彼は私の手のひらをじっと見つめ、確信に満ちた声で言った。


「素晴らしい。これならば、あるいは……」


彼は私の手を取ったまま、部屋の隅にあるバルコニーへと向かう。

ガラス戸を開けると、ひやりとした空気が流れ込んできた。

バルコニーには、父の城で見たのと同じように、完全に枯れきった鉢植えが一つ、寂しげに置かれていた。


「フィーリア。これに、お前の力を注いでみろ」


「……はい」


私は頷き、鉢植えの前にしゃがみ込む。

枯れた土にそっと指を触れる。案の定、そこからは何の生命の気配も感じられなかった。

でも、諦めたくない。


私は目を閉じ、全身全霊で祈った。

お願い、目を覚まして。あなたにはまだ、生きる力があるはず。

私の力の全てを、この小さな命に。


体内の温かなものが、指先から土へと流れ込んでいく。

それは、まるで乾いた大地に染み込む、一滴の雫のようだった。


すると。


ポッ、と小さな音がした。

目を開けると、信じられない光景が広がっていた。


枯れ木だと思っていた枝の先に、小さな、小さな緑色の双葉が芽吹いていたのだ。

か細く、けれど力強く、自らの存在を主張するように。


「……あ」


涙が、頬を伝った。

嬉しい。すごい。私にも、こんなことができた。

小さな命が応えてくれたことが、たまらなく嬉しかった。


「……見事だ」


背後から、感嘆の息遣いが聞こえた。

ゼノヴァルドが、驚きと喜びに満ちた瞳で、その小さな芽を見つめている。


「フィーリア。お前は、やはり本物だ」


彼は私の隣に膝をつくと、震える指でその双葉にそっと触れた。

その横顔は、いつも冷徹な彼からは想像もできないほど、優しく、そして切なげだった。


「お前こそが、この地の希望だ。俺の……唯一の、希望だ」


そう言って私に向き直った彼の青い瞳は、熱っぽく潤んでいた。

彼は、まるで宝物に触れるかのように、私の頬を両手で包み込む。


「フィーリア。俺のそばにいてくれ。そして、この大地を救ってくれ」


その真剣な眼差しに、私は吸い込まれそうになる。

私は、ただ頷くことしかできなかった。


この時、私はまだ知らなかった。

この孤独な竜王が、これから先、私にどれほど深い愛情を注いでくれることになるのか。

そして、私を捨てた家族たちが、どれほど後悔することになるのかを。


凍てついた大地で始まった私の新しい人生は、こうして、小さな緑の芽吹きと共に、静かに幕を開けたのだった。

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