閑話 王都からの使者と、愚者の誤算
北の地で、氷竜王とその番が、邪神の眷属である黒竜王と死闘を繰り広げていた、まさにその頃。
王都は、未だかつてないほどの閉塞感と、正体不明の不安に包まれていた。
枯れ続ける大地。日に日に悪化する民の体調。そして、何よりも人々の心を蝕んでいたのは、北の地で「奇跡の聖女」フィーリアが氷竜王の寵愛を受けているという、輝かしい噂だった。
かつて、自分たちが見下し、嘲笑していた「出来損ない」が、手の届かない場所で幸せになっている。その事実が、人々の心の澱をかき混ぜ、醜い嫉妬の感情を増幅させていた。
◇
「まだか! フィーリアを連れ戻す使者は、まだ出発せんのか!」
エリオット王太子は、玉座の間で苛立たしげに叫んでいた。
彼の足元には、オルタンシア公爵アルフォンスが、青い顔で平伏している。
「も、申し訳ございません、殿下。使者の人選と、氷竜王への献上品を整えるのに、手間取っておりまして……」
「言い訳は聞きたくない! ぐずぐずしている間に、あの女が竜の子供でも孕んだらどうするのだ! そうなれば、ますます取り返しがつかなくなるぞ!」
エリオットの思考は、もはや常軌を逸していた。
彼は、フィーリアを「国を救うための道具」としか見ていない。その人権も、感情も、幸福も、彼の頭の中には存在しなかった。
「アルフォンス! 貴様、自分の娘だろう! 父親としてフィーリアを説得しろ! 俺も出向いてやる!」
「は、ははっ! かしこまりました!」
結局、アルフォンス公爵を随行させ、エリオット自身が北の地へ赴くことになった。
アルフォンス公爵は、心のどこかで安堵していた。これで、あのフィーリアを連れ戻し、この凋落しきった状況を立て直せる。そして、再び公爵家の栄光を取り戻せる、と。
彼は、娘に酷い仕打ちをしたことへの罪悪感など、とうの昔に忘れていた。あるのは、自分の保身と、失われた栄華への執着だけだ。
「セレスティア、お前も来い」
「え……? わたくしも、ですか、お父様?」
アルフォンス公爵は、次女であり王太子妃であるセレスティアにも同行を命じた。
「当たり前だ。妹のお前が涙ながらに説得すれば、あの情の深い娘のことだ、きっと王都へ戻る気になるに違いない。姉妹の絆を見せてやれ」
「……はい」
セレスティアはニヤリと小さく笑い、頷いた。
彼女もまた、自分の美貌と才能が色褪せ始め、王太子からも冷たく扱われる現状に、焦りと恐怖を感じていた。
姉のフィーリアが持つという「奇跡の力」。それを、自分のものにできれば……。
彼女の心には醜い嫉妬の影が巣食っていた。
こうして、王太子、公爵、そして聖女という、この国で最も愚かで、最も傲慢な三者は、自分たちの誤算に気づかぬまま、北への旅路についた。
彼らは、本気で信じていたのだ。
自分たちが頭を下げれば、あの「出来損ない」は、喜んで尻尾を振って戻ってくると。
そして、氷竜王も、大国である自分たちの要求を、無下に断ることはできないだろう、と。
◇
数週間の旅を経て、王都からの使節団は、ついに氷晶城の麓の街に到着した。
そして、彼らは、自分たちの目を疑うことになる。
「な……なんだ、この街は……!?」
エリオットが、愕然として声を上げた。
そこに広がっていたのは、彼らが想像していたような、寂れて活気のない辺境の街ではなかった。
道行く人々は皆、血色が良く、その表情は明るい。広場の市場には、瑞々しい野菜や果物が並び、子供たちの元気な笑い声が響いている。
王都よりも、よほど活気に満ちているではないか。
使節団の豪華な馬車は、当然、街の人々の注目を集めた。
しかし、その視線は、以前フィーリアが感じたような、冷たいものではなかった。
むしろ、不審者を見るような、警戒心に満ちた眼差しだ。
「おい、見ろよ。王都の紋章だぜ」
「こんな時に、何のようだ! 俺たちのフィーリア様の邪魔をしに来たのか?」
「今さら、どの面下げて来やがったんだ!」
街の人々の囁き声が、彼らの耳にも届く。
フィーリアが、いかにこの地で愛され、慕われているか。その事実が、彼らのプライドを容赦なく打ちのめした。
アルフォンス公爵は、動揺を隠せないまま、城の門番に使者の来訪を告げた。
やがて、城の中から出てきたのは、侍女頭のマーサだった。
「王都からの使者御一行様ですね。竜王様とフィーリア様は、今、お取り込み中です。客間にて、お待ちください」
マーサの態度は、丁寧ではあったが、どこか事務的で、冷たかった。
王太子が直々に来ているというのに、出迎えにも来ない。その無礼な対応に、エリオットの額に青筋が浮かぶ。
客間に通された後も、彼らは延々と待たされた。
窓の外が夕暮れに染まり始める頃、ようやく、待ち人が現れた。
扉が開き、入ってきたのは、ゼノヴァルドとフィーリアだった。
その瞬間、アルフォンス公爵とセレスティアは、息を呑んだ。
そこにいたフィーリアは、彼らの知る「出来損ない」ではなかった。
上質なドレスを身にまとい、その表情には自信と幸福感が満ち溢れている。くすんでいたはずの髪は艶やかに輝き、その佇まいは、まるで本物の王妃のようだ。
そして、何よりも、彼女の隣に立つ氷竜王が、彼女に向ける眼差し。それは、この世の何よりも大切な宝物を見るような、深く、そして熱烈な愛情に満ちていた。
二人が醸し出す、侵しがたいほどの威厳と、幸福のオーラ。
それを見ただけで、アルフォンス公爵たちは、自分たちが、とてつもない過ちを犯したのだということを、ようやく、おぼろげに理解し始めたのだった。
「……さて」
ゼノヴァルドが、氷のように冷たい声で、口火を切った。
「こんな辺境の地まで、王太子殿下が直々に、一体何の御用かな?」
その声には、隠そうともしない敵意と、絶対王者としての圧倒的な威圧感が込められていた。
愚者たちの、後悔と断罪の時が、ついに始まろうとしていた。