14 芽吹く大地と、忍び寄る邪神の影
静寂の森での戦いから、数日が過ぎた。
氷晶城での生活は、まるで嘘のように穏やかだった。
呪いの発生源の一つを浄化した影響は、思った以上に大きかったらしい。城壁の外に広がる大地にも、少しずつ変化が見え始めていた。
「フィーリア様、ご覧ください!」
その日、私はマーサに呼ばれて、城の東側にある見張り塔の上にいた。
マーサが指差す先を見て、私は息を呑んだ。
今まで、灰色と黒だけだった荒野の所々に、ぽつり、ぽつりと、緑の点が生まれている。
それは、まだか細い若草だったり、小さな木の芽だったりしたけれど、確かに、大地が自らの力で息を吹き返そうとしている証だった。
「すごい……! 大地が、生き返っている……!」
「はい。フィーリア様と竜王様が森を浄化してくださってから、日に日に、緑が増えているのです。街の者たちも、希望が見えてきたと、大変喜んでおります」
マーサの言葉に、私の胸は熱くなる。
私たちがしたことは、無駄ではなかったのだ。
この美しい変化を見ていると、改めて、この国を守りたいという気持ちが強くなる。
「フィーリア」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは、ゼノヴァルド様だった。
彼は、私の隣に立つと、同じように眼下の景色を眺めた。
「……見事なものだな。これも全て、お前のおかげだ」
「いいえ、私一人の力ではありません。ゼノヴァルド様が一緒に戦ってくださったから……。それに、この大地自身が、まだ生きようと頑張っているからです」
「謙虚なことだ。だが、その謙虚さも、お前の美徳だな」
彼はそう言うと、私の肩を優しく抱き寄せた。
人前でなければ、きっと口づけをされていたことだろう。最近の彼は、本当に遠慮がない。
「この調子でいけば、数ヶ月もすれば、この辺り一帯で麦の栽培が再開できるかもしれん」
「本当ですか!?」
「ああ。そうなれば、民の暮らしもずっと楽になる」
彼の言葉に、私は心から嬉しくなった。
食糧問題は、この国にとって、呪いと同じくらい深刻な問題だったからだ。
けれど、ゼノヴァルド様の表情は、どこか晴れない。
「……だが、油断はできん」
彼の視線は、緑が芽吹き始めた大地のはるか先……世界の果てにあるという、『奈落』に向けられているようだった。
「ヴォルデモスが、このまま黙って見ているはずがない」
その言葉は、穏やかな日々に浮かれていた私への、静かな警告だった。
そうだ。私たちの戦いは、まだ終わっていない。
むしろ、これからが本番なのだ。
◇
その夜、私は、ゼノヴァルド様と一緒に、再び書庫でヴォルデモスに関する調査をしていた。
奴の弱点は何か。どうすれば、完全に滅ぼすことができるのか。
しかし、古文書をいくら調べても、決定的な記述は見つからない。
『女神は、その身を賭して、邪神を奈落に封印した』
どの本にも、書かれているのはそれだけだった。
「女神様は、ご自分の命と引き換えに、封印を……?」
「そうとしか、読み取れんな。……だが、俺は、お前に同じことをさせるつもりは毛頭ない」
ゼノヴァルド様は、きっぱりと言い切った。その瞳には、断固たる決意が宿っている。
「ゼノヴァルド様……」
「必ず、お前を死なせることなく、奴を滅ぼす方法を見つけ出す。……だから、お前も、軽率な自己犠牲など考えるな。いいな?」
念を押すような彼の言葉に、私はこくりと頷くしかなかった。
彼は、私が静寂の森で、自分の命と引き換えに彼を救おうとしたことを、まだ根に持っているらしい。
調査が行き詰まり、私たちが重い沈黙に包まれていた、その時だった。
城全体が、ぐらり、と大きく揺れた。
本棚から、何冊もの本が床に落ちる。
「地震……!?」
「いや、違う!」
ゼノヴァルド様が、窓の外へ鋭い視線を向ける。
私も、慌てて彼の隣へ駆け寄った。
そして、信じられない光景を見た。
地平線の彼方が、不気味な暗紫色の光に染まっている。
そして、その光の中心から、天を衝くほどの巨大な黒い柱が、ゆっくりと立ち上っていくのが見えた。
それは、憎悪と、絶望と、渇望を凝縮したような、邪悪な力の奔流だった。
見ているだけで、魂が凍りつきそうになる。
「……まさか……!」
ゼノヴァルド様が、驚愕に目を見開く。
「ヴォルデモスが……封印を破り始めたというのか……!?」
早すぎる。
私たちが静寂の森を浄化してから、まだ数日しか経っていない。
いくらなんでも、封印が破られるのが、早すぎる。
「なぜ……。まだ、奴が完全に復活するはずでは……」
私が混乱していると、頭の中に、あの粘つくような声が直接響いてきた。
『ククク……キサマらか……。我が呪いを浄め、我が眠りを妨げたのは……』
ヴォルデモスの声だ。
以前よりも、ずっと鮮明で、力強い。
『まさか、この時代に、女神の残滓が生まれ落ちていようとはな……。しかも、竜王の小僧を伴ってか。好都合だ』
その声は、嘲るように続けた。
『キサマらが、我が封印の一部を壊してくれたおかげで、我が魂の一部を、外に送り出すことができた。礼を言うぞ、小娘』
「……なんですって?」
私たちのしたことが、逆に、奴の復活を早めてしまったというのか。
そんな、馬鹿な。
『女神の力を喰らえば、我が完全復活も近い。そして、竜王の生命力も、なかなかの馳走になりそうだ』
『まずは、手始めに、我が可愛がっている下僕を、お前たちの元へ送ってやろう。……存分に、絶望するがいい』
その言葉を最後に、声は途絶えた。
同時に、地平線の彼方から立ち上っていた黒い柱も、すっと消える。
まるで、何もなかったかのように、夜の静寂が戻ってきた。
しかし、それは、嵐の前の静けさに過ぎなかった。
ゼノヴァルド様が、厳しい表情で言った。
「……どうやら、最悪の事態のようだ。奴は、こちらの予想を遥かに超える速度で、力を取り戻している」
「下僕を送る、と……」
「ああ。恐らく、静寂の森にいた、あの狼のような、呪いの化身だろう。だが、今度の敵は、前回とは比べ物にならんほど、強力なはずだ」
彼の言葉を裏付けるかのように、城の外から、警鐘の音がけたたましく鳴り響き始めた。
執務室の扉が、勢いよく開かれる。
血相を変えた騎士が、駆け込んできた。
「竜王様! 大変です! 北の空から、巨大な影が、こちらへ向かってきます!」
「……さっそく来たか」
ゼノヴァルド様は、静かに呟くと、私の手を取った。
その手は、いつもと変わらず、温かくて、力強かった。
「行くぞ、フィーリア」
「はい……!」
私たちは、顔を見合わせ、力強く頷いた。
つかの間の平穏は、終わりを告げた。
邪神が、ついに、私たちに牙を剥いたのだ。
どんな敵が来ようとも、私たちは負けない。
愛する人と、この国の未来を守るために。
私たちの、決戦の時が、始まろうとしていた。