13 英雄の帰還と、つかの間の平穏
氷晶城への帰路は、行きとは全く違う、穏やかなものだった。
ゼノヴァルド様の背中の上で、私は彼の温もりを感じながら、眼下に広がる景色を眺めていた。
呪いの根源だった大穴から、今は清らかな泉が湧き、その周囲から新しい緑が芽吹いている。ほんの小さな一歩だけれど、確かに、この大地は再生を始めているのだ。
やがて、氷晶城の白い尖塔が見えてきた。
私たちが城壁の上空に姿を現すと、城に残っていた人々が一斉に空を見上げ、歓声を上げた。
「竜王様とフィーリア様が、お戻りになられたぞ!」
「おお、ご無事だったか!」
私たちが城門の前に降り立つと、マーサを始め、城の皆が駆け寄ってきた。
皆、その顔には安堵と、そして喜びの色が浮かんでいる。
「フィーリア様、竜王様、おかえりなさいませ! ご無事で、本当によかったです……!」
マーサは、目に涙を浮かべて私の手を取った。
「はい、ただいま戻りました、マーサ」
「北の森の瘴気が嘘のように晴れたと、見張りの者から報告が……。もしや、お二人が?」
「ええ。呪いの発生源の一つを、浄化してきました」
私がそう答えると、周囲から「おお……!」というどよめきが起こった。
人々が私に向ける視線には、もう以前のような警戒心はない。そこにあるのは、純粋な尊敬と、感謝の念だった。
「フィーリア様は、我々の救いの女神だ!」
誰かがそう叫ぶと、それを皮切りに、人々は口々に私とゼノヴァルド様を称え始めた。
その熱狂ぶりに、私は少し戸惑ってしまう。
「皆、静まれ」
ゼノヴァルド様が、低く、しかし威厳のある声で言うと、その場の喧騒がぴたりと静まった。
彼は、私の肩を優しく抱き寄せると、皆に向かって宣言した。
「此度の働き、フィーリア一人の功績ではない。だが、彼女がいなければ、この地の未来はなかっただろう。彼女は、我が国の至宝であり――俺の、唯一無二の伴侶となる女性だ」
「……!」
「異論のある者は、いるか?」
彼の堂々たる宣言に、誰もが息を呑んだ。
そして、一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
「竜王様、フィーリア様、万歳!」
「おめでとうございます!」
皆が、心から私たちのことを祝福してくれている。
その温かい光景に、私の胸は熱くなった。
追放され、誰にも必要とされなかった私が、今、こんなにも多くの人々に祝福されている。夢のようだ。
「……ゼノヴァルド様、ありがとうございます」
「礼を言うのは、俺の方だ」
彼は、人々の前だというのに、構うことなく私の額に優しい口づけを落とした。
その行動に、再び大きな歓声が上がる。私の顔は、きっと茹でダコのように真っ赤になっていたことだろう。
◇
その夜は、私たちの無事の帰還と、呪いの浄化の成功を祝う、ささやかな祝宴が開かれた。
厨房の皆が腕によりをかけて作った、美味しい料理。
人々の、明るい笑顔と笑い声。
城全体が、希望に満ちた喜びに包まれていた。
私は、ゼノヴァルド様の隣で、その光景を眺めながら幸せを噛みしめていた。
宴の途中、私は少し夜風にあたろうと、バルコニーへ出た。
すると、後を追うようにして、ゼノヴァルド様もやってきた。
「どうした? 疲れたか?」
「いいえ、少し、この幸せが信じられなくて」
夜空には、満月が皓々と輝いていた。
王都にいた頃は、こんなふうに夜空を見上げる心の余裕もなかった。
「……信じられないのは、俺もだ」
彼は、私の隣に立つと、同じように空を見上げた。
「俺は、ずっと一人で戦ってきた。民を守ることは、王としての義務であり、贖罪だと思っていた。そこに、喜びなどなかった」
「贖罪……?」
「ああ。かつて、俺がこの手で奪ってしまった、母の命に対する……」
彼の声に、再び哀しみの色が過る。
私は、彼の傷ついた方の手に、そっと自分の手を重ねた。
「……もう、ご自分を責めないでください。それは、事故だったのでしょう?」
「……だが、俺が犯した過ちだという事実に、変わりはない」
彼の心の傷は、まだ完全には癒えていない。
私がそっと力を込めると、重ねた手から、温かい愛の光が彼へと流れ込む。
「フィーリア……」
「あなたの痛み、少しでも、私が和らげることができたなら……嬉しいです」
私の言葉に、彼はふっと息を漏らすと、愛おしそうに私を見つめた。
「……お前には、敵わんな」
彼は、私の手を優しく握り返す。
「だが、お前の言う通りかもしれん。過去に囚われてばかりでは、前に進めない。俺には今、守るべき未来ができたのだからな」
その言葉は、彼が過去と決別し、前を向くという、静かな決意表明のように聞こえた。
「フィーリア」
「はい」
「……この戦いが終わったら、正式に、結婚式を挙げよう。この国の、全ての民に祝福されて」
「……はい!」
「そして、お前を、俺の本当の妃として……」
彼は、私の耳元で、甘く囁いた。
「……夜も昼も、俺のそばにいてもらう。もう、どこへも行かせん」
その独占欲に満ちた言葉に、私の心臓は喜びと恥ずかしさで跳ね上がる。
私たちは、どちらからともなく、互いを求め、唇を重ねた。
月の光が、寄り添う二つの影を、優しく照らし出していた。
つかの間の、平穏な時間。
けれど、私たちは分かっていた。
封印の先にいる、邪神ヴォルデモスとの決戦は、避けられないということを。
呪いの根源を断ち切ったことで、ヴォルデモスは私の存在をはっきりと認識したはずだ。
奴が、この強大な『生命の祝福』の力を、黙って見過ごすはずがない。
奴は、必ず、封印を破って現れるだろう。
私の本当の使命は、この大地を救うこと。
そして、愛する人と、この国の人々の未来を守ること。
ゼノヴァルド様の手の温もりを感じながら、私は夜空に誓う。
どんな強大な敵が相手でも、私はもう、負けない。
愛する人と共に、必ずや、この世界に光を取り戻してみせる、と。
私たちの戦いは、まだ終わらない。
本当の夜明けは、すぐそこまで来ている。