10 呪いの正体と、北の森の異変
ゼノヴァルド様と心を通わせた翌日から、私たちの日常は甘く、そして穏やかなものに変わった。
朝は彼の腕の中で目覚め(これはもう、すっかり習慣になってしまった)、日中は呪いを解くための調査をし、夜は寄り添いながら眠りにつく。
毎日が、夢のように幸せだった。
「フィーリア、口にクリームがついているぞ」
「え、どこですか?」
「……ここだ」
そう言って、ゼノヴァルド様が私の唇の端を、自分の指でそっと拭う。そして、その指をぺろりと舐めた。
「……甘いな」
「〜〜〜っ!!」
食堂での朝食中、彼は平然とそんなことをやってのける。
周囲の侍女たちが「まあ!」と頬を赤らめているのも気にせず、彼は満足そうに微笑むのだ。
冷酷だと噂された氷竜王はどこへやら。今の彼は、私をからかって楽しむ、少し意地悪な恋人そのものだ。
「ゼノヴァルド様! 人前ですよ!」
「構わんだろう。お前は、もうすぐ俺の妃になるのだからな」
「まだ、なってません!」
そんなやり取りも、今では日常茶飯事だ。
彼の独占欲は日に日に強くなっている気がするけれど、その全てが、私に向けられた愛情なのだと思うと、くすぐったくて、嬉しくて、結局は何も言えなくなってしまう。
◇
その日の午後、私たちは再びあの広大な書庫にいた。
「邪悪なる神……。そんなものが、本当に存在するのでしょうか」
「伝承は、何らかの事実を元に作られることが多い。完全に無視はできんだろう」
私たちは、古代の神々に関する書物を手分けして調べていた。
私の力で蘇らせたお陰で、厨房だけでなく、城の皆の表情も明るい。けれど、城壁を一歩出れば、そこはまだ呪われた大地のままだ。根本的な解決を急がなければならない。
何時間も書物をめくっていた、その時だった。
ゼノヴァルド様が、一冊の分厚い本を手に、低い声で言った。
「……フィーリア、これを見ろ」
彼が指差したページには、禍々しい姿をした神の絵が描かれていた。
いくつもの黒い触手を持つ、異形の神。
「『蝕む者、ヴォルデモス』……。古代の神話に登場する、嫉妬と渇望を司る邪神だ」
ゼノヴァルド様が、そこに書かれた文章を読み上げる。
「ヴォルデモスは、生命の女神の輝かしい力を妬み、その全てを奪おうとした。彼は、自らの身体から呪いを振りまき、大地を枯らせ、生命の輝きを喰らうことで、その力を増大させる……」
間違いない。この邪神こそが、この地に呪いをかけた諸悪の根源だ。
「この邪神は、どうなったのですか?」
「……女神との戦いの末、その肉体は滅び、魂は世界の最果てにある『奈落』に封印された、とあるな」
封印された、という言葉に、私たちは少しだけ安堵する。
けれど、ゼノヴァルド様の表情はまだ険しいままだった。
「だが、続きがある。『ヴォルデモスの魂は滅びず、その呪いは微かにこの世に残り続けている。もし、世界に満ちる生命の力が弱まれば、封印は綻び、呪いは再び大地を蝕み始めるだろう』……」
つまり、こういうことだ。
何らかの理由で、この北の地の生命力が弱まった。それがきっかけで、ヴォルデモスの呪いが封印の綻びから漏れ出し、この地を蝕み始めたのだ。
「私の力が、この地の生命力を補っているから、今は小康状態を保てている……。でも、呪いの発生源を断ち切らない限り、いたちごっこになってしまうのですね」
「ああ。そして、お前という強大な生命力の存在を、呪いが感知すれば……いずれ、ヴォルデモス本体がお前を喰らおうと、封印を破って現れるやもしれん」
彼の言葉に、私はごくりと喉を鳴らした。
事態は、私たちが思うよりも、ずっと深刻なのかもしれない。
「呪いの発生源……。封印の綻びは、どこにあるのでしょうか?」
「……心当たりが、一つだけある」
ゼノヴァルド様は、窓の外へと視線を向けた。
その先には、どこまでも続く、広大な針葉樹の森が広がっている。
「城の北に広がる、『静寂の森』だ。かつては、古代の精霊たちが棲む、聖なる森だったと聞く。だが、数十年前に、森の奥深くで大規模な地盤沈下が起こって以来、あの森は急速に生命力を失い、今では誰も寄り付かない不気味な場所と化している」
「……そこが、怪しいと?」
「ああ。呪いがこの地で顕著になった時期と、森の異変が始まった時期が、ほぼ一致する」
彼の言葉に、私は決意を固めた。
「行きましょう。その森へ」
「……危険だぞ」
「分かっています。でも、ここから一番近い、呪いの根源かもしれない場所です。見て見ぬふりはできません」
私の強い眼差しに、ゼノヴァルド様は諦めたように溜息をついた。
「……分かった。だが、決して一人では行かせん。俺も、共に行く」
「はい!」
「準備をしろ。明日の朝、出発する」
◇
翌朝、私たちは完全な旅支度を整え、城の門の前に立っていた。
マーサが、心配そうに私たちを見送りに来てくれた。
「竜王様、フィーリア様、どうかご無理だけはなさいませんように……」
「ああ、任せておけ。必ず、無事に戻る」
ゼノヴァルド様は、頼もしく頷くと、私の方へ向き直った。
「フィーリア。今回は、馬ではなく、俺の背に乗って行け。その方が速いし、安全だ」
彼はそう言うと、その場で眩い光を放ち、巨大な氷竜の姿へと変わった。
私は、彼の背中にしがみつくようにして乗り込む。
「しっかり掴まっていろ!」
脳内に響く声と共に、ゼノヴァルド様は力強く翼を羽ばたかせ、大空へと舞い上がった。
眼下に広がる景色は、息を呑むほどに美しい。
けれど、北へ向かうにつれて、その景色は一変した。
緑豊かだった大地は、次第に色を失い、灰色と黒だけの荒涼とした土地が広がっている。
これが、呪いに深く蝕まれた、この国の本当の姿なのだ。
やがて、私たちの眼下に、巨大な森が見えてきた。
けれど、その森は異様だった。
木々は皆、黒く枯れ果て、まるで巨大な骸骨の森のようだ。生命の気配が、一切感じられない。
『……ひどいな。これが、静寂の森のなれの果てか』
ゼノヴァルド様の、苦々しげな声が響く。
森の上空に差し掛かった、その時だった。
私は、肌にピリピリとした、不快な感覚を覚えた。
そして、頭の奥に、直接響いてくる声があった。
『……チカラ……イノチ……ヨコセ……』
粘つくような、邪悪な声。
それは、今まで感じたことのない、純粋な悪意と渇望の塊だった。
ヴォルデモスの呪いの声だろうか。
「……っ!」
あまりの邪気に、私は思わず身を固くする。
『フィーリア、どうした!?』
「……声が、聞こえます。呪いの……声が……」
その瞬間、森の中から数多の黒い影が、一斉に私たちに向かって飛びかかってきた。
それは、翼を持つ魔物だった。
鴉のような姿をしているが、その目は赤く爛々と輝き、身体からは黒い瘴気を放っている。
『呪いの魔物か! フィーリア、落ちるなよ!』
ゼノヴァルド様は、鋭い咆哮と共に、口から絶対零度の吹雪を吐き出した。
吹雪に触れた魔物たちは、次々と氷漬けになり、地上へと墜落していく。
けれど、魔物の数はあまりにも多い。倒しても、倒しても、森の奥から次々と湧いてくる。
「ゼノヴァルド様、きりがありません! 森の奥へ!」
『ああ!』
彼は、魔物の群れを強引に突き破り、森の中心部へと向かって急降下していく。
森の中心には、巨大なクレーターのような、ぽっかりと口を開けた大穴があった。
大規模な地盤沈下が起こったという場所だ。
そして、その穴の底から、濃密な黒い瘴気が、間欠泉のように噴き出している。
あれが、封印の綻び。呪いの発生源だ。
私たちが穴の底へと降り立った、その時。
穴の底に溜まっていた瘴気が、まるで意思を持ったかのように、一つの巨大な形を取り始めた。
それは、禍々しい、巨大な黒い狼の姿だった。
ヴォルデモスの呪いが、この地の魔物を取り込み、作り出した擬似的な怪物。
グルルルルル……!
呪いの狼は、飢えた赤い瞳で、私を――私の持つ『生命の祝福』の力を、真っ直ぐに見据えていた。
そして、大地を揺るがすほどの、凄まじい咆哮を上げた。
私たちの、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。




