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01 色のない令嬢

「フィーリア! まだそんな所で油を売っているのですか! 早くこちらへ来なさい!」


甲高い声が、大理石の廊下に反響する。びくりと肩を震わせた私は、窓の外、雪を被った中庭の景色から慌てて視線を外し、声の主へと振り返った。


回廊の向こうに立つのは、燃えるような真紅のドレスをまとった母、オルタンシア公爵夫人。その隣には、今日の主役である妹のセレスティアが、天使のような微笑みを浮かべて佇んでいる。


「申し訳ありません、お母様。すぐに参ります」


縮こまりながら早足で駆け寄ると、母は氷のように冷たい視線で私を頭のてっぺんからつま先まで一瞥した。


「本当に、あなたは見ているだけで気が滅入りますね。その地味なドレスはなんですの? まるで喪服じゃありませんか」


「……申し訳、ございません」


私が身につけているのは、以前に妹が着ていた濃紺のドレスだ。流行遅れのデザインで、何度か仕立て直したせいで生地もくたびれている。私のくすんだ亜麻色の髪と灰色の瞳には、これくらい沈んだ色が似合いだと、母はいつも言った。


対照的に、妹のセレスティアは、陽光を編み込んだような輝かしい金髪に、空の青を溶かしたかのような瞳を持つ、完璧な美貌の持ち主だ。純白のシルクに金糸の刺繍が施されたドレスは、彼女の神々しいまでの美しさをさらに際立たせている。


オルタンシア公爵家は、代々強力な「治癒の聖女」を輩出してきた名門。妹のセレスティアは、歴代でも最高と謳われるほどの治癒の力を持って生まれた。そして私は――その妹の、出来損ないの姉。


私の治癒の力は、小鳥の擦り傷を治すのがやっとという微々たるもの。一族の誰もが私を「オルタンシア家の恥」「出来損ない」と呼び、いないものとして扱った。


「いいですか、フィーリア。今宵はセレスティアと王太子殿下の婚約披露の宴。あなたは妹の引き立て役なのですから、決してしゃしゃり出ないこと。壁の花に徹し、空気を汚さないようにするのですよ」


「……はい、お母様」


心が、ぎゅうっと鈍い音を立てて軋む。いつものことだ。分かっている。期待など、もう何年も前に捨てたはずなのに、胸の奥がちくりと痛むのはどうしてだろう。


妹のセレスティアが私に微笑みかける。


「フィーリア姉様、お母様も姉様のことを思って言っているのよ」


その言葉には、一滴の悪意も含まれていない。妹はいつだって天使だ。ただ純粋に、私の力の弱さを憐れんでいるだけ。その無垢な同情が、かえって私の心を深く抉ることを、妹は知らない。



大広間は、シャンデリアの眩い光と、着飾った貴族たちの喧騒で満ちていた。


私は母の言いつけ通り、壁際の柱の影に身を潜め、ひたすら気配を消していた。手にしたグラスの中身は、とうの昔にぬるくなっている。

中央では、エリオット王太子が妹のセレスティアの手を取り、満場の拍手喝采を浴びていた。


「我が国の至宝、セレスティア嬢を妃に迎えられることを、心から誇りに思う!」


高らかに宣言する王太子は、妹と同じ輝かしい金髪を持つ、絵に描いたような麗しの君子だ。

かつて、幼い頃、彼に淡い憧れを抱いたことがあった。彼が庭で怪我をした時、私が微かな力で傷を癒やしてあげたのだ。その時、彼は「ありがとう、フィーリア」と、私の名を呼んでくれた。けれど、それも遠い昔の夢物語。妹の圧倒的な才能の前では、私の存在など霞んで消えてしまった。


不意に、王太子がこちらに鋭い視線を向けた。目が合ってしまい、私は慌てて俯く。


まずい、見つかってしまった。


ずかずかと大股でこちらへやってきた王太子は、私の目の前でぴたりと足を止めると、侮蔑を隠そうともしない声で言った。


「フィーリア、まだこんな所にいたのか。お前のような無価値な女が同じ空気を吸っていると思うだけで気分が悪い。さっさと下がれ」


「……っ!」


あまりに直接的な言葉に、息が詰まる。周囲の貴族たちが、面白がるようにこちらへ視線を向けているのが分かった。顔が熱い。今すぐこの場から消えてしまいたい。


「エリオット様、このような無能な人間でも、一応、私の姉ですのよ」


妹のセレスティアが言い放ち、王太子は鼻で笑う。


「なあ、フィーリア。お前のような女に、オルタンシア公爵家の血が流れていること自体が汚点だと思わないか?」


「…………」


何も言い返せない。事実だからだ。私がこの家にいることは、輝かしいオルタンシア家の歴史に付いた、拭えない染みなのだ。


涙が滲みそうになるのを、奥歯を噛みしめて必死に堪える。

私は静かに頭を下げ、誰にも気づかれないようにそっとその場を離れた。もう、ここにはいられない。


自室に戻る気にもなれず、私は人気(ひとけ)のない北側のバルコニーへと向かった。

ひやりとした夜気が、火照った頬に心地よい。降りしきる雪が街の灯りを吸い込んで、世界から音を消していく。


「……きれい」


思わず、吐息が漏れた。


バルコニーの隅に置かれた植木鉢。そこには、寒さで完全に枯れてしまった小さな花の残骸があった。夏の間、可愛らしいピンク色の花を咲かせていた名もなき花。


私はそっと膝をつき、枯れた茎に指先で触れた。


『寒いよ……苦しいよ……』


か細い声が、脳内に直接響く。


これは、私だけの秘密。私には、動物や植物のか細い心の声が聞こえることがあるのだ。治癒の力とは違う、誰にも言ったことのない、私の不思議な力。


「ごめんね。寒かったでしょう」


私は目を閉じ、全神経を指先に集中させる。私の体内にある、なけなしの温かな力を、そっと注ぎ込むイメージで。

それは治癒とは少し違う、もっと穏やかで、優しい感覚。生命そのものに語りかけるような。


すると、どうだろう。

カサカサに乾いていた茎の根元が、ほんのわずかに緑色を取り戻したように見えた。

気のせいかもしれない。けれど、私の心は少しだけ温かくなった。


「こんな所にいたのか」


背後からの声に、私の心臓は凍りついた。


振り返ると、そこに立っていたのは、父であるアルフォンスだった。壮年の威厳に満ちた父は、いつも私に興味など示さない。その父が、なぜ。


「……お父様」


「話がある。ついてきなさい」


父はそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。有無を言わさぬその態度に、私はなすすべもなく後を追うしかなかった。



通されたのは、父の書斎だった。


暖炉の火がぱちぱちと音を立てている。重厚なマホガニーの机を挟み、父は私を冷然と見下ろしていた。


「単刀直入に言おう。フィーリア、お前をこの家から追放する」


「……え?」


言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


追放? この家から? 私が?


「聞き間違いではございません……よね?」


「ああ。お前はもはや、オルタンシア家の者ではない」


父の言葉は、氷の刃となって私の胸を貫いた。


血の気が引き、指先が震える。


「な、ぜ……ですか? 私は、言いつけ通り、大人しくしておりました。何か、お気に障るようなことを……」


「お前の存在そのものが、気に障るのだ」


父は忌々しげに吐き捨てた。


「お前の妹のセレスティアは王太子妃となる。我が家の栄光は頂点に達するのだ。その輝かしい未来に、お前のような出来損ないの影は不要だ」


ああ、そうか。

私は、影として存在することすら許されないのか。


「どこへ……私は、どこへ行けばいいのですか?」


「王都にお前の居場所はない。馬車を用意してやった。北の辺境地へ向かう馬車だ。二度と我々の前に姿を現すな」


北の辺境地。

そこは、原因不明の「枯渇の呪い」によって草木一本育たない、見捨てられた土地だと聞く。そんな場所へ、この身一つで?


絶望が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。

涙すら、もう出なかった。


「……分かり、ました」


絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。


「今まで、お世話に……なりました」


私は最後の力を振り絞って立ち上がり、深々と頭を下げた。父は、一度も私を見ようとはしなかった。



裏口には、粗末な一台の馬車が用意されていた。御者台に座る無愛想な男は、私を一瞥すると、(あご)で行き先をしゃくった。


「乗れ」


今の私には、この薄いドレスが一枚あるだけ。他に何もない。思い出も、未来も、帰る場所も。

私は、誰にも見送られることなく、生まれ育った屋敷を後にした。


馬車は、吹雪の中をひた走る。


窓の外は、白と黒だけの世界。ガタガタと揺れる車内で、私はただ、膝を抱えて小さくなっていた。

寒さが骨の髄まで染みてくる。けれど、それ以上に心が寒い。

これからどうなるのだろう。

北の辺境地に着いたとして、私に何ができる? きっと、野垂れ死ぬのが関の山だ。

それでいいのかもしれない。

「出来損ない」の私には、それくらいがお似合いの結末だ。


意識が、だんだんと遠のいていく。

ああ、眠い……。このまま眠ってしまえたら、どんなに楽だろう。


その時だった。


ゴオオオオォォォッ!!

天を裂くような、凄まじい咆哮。

同時に、馬車が激しく揺れ、悲鳴のような馬のいななきが響いた。


「な、なんだ!?」


御者の男が叫ぶ。


私も必死に窓の外を見た。

吹雪の向こう、闇よりも深い闇の中から、巨大な影が現れた。

それは、伝説の中にしか存在しないはずの生き物。


――竜。


月明かりに照らされたその巨体は、純白の鱗に覆われ、氷の結晶のようにきらきらと輝いていた。鋭い角、ダイヤモンドダストを吐き出す口、そして、世界を凍てつかせるかのような、冷徹な青い瞳。


「ひぃっ! ひ、氷竜だ……!」


御者の男が絶叫し、恐怖のあまり馬車から転げ落ち、馬と一緒に逃げていく。

残されたのは、私一人。


氷竜は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

その圧倒的な存在感の前に、私は身動き一つできなかった。

死ぬ。

直感的にそう思った。


けれど、不思議と恐怖はなかった。

むしろ、あまりの美しさに、魂を奪われていた。


氷竜は私の乗る馬車の前で動きを止め、その巨大な頭を下げてきた。

ガラス窓一枚を隔てた先に、あの青い瞳がある。

それは、まるで深淵を覗き込むかのようだった。吸い込まれそうなほどに、冷たく、そしてどこか寂しげな色。


私は、無意識のうちに、そっと窓に手を伸ばしていた。

その瞬間。


『……見つけた』


凛とした、それでいてどこか切なさを帯びた声が響き渡った。


え……?


次の瞬間、氷竜は巨大な前脚で、馬車を優しく、しかし抗うことのできない力で持ち上げた。

そして、私を乗せたまま、夜の空へと舞い上がった。


「きゃああっ!」


悲鳴は、吹雪の音に掻き消される。

眼下には、雪に覆われた森がみるみる遠ざかっていく。

私は、一体どこへ連れて行かれるのだろう。

訳も分からないまま、私はただ、意識が闇に飲まれていくのを感じていた。


これが、私の新しい運命の始まり。

色のない人生を送ってきた「出来損ない」の令嬢と、世界から畏怖される孤独な氷竜王との、出会いであった。


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