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この恋は百合の皮をかぶっている  作者: しろうさぎ。
2度目のスタートライン
8/13

明日の約束

体育館に響く電子音と共に、シャトルランが始まった。床を蹴るたび、澪の耳に自分の呼吸と靴音が重なって響く。しかし慣れていない身体、不意に足がもつれ、視界が大きく揺れた。膝に痛みが走るも、すぐに立ち上がり、走り出す。息が荒く、視界がにじむ中、過去自分が背中を押してくれた気がした。膝の怪我を治療するため、ひなたに案内され、澪は保健室へと向かった――。

 保健室のドアを閉めたあと、ひなたが話しかけてきた。「(みお)ちゃん、先生に聞いたんだけど、もう授業は終わるから、そのまま更衣室に行って着替えていいって」

澪は頷きながら、少しだけほっとした気持ちになった。二人で廊下を歩きながら、さっきまでの体育のざわつきが遠ざかっていく。


 更衣室の扉を開けると、静まり返った室内には澪とひなただけがいた。空気がひんやりとしていて、体にまとわりつく汗の感覚が際立つ。

澪はゆっくり汗で肌に貼りついた体操服を脱ぐと、冷たい空気が背中に触れ、思わず肩をすくめた。


「澪ちゃん、これ使う?」

とひなた優しく声をかけ、汗拭きシートを差し出した。


「ありがとう。一枚貰うね」


澪は腕を上げて汗を拭いた。その瞬間、昔の感覚がふとよみがえった。無意識にごしごしと拭く手つきは、男だった頃の自分そのままだった。



しかし、横でひなたが丁寧にそっと汗を押さえるのを見て、はっとした。

澪は自分の動きをゆっくりと変え、ひなたの真似をして、そっと汗を押さえるように拭いた。

汗を拭く感覚も、かつてと同じはずなのに、どこか新鮮で、少し戸惑いを覚えた。


離れたところでひなたが鏡越しに澪を見つめている。彼女の穏やかな笑顔に、澪の胸は少しだけあたたかくなった。


「髪、ほどいたほうが楽じゃない?」

ひなたに言われ、澪は少し照れたように小さく笑い、軽くうなずいた。


「うん、そうだね…ありがとう」

手が少し止まって迷うけれど、すぐに決心してゴムを外し始める。


澪はゆっくりと制服に着替え直す。

シャツの袖を通し、スカートのウエストを合わせるたびに、少しずつ「私」としての実感が胸に広がっていく。ひなたは少し離れた場所で着替えていた。着替え終え、目を向けると彼女は何も言わず、ただにこりと笑った。


 その時授業のチャイムが鳴り響き、廊下から賑やかな声が漏れてきた。


やがて更衣室の扉が開き、詩乃達が入ってきた。


詩乃はすぐに澪に視線を向けて、少し心配そうに言った。

「澪ちゃん、ころんだの大丈夫だった?」


澪は少し顔を赤らめながら、頷いた。

「うん、膝をすりむいただけで、大丈夫だよ」


みさきは着替えながら、澪を見ながら言った。

「澪ちゃんとひな結構走ったよね。どれくらいだった?」


「私は60くらい、澪ちゃんは…」


「私は42だったかな」


「やっぱり澪ちゃんなかなか運動できるね」


その言葉に、澪は少し照れながらも、嬉しそうに微笑んだ。四人のやりとりが、さらに親しみのある空気を作り出していた。



二人が着替え終え、荷物を整理した。


「そろそろ教室に戻ろうか」

ひなたが優しく声をかける。

 

  四人で更衣室を出て、教室へと向かう廊下を歩きながら、自然と話題は次の授業や学校生活のことに移っていった。澪はそんな会話の中で、自分がこの場所に少しずつ馴染んできているのを感じていた。けれど、まだ胸の奥には、過去の自分と新しい自分の間に揺れる小さな不安もあった。その思いを胸に、澪は今日という日をそっと噛み締めながら、教室の扉を開けた。






 チャイムが鳴って、教室は放課後の騒がしさに戻った。帰る支度をしていると、ひなたと詩乃が当たり前のように澪の机のそばに来る。「じゃ、帰ろっか」その声にうなずいて、三人で廊下に出た。

夕方の校舎は、昼間の熱気をまだ少し残している。

窓の外から、少し傾いた陽が差し込み、床に淡い影を落としていた。


 校門を抜けると、風が少し涼しく感じられた。ひなたが前を歩き、詩乃が横で何か楽しそうに話している。澪はその声を聞きながら、歩調(ほちょう)を合わせた。



夕日の中をしばらく歩き、ようやく家の前に着いた。


 家のドアを開けると、居間から母の「おかえり」という声が返ってきた。軽く「ただいま」と返し、そのまま自室へと足を運んだ。


 部屋の扉を閉めると、外の物音がふっと遠ざかった。カバンを降ろして、制服の襟元(えりもと)を緩める。布に残った汗の匂いが、胸の奥にざわりと戻ってくる。走り終え、水筒を渡してくれたひなたの笑顔、そして自分の口から出た名前。あの一言が、まだ耳に残っている。言い終えた瞬間に自分で驚いたあの感覚。恥ずかしさと、どこかふわっとした安堵(あんど)が混ざって、頬が熱くなるのを押さえられなかった。


絆創膏の端からそっと撫でるように外すと、膝の表面がぴりりと鈍い痛みを返し、保健室での消毒の匂いが残っていた。ベッドに腰を下ろし、膝を持ち上げて傷口を覗き込む。赤みは浅く、血はもう(にじ)んでいない。消毒したあとの皮膚は少しつっぱるようで、指先でそっと押すと冷たさが伝わり、どこか懐かしさを感じた。



窓を少し開けると夕方の風が、少しだけ新緑の葉を揺らしていた。歩きながら聞いた詩乃の声、みさきのからかい声がフラッシュバックした。

今日という日の断片が、小さなパズルみたいに組み合わさっていく。転んだこと、立ち上がったこと、はじめて名前を呼んだこと。どれも些細(ささい)なこと、でもどれも確かに自分の一部になっていくような気がした。まだ慣れないこの身体で、少しずつ前に歩いていく実感が胸に生まれていた。




窓の外の光が少し弱くなったのを感じて、澪は立ち上がる。制服をハンガーにかけ、部屋着に着替え廊下にでた


 その時廊下の向こうから、玄関の鍵が回る音がした。続いてドアの開閉と、低めの「ただいま」という声。「おかえりー!」と、居間から姉の(はるか)の声が弾む。

澪も「おかえり」と続いた。母の「手、洗ってきてね」の声に、父が「はいはい」と苦笑混じりに応じる。このやり取りだけで、家の空気が少し温かくなるのを感じた。


 廊下を抜けて食卓へ向かうと、テーブルの上には、母の作った夕食が湯気を立てて並んでいた。遥は既に席について、スマホを片手に何かを見ながら笑っている。


「澪、転んだのか」

父がネクタイを緩めながら左足の傷跡をちらりと見る。


「うん、体育があって……ちょっと、転んじゃって」

そう言いかけると、母がすぐに心配そうな顔で身を乗り出す。


「怪我、大丈夫なの?」


「うん、擦りむいただけ。ひなたが保健室までつれてってくれた」


「ひなたって?もう友達できたんだ」

遥は少しからかうように言い、私は少しだけ顔を赤くして「……そう」とだけ返した。


「いい友達だな」と父は軽く笑った。家族の視線が柔らかく集まって、スープの香りがふわりと広がる。





夕食を済ませ、湯船で一日の疲れを流し終え、家はそれぞれの時間に戻っていた。

母はリビングでドラマを観て、父は小説をめくり、姉はスマホを片手にソファーで寝転がっている。


そんな変わらない夜が、いくつか積み重なった。






 気づけば数日がすぎて金曜日の放課後ーー


教室を四人で出たところで、


「明日さ、リリィに行かない?」と、みさきが笑顔で切り出す。

「いいね、ひなたも行くでしょ?」と詩乃が横から乗ってくる。

「もちろん!」

ひなたが澪の顔を覗き込み、「澪も来るよね?」と軽く笑った。

三人の視線が一斉に集まり、まるで答えが決まっているかのように期待を宿していた。


「えっと…リリィって?」

と澪は首をかしげる。


聞き慣れない響きに、頭の中で文字を思い浮かべてみるが、形も匂いも浮かんでこない。どんな場所なのか、まるで想像がつかなかった。


みさきが目を丸くする。

「え?澪ちゃん知らないの?LILLY(リリィ)モール」


「向こうでは聞かないかな。こっちじゃ有名なの?」


「うん、有名っていうか……だいたいなんでも揃ってる大きなショッピングモール。映画館もあるし、フードコートも広いんだよ」


詩乃も頷きながら笑う。

「駅からも割と近いし、休日はけっこう混むよ」


澪は心の中でその光景を想像しようとするが、まだ輪郭のない空想しか描けなかった。

二人の説明を聞き、心の中で小さな花がひらくような気持ちになった。


「……じゃあ、私も行ってみたいな」

声は小さかったが、ひなたがこちらを振り向いて笑う。


「じゃ、決まりだね!」

その笑顔に背中を押されるように、澪も小さく頷く。

頷いた瞬間、四人の間に、土曜の予定が小さく弾けるように決まった。


三人の笑顔が、夕暮れの光に少し滲んで見えた。

胸の奥に、明日が待ち遠しいという感情が、じわりと広がっていく。

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