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この恋は百合の皮をかぶっている  作者: しろうさぎ。
2度目のスタートライン
7/12

慣れない身体

シャトルランが始まった。

澪にとっては、そしてこの身体になってからは、はじめての体育でもある。

クラスメイトが走る姿を見るのも、これがはじめて。

そのなかでも、ひなたの走りはどこか目を引いた。


見惚れるような走りだった。派手ではないのに、自然と目が追ってしまう。


やがて、澪の番が近づいてくる。

胸の奥がざわめくような緊張のなかで、ひなたがぽつりと言った。


「始まる前は緊張するけど、始まっちゃえば、ただ走るだけだから。きっと大丈夫」


その言葉に、澪の肩の力がほんの少しだけ抜けた気がした。

「じゃあ次走る人並んでやー」


 体育館がざわつく中、(みお)は足元を見ながらゆっくり立ち上がる。喉が乾いて、ごくんと小さく唾を飲んだ。スタートラインへ向かう生徒の流れに混じって、澪も歩き出す。空気が少し重く感じたのは、気のせいじゃない。


先ほどのブザー音が、まだ耳の奥に残っているようだった。


(大丈夫、ただ走るだけ。ひなたも、そう言ってた)


でも、胸の奥がそわそわと落ち着かない。視線を落として歩いていた澪の前に、不意に見覚えのある背中が現れた。

ベージュの髪、くせのあるシルエット。……一ノ瀬 怜(いちのせれい)だ。

彼は、軽く腕を回しながら体をほぐしながら少しだけ離れたラインに並んだ。澪は一瞬、目を()らしかけて……ふと、その視線がこちらに向いた気がした。


(……気のせい。きっと)


ラインに立つ。

足をそろえ、膝を軽く曲げる。

周囲のざわめきが、すっと遠のいていく。


「よーし始めるぞー」

先生の声。空気がピンと張りつめた。



(ただ走るだけ。いつも通り走るだけ) 



「5秒前……3、2、1、スタート」


 電子音の合図と同時に、澪は床を蹴った。

足が、前に出る。思っていたよりもスムーズに、リズムよく体が進む。


(――この感触、いけるかも) 


足は思ったよりも軽い。着地の感覚も、自分のものだ。 体の使い方は覚えている。フォームも、息の使い方も。この身体になってから初めての本格的な運動だったが、感触は悪くない。



しかし



10回、15回と往復を重ねるうちに、


 ――何かが、違う。


 胸の奥がじわじわと熱を持ち始めた。息が早くなり、脚が重くなっていく。


 ……え? 


(――こんなに早く、、しんどくなるなんて)


前の身体なら、50回なんて余裕だったと思う。けれど今は、20回目前で足がもつれそうになる。汗が顔に流れ落ち、息が喉に引っかかる。

周りの足音が遠くなる。視界の端で、ひなたがこちらを振り返った。


――やばい、と思う。でも、止まりたくない。


(体力が……落ちてる。いや、それだけじゃない、筋力も――)


 理解が、追いつく。今の身体はもう、あの頃の「男の身体」じゃない。細くて、軽くて、代わりに長く走れない身体。女の子としての、現実が、ここにある。


 

 30回目を越えたあたりで、呼吸が明らかに浅くなった。


苦しい。


脚が重たい。


だけど――まだ、いける。

そう思っていたのに、次の折り返しを目前に、バランスを崩して転んだ。


「っ……!」



両手を突いて地面に倒れ込んだ澪に、まわりの視線が集まる。けれどそれがどうとか、今はどうでもよかった。




悔しかった


 


起き上がる。手のひらがじんと痛む。走れるかどうかより、走らなきゃという衝動のほうが強かった。

息を吐くたびに喉が焼ける。でも、脚を動かす。腕を振る。


――止まりたくない。


――負けたくない。


かつての自分なら、もっと走れた。その事実が、何より悔しかった。


 走り終えたときには、息もできないほど消耗していた。「52」。クラスの女子のなかでは上位だった。


 

 倒れ込むように座り込んだ澪の前に、涼しげな影が差し込んだ。


「澪ちゃんおつかれさま。はい、これ」


差し出された水筒に目を向けると、そこにはひなたの優しい顔。


「……ひなた、ありが――」

言いながら、自分の口から出た名前に澪は一瞬、息を飲んだ。ひなたもまた、わずかに目を丸くして、それから、ふっと笑った。


「どういたしまして」

なんでもない風に、でもどこか、うれしそうに。


澪が水をひと口飲んだあと、ひなたの視線がぽつりと膝に落ちる。ジャージの膝の部分が少しだけ擦れて赤みを帯びていた。跡は浅いが、走って転んだときの証がそこにある。


「……最後、転んでたよね。大丈夫?」

ひなたが優しく尋ねると、澪は咄嗟に笑って首を振った。


「うん……ほんと、ちょっとこけただけ。気にしないで」だけどひなたはすぐに首を振って、手を差し出した。


「無理しないで。保健室、行こ。絆創膏くらいならすぐだよ」


澪は一瞬迷いながらも、小さく頷いた。

「……うん、お願い」


 体育館の出口へと、澪はひなたに支えられるようにして歩き出した。膝をかばうぎこちない歩き方を、澪はなるべく素っ気なく見せようとした。 



 ──そのとき。


 

 怜はまだ走っていた。70回近くを走り切った身体は熱を帯び、呼吸は荒い。だが、走るリズムは崩れていなかった。そんな最中、ふと目線の端に動くものを捉える。体育館の出口から、ひなたに支えられながら澪はぎこちなく歩いていった。


その姿を、怜は走る脚を止めることなく、ただ見ていた。


(転んで、でもーー立ち上がって、走り切ったんだな)



努力しないやつなんていくらでもいる。たかが授業だ。だけど――あいつは、なんか違った。



怜は感じた。

無理して、ぎりぎりで、なお前を向く。


――なんだよ、あいつ。


視線を離せなかった自分に、少し戸惑いを覚えながらも、胸の奥がひりりとざわめいた。




 体育館を出て廊下を歩き、澪はひなたに支えられながら保健室のドアをくぐった。


 室内は静かで、柔らかな光が窓から差し込んでいる。壁には色とりどりのポスターが貼られ、ベッドや椅子が整然(せいぜん)と並んでいた。小さな机の上には薬品や包帯が無造作に置かれている。


「いらっしゃい。どうしたの?」

中から穏やかな声が聞こえ、澪たちの方を見ると、優しげな笑みを浮かべた女性が立っていた。


保健室の先生だ。四十代半ばくらいだろうか。落ち着いた物腰で、生徒たちからの信頼も厚い。


「シャトルランの途中で転んでしまって、膝を少し擦りむいてしまって……」

ひなたが説明すると、山本先生はにこりと頷き、澪に優しく話しかける。


「そうだったのね。痛いところを見せてごらん」


澪は少し恥ずかしそうに膝を差し出した。先生は丁寧に傷口を確認し、消毒液を染み込ませた綿で優しく拭き始める。


「これくらいならすぐ治るわよ。今日は無理せず、早めに休むのがいいわね」


先生の穏やかな声に、澪は少しだけ安心したように息を吐いた。


「ありがとう、先生」


ひなたも微笑んで、澪の手を軽く握る。

保健室の温かい雰囲気に包まれながら、澪は心のどこかで自分の弱さを認めていくのを感じていた。

最後まで読んでいただきありがとうございました。感想などいただけると、とても励みになります!


ようやく私情が落ち着いてきたので投稿を再開します!これまでを読んでいただいて、待ってくれていた方お待たせしました!週一くらいのペースで上げると思います!

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