揺れる髪、整うリズム
体育館で、初めて名前を呼ばれた。
一ノ瀬 怜――名前も知らないはずの人が、当然のように。
「昨日転校してきたんでしょ? 噂どおり、かわいいじゃん」
あの軽い笑顔が、その視線が今もどこかに残っている気がしてならない。
体育館の空気が、少しずつ熱を帯びていく。
先生の号令に従って、準備運動が終わると、クラスの生徒たちはぞろぞろと列を作った。
「はーい、今日は、言てた通りシャトルランやるよ~」
「じゃあ、二人一組でペア組んで。仲ええ子でも、隣の子でもいいよ」
「で、どっちが先に走るかも決めといてね。走らん方は、ちゃんと相方の回数、数えてあげる。いい?」
「あとで男子と合流するから、それまでに決めといてな〜」
先生の軽快な口調に、生徒たちがわっとざわめいた。すぐにあちこちで「一緒に組もー!」「誰か余ってる?」なんて声が飛び交い始める。
そんな中、澪は一歩だけ遅れて立ち上がった。
ふと横を見ると、ひなたが自然な流れで澪の隣に立っていた。
「澪ちゃん、一緒にやろっか。……私、先に走るよ」
にこっと笑って手を差し伸べるその表情に、澪は小さくうなずいた。
「うん……ありがとう。よろしくね」
教室では少しずつ距離が縮まっていたけれど、こうして改めて向かい合うと、まだ胸がくすぐったい。
(ひなたとで、よかった……)
澪は少し緊張したまま、その場に並んだ。
先生の合図で、女子たちがぞろぞろと体育館の中央に向かうと、すでに男子たちがラインのあたりに集まっていた。短髪の子や身長の高い子、喋りながらリラックスした様子の男子たちの中に入っていくのは、それだけで少し息が詰まりそうになる。
「緊張してる?」
隣で歩くひなたが、そっと澪の耳元でささやく。
「……うん。前の学校は別々だったから、あんまり慣れてない、っていうか」
「大丈夫。うちの学校、こういうの多いから慣れるよ。あんまり見られてないから、気にしすぎないでいいよ」
その言葉に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「じゃあ先に走る人、ラインについて~!」
先生の声が体育館に響き渡る。
ひなたがくるりと澪の方を向いて
「じゃ、行ってくるね。ちゃんと数えててよ〜」
そう言って、ひなたは軽くウインクのような笑みを浮かべて、スタートラインに向かっていった。
「……うん」
澪はうなずいて、ひなたの背中を目で追った。
ペアであること。彼女のために回数を数えること。そして、たくさんの目がある場所で、自分ももうすぐ走らなければならないこと――
胸の奥が少しずつ、きゅっと締めつけられていくのを感じながら、澪はゆっくりと床に座った。
ほどなくしてスタートの音が鳴ると、ひなたはすっと駆け出した。無駄のないフォーム、リズムよく床を蹴る軽やかな音。
(……綺麗)
それが最初の印象だった。ひなたの髪がふわっと跳ねて、ターンのたびにしなやかに揺れる。
一往復、また一往復。呼吸も崩さず、疲れを感じさせない走りに、周囲の女子たちが「さすがだね」と声を漏らす。
男子たちの方からも、ちらほらと視線が向けられているのがわかった。
(……なんか、わかるかも)
見惚れるような走りだった。派手ではないのに、自然と目が追ってしまう。
でも、それは「すごい」っていうだけじゃなかった。澪にとってそれは、安心感のある動きだった。
焦らず、崩れず、でもしっかり自分のペースで進んでいく。そこに、ひなたの人柄がそのまま出ている気がした。
(私も、あんなふうに……走れるかな)
そんなふうに思っていたとき、ひなたがふと澪の方を見た。口元がすこしだけほころんでいた。まるで「ちゃんと見てる?」と問いかけるように。
澪は、小さくうなずき返した。
60回目のブザーが鳴ったあたりで、ひなたの足取りがふっと緩んだ。
数歩息を整え、ラインを越えて澪のもとへ戻ってくる。頬にはうっすら赤み、額には細かい汗。けれど表情は晴れやかだった。
「……60ちょっと。まぁまあ、かな?」
「すごい……」
思わず声が漏れる。
「え、そう? 平均くらいだよ。澪の方が持久力ありそうだけど」
「ど、どうかなぁ……」
目を逸らすように澪は視線を落とした。
「じゃあ、気楽にいこ?」
そう言って笑いながら、ひなたは水を飲み、澪の隣に腰を下ろす。
「……変な汗かいてきた」
澪がぽつりとこぼすと、ひなたがくすっと笑う。
「始まる前は緊張するけど、始まっちゃえば、ただ走るだけだから。きっと大丈夫」
その言葉に、澪の肩の力がほんの少しだけ抜けた気がした。
「男子もバタバタしてたし、みんな案外同じなんだよ。誰かの視線って、自分で勝手に気にしすぎてるだけかもよ?」
「……うん、そうかも」
そう答えたものの、澪の脳裏にはなぜか、一瞬だけ誰かの姿がよぎった。ふとした視線――気のせいだったかもしれない。でも。
「はーい交代してー!」
先生の声に、澪の背筋がびくんと伸びる。
「……じゃ、そろそろ出番だね」
「……うん」
澪は小さく頷く
「がんばって。ちゃんと、見てるから」
優しい言葉だった。けれど、それが澪の弱さにまっすぐ届いてしまったような気がして、心の奥が少しだけ疼いた。
「……ありがと」
声が少しだけ掠れて、目を逸らすように澪は視線を落とした。ひなたの視線が、澪の胸の奥を見抜いているような気がしたから。
澪は小さく息を吸い、立ち上がった。
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私情により話の続きを書くのが難しい状況です、辞めるわけではないないです!早く戻れるように頑張ります!