ざわついた胸の中
朝は、ひなたと詩乃と一緒に登校した。
ふたりが隣にいてくれるだけで、少しだけ気持ちが楽になる。
けれど、更衣室に入る瞬間だけは、どうしても緊張してしまう。
制服を脱いで、体操服に着替える――それだけのことが、まだ怖い。
それでも今日は、少しだけ前より自然に歩けている気がした。
体育服姿の澪は、ひなた・みさき・詩乃の3人と一緒に体育館へ向かう渡り廊下を歩く。
その足取りは少しずつ軽くなってきていたように感じる。
そんな中、ふと詩乃が澪の方を見て言った。
「そういえば澪ちゃん、前の学校って体育は男女共同だった?」
「えっと……体育祭の練習とかは合同だったかな……」
少し考えて、澪は答える。
「じゃあ、基本は別れてた感じ?」
みさきがすかさずたずねる。
「そうかな」
以前よりも自然に、3人と話せている自分に気づく。
少しだけ、会話に混ざるのが楽しいとさえ思えた。
するとひなたが横から
「うちの学校は、体力測定とか水泳とか、けっこう男女合同の授業あるよね」
「え?」
澪が驚いて目を見開く。
「この学校って……水泳があるの?」
「うん、夏の体育はプール使うよ。室内プールでこの体育館の裏にあるよ」
「……そ、そっか……」
思わず息が詰まる。心の中で何かが引っかかったまま、歩き出そうとしたそのとき――
「今日の体育も、男子と合同だよ。」
と、詩乃がぽつりと続けた。
「えっ……今日……?」
澪の声がわずかに上ずる。
(……そっか。シャトルランって体力測定の種目だっけ。前の学校じゃ無かったから、すっかり忘れてた……)
「男子いるとちょっと走りづらいんだよね〜。見てくるし」
みさきが苦笑する
冷たい汗が背中を伝った気がした。
立て続けに告げられた事実に、頭が処理を追いつかせられない。
(……やだな)
体が少しこわばる。視線が怖い。走る姿を見られるのが怖い。
体育館に入ると、もうすでに男子たちも集まっていた。クラスごとにまとまっているようで、でも、友人同士ではしゃぎ合う声もまばらに響く。
少し離れた場所から、声が飛んできた。
C組の女子たちの数人が、こちらに手を振っている。
「おーい詩乃とみさきー、ちょっときてー」
「あ、ちょっと行ってくるね。」
「なんだろね」
詩乃とみさきは小走りに、呼んできた子たちの方へ向かっていった。
自然とその場に残されたのは、澪とひなたのふたりだけ。
途端に、少しだけ空気がやわらぐ。
すると、ざわつく体育館前の一角で、澪の前に背の高い男子がふらりと現れた。長身で目立つ存在。笑顔は軽く、仕草もどこか余裕があるように見える。
その後ろには、男子たちが数人。彼らがついてきたわけじゃない。ただ、自然に周りが寄ってくる。そんな空気をまとっていた。
「ねえ、もしかして転校生ちゃん?」
その声と一緒に、ふわりと風に揺れたのは、ベージュがかった明るい髪。
ゆるく波打つクセ毛を無造作にかき上げながら、彼はにやっと笑っていた。
唐突に名前を呼ばれるような感覚で、澪はびくりと肩をすくめた。
「……あ、ごめんごめん。C組に転校してきた子でしょ?」
「……あ、はい」
返す声はかすかに震えていたが、彼は気づいていないふうだった。
「やっぱそうか~。噂になってたんだよ。『C組にめちゃくちゃ可愛い子来た』って」
軽く笑いながら、澪の顔を覗き込むようにする。
「正直、ハードル上げすぎじゃね?って思ってたけど……全然だったわ」
「え……」
「マジか…なんでうちのクラスじゃないの、ずるくない?」
少し顔を赤くしながらも、澪は視線をそらせない。
「おい、怜、あんまりビビらせるなって」
後ろの男子が笑いながらつつく。
そのときーー
すぐ近くにいたひなたが、スッと澪の前に立った。
「やめときなよ、怜。またフラれんの嫌でしょ?」
淡々と、けれど一瞬だけ空気がひき締まった。
男子が軽く肩をすくめて笑う。
「……俺、まだ根に持たれてんの?」
「そう思いたいなら、どうぞ。」
ひなたの声は柔らかいけど、どこか「線を引いている」感じがした。
「……そっか。ま、俺は転校生ちゃんと喋れたから満足」
怜は最後に振り返り、ふわりと笑い、軽く手を振って、男子はD組の仲間たちと一緒に去っていった。
「じゃあね、澪ちゃん。無理しすぎないように」
……名前を呼ばれて、澪のまつ毛がかすかに揺れる。
(……なんで、名前……?)
一瞬だけ不思議に思って、それから自分の胸元に視線を落とす。
(……あ。名札……)
体操服の左胸には、はっきりと「黒瀬 澪」の刺繍。
なんだか、それだけで知られたような気がして、妙に気恥ずかしかった。
怜の背中が人混みに紛れて見えなくなった頃。
澪はしばらくその方向をぼんやりと見つめていたが、ふと隣にいるひなたに目を向けた
「……あの人って」
問いかけの言葉は、自然と口からこぼれていた。
言いかけたまま続きを迷う澪に、ひなたが先に口を開く
「一ノ瀬 怜。D組」
名前を口にするひなたの声は、どこか淡々としていた。
「……モテるよ。ああいうのが好きな子、結構多いから」
「そう、なんだ……」
「でも、あんまり真に受けないほうがいいかもね。
怜って、人に優しいけど――それ、どこまでが本気なのか分かりにくいから」
それだけ言うと、ひなたは少し前を歩き出す。
まるで、これ以上は話したくないとでも言うように。
澪はひなたの背中を見つめながら、胸の奥に小さなひっかかりを覚えていた。
(……ひなた、なんだか急に……)
さっきまで明るく笑ってたのに、怜の話になった途端、声のトーンが変わった。
冷たいわけじゃない。でも、少しだけ距離を置くような、そんな言い方だった。
(……もしかして、なにかあったのかな)
知りたいような、でも踏み込んじゃいけないような気もしてーー
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