水槽越しに見る笑顔
クリスマスの日、澪は蒼波水族館の前でひなたを待っていた。
約束より早く着いた澪は、家を出る前のことを思い出す。
白い冬空の下、行き交う人々の姿に胸の鼓動は少しも落ち着かない。
やがて広場の向こうから、ひなたが明るい声とともに駆け寄ってきた。
手袋を忘れたひなたの冷たい手を、澪は自分の手でそっと包み込む。
指を絡め合ったまま、二人は水族館の入口へ歩き出した。
自動ドアが静かに開くと、外の寒い空気がふっと途切れた。
代わりに広がったのは、やわらかな青い光だった。
館内は少しだけ薄暗く、天井から落ちる照明が水の底みたいに揺れている。壁には魚のイラストがいくつも描かれていて、カラフルな群れが壁を泳いでいる。
「わ、なんか懐かしい」
ひなたが嬉しそうに声を上げる。
澪は手袋やマフラーをカバンにしまい、ゆっくり周りを見渡す。
外の冬の色とは違う、青くて静かな空間だった。まるで水の中に入ったみたいだ。
「チケット売り場、あっちだって」
澪が受付カウンターを指差すと、ひなたは「ちょっと並ばないとかな」と背を伸ばした。
受付カウンターの上には水族館のロゴが入った小さな看板があった。
「高校生二枚でお願いします」
澪がそう言うと、スタッフは慣れた手つきでチケットを取り出す。
チケットを吐き出す機械の小さな音。
カウンター越しに差し出された紙のチケットを、ひなたが受け取った。
澪はひなたからチケットを受け取ると、そのチケットには、青いイルカの絵が印刷されている。
「かわいい」
横から覗き込んできたひなたが、少し身を乗り出す。
「あ、澪ちゃんイルカ?良いね」
「ひなたは違うの?」
「わたしはね、かにだよ」
ひなたは自分のチケットを見せびらかした。
「ちょっと、ひなたっぽいかも」
そう言いながら澪は笑った。
「えーそれ褒めてる?」
ひなたは不服そうな顔をした。
「褒めてるよ。なんか、元気そうだし」
「どういう意味それ」
むーっとしながらも、ひなたはもう一度チケットを眺める。
「でもイルカの方がいいなぁ。かっこいいじゃん」
「交換する?」
澪がさらっと言うと、「いや、それはいい」ひなたは即答した。
「これはこれで、わたしっぽいらしいし」
そう言ってチケットを見つめた。その目はなんだか少し嬉しそうだった。
そのとき、入り口横に置かれていたパンフレットの棚が目に入った澪は、一冊手に取って開くと、中には館内の地図と、展示エリアの案内が書かれていた。
「順路はこっちからみたい」
澪が言いかけた瞬間、「じゃ、行こっか」と、ひなたが手を引き一緒に歩き出した。
館内の最初は小さな水槽に可愛らしい小魚が点々と入っていた。
「見てみて澪ちゃん」
ひなたが澪の手を軽く引く。
「かわいい魚だね、名前はーー」
水槽の横に書かれている名前を見ようとすると、隣の水槽から声が聞こえてきた。
「こっちの子も縞々でかわいいよ」
「あ、こっちはシュッとしててカッコいい」
「ちょっと、ひなた」
気づくとひなたは、まるで遠足に来た子どもみたいに、先を歩いていた。
その後ろを、澪が水槽を横目に見ながらついていく。
澪は少し困ったように息をつきながらも、歩調を合わせる。その前には、楽しそうに歩くひなたの背中。
まるで、子どもと、それを見守る親みたいだった。
でも。
澪の口元は、ずっと少しだけ笑っている。
少し進み通路の途中にあった水槽の前で、ひなたが急に立ち止まった。
「澪ちゃん、これ見て」
指差した先には、少し変わった形の水槽があった。
壁から丸く突き出した透明なドーム。そして下をみると、小さな入口が空いている。
子どもが一人、しゃがんで中に入るとーー。
次の瞬間、水槽の中に顔が現れた。まるで水の中から人が生えてきたみたいだ。
「なにこれ、楽しそう!」
ひなたは目をきらきらと輝かせる。
「これ、子ども用じゃない?」
澪がそう言った瞬間、「入れるよ」と、もうしゃがみ込んで中に入って行った。
「ちょっと、ひなた」
少しもぞもぞ動いてからーー。
ぽこっと音を立てるように水槽の中に、ひなたの顔が現れた。
小さな魚たちが、その周りをくるくる泳いでいる。
澪は思わず吹き出した。
「どう?」
水槽の中からひなたが得意げに言う。
丸いガラス越しに顔が歪んで、少し魚みたいに見える。
「……変」
「えー!」
ひなたがむっとする。
その声に驚いたのか、周りの魚が一斉に散った。
「ちょっと魚逃げたじゃん」
「澪ちゃんのせい!」
「えー私のせい?」
澪は笑いながら、少ししゃがんで水槽を覗き込むと、ガラス越しに、ひなたの顔がすぐ近くにあった。
ひなたの顔の周りに魚が泳いでいて、なんだか夢に出てくるような、不思議な光景だった。
でも、悪くない景色だなと感じていた。
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