指先の甘さ
文化祭が始まり、澪はメイド姿で初めての接客に臨むことになった。
最初は視線に緊張しながらも、ひなたの存在に支えられ、接客を頑張る。
次第に忙しさの中で、澪は不安よりも「楽しい」という気持ちが勝っていることに気づく。
そんな中、客として現れた怜とその取り巻きに絡まれ、澪は戸惑ってしまう。
だがひなたが毅然と割って入り、その場は静かに収まった。
午前の接客を終え、澪はひなたと共に、午後からの楽しみを胸に教室を後にした。
着替えるために空き教室に向かうと、そこにはもう誰も残っていなかった。
先に着替えを終えたみんなは、次々と文化祭の中へと戻っていったらしく、今ここにいるのは澪とひなたの二人だけだった。
メイド服を脱いで制服に袖を通すと、張りつめていた気持ちが、少しずつほどけていく。澪は壁際に寄せられていた椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「……疲れた」
「ずっと立ちっぱなしだったしね」
ひなたも着替えを終え、肩を並べて座る。
「でもさ、これからが本番だからね」
「でしょ?」
そんなひなたの楽しみを待つ顔を見ると、どこからとなく元気が出てきた。
「そうだね。で、どこに行く?」
「まずは……」
ひなたが言いかけた、そのとき。小さく、間の抜けた音が教室に響いた。ひなたは一瞬、ぴたりと動きを止める。
「……」
「…………聞こえた?」
澪は思わず視線を逸らしながら、肩を震わせた。
「お腹すいたよね」
澪は笑いを堪えるのに必死だった。
「し、仕方ないじゃん!頑張ったんだし」
ひなたは恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「ほ、ほら甘いのいっぱいあるし…こことか」
ひなたは文化祭マップを指差しながら、少しだけ早口で続ける。
「それから……」
一拍置いて、にこっと笑った。
「フォトスポット、行かない?」
「今年、飾り気合い入ってるらしいよ」
澪は言葉が喉に詰まった。
「しゃ、写真……?」
「だって文化祭だよ?」
当たり前だよねと言わんばかりに言われて、胸の奥が少しざわつく。
「……二人で?」
「当然」
即答だった。
澪は小さく息を吸ってから、頷いた。
「……うん。いいよ」
その返事に、ひなたは満足そうに笑う。
「じゃあ決まりね」
制服に着替え終えた二人は、空き教室を出た。疲れはまだ残っている。それでも、これからの時間を思うと、足取りが軽くなったように感じた。
(……ここからは、楽しむ側だ)
空き教室を出ると、文化祭の楽しい空気が押し寄せてきた。
模擬店が並ぶ通りは人で溢れ、呼び込みの声や笑い声が入り混じっている。澪はその中を、ひなたと並んで歩いていた。
「……人、多いね」
「うん。でも、こう文化祭!って感じがして好きだな」
ひなたと周囲を見回しながら、楽しそうに歩いている。すると甘い匂いが、ふっと鼻先をかすめた。
「あ」
ひなたが足を止め、少し先を指さす。
「あった!」
指の先には『クレープ屋』と書かれた看板が、色とりどりの旗の下に掲げられていて、店前には鉄板の上から立ちのぼる良い香りが漂っていた。
「絶対美味しいよね!澪ちゃん」
「人気そうだね」
「じゃあ早く並ばないとだね」
そう言って、ひなたは迷いなく澪の手を取る。
「え、う…うん」
声を上げる間もなく、引かれるまま人の流れに紛れ、列の最後尾に並んだ。
繋がれた手はあたたかく、人混みの中でひなたの存在だけが、妙にはっきりと感じられた。
「お待たせしました。いちごクレープ二つになります」
紙に包まれたクレープを受け取り、二人で歩き出す。
受け取ったクレープから真っ赤ないちごと白いクリームが顔を出す。甘酸っぱい香りに混じって、焼きたての生地の匂いがふわりと立ちのぼった。
澪は小さく息を吸ってから、そっとかじる。
噛んだ瞬間に広がる、きゅっとした甘酸っぱさ。そのあとを追いかけるように、少し控えめな甘さのクリームが舌に溶ける。そして、それらを包み込むクレープ生地は、ほんのりあたたかくて、やわらかい。噛むたびに、生地そのもののやさしい甘みが広がった。
(……おいしい)
頭の中で、素直な感想が浮かぶ。
もう一口、また一口と澪はクレープにかじりつく。甘酸っぱいいちごと、やさしい甘さのクリーム。出来立ての生地が口の中でほどけていく感覚が心地よくて、澪は無意識のまま、少しだけ頬を緩めていた。
次はどこから食べようか、そんなことを考えながら歩いているとーー。
ふと、視線を感じた。澪は視線のする方へ顔を向けると、そこには隣を歩くひなたが、こちらをじっと見ていた。
「……なに?」
澪は思わずそう尋ねる。
「いや……なんか」
言いかけて、言葉を探すように、ひなたは愛でるように笑った。
「美味しそうに食べるなーって思って」
澪は一瞬きょとんとしてから、自分が今、どんな顔をしていたのかを想像する。
「そ、そう……?」
意識をした瞬間、なんだか恥ずかしいような気がしてやまない。
「……あ」
すると、ひなたが小さく声を漏らす。澪が首を傾げるより早く、ひなたの指がそっと近づいてきた。
「ちょっと動かないで」
指先が、澪の唇の端に軽く触れる。ひなたは、白いクリームを指で掬い取ってから、どこか満足そうに微笑んだ。
「みて、ついてた」
澪の胸が、どくんと跳ねた。そんな距離で見つめられて、しかも、かわいいものを見るみたいな目で。
ひなたはそのまま指についたクリームを、何の躊躇もなく口に運んだ。
澪は、言葉を失ったまま立ち尽くす。
そんな澪とは対照的に、ひなたはくすっと笑う。
「うん。美味しい」
まるでそれが当たり前みたいに言う。
澪の顔が、じわじわと熱を帯びていく中。ひなたは何事もなかったように、クレープを美味しそうに頬張った。
最後まで読んでいただきありがとうございました。感想などいただけると、とても励みになります!




