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この恋は百合の皮をかぶっている  作者: しろうさぎ。
2度目のスタートライン
4/12

緊張と、笑い声と、体操服

掃除の時間、突然男子に話しかけられて戸惑う澪。言葉が出ずに立ちすくむ中、そっと手を差し伸べてくれたのは、クラスメイトのひなただった。

放課後、ひなた達と連絡先を交換することになり、そのとき僕は「過去の名前」を変える決意をした――新しい自分として、もう一度始めたいという小さな一歩を胸に。

 学校から帰ってきて、制服を脱ぎ、部屋着に着替え、そのままベッドに倒れ込んだ。


 疲れていた。緊張も、気疲れも、たぶん全部まとめて。


 気づけばうとうとしていて……






 次に意識が浮かんだときには、姉の声が聞こえた。


「……(みお)ー、寝てるの?」

 ドアの隙間から、長い髪の姉が顔を覗かせた。


 澪がもぞりと身を起こすと、(はるか)は少し笑って、言った。


「ごはんできたよ。寝ぐせついたままだけど、それも可愛いかもねー?」


「……そういうの、やめて」


「はいはい。」

 気楽そうな声。けれどその一言一言が、優しさを包んでいた。


 なんとか身体を起こして、食卓へ向かう。そこからは、ぼんやりしたまま時が過ぎた。



 リビングに降りると、テーブルの上にはふわとろハンバーグと湯気の立つスープ。見た目も香りも、まるでカフェのプレートみたいだった。


「じゃーん、今日は私が作ったんだよ。ふふ、見た目だけじゃなくて味も保証つきです」


 エプロンを外しながら、姉が得意げに言う。


「……お母さんたちは?」


「ああ、今日ちょっと仕事で遅くなるって。『先に食べといて』って電話があってね。だから今日は姉妹水入らずってことで!」


「……そっか」


 食卓につき、箸を手に取る。一口食べると、生姜の香りと柔らかな肉の食感が口に広がった。


「……美味しい」


「でしょ〜。やればできる女って言ってくれてもいいよ?」


 二人でクスッと笑い合ったそのとき、不意に漏れた。


「僕、料理全然ダメだから……」



 一瞬の沈黙。



 姉が箸を止めて、じっとこっちを見た。


「……今、なんて言った?」



「えっ……」

 はっとして、口を押さえる。


「あ、えっと……わ、私……」


 姉は肩をすくめて、軽く笑う。


「油断すると、そうなるよね。まあ、家の中だし、私も気にしないけどさ」

「でも、学校ではなんて言ってるの?『私』?」


「……うん。頑張って『私』って言ってる。けど、ちょっと怖いときもある」


「怖いって?」


「どこかでぽろっと『僕』って言っちゃったらって思うと……」


 姉は少し真剣な顔で澪を見たあと、ふっと口元を緩めた。


「じゃあさ、今ここでちょっと練習してみたら? 『私』って言って、あと……『澪』って名前で自分のこと呼んでみるとか」


「えっ……」


 箸を持った手が、止まる。


「今のうちに慣れといたほうがいいって。外でポロッと前の名前出ちゃうほうが、よっぽど恥ずかしいよ」



「……それは、そうだけど……」



 視線をそらしながら、口の中でつぶやくように言ってみる。


「……私、は……その、澪……です……」


 言ったあと、顔がぽっと熱くなった。自分の名前なのに、どこか他人のものみたいで、でも、少しずつ馴染んできてる気もする。


「……なにそれ、かわいすぎじゃん」

 姉がケタケタと笑う。


「もう、からかわないでよ……」

 そう言いつつも、姉に「澪」って呼ばれることが、ほんの少しだけ、嬉しかった。



——こうして、ふつうに姉妹みたいに話せるのが、うれしい。



 でも、ふつうってなんだろう。自分のなかの「蓮」と「澪」の境界が、少しだけ揺らぐ



 夕食を食べ終わり、お風呂に入って、髪を乾かして、時計を見たら、もう夜の十時。寝る準備をしていたとき、不意にスマホの通知が目に入った。



 ――あ、忘れてた。


 通知に表示された名前を見て、思わず息を呑む。


ひな

《明日、朝一緒に行かない?》17:00

《っていうか! 明日の7:42の電車に乗ってるからね!》17:01

《見つけたら話しかけるから!覚悟しといて!笑》17:01


 一歩引いて、断ることもできたはずだった。

けど──そのメッセージの明るさに、心の中の不安が少しだけ薄れた。

 

 本当は怖い。誰かに、過去を知られることが。

でも、ひなたと話したいと思った気持ちは──それより、少しだけ強かった。


黒瀬(くろせ)

《うん、わかった》22:27


 文字を打っては消して、また打ち直して。《了解》と返しかけて、やめた。《行けるよ》も、ちょっと違う気がした。


 結局、選んだのは《うん、わかった》という一番無難な言葉。これなら、女の子に見えるかな。


 どれも、なんだか「前の自分」みたいで──それが、怖かった。


 スマホを伏せたあとも、しばらく胸の奥がざわついていた。



 布団に潜りながら、画面を閉じたスマホを胸元に抱いた。

 明日からの学校が、少しだけ怖くなくなった気がした。




 翌朝。


 まだ着慣れない制服に袖を通して、玄関を出る。 


 昨日とは違い、駅へと向かう道には、同じ制服を着た生徒たちの姿がぽつぽつとあった。——昨日は早く登校してたから、気づかなかった……。


 駅のホームに着いたときには、すでに多くの高校生でにぎわっていて、私は思わず足を止めた。

 見知った制服、にぎやかな会話、カバンに下げられた部活のキーホルダー。 


 「普通の高校生」の風景が、目の前に広がっていた。

 

 昨日の電車は、まだ車内はがらがらで、景色も心も静かだった。でも今日は、周囲のざわめきがどこか心をざわつかせる。——こんなに人、多かったんだ……。

 

 自分もその中の一人であるはずなのに、ほんの少し、世界の外側にいるような感覚。


 電車がホームに滑り込んできて、扉が開く。 人の波に流されるように、私は足を踏み出した。


 ——うわ、やっぱり多い……。


 昨日の静かな車内とは違って、今朝の電車は制服姿の生徒たちでぎゅうぎゅうだった。

 なるべく目立たないように、端の方に立つ。つり革を握る手に、少しだけ力が入った。


 そんな時だった。


 「トンットンッ」


 僕の肩を、誰かが軽く叩いた。驚いて振り向くと、そこにいたのは——


「おはよ、澪ちゃん。ちゃんと乗ってた~!」


「えっ……あ、おはよう」


 驚きとちょっとした安心が混ざって、うまく笑えていたかどうかわからない。


「その様子、もしかして探してくれてた?」

 ひなたのからかうような目に言い返そうとしたとき、ふと視線の奥にもう一人。


「澪ちゃん、おはよう」詩乃(しの)は静かに微笑(ほほえ)んで、まっすぐ澪の目を見た。


 どこか、見透かすような瞳。けれど嫌な感じではなかった。ただ、そのまなざしが、少しだけ胸に刺さる。


「ひなが『きっとあの子だ』って言っててね。私もすぐわかったよ」


「うんうん、やっぱ髪きれいだから目立つ〜!」 ひなたが指で澪の髪をすっとつまむ真似をして、笑う。


「そ、そんなこと……」

 周りに人が多いからか、いつもよりも顔が熱くなる気がする。でも、こうしてまた「見つけてくれた」ことが、なぜか嬉しかった。




 会話が一段落したころ、ひなたがふと思い出したように声を上げた。


「そういえばさ、今日さ……一限目の体育シャトルランだよね」


「……ああ、ほんと最悪」

 詩乃が小さく眉をひそめて、ため息をつく。


「詩乃、去年の記録って何回だっけ? ……25くらい?」


「やめて、その話題……心が削れる」 ぼそっと答えるその声に、ひなたはくすっと笑って、


「まぁ、私は今日もマイペースで行くけど。50くらい行ければ十分かなって感じ〜」


 それから、ふと澪のほうに視線を向けた。


「ね、澪ちゃんってさ……走るの得意だったりする?」


「え、えっと……」


 急に話を振られて、一瞬言葉が詰まる。


 前の学校での体力テストを思い出す。男子だった頃の話だ——今とは違う、過去の記録。


「……そこそこ、かな。苦手ではないと思う……けど」


 できるだけ自然に、けれど慎重に言葉を選ぶ。


「わ〜、それは期待だね。女子で走れる子、意外と少ないから!」


「ほんと、私とひなたの間ぐらいで走ってくれると助かるかも」 詩乃が少しだけ笑って、肩をすくめた。


「あんまり目立つのも恥ずかしいから……ほどほどに、頑張るよ」


 そう言うと、ひなたと詩乃がほっとしたように笑ってくれた。少しずつ、この空気にも慣れてきた気がした。



 駅を出てからの通学路は、制服姿の生徒たちであふれていた。

 流れに混じって歩きながらも、ひなたと詩乃の隣にいられることが、思っていた以上に心強く感じる。


 校門を抜けた瞬間、ざわざわとした朝の空気に包まれた。 澪にとってはまだ慣れない喧騒。

 

 昇降口で靴を履き替え、教室へ向かう廊下を歩く。



 教室に入ると、ざわざわと話していたクラスメイトたちがちらりと澪に目を向ける。

 澪は肩からかけた鞄の紐を、落ち着かせるようにそっと握りしめ、自分の席に向かった。


 ——すっと視線を逸らされたり、逆にじっと見られたり。少しずつ慣れていくしかない、そう思っていた。


 それから間もなく、チャイムが鳴り響く。担任の高橋先生が入ってきて、朝のホームルームが始まった。


 淡々と進む連絡事項の中に、どこか居場所を確認するような感覚があった。

 クラスの一人として、そこに座っている自分。ほんの少しだけ、それが心地よく感じられる。


 ホームルームが終わると、ひなたが声をかけてきた。


「じゃ、更衣室行こっか。澪ちゃん、更衣室わかんないでしょ?」


「うん……お願い」


「詩乃とみさきも一緒に行こ〜」


「今行く!ちょと待ってー」

 みさきと詩乃が話ながら立ち上がり、四人で教室を出た。


 廊下を歩きながら、ふと前を歩くひなたにみさきが声をかける。


「……で、今日は猫とかに道ふさがれてなかったんだ?」


 何気ないふうを装ったその一言に、ひなたは一瞬で気づいたように振り向いて、ちょっとムッとした顔になる。


「してないし、今日はちゃんと起きたもん」


「へえ〜、澪ちゃんと一緒に来たかったの?」


「うるさいっ」


 そこに、詩乃が少し笑いながら澪に教える。

「ひなたはね、たまーに寝坊するから。月に一、二回くらい?でも今日は澪ちゃんと行くために頑張ったんだって」


「うっ、それは……否定できない……!」


 そう言って肩をすくめるひなたに、みさきが「ほら見ろ〜」と笑い、そんなやりとりを見て、澪が小さく笑った。

 その笑みに気づいたひなたが、ふっと目を細めて言う。


「明日もちゃんと行くからね、一緒に」


 四人の間に軽い笑いが広がった。




 渡り廊下を抜け、更衣室の扉が近づいてくる。その向こうにある空気を、まだ澪は知らない。






「ここが更衣室だよ」

 ひなたが扉を押しながら、何気ない調子で言う。

 

 澪は、その言葉を聞いた瞬間、無意識に息をのんでいた。教室とは違う、女子しかいない空間。ここでは「男だった自分」の感覚が、一層場違いに感じられる。



 中に入ると、すでに何人かの女子が着替えを始めていた。澪は思わず目線を落とし、ひなた達についていく。


(見ちゃだめ……でも、見られるのも、もっと怖い……)


 そんな心の葛藤を抱えながら、ひなたや詩乃、みさきと並んでロッカーに荷物を置く。


 「さ、着替えよっか〜」とみさきが言いながらスカートの裾をひょいと持ち上げると、その下にはすでに体操服のハーフパンツが見えていた。


 「……え、もう履いてるの?」

 思わず声が漏れると、みさきが不思議そうに澪を見る。


 「あれ? 澪ちゃん履いてないの?珍しいね、だいたいみんな家で履いてきちゃうよ」


 「……そ、そうなんだ」 澪は一瞬だけ固まったあと、苦笑いでなんとか答える。



 (知らなかった……そんなの、最初から誰も教えてくれない……)



 着替えの手が少し遅れてしまい、澪は急いで体操服を引き出すと、他の子にできるだけ背中を向けるようにしながら着替え始めた。

 

 鼓動は制服の下で落ち着いてくれそうになかった。

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