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この恋は百合の皮をかぶっている  作者: しろうさぎ。
僕の新たな物語
3/11

未来を選ぶために

クラスでの自己紹介。

「黒瀬澪」として名前を呼ばれることに、まだ少しだけ違和感が残る。

でも、ひなた、詩乃、みさきの声が、少しずつそれを溶かしていく。

昼休みには、彼女たちが「私」に心を開いてくれた。

放課後の夕焼けの中で、僕は決めたーー


 昼休みが終わるチャイムが鳴り、再び教室に静けさが戻る。午後の授業が始まったが、頭に入ってくるのは先生の声よりも、自分の心臓の音だった。


 前の席にはひなたが座っている。ひなたの背中越しに黒板を見る形になるのが、まだ少し不思議だった。

 

 授業中、彼女がちょっとだけ振り返って、こちらを気にするように笑ってくれた。

それだけで、少しだけこころが和らいだ気がする。


 ペンを握り、ノートに文字を写していくうちに、ようやく「日常」のリズムに足を踏み入れた気がした。





 最後の授業が終わると、教室には掃除の時間を告げるチャイムが鳴った。


 当番表に目をやると、私は黒板まわりの担当。……ひなたと同じ場所だった。

さっきまで授業中に見えていた背中が、今は隣にいて笑いかけてくれる。


 それだけで、少しだけ心が軽くなる気がした。

黒板消しを手に、チョークの粉を払う。


 乾いた音とともに、白い跡が少しずつ消えていく作業に、集中しようとするけれどーー。



「ねえ、黒瀬(くろせ)さんってさ、どっから来たの?」

 背後から、不意に声がかかった。


 振り返ると、男子生徒が二人。軽い笑みを浮かべながら、こちらを覗き込んでいる。

もう一人も隣に立っていて、どこか無遠慮(ぶえんりょ)な視線を向けてくる。



「あ、えっと……」



 視線の圧が思ったより強い。

制服のネクタイの結び目を、ぎゅっと握りしめる。



 昔なら、こんな場面で戸惑うことなんてなかった。

同じ目線で笑って、冗談を返して、そんなふうに、男子と普通に話していた。



 でも今は違う。姿も、声も、そして相手の見る目も。


 まるで、自分が「別の存在」になってしまったみたいに、距離の取り方がわからない。


 無理に笑おうとしたけれど、顔が引きつるのが自分でもわかった。



 すると、すっと間に入るように、ひなたが

「ちょっとー、(みお)ちゃんに詰めすぎ。まだ緊張してんだから」

明るい口調だけど、どこか守るような雰囲気があった。


 男子たちは少し気まずそうに笑って、「あー、ごめんごめん」と言いながら離れていく。




 掃除が終わり、ぞろぞろと生徒たちが教室から出ていく。


 鞄のチャックを閉め、椅子を机に収めた。ようやく一日が終わった。まだ緊張は残っているけれど、少しだけ肩の力が抜けてきた気がする。


 帰る準備を終え、教室を出ようとしたそのとき――

「澪ちゃん!」

ひなたの声に振り返ると、彼女が軽く手を振りながら駆け寄ってきた。


「そういえばさ、澪ちゃんってどの辺に引っ越してきたの?」


「えっと……東萩乃(ひがしはぎの)って名前の駅の近く。そこから少し歩くかな」


「おお、じゃあ途中まで一緒だね!」


「私とひなたは深井(ふかい)駅が最寄りなの。さっき澪ちゃんが言ってた東萩乃駅って、二つ隣だったよね?」

詩乃が丁寧に確認してくれるように言ってくれた。


「そうそう。じゃあ今日から一緒に途中まで帰れるね」

ひなたはぱっと笑顔になって、軽く頷いた。


詩乃も、「ちょうどよかったね」と優しく目を細めた。


 そのとき、廊下のほうから顔をのぞかせたみさきが、ちょっと大げさに手を振った。


「ひなー!あ、詩乃(しの)ちゃんと澪ちゃんも一緒か!ごめん、あたし今日部活あるから先に行くね~!」


「そっか、ダンス部頑張ってね~!」


「みんなまた明日ね!ばいばーい!」

みさきはくるりと向きを変え、軽やかに階段を駆け下りていった。


「じゃあ、私たちも行こっか」


 ひなたが私の横に並ぶ。肩が少し触れる距離。ほんの少し、胸の奥が温かくなった気がした。


 学校の最寄り駅の花霞駅へと続く道を歩きながら、ふとひなたが横を向いて尋ねた。


「ねえねえ、今日どうだった? 転校初日って、緊張するよね」


「……うん。やっぱり、まだちょっと慣れないかな。でも、優しい人が多いなって」

そう答えると、ひなたが嬉しそうに微笑んだ。



「明日、1限から体育だよね」と詩乃がポツリと口を開いた。


「朝から体育って、ちょっと面倒だよね」ひなたが頷く。


「え……体育なんだ、まだ時間割ちゃんと見れてないかも……」

澪が不安そうに呟くと、


「澪ちゃん、『チャトレ』やってる?」

詩乃がスマホを取り出しながら、さらっと言った。


チャトレーー学生のあいだでは定番のメッセージアプリだ。グループを作ったり、通話をしたり、みんなこれを使っている。



「う、うんやってるよ」

詩乃の声にうなずいて、スマホを取り出す。


「じゃあ、チャトレ交換しよっか。時間割もそっちに送るね」


「私も交換したい!」

ひなたもポケットからスマホを取り出す。


僕は、チャトレの画面を開いた瞬間。



指が、止まった。



まだ残っていた――

「黒瀬蓮くろせれん」。



男だった頃の、名前。



息が詰まる。




(……そういえば、変えてなかった)



 わかっていた、いつか変えなければならないと、それなのに向き合うのが怖くて、そのままにしていた。



「……どうしたの?」


小さく、ひなたが問いかける。


「……ううん」


声が震えそうで、短く首を振る。


(今、ここで変えなきゃ。ずっと、変われないままな気がする)


スマホの中に残る「僕」を、自分の手で――書き換えなきゃ。


「蓮」の文字を消して、「澪」と打ち込む。

胸がきゅっと締めつけられる。


打ち終えたとき、画面の向こうでようやく、「今の私」がそこにいる気がした。





「じゃあ、時間割送っとくね」

詩乃が穏やかに微笑んで、スマホを操作する。


 少しして、澪のスマホが震えた。

画面には、撮影された時間割の画像と一緒に──


「授業で分からないことがあったら、いつでも聞いてね」という優しい一言。


 誰かが自分を気にかけてくれること。それが、今の澪にはとても嬉しかった。


「そうだ!クラスのグループと私たちのグループがあるから招待するね」

隣でみさきがぱぱっと指を動かして、スマホを差し出してくる。


 すぐに招待の通知が届き、「黒瀬 澪が追加されました」の表示。


 画面には『2-C』と『いつメン』という、二つのグループチャット。


「これで明日のこととか、なんでも共有できるからね〜!」

ひなたがにこにこと笑いながら、澪のスマホを覗き込む。


「うん……ありがとう」

澪は、思わず声が弾むのを感じながら返事をした。



──僕は、ちゃんと「ここ」にいる。

スマホの小さな画面に並ぶ名前が、それをそっと証明してくれている気がした。

ほんの少しだけ、心がほどけていくような──そんな帰り道だった。





 改札を抜け、ホームに滑り込んできた電車に三人で乗り込む。


 少し混み合った車内の中、私はドア横の手すりに寄りかかりながら、ひなたと詩乃の話を聞いていた。


 電車の中、私は二人の話に相槌を打ちながら、窓の外に流れていく夕方の景色をぼんやりと眺めていた。



 今日一日だけで、いろんなことがあった。緊張と、不安と、少しの嬉しさ――全部が混ざった、ふわふわとした疲れが残っている。


   《東萩乃、東萩乃です。お出口は――》


 突然流れた車内アナウンスに、私はハッとする。



「あっ……」

口をついて出そうになったのは、「僕」。

慌てて飲み込んで、言い直す。



 「……わ、私、ここで降りるから。……また、明日」



 少しだけ間が空いたあと、ひなたがぱっと笑って手を振る。


「そうだったね! また明日ね〜!」


「気をつけて帰ってね、澪ちゃん」

 詩乃も穏やかに声をかけてくれる。


 私は小さくうなずいて、電車の外へと向かった。



 スマホを握る手に、まだ少し汗がにじんでいたけれど――それでも、少しだけ、心は軽くなっていた。


 

 東萩乃駅のホームに降り立つと、夕方の風が制服の裾を揺らした。


 電車の中のあの会話が、まだ胸の奥であたたかく残っている。



 でも――駅を出て、一人になると、不思議なほど静かだった。


 家までの道は、まだよく知らない景色ばかりで。

けれど、どこか懐かしい風の匂いがして、少しだけ歩きやすく感じた。





 玄関を開けて、「ただいま」と小さくつぶやく。

返事はない。まだ家には誰もいないようだった。


 自分の部屋に入って、制服をハンガーに掛ける。


 シャツのボタンを外しながら、クローゼットから部屋着を取り出す。


 それは――

中学のころからずっと着ていた、スウェット。

大きめで動きやすくて、何より、男物だった。


「……やっぱり、こっちの方が落ち着く」


 袖を通した瞬間、肌に触れる生地が少しひんやりして、心の奥に沈めていた「僕」が、ふっと浮かび上がってくる気がした。


見慣れた机。


使い込まれたゲーム機。


部活で勝ち取ったメダル。


どれも、あの頃の「僕」のものだ。


「……変わってないな」



 スマホの通知が光って、チャトレのメッセージがいくつか届いているのが見えた。


 今日出会った人たち――新しい「私」の時間。


 でも、この部屋だけは、まだ「僕」のままだ。



 そしてその中心にいるのは、他でもない自分自身だった。


(……明日は体育があるんだっけ)


 そっと目を伏せて、深く息を吐く。

明日も、ちゃんと「私」で、いられるだろうか――。

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