未来を選ぶために
クラスでの自己紹介。
「黒瀬澪」として名前を呼ばれることに、まだ少しだけ違和感が残る。
でも、ひなた、詩乃、みさきの声が、少しずつそれを溶かしていく。
昼休みには、彼女たちが「私」に心を開いてくれた。
放課後の夕焼けの中で、僕は決めたーー
昼休みが終わるチャイムが鳴り、再び教室に静けさが戻る。午後の授業が始まったが、頭に入ってくるのは先生の声よりも、自分の心臓の音だった。
前の席にはひなたが座っている。ひなたの背中越しに黒板を見る形になるのが、まだ少し不思議だった。
授業中、彼女がちょっとだけ振り返って、こちらを気にするように笑ってくれた。
それだけで、少しだけこころが和らいだ気がする。
ペンを握り、ノートに文字を写していくうちに、ようやく「日常」のリズムに足を踏み入れた気がした。
最後の授業が終わると、教室には掃除の時間を告げるチャイムが鳴った。
当番表に目をやると、私は黒板まわりの担当。……ひなたと同じ場所だった。
さっきまで授業中に見えていた背中が、今は隣にいて笑いかけてくれる。
それだけで、少しだけ心が軽くなる気がした。
黒板消しを手に、チョークの粉を払う。
乾いた音とともに、白い跡が少しずつ消えていく作業に、集中しようとするけれどーー。
「ねえ、黒瀬さんってさ、どっから来たの?」
背後から、不意に声がかかった。
振り返ると、男子生徒が二人。軽い笑みを浮かべながら、こちらを覗き込んでいる。
もう一人も隣に立っていて、どこか無遠慮な視線を向けてくる。
「あ、えっと……」
視線の圧が思ったより強い。
制服のネクタイの結び目を、ぎゅっと握りしめる。
昔なら、こんな場面で戸惑うことなんてなかった。
同じ目線で笑って、冗談を返して、そんなふうに、男子と普通に話していた。
でも今は違う。姿も、声も、そして相手の見る目も。
まるで、自分が「別の存在」になってしまったみたいに、距離の取り方がわからない。
無理に笑おうとしたけれど、顔が引きつるのが自分でもわかった。
すると、すっと間に入るように、ひなたが
「ちょっとー、澪ちゃんに詰めすぎ。まだ緊張してんだから」
明るい口調だけど、どこか守るような雰囲気があった。
男子たちは少し気まずそうに笑って、「あー、ごめんごめん」と言いながら離れていく。
掃除が終わり、ぞろぞろと生徒たちが教室から出ていく。
鞄のチャックを閉め、椅子を机に収めた。ようやく一日が終わった。まだ緊張は残っているけれど、少しだけ肩の力が抜けてきた気がする。
帰る準備を終え、教室を出ようとしたそのとき――
「澪ちゃん!」
ひなたの声に振り返ると、彼女が軽く手を振りながら駆け寄ってきた。
「そういえばさ、澪ちゃんってどの辺に引っ越してきたの?」
「えっと……東萩乃って名前の駅の近く。そこから少し歩くかな」
「おお、じゃあ途中まで一緒だね!」
「私とひなたは深井駅が最寄りなの。さっき澪ちゃんが言ってた東萩乃駅って、二つ隣だったよね?」
詩乃が丁寧に確認してくれるように言ってくれた。
「そうそう。じゃあ今日から一緒に途中まで帰れるね」
ひなたはぱっと笑顔になって、軽く頷いた。
詩乃も、「ちょうどよかったね」と優しく目を細めた。
そのとき、廊下のほうから顔をのぞかせたみさきが、ちょっと大げさに手を振った。
「ひなー!あ、詩乃ちゃんと澪ちゃんも一緒か!ごめん、あたし今日部活あるから先に行くね~!」
「そっか、ダンス部頑張ってね~!」
「みんなまた明日ね!ばいばーい!」
みさきはくるりと向きを変え、軽やかに階段を駆け下りていった。
「じゃあ、私たちも行こっか」
ひなたが私の横に並ぶ。肩が少し触れる距離。ほんの少し、胸の奥が温かくなった気がした。
学校の最寄り駅の花霞駅へと続く道を歩きながら、ふとひなたが横を向いて尋ねた。
「ねえねえ、今日どうだった? 転校初日って、緊張するよね」
「……うん。やっぱり、まだちょっと慣れないかな。でも、優しい人が多いなって」
そう答えると、ひなたが嬉しそうに微笑んだ。
「明日、1限から体育だよね」と詩乃がポツリと口を開いた。
「朝から体育って、ちょっと面倒だよね」ひなたが頷く。
「え……体育なんだ、まだ時間割ちゃんと見れてないかも……」
澪が不安そうに呟くと、
「澪ちゃん、『チャトレ』やってる?」
詩乃がスマホを取り出しながら、さらっと言った。
チャトレーー学生のあいだでは定番のメッセージアプリだ。グループを作ったり、通話をしたり、みんなこれを使っている。
「う、うんやってるよ」
詩乃の声にうなずいて、スマホを取り出す。
「じゃあ、チャトレ交換しよっか。時間割もそっちに送るね」
「私も交換したい!」
ひなたもポケットからスマホを取り出す。
僕は、チャトレの画面を開いた瞬間。
指が、止まった。
まだ残っていた――
「黒瀬蓮くろせれん」。
男だった頃の、名前。
息が詰まる。
(……そういえば、変えてなかった)
わかっていた、いつか変えなければならないと、それなのに向き合うのが怖くて、そのままにしていた。
「……どうしたの?」
小さく、ひなたが問いかける。
「……ううん」
声が震えそうで、短く首を振る。
(今、ここで変えなきゃ。ずっと、変われないままな気がする)
スマホの中に残る「僕」を、自分の手で――書き換えなきゃ。
「蓮」の文字を消して、「澪」と打ち込む。
胸がきゅっと締めつけられる。
打ち終えたとき、画面の向こうでようやく、「今の私」がそこにいる気がした。
「じゃあ、時間割送っとくね」
詩乃が穏やかに微笑んで、スマホを操作する。
少しして、澪のスマホが震えた。
画面には、撮影された時間割の画像と一緒に──
「授業で分からないことがあったら、いつでも聞いてね」という優しい一言。
誰かが自分を気にかけてくれること。それが、今の澪にはとても嬉しかった。
「そうだ!クラスのグループと私たちのグループがあるから招待するね」
隣でみさきがぱぱっと指を動かして、スマホを差し出してくる。
すぐに招待の通知が届き、「黒瀬 澪が追加されました」の表示。
画面には『2-C』と『いつメン』という、二つのグループチャット。
「これで明日のこととか、なんでも共有できるからね〜!」
ひなたがにこにこと笑いながら、澪のスマホを覗き込む。
「うん……ありがとう」
澪は、思わず声が弾むのを感じながら返事をした。
──僕は、ちゃんと「ここ」にいる。
スマホの小さな画面に並ぶ名前が、それをそっと証明してくれている気がした。
ほんの少しだけ、心がほどけていくような──そんな帰り道だった。
改札を抜け、ホームに滑り込んできた電車に三人で乗り込む。
少し混み合った車内の中、私はドア横の手すりに寄りかかりながら、ひなたと詩乃の話を聞いていた。
電車の中、私は二人の話に相槌を打ちながら、窓の外に流れていく夕方の景色をぼんやりと眺めていた。
今日一日だけで、いろんなことがあった。緊張と、不安と、少しの嬉しさ――全部が混ざった、ふわふわとした疲れが残っている。
《東萩乃、東萩乃です。お出口は――》
突然流れた車内アナウンスに、私はハッとする。
「あっ……」
口をついて出そうになったのは、「僕」。
慌てて飲み込んで、言い直す。
「……わ、私、ここで降りるから。……また、明日」
少しだけ間が空いたあと、ひなたがぱっと笑って手を振る。
「そうだったね! また明日ね〜!」
「気をつけて帰ってね、澪ちゃん」
詩乃も穏やかに声をかけてくれる。
私は小さくうなずいて、電車の外へと向かった。
スマホを握る手に、まだ少し汗がにじんでいたけれど――それでも、少しだけ、心は軽くなっていた。
東萩乃駅のホームに降り立つと、夕方の風が制服の裾を揺らした。
電車の中のあの会話が、まだ胸の奥であたたかく残っている。
でも――駅を出て、一人になると、不思議なほど静かだった。
家までの道は、まだよく知らない景色ばかりで。
けれど、どこか懐かしい風の匂いがして、少しだけ歩きやすく感じた。
玄関を開けて、「ただいま」と小さくつぶやく。
返事はない。まだ家には誰もいないようだった。
自分の部屋に入って、制服をハンガーに掛ける。
シャツのボタンを外しながら、クローゼットから部屋着を取り出す。
それは――
中学のころからずっと着ていた、スウェット。
大きめで動きやすくて、何より、男物だった。
「……やっぱり、こっちの方が落ち着く」
袖を通した瞬間、肌に触れる生地が少しひんやりして、心の奥に沈めていた「僕」が、ふっと浮かび上がってくる気がした。
見慣れた机。
使い込まれたゲーム機。
部活で勝ち取ったメダル。
どれも、あの頃の「僕」のものだ。
「……変わってないな」
スマホの通知が光って、チャトレのメッセージがいくつか届いているのが見えた。
今日出会った人たち――新しい「私」の時間。
でも、この部屋だけは、まだ「僕」のままだ。
そしてその中心にいるのは、他でもない自分自身だった。
(……明日は体育があるんだっけ)
そっと目を伏せて、深く息を吐く。
明日も、ちゃんと「私」で、いられるだろうか――。
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