あなたの花瓶にわたしの花を
澪たちは島の大型レジャープールを訪れた。
ひなたと二人でスライダーから滑り降りた一瞬、澪は無意識にひなたの腰を抱き寄せてしまい、その温もりに胸を騒がせた。
ひなたはなんともないように笑い、澪はその笑顔にさらに心の落ち着きを失っていく。
昼下がり、穏やかなプールサイドで四人は休憩しながら、漂ってきた夏の気配に浸っていた。
そこで澪が見つけた夏祭りのチラシ。
花火大会の知らせに胸が高鳴り、四人は夕方から始まる祭りの会場へ向かうことを決めた。
四人は一度ホテルに戻り、身軽になってから夏祭りの会場である島の中心へと向かった。ショッピング街の中を歩いていると、浴衣を並べた店が目に入る。店先の木陰に吊るされた見本の色とりどりの布が、通りの光を受けて揺れた。
「そこのお嬢さんたち、夏祭りに行くんでしょ。浴衣、着て行かない?」
と声を掛けられた。返事をする間もなく、ひなたと、みさきはもう店先の柄に目を奪われていた。
「いいね、着てみようよ」と、ひなたが澪の手を取る。
詩乃は少し迷ってからも「せっかくだしね」と言って頷いた。澪は一瞬、遠慮しようかと考えたが、ひなたに引かれるように店に足を踏み入れていた。
店の中に入ると、色とりどりの浴衣がズラッと並んでいる。どれも目を奪われてしまうくらい美しく、綺麗に見えた。
「いらっしゃい。いいタイミングで来たね。」
店の奥から出てきたのは年配の女性で、柔らかい声の調子がどこか潮の香りに似ていた。四人を一目見るなり、ふふっと目を細める。
「なるほど、皆さん顔立ちが違って面白いわね。……少し待ってて」
そう言って再び奥へ消えると、ほどなくして腕いっぱいに浴衣を抱えて戻ってきた。
「あなたにはこれがいいと思うわ」
最初に手渡されたのは澪だった。深い藍色に小さな向日葵が咲く生地。
「静かで涼やかな色が、あなたの雰囲気を引き立てるわ」
澪はそっと布を指先でなぞった。
しっとりとした感触と、藍色の落ち着いた色合いが不思議と肌に馴染む。
鏡越しに合わせてみると、まるで最初から自分のものだったようにしっくりと収まった。
「……いいかも」
自然とそんな言葉が漏れ、澪は小さく微笑んだ。
次に女将はひなたを見て、楽しげに頷いた。
「あなたには、この明るい色ね」
手渡されたのは白い生地に鮮やかなレモンイエローの浴衣。大きく咲いた向日葵の柄が、まるで太陽みたいに輝いて見える。
「わぁ、かわいい!なんか元気出る感じがする!」
「そうそう、やっぱりその笑顔とよく合うわ」
詩乃には、淡い緑の生地に金魚が泳いでいる浴衣を選んだ。
「しっかりしてそうで、でも優しい目をしてる。こういう柔らかい柄が、きっと一番映えるわ」
「ありがとうございます」
詩乃は少し照れながらも、受け取った浴衣を嬉しそうに眺めている。
最後に残ったみさきには、迷いなく珊瑚色の生地に、蝶の柄が入った浴衣を差し出した。
「賑やかそうだものね。夜の空に映える色がいいと思うわ」
「わ、見抜かれてる……」と笑いながら受け取るみさきに、ひなたが「ぴったりだよ」と肩を叩く。
自分らしさを生かした組み合わせに、どれも四人の性格が写しだされるように選ばれていく。
着替え終わり店を出ると、ちょうど夕暮れが町を染めはじめていた。提灯に灯が入り、屋台の明かりが通りを点々と照らす。遠くから祭囃子が聞こえ、屋台の香りーーソースの甘い香り、焼けた団子の香ばしさ、揚げ物の油の匂いが混ざり合って鼻をくすぐる。四人はお互いの浴衣の裾を擦り合わせるようにして歩き、笑い声が柔らかく重なった。
夜の祭りは、光と音と匂いの洪水だった。
りんご飴の赤が提灯の灯りに透け、手にした棒を指で転がすとカリッと歯触りが響く。
金魚すくいの水槽に映る顔が水面に揺れ、紙すくいが破れた瞬間に二人で顔を見合わせて笑う。
屋台の列を辿るたび、笑い声や子供の歓声が重なる。
澪は、ひなたの隣で振動を感じていた。肩が触れるたび、胸の内側から叩かれている、澪は無意識にひなたの様子を確かめる。
ひなたはいつもよりおとなしく見える、指先でりんご飴の紐を弄りながら、澪にだけ見える速度で笑った。それが澪の心臓を強く打ち付ける。
花火の打ち上げ時刻が近づくにつれて、人波は次第に大きくなり、足取りも少しそわそわしてくる。
詩乃とみさきが焼きそばを買いに走った。ふと気づくと澪とひなたは人波に飲まれ、人混みに溶けていった二人の姿を埋めるように狭まっていく。
「あれ?詩乃ちゃんたちどこ行った?」
澪が小声で不安そうに尋ねると、ひなたは俯いてから顔を上げ、少し照れたように笑った。
「人多いし、開けた場所に行こっか」
その声はいつもより低くて、いつもと違う何かを感じた。
人波のせいか、いつもよりひなたの息づかいが近い気がする。浴衣のすれ合う音、提灯の揺らぎ、屋台のざわめき。澪の耳はその全部を拾いながらも、なぜかひなただけの声だけを探していた。
二人は灯りと人波があまり通らない裏路に入り込んだ。
「……澪」
ひなたは澪の前に立ち、小さく呼ぶ。いつもの明るさの欠片もない、何かを決心したような呼び方だった。
澪はその声を胸で受け止めた。返事をする代わりに首を少し傾げる。
ひなたの指先が、澪の浴衣の裾をつまむ。ほんの短い触れ合いなのに、澪の胸の奥はふっと熱くなる。
喉が、ひなたの呼吸の近さにきゅっと固まる。
ひなたの次の言葉を待つ時間が、水の中で息を止めているみたいにのびていく。
周りの喧騒がまるで聞こえない深海へ、澪はゆっくりとゆっくりと沈んでいく。
ひなたは瞳が広がり、目が泳ぎ、唇は震える。吐き出される前の音節が、胸の奥で反響して喉を通らない。
「その……」
続くはずの言葉は、ひなたの唇の裏で詰まったように一瞬途切れる。澪はその途切れに差し出された意味を掴もうとして、目を凝らす。言葉の形は見えないけれど、ひなたの表情が何かを決めていることだけは、澪はわかった。
ひなたは深呼吸をして、小さな声で言った。
「澪、あのね……」
言葉が続く前に、彼女の胸がほんの少し震えたのが澪にも伝わる。ひなたは瞳をじっと澪の瞳に合わせた。
ーーそのとき
夜空が裂けるような一発が、向日葵島を白く塗り替えた。光がひなたの輪郭を一瞬だけ光の縁どりにし、彼女の顔は大きな花火を背にして笑っていた。
その笑顔はいつもの無邪気さよりも、どこか健気で、眩しかった。ひなたは澪をじっと見つめ、唇がゆっくりと動く。
言葉の音はすぐそばで爆ぜた音や拍手、歓声に飲まれてしまった。しかし澪の視界には、はっきりと――唇が小さな何かを作るのが映った。
しかし唇の動きは短かく。耳には届かない言葉を、澪は目で拾えなかった。ひなたは笑顔のまま、声にならない秘密を胸にしまい込むように肩をすくめ、すぐに別の軽やかな笑いに切り替えてみせた。
周囲の喧騒が落ち着くと、澪は無意識に口を開けて、問い直そうとした。だが返ってきたのは、かすれた風のような声と、ひなたの小さな笑いだった。
「ごめん…やっぱりなんでもない」
本当に「なんでもない」のか、それとも「言えなくなった」のか――その境界が掴めない。けれどひなたの笑顔の奥に、どこか張りつめた影が見えた気がして、澪はそれ以上何も言えなかった。
その時、裏路をでた先の方から、聞き慣れた声が飛んできた。
「ひなー!澪ちゃーん!」
みさきの声だ。ひなたはその声を聞くと。
「みさきだ!澪ちゃん行こ」
そう言って澪の手を握り裏路を出た。
息を弾ませながら駆け寄ってきたのは詩乃とみさきだった。二人とも浴衣の裾を押さえ、汗を光らせながら笑っている。
「どこ行ってたの?もう花火始まっちゃったよ!」
「ごめんごめん。人混みが多くてはぐれちゃった」
「そっか、それよりさ!もっと花火見やすい場所行かない?」みさきはひなたの返答に何かを察したようだった。
みさきの声に促され、四人は並んで広場の開けた場所へと歩き出す。夜空には、次々と花火が咲いては散り、地面にまで光の粉が降りてくるようだった。
「花火綺麗だね」と詩乃は呟き、花火に魅力されている。
ひなたは笑顔のまま、その言葉に頷く。けれどその横顔を見て、澪は、胸の奥に引っかかるような痛みを感じた。――あのとき、ひなたは何を言おうとしたのだろう。澪はその問いを喉の奥にしまい込んだまま、夜空を見上げた。
向日葵のような大輪が咲き、視界いっぱいに光が広がる。ひなたの横顔もその光に照らされて、眩しく、少し切なげに見えた。
花火が終わると、空気が一気に静かになった。四人は顔を見合わせて笑い合い、屋台の明かりを背にホテルへの道を歩き出す。澪は並んで歩くひなたの横顔を横目で見ながら、さっきの笑顔を思い出していた。あの笑みの中に、言葉にならなかった何かが確かにあった――そう思えてならなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。感想などいただけると、とても励みになります!




