潮風は背中を押してくれる
夏休みが始まって、気づけば何もせずに過ごしていた。
ただ時間だけが静かに流れていく、そんな日々。
そんなある日、スマホに届いた一通のメッセージが、私の夏を動かした。
――みんなで海に行かない?
四人はリリィモールに集まり笑いながら準備を進めた。
そして今、明日からの期待を胸に、旅行の支度を始めた。
前日の夜、澪はベッドの上に荷物を広げ、チェックリストを片手にひとつずつ確かめていた。財布、着替え、日焼け止め、充電器……。どれも忘れたくない大事なもの。
ふと、カバンの隅に置いていた水着に視線が止まった。手にすると、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。手に取るだけで、胸の奥がくすぐったくなる。これを着た自分を思い浮かべたとき、ひなたはどんな顔をするのか……
それに、ひなたはどんなのを選んだんだろう。その姿を想像した瞬間、耳まで熱くなり、慌てて頭を振る。なんでそんなことを考えてるんだろう。
「……やっぱり私、ちょっと変かも」
自分に言い聞かせるように呟いたそのとき。
「澪ー、お風呂あいたよー」
不意に扉が開き、姉・遥が顔をのぞかせた。髪は濡れたままで、バスタオルを肩にかけている。
「……あれ、荷造り中?旅行明日だっけ?」視線がベッドの上の水着に止まった瞬間、澪は反射的にそれをカバンに隠した。
「な、なんでもないから!あ、あとノックくらいしてよね!」
「まぁまぁ、隠さなくてもいいじゃん。そういうの選んだんだ。珍しいね」
からかうように微笑む遥
「べ、別に?そんなことないし」
わざと素っ気なく返したけれど、声の端には否定しきれない揺らぎが混じっていた。
遥はその様子を楽しそうに眺めながら、肩をすくめて言った。
「はいはい。お風呂、冷めないうちに入っちゃいなよ」
扉が閉まったあと、澪はひとり残され、水着を握りしめたまま小さく息を吐いた。
澪はお風呂から上がり布団に潜り込んだ。けれど胸が高鳴って、どうしても寝付けない。
(いよいよ明日、旅行が始まるんだ……)
浮かんでくるのは海の景色と、ひなたの水着姿。
――そんな想像に、思わず枕に顔を押しつけた。
時計の針は静かに進んでいくのに、眠気は一向に訪れない。まるで子どもの頃に遠足を待ちわびた夜のように、澪は胸の奥をくすぐられながら、長い夜を過ごすのだった。
澪は少し早めに起き身支度を整えた。母はすでに起きていたが、姉と父はまだ寝ているようだ。旅行らしい大きめのカバンを背負い、深呼吸をしてから玄関を出た。
飛燕駅は、この街で一番大きな駅だ。いくつもの路線が集まり、旅行や遠出をするならまずはここからと誰もが口をそろえる場所。澪の家の最寄りである東萩乃駅からは、電車で三、四十分ほどの駅だ。そんな駅前は朝から活気にあふれ、キャリーバッグを引くや、大きなリュックを背負う人々の姿が目立っていた。
「おー!澪ちゃん、おはよー!」
改札の前で手を振るひなた。元気いっぱいの声に、澪も思わず笑顔になる。
「おはよう、ひなた。なんか、もう旅行っぽいね」
「でしょ?朝からテンション上がりっぱなしだもん!」
ひなたと二人で話していると、切符売り場の方から見知った影が二つ
「あ、澪ちゃん丁度きたね。はいこれ切符」
「予定通りだね、揃ったし中入ろっか」
詩乃とみさきだ。私の分の切符も買ってくれていたみたいだ。
「楽しみになってきたね」
澪の言葉に、ひなたが笑顔でうなずく。
電車の発車を告げるアナウンスが流れる。4人はわくわくした顔で顔を見合わせ、足取り軽く改札をくぐっていった。
改札を抜け、四人は電車に乗り込んだ。夏休みの影響もあるのか、車内はキャリーケースを持つ人や、家族連れが多く見える。窓際のボックス席を見つけて腰を下ろすと、夏の光がガラス越しに差し込み、車体の揺れとともにきらきらと流れていった。
「なんか旅行って感じしてきたー!」
みさきが座るなり声を弾ませ、リュックをぽんと膝に置いた。
「ね、普段こっち側来ないから新鮮な感じ、景色も綺麗だし」ひなたも笑顔で頷き、窓の外を眺める。その横顔につられるように、澪の胸も高鳴った。胸の奥で、旅の始まりを告げるような期待がふくらんでいく。
フェリー乗り場に着くと、夏休みらしい賑わいが広がっていた。潮の匂いとざわめきに包まれ、色とりどりのキャリーバッグやカバンを抱えた人たちが行き交っている。
「チケットはね、混むと思って事前に取っておいたの」
詩乃がバッグから四枚のチケットを取り出す。白地に青の波模様が印刷されていて、旅の始まりを予感させる。
「さすが詩乃ちゃん!」
みさきがぱちぱちと拍手し、ひなたも「ほんと助かる〜」と笑顔を向けた。
チケットを手にした瞬間、澪の胸の奥がさらに高鳴る。これから海を越えて、向日葵島に行くのだ。
フェリーに乗り込むと、一直線に甲板を目指した。
すると、
「見て!あの島じゃない?」
とひなたが指差した。澪も目を凝らすと、遠い水平線の向こうに、陽光を受けてぼんやりと浮かぶ影が見えた。
――あれが、向日葵島。
フェリーが岸を離れると、潮風が頬をなでていった。波の揺れに合わせて船体が小さくきしむ。
「ねぇねぇ!着いたらまず海に行こうよ!」
ひなたが甲板の手すりに身を乗り出しながら、目を輝かせる。
「わたしも賛成!」
みさきも勢いよく同調して、両手を広げるように風を受けていた。
「荷物持ったまま泳ぐ気?まずはホテルに荷物置いてから」
詩乃が呆れたように言う。その声音は厳しいけれど、口元はほんのり笑っていた。
「えぇ〜」「いいじゃん」ひなたとみさきが声を揃えて文句を言うと、詩乃が深くため息をついた。
そんな三人を眺めて、澪は小さく笑った。普段と変わらない何気ないやりとりが、どこか特別な感じがして
――潮風の中で胸が温かくなる。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
詩乃が立ち上がり、みさきも「わたしも」と続いて席を外す。残されたのは、澪とひなたの二人だけ。
急に静かになった甲板で、潮風がさらりと髪を揺らす。澪はどうしていいか分からず、視線を海へ逃がした。
「……なんか、デートみたいだね」
ひなたがわざとらしく小声で囁く。
「っ、なに言って……」
慌てて顔を向けると、ひなたは唇を噛みながら笑いを堪えている。
「澪ちゃんって、すぐ顔に出るよね。かわいい」
「べ、別にそんなことない……」
強がって返す声が少し上ずってしまい、澪はさらに恥ずかしくなる。
ひなたはそんな澪の反応を楽しむように、ニンマリ笑いながら手すりに肘を置いて見つめていた。
「……ほんと、からかわないで」
「ふふ、でも嬉しいんだよ。こうして一緒に旅行できて」
心臓が波の音よりも大きく聞こえる気がして、澪は視線を落とした。ひなたの笑顔をまともに見られないまま、頬がじんわり熱くなる。
その時、背後から足音が近づいてきた。
「おまたせー!」
と元気なみさきの声が響いた。
「混んでなかった?」
とひなたの声が続け、何事もなかったように話をする。澪も慌てて姿勢を直した。けれど、ほんの少し残る頬の熱は、風に冷まされるまで消えなかった。
「見て!だいぶ近づいてきたよ!」
甲板に出たみさきが、遠くを指さす。
澪も目を凝らすと、白く霞んでいた陸地が、だんだんと輪郭をはっきりさせてきていた。
ーー向日葵島。夏の陽を反射する青い海に浮かぶその姿は、想像していた以上に鮮やかで、胸の奥に高鳴りを運んでくる。
「わーっ、ほんとだ!なんか南国って感じする!」
ひなたがはしゃいで身を乗り出す。
「落ちないでよ……」
詩乃が苦笑しながらもどこか楽しそうだ。
澪はそんな三人のやりとりを横目に、ふっと小さく笑った。旅行の実感が胸にじわじわ広がっていく。
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