はじめての居場所
転校初日。
鏡の中の“私”に戸惑いながら、身に纏った事のない制服に袖を通した。
教室の前で足を止めたそのとき、声をかけてきたのは――まっすぐな瞳の女の子。
手を取られて、扉を開ける。
これは、“私”として過ごす、ほんの始まり。
緊張で動けなかった私を、あたたかな誰かがそっと私の手を握った。
そのまま引かれるようにして、私は教室の扉をくぐっていた
「……え?」
「ひなた?なんで一緒に……」
「手つないでた……よね?」
教室の空気が一気にざわついた。
注がれる視線が、いっせいに私たちに向く。
そのすべてが、火照った頬に突き刺さるようだった。
「お、来た来た」
担任――高橋先生がひなたと一緒の私を見て、少し驚いたように、でもすぐに笑顔になった。
「じゃあ黒瀬さん、こっち来て。白石さんは、とりあえず席についてて」
彼女は、私の手をそっと放し、軽く背中を押してくれた。
「じゃあ黒瀬さん、前に来て。黒板に名前、書いてくれる?」
私はうなずき、ゆっくりと前へ歩き出す。
「……はい」
チョークを持つ手が、ほんの少し震えた。
背中に突き刺さるような視線の気配を感じながら、私は黒板に「黒瀬 澪」と書く。
書き終えたあと、高橋先生が一歩引いて、私に目を向けた。
「じゃあ、ひと言どうぞ」
(……どうしよう。声、震えてないかな)
「黒瀬 澪です。……今日から、よろしくお願いします」
拍手がパラパラと起こる。中には笑顔で頷いてくれる子もいた。
「はい、ありがとう。じゃあ、黒瀬さんの席は……白石さんの席の後ろ。あそこ、教室の左端ね」
「みんなも、優しくしてあげてね。転校って緊張するから。困ってたら、ちゃんと助けてあげて。白石さんが前の席だから、何かあったら頼っていいよ」
先生の指差す方を見ると、さっきの女の子――白石ひなたが、軽く手を上げてひらひらと振ってみせた。
(……あ、あそこか)
私は小さくうなずいて、ぎこちなく歩き出す。まだ胸のあたりが少し落ち着かないまま――
どこか遠くのことのように、コツコツ、と靴の音が響く。
教室を横切るあいだ、いくつもの視線が背中に刺さっている気がした。
でも、目指す席の前で白石さんが、こっそりと小さく手を振ってくれた。
その仕草が、教室という空間に一筋の光を射したみたいで。私はそっと、白石さんの背中のすぐ後ろにある新しい居場所に腰を下ろした。
昼休みのチャイムがなってすぐ、白石さんがくるりと振り返った。
「ね、澪ちゃん。一緒にお昼食べよ?」
返事をする間もなく、手を取られて引っ張られる。
白石さんについていくと窓際に机を繋げてお昼を食べる準備をしていた。
白石さんの他に、あと二人の女子生徒。どの子も話しやすそうな明るい雰囲気だ。
「ひな〜やっぱり連れてきたね」
「来ると思って机四つ用意しといたよ」
からかうような声に、白石さんは笑いながらスルーをした。
「えっと……黒瀬 澪です。今日から、よろしくお願いします」
ぎこちなく頭を下げると、「澪ちゃんって呼んでもいい?」「私も呼びたーい」笑いながら飛び交うその声に、思わず小さくうなずく。
僕を「女の子」として、当たり前のように受け入れてくれるその空気に――ほんの少しだけ、心が落ち着いた。
僕は女の子じゃない――そう思ってきたはずなのに。
それでも、そのやさしさに包まれていると、不思議と胸の奥があたたかくなる気がした。
お弁当を開いたところで、さっそく質問が飛んでくる。
「澪ちゃんって、前はどこに住んでたの?」
「えっと……星ヶ丘市ってところ。東京の、少し外れの方かな」
「へぇ〜、東京の方なんだ。なんか雰囲気違うと思った〜」と、ひなたが興味深そうに顔を覗き込んでくる。
「ねえねえ、澪ちゃんってさ、前の学校でなんか部活とかやってた?」
本当は、今までずっとサッカーをやっていた。ポジションは変わることもあったけど、いつもレギュラーだった。
負けず嫌いで、どんな相手にも引かないようにって、泥まみれになって走り回って練習していた。
でも、それは「男の子」としての話だ。
――今の僕がそれを言ったら、きっと変に思われる。
「ちょっとだけ、運動部に……でも、本格的じゃなかったから」
「えー、澪ちゃんって運動できそう!まさか陸上部とか? いや、バスケ?絶対モテてたでしょ~!」
「え、あ、うーん……どうだろ……」
苦笑いでごまかすように笑って、視線を泳がせる。
「部活は……友達に誘われてついて行っただけだから」
僕はそれに曖昧な笑みと返事をしかなかった。
戸惑いながらも、できるだけ自然に返していく。
「そういうのはこれからのお楽しみってことでしょ〜?」
「ね、それより先にこっちが自己紹介しなきゃだよね?」と、ひなたが空気を読んで話題を変えるように助けてくれた。
「じゃ、私から!白石 ひなた、よろしくね。あだ名は……なんでもいいけど、だいたい「ひな」とか「ひなた」って呼ばれてるかな」
「次、私かな」
僕の隣に座っていた黒髪を後ろでまとめ、ひなたとは対照的にしっかりした雰囲気の子が、にこりと笑う。
「私、三浦 詩乃。ひなたとは幼なじみ。……うるさいときもあるけど、悪いやつじゃないから安心して」
「えー私うるさいかなぁ」とひなたがすかさず笑う。
「最後はあたしだね」
肩までの栗色の髪にゆるい巻き髪、ぱっちりした目が印象的で、明るさがにじみ出ていた。
「あたしは橘みさき、ひなと詩乃ちゃんとは高校からの友達。ひなと一緒にうるさいって言われがちだけど、よろしくね澪ちゃん!」
ひなたが頬をふくらませて抗議するけど、その顔はどこか嬉しそうで。
「私は普通でしょ、普通!」
白石さんも、三浦さんも、橘さんも、優しそうで少し安心する。
「……うん、よろしく。」
思ったより小さな声になってしまって、思わず視線を落とす。けれど、二人ともにこっと笑ってくれた。
詩乃がふと首を傾げる。
「そういえば、ひな。今日来るの遅かったね何かあったの?」
「たしかに、なんか教室入ってきたの澪ちゃんと一緒だったし」
みさきがからかうように笑うと、ひなたは「あっ」と思い出したように声をあげた。
「そうだった!あのね、家の近くで猫を見かけてさ。首輪つけてたから、もしかして迷子かなーって追いかけてたら……」
「時間ギリギリになってーそれで、教室前で澪ちゃんが居てそこで会ったんだよね」
「猫に遅刻って、さすがひな……」
詩乃が苦笑し、みさきが「らしいわ〜」と笑う。
「猫……」
つい口をついて出た言葉に、自分でも気づかないうちに頬が緩んでいた。
「あっ、いま笑った! 澪ちゃん、笑ったよね?」
ひなたが嬉しそうに声を上げる。僕は少し戸惑いながら、でも否定せずに、目を伏せた。
心の奥が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。
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