近衛兵さんの想い
ついに始まった水泳の授業。冷たいプールに足を入れた瞬間、澪は夏の匂いを強く感じた。泳ぐのが苦手な彼女は何とか前へと進んでいく。その後。偶然怜と顔を合わせ、ほんの少しだけ言葉を交わす。その様子を、プールサイドからひなたがじっと見つめていた。澪が怜に何か吹き込まれていないか――胸の奥に小さな何か芽生える。
水泳の授業が終わり、更衣室で髪をタオルで拭く澪の隣に、ひなたがそっと近づいてきた。
「……あのさ、さっき怜と話してたの、ほんとになんでもないの?」ひなたの声は柔らかいが、どこかムスッとした響きが混じっている。
澪は一瞬タオルを止めひなたの方を向き、戸惑うように
「え、えっと……ほんとに普通の話だよ?…もしかしてひなた、焼きも」
その答えに、ひなたはちょっと不満そうに口角を上げ、次の瞬間、ひなたはそっと澪のタオルを引っ張った。
「んっ!? な、なに…!」
驚いて体を縮める澪に、ひなたはちょっと意地悪そうに笑う。
「本当は変なこと言われたんじゃないの?」
「ち、違うよ……!」
澪は必死に否定するが、ひなたのいたずらに照れた頬がほんのり赤くなる。ひなたは満足そうに、さりげなく澪の髪や肩に触れながら、軽く小突くように笑った。
「ふふ、やっぱり可愛いなぁ……」
澪は天然に微笑み返しながらひなたにもやり返した。更衣室の湿った空気の中で、二人の距離は自然と縮まっていた。外のざわめきや他のクラスメイトの声など、もはや二人の世界には届かない。
更衣室で着替えを終え、タオルで髪を軽く押さえながら廊下に出る澪。その隣には、ひなたが自然な距離で並ぶ。
肩や腕が触れるか触れないかの距離感で歩く二人の姿に、周囲の視線がちらちらと向いた気がする。澪はあまり気にしてなく、ひなたと同じペースで歩く。しかし、ひなたはそれを横目に、口元がほんのり微笑みを浮かべていた。声には出さない、ほんの少しの優越感。でもその雰囲気は、澪の無邪気な笑顔と相まって、周囲には確かに伝わっているようだった。
そのまま教室に戻り、席に向かう澪。髪はまだ少し湿っていて、肩にかかる髪の毛が揺れるたびに、艶やかに光る。
制服の第一ボタンも、教室に戻る慌ただしさや水泳の後の着替えで少し開いたまま。ネクタイも緩めている。まるで昔のように。本人は何も気にしていないーーありのままの自分を曝け出しているだけだ、周囲の男子たちは、ちらりとその開いたボタンや濡れた髪を目にし、思わず視線を止める。
澪はその視線をまったく気にせず、無邪気にひなたと会話をしている。
ひなたはそんな視線を気付いたのか。
「澪ちゃんって、無防備っていうか、男の子っぽいところあるよね」
澪は思いもしてなかった言葉に、顔を赤くして、目をそらす。ひなたはそのままそっと澪の第一ボタンに手をかけ、軽く直す。
「こういう隙間って、意外と見えちゃうよ?」
澪は驚いて、思わず息を飲む。手が触れられた感覚と、ひなたのさりげない声に、心臓がほんの少し跳ねた。
「ご、ごめん…次からは気をつける…」
澪は顔を赤くしつつも、ひなたの視線を逃そうとせず、ハッとしたまま立ち尽くす。
授業中、プールの興奮と水の冷たさに、澪の体はどこかだるく感じていた。教室に戻ると、机に向かってもまだプールの香りが髪や肌に残り、少し頭がぼんやりする。
陽の光とエアコンの冷たい風が心地よく、授業の内容は子守唄のように聞こえる。そして澪はいつの間にかうとうとし始めた。目を閉じれば、水面に反射する光や、ひなたの笑顔が頭に浮かぶ。
「……澪ちゃん、起きてる?」ひなたの声がぼんやり聞こえる、澪はのっそり顔をあげ、ふわりと目を開けるとひなたの顔が目の前にあった。顔を赤らめながら小さくうなずく。
「澪ちゃん、昼寝してたでしょ」
「い、いや…?」
澪は誤魔化そうとしたがひなたは笑ってからかうように
「ほんとかなぁ?おでこ赤いよ?」
ひなたの指摘により一層、頬がほてった気がした。
授業が終わり、放課後のチャイムが鳴る頃には、澪の心も体もすっかり落ち着いていた。今日一日の出来事を思い出しながら、帰りの支度をしていた。
駅へ向かう途中、詩乃がふと澪の顔を見て笑う。
「そういえば聞きたかったんだけど、澪ちゃんって、あんまり泳ぐの得意じゃない?」
澪は少し顔を赤くして、小さくうなずく。
「うん……子どもの頃少し習ってたんだけど、あんまり上手くならなかった……」
ひなたは微笑みながら、軽く励ますように言った。
「まあ、泳げない子も結構いるから、楽しむのが大事だよ」
詩乃も同意して、にっこりと笑う。
「そうそう、無理に泳ぐ必要ないしね」
「でも、澪ちゃんが苦手っていうの、なんか意外かもね」
澪はドキドキしながらも、ひなたの距離感と笑顔に安心感を覚える。
「そ、そう……かな……」
小さな声で答え、心の奥がじんわり温かくなるのを感じた。三人で歩く帰り道は、笑い声と会話が途切れなかった。
家に帰ると、姉の遥がリビングのソファーで寝転がりスマホを眺めていた。
「あ、おかえり」
「ただいま。髪の結び方、教えてくれてありがとう。おかげで変にならずにできたよ」
遥は起き上がり軽く頷き、安心したように笑う。
「ふふ、そう。うまくできたみたいでよかった。あんた、最近少しずつ女の子らしくなってるね」
澪は遥の言葉がどこか誇らしく、嬉しく感じた。
「えへへ……そうかな」
澪は微笑みながら、自分の部屋へと向かって行った。
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