「私」としての、はじまり
この街で迎える初めての5月。
窓の外は、淡く煙るような陽ざしに包まれていた。
白を基調にした、淡く霞んだグレーのブレザー。
細いラインで縁取られたスカートは、淡いブルーとグレーのチェック柄で、男子のズボンも同じ布地らしい。
リボンとネクタイ、女子はどちらでも選べるらしいけれど、僕は慣れているネクタイを手に取った。
鏡の前に立つと、知らない誰かがそこにいた。
(……これが、花霞学園の制服か)
男として生きてきた十七年が、ある朝、鏡の中で終わっていた。
長くなった黒い髪。
高くなった声。
細くなった手首。
スカートを履いた「僕」。
原因も説明もない。ただ、そうなった。
僕は女になり、着慣れない制服に着替え、知らない街の学校に向かっている。
制服の色に溶け込んだ黒髪が、肩まで流れている。
まるで昔からこうだったみたいに見えて、この姿で、一生を過ごさなきゃいけないーーそう思うだけで、胸の奥がざわついた。
本当の自分をしまい込んで、笑って、歩いて、そんなふうに、生きていくんだと思っていた。
教室の前に立ち先生の合図で入ろうとしたその時、隣から声がした。
「……どうしたの? 入らないの?」
振り返ると、ひとりの少女がそこにいた。
少し寝癖のついた髪と、眩しいほどのまなざし。
その目だけは、不思議なくらいまっすぐで。
僕の「事情」なんて、何も知らないくせに――
……しかしその日、僕の中に、名前も知らない花の種子が蒔かれたことにはまだ気づかない。
「名前は……黒瀬 澪さんであってるかな?」
職員室で担任の先生にそう声をかけられ、僕は小さくうなずいた。
「高橋 直樹です。今日から君の担任になるから、何かあったら気軽に頼ってほしい。よろしくね、黒瀬さん」
若くて、爽やかそうな先生だ。
黒髪を少し無造作に流していて、見た目は生徒に近い。
たぶん、女子から人気があるタイプだと思う。
だけど、今の僕には、そんなことを気にしている余裕はなかった。
自分の姿が、ちゃんと「女の子」に見えているのか。
そんなことばかりが、ずっと気になっていた。
「転校、いろいろ大変だったでしょ。引っ越しの片付けとか、新しい環境とか」
「はい……。まだちょっと慣れなくて」
「最初から馴染める方が珍しいからね。少しずつでいいよ。うちのクラスはにぎやかな子たちが多いから、最初はちょっと驚くかも。でも、みんないい子たちだよ。」
「うちはちょっと校舎が広くてね、教室の場所も最初は分かりにくいかもしれない」
「でも、すぐ慣れると思うよ。今日は僕が案内するから、安心して」
「…ありがとうございます」
「えっと、転校の理由は……親御さんの転勤だったよね」
「あ、はい。急に決まったので……」
「なるほど。じゃあ、色々落ち着くまで時間がかかるかもね。あんまり無理しないで。何かあったら、遠慮なく言って」
「……はい」
「じゃあそろそろ行こうか。教室まで案内するよ。生徒たちには、先に僕が説明するから、その間はちょっとだけ廊下で待っててくれる?」
「わかりました…」
僕は担任の後ろを、少し離れて歩いていく。
真新しいローファーの靴音が、がらんとした廊下に小さく響いた。スカートの裾がふわりと揺れるたびに、自分の足が、自分のものじゃないような気がしてしまう。
開いた窓から吹き込む風が、ほんのりと草の匂いを運んでくる。校舎の外では、もう夏の気配が始まっていた。
左右の教室から、誰かが笑う声が聞こえた。
「ちょっとー!静かにして!」と先生の声が重なり、また別の笑いが湧き起こる。その音のすべてが、私の知らない世界のものに思えた。
男子として通ってきた学校の風景とは、まるで違う。
――私は、ここで“女子”として過ごすことになる。
うまく馴染めるんだろうか。
いや、それよりも――ちゃんと、“女の子”に見えているんだろうか。
そんな不安を胸の奥にしまい込んでいるうちに、担任が立ち止まった。
「ここが、2年C組。……先に入って、みんなに伝えてくるね」
そう言って扉を開け、中へ入っていく。
私はひとり、廊下に取り残される。
その瞬間だけ、世界がほんの少し静かになった気がした。
担任が教室の扉を開けて中へ入っていくと、ぱたん、と軽い音を立てて閉まった。
その直後、わっと空気が動く気配がした。ざわついた声が、扉越しに漏れてくる。
「やっぱり転校生だって!」
「え、だれか来るの?」
「机増えてるよね!」
「先生いつもより遅いもん」
「女子かな?」「男子かもよ」
小さな疑問と期待が、次々に飛び交っていく。
思い思いの声が重なり合って、まるで波のように教室を満たしていくのがわかる。
「おーい、ちゃんと座れー。静かにしてー」
担任の声がその波を切るように響いた。
どこか緩い、けれど慣れた調子。生徒たちは慌ただしく席に戻る。
私は扉の外で立ち尽くしたまま、制服の袖を指先できゅっとつまんだ。
肩にかかる長い髪が揺れて、目の端に映り込むたびに、胸がざわつく。
ここで、女子として、見られる。それだけで、どうしようもなく心細くなる。
「えーと、今日はひとつお知らせがあります」
担任の穏やかな声が、中からはっきりと聞こえた。
「みんな気づいてるかもだけど、今日から、このクラスに新しい仲間が加わります。転校生です!」
「やっぱりー!」
「マジで来た!」
「女子?男子?」
また教室がざわっと沸く。
担任は、少し困ったように笑いながら続ける。
「はーい静かにー」
担任は軽く手を叩く。
ついさっきまでの軽いざわめきが、静かな期待に変わっていく。
「じゃあ……入ってきてもらおうかな」
呼ばれる声が来る――その時だった。
「……どうしたの? …入らないの?」
不意にかけられた声に、びくっと肩が揺れる。
振り返ると、そこにいたのは、少し息を切らした小柄な女の子が立っていた。
短く揃えた金色の髪が光を反射して、笑っていないのに、どこか楽しげに見えた。
「あ……えっと……」
言葉がうまく出てこない。私の声が、ちゃんと女の子として響いているのか、それが怖くて。
「緊張してる?」
彼女はそう言うと、そっと私の手を握った。
「大丈夫だって。さ、行こ?」
その手はあたたかくて、思わず僕は息を呑んだ。
心臓の音が、ひときわ強く胸を打つ。
戸惑いながらも、私はその手に引かれるまま、教室の扉をくぐった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
思いつきで書きはじめた初めての作品ですが、ここまで読んでいただけたこと、本当に嬉しいです。
更新は週に2〜3回を目標に、ちょっとずつ進めていけたらと思っています。
感想とかリアクションとか、何かもらえるとものすごく励みになります。
ゆっくりでも、長く続けていけたらいいなと思ってるので、よければまた覗きにきてくださいね。
それでは、また次回お会いしましょう。