つもり刑事〈非戦力系刑事シリーズ〉
新米刑事の未村が、コンビニであんパンと牛乳を買ってパトカーへと駆け戻ってきた。しかしそのタイミングは、実に間が抜けていた。それらは彼が影響を受けたテレビドラマによれば、あくまでも張り込み中における定番の食事ということになっている。しかしこのときすでに張り込みは終わっており、容疑者はすでに逮捕されたあとであった。
それでも初めての張り込みの記念にと、その最中には叶えられなかった念願を、遅ればせながら叶えておこうということらしかった。しかしいざ相棒の待つ車に戻ってみると、パトカーの後部座席のドアが全開になっていた。その奥ではベテラン刑事の津森が、座ったまま器用に折りたたんだ新聞を読んでいる。
「津森さん、なんでドア開いてるんすか?」
「おかしいな、閉めたつもりだったんだが」
津森は新聞をいったん開いて裏返してから、また丁寧に折りたたんでみせた。
「いや、でも俺はいま奥に座ってるわけだから、そっち側のドアを閉めたのは俺ではないのか……うん、じゃあ俺は閉めてない……というか少なくとも、閉めてないつもりなんだが」
「なぜドアが開いているのか?」という質問に対する答えが、「閉めてないつもり」では会話が成立しない。それにそもそも未村が訊きたかったのは、「なぜドアが開いているのか?」ですらなかった。ふたりはつい先ほど近所のアパートで容疑者を逮捕したばかりだったのであり、いまや空席になっている後部座席の津森の隣には、間違いなくそのホシが座っていたはずなのだ。
「おかしいな、手錠をかけたつもりだったんだが」
どうやら未村がコンビニに行っている隙に、容疑者はドアを開けて逃走してしまっていたらしい。
「つもりじゃ困るんですよ。現に逃げられてるじゃないですか!」
「いや俺はてっきり、向こうも手錠をかけられたつもりになってるもんだとばかり思っていたんだが」
津森はそう言ってまた新聞を裏返す。
「だってそうだろう、刑事に警察手帳を見せられた時点で、ホシは手錠をかけられるつもりになってるはずだし、あわよくば取調室でカツ丼を食べるつもりにもなってるはずだろう。そうなったらもう手錠をかける意味なんてないし、ざわざカツ丼を出してやる必要だってないわけだよ」
未村は慌てて後部座席のドアを閉めると、運転席に跳び乗ってパトカーを急発進させた。
「だが待てよ」津森は脇へいったん新聞を置いて、冷静にシートベルトを締めたうえで続けた。「俺がホシを逮捕したつもりになったのと、手錠をかけたつもりになったのはどっちが先なんだ? 重要なのは、俺は手錠をかけたから逮捕したつもりになったのか、逮捕したから手錠をかけたつもりになったのかってことだよ。刑事ってのは普通、実際に手錠をかけた手応えがあるからこそ、逮捕したつもりになるもんじゃないのかね?」
「そりゃ逮捕するときは、基本的に手錠はかけますからね」
未村の運転はどんどん荒くなってゆく。
「しかしかけないパターンもあるからな。まあ今日に関してはホシがそこそこ暴れたから、かけるパターンではあるはずだが」
「じゃあかけたんじゃないですか?」
「だからかけたつもりだと言ったじゃないか」
「でもドアは現に開いてたじゃないですか」
「だからかけた『つもり』だと言ったんだよ。本当にかけてたら、ドアは開けられるはずないからな」
「じゃあやっぱりかけてないんじゃないですか! っていうか、さっきから悠長に新聞読んでる場合じゃないですよ。そんなもの読んでるから逃げられたんじゃないですか」
「ああ、これな」津森は本来ならば容疑者が座っているべき隣の席へ、あっさりと新聞を放り投げた。「これは読んだつもりになってるだけで、一行も読んではないからな」
パトカーは大通りから小道を抜けて、駅前の商店街へと入った。
「じゃあここらへんで止めてくれ」不意に津森が部下に停止を命じた。
「ホシを見つけたんですか?」未村が急ブレーキを踏んでパトカーを強引に停止させた。
「いや、一杯ひっかけて帰るのにちょうどいいんでな」
「正気ですか? あなたがホシを逃がしたんですよ」
「まあまあ、落ち着け新入り。俺は現に奴に手錠をかけたつもりにもなってるし、捕まえたつもりにも大いになっている。だとしたらやっぱり奴のほうだって、少なくとも逮捕されたつもりにはなっていたはずだろう。そうなったら当然、取り調べを受けたつもりにも、そこでカツ丼を食ったつもりにもなっただろうし、その延長線上で裁判をやったつもりにも、猛省したつもりにも、刑務所に入ったつもりにもなったはずなんだよ。もしかすると出所したその日に、久々のラーメンでも食いながらビールの一杯でも流し込んだつもりにすらなったかもしれん。もしも奴がそこまでの『つもり』になってたんだとしたら、いまさら奴を逮捕したところで、その『つもり』は越えられんのじゃないかね。もしかすると彼の犯した罪すらも、単なる『つもり』に過ぎなかったなんてことだってあるのかもしれないな。実際に起きたことよりも『つもり』のほうが良かった、『つもり』のほうが遥かに理想的だったなんてことは、よくあることだからな。まあかく言う俺も、これから一杯ひっかけるってのはあくまでもつもりってだけで、結局はひとりでホシを追いかけるつもりではあるんだがな」
そこまで言われては経験不足の新米刑事には返す言葉もなく、彼はパトカーを降りて商店街を歩いてゆく津森の背中をしばし呆然と見つめていた。津森はたしかに居酒屋に入ることはなかったが、しかしその足取りは早くもすっかり出来あがった千鳥足であるように見えた。
すなわち津森は、すでに一杯ひっかけたつもりになっているのかもしれない、そうなればもはやホシを再度捕まえたつもりにもなっているに違いないと思い至り、未村は意を決してアクセルを踏み込んだ。