さとる はじまりの町へ
縁側の向こうの庭にハルジオンが揺れている。
じいちゃんが入院してしばらくした頃だ。
僕はサイドテーブルにある写真立てをちらりと見た。
1年前に死んだばあちゃんがそこで微笑んでいる。
僕はパパの方を向いた。
「ねえ、パパ。じいちゃんの話は全部嘘なの?」
パパはニッコリして僕を見る。
「嘘じゃない。ホラ話かな?」
「変わらないよ」
「嘘じゃないぞ、さとる。少なくともじいちゃんの話はパパを幸せにした。人を幸せにする嘘はいい嘘だ」
「…やっぱり嘘は嘘じゃん」
僕は頬をふくらませたけど、パパはそのほっぺをちょんと人差し指で押した。
「まあな。でもパパはじいちゃんのロックなホラ話が大好きだ。パパもそれで助かったことがある。勇者は駄目だと思ってから、もう一息踏ん張れるってな」
意味わかんね。
月曜、学活の最初に山田先生が『遠足の班決めをします。自由に男女二人ずつ…4人のグループを作りなさい』って言ってクラスはザワザワした。
マブダチの健ちゃんがこっちを向いて親指を立てている。だからそこは問題ない。
でもね、女子を誘いにいくのはなかなかの冒険だよね。
「じゃあしばらく席を出ていいからグループを自分たちで作ってみよう。仲間外れや寂しい人が出たらやり直しね」
山田先生の言葉にみんなフラフラと席を出て、仲良しのペアを作る。それからキョロキョロと周りを見渡した。
ううん、どうしようと僕と健ちゃんは顔を見合わせた。
うちのクラスはたいがい仲良しで男女の仲もまあまあだから、そんなに大きなトラブルはないだろうと思うものの。
そこにカズゴンがやってきた。
「おーい、さとーる。一緒にやってやってもいいよ」
カズゴンはうちのクラスばかりか学年の男子みんなから恐れられる怪獣のような女子だ。
身長はチビの僕より頭ふたつくらい高くて、何より体がガッチリしていて腕力があるから並みの男子では相手にならない。
このカズゴン…高橋和子は頭がよくて口が悪くて変に正義感がある。
女子がいじめられていたりすると、駆け足でやってきてその男子にドロップキックを浴びせ吹っ飛ばしてしまう。
「た、高橋さん。その僕らはもうあの」
健ちゃんが震えながら断ろうとするが語尾が弱い。
「カズゴン、ちゃんと行き先とか話し合って決めてくれるなら」
仕方なく僕が答えるとカズゴンの後ろにいるハナちゃん…野口華さんが遮った。
「カズゴンとは何よ。ちびサル、さとーる」
でもカズゴンは笑顔だ。
「いいよ、いいよ。さとーるはOKってことでいいんだね。で…」
そして健ちゃんの方を振り向く。
健ちゃんは引きつった笑顔のまま答えた。
「だ、だいじょぶです」
その健ちゃんの様子にハナちゃんはフフンと鼻を鳴らし、カズゴンは豪快にワハハハと笑う。
僕は小さくため息をついた。
遠足の日が思いやられる。
あれはもう1年前のことになるのかな。
ばあちゃんが生きていた頃、僕はじいちゃんとばあちゃんと縁側で話をしたっけ。
「じいちゃん、となりのクラスにカズゴンていう怪獣がいるんだ」
じいちゃんは笑った。
「いいなあ、小学校に怪獣がいるとは。ロックだな」
意味わかんね。
僕の説明を聞いてばあちゃんも笑いながら、でもちょっとだけ背筋を伸ばした。
「さとるちゃん、でも、その子が嫌がってるんならその呼び方はやめるのよ」
じいちゃんもうなずく。
「そうだな。何しろ女の子だ。あつかいには気をつけろ」
そう言ってちらりとばあちゃんを気にする。
ソンタクだね、じいちゃん。
「でも僕より全然でかくて強くて、頭もいいし」
フンフンとじいちゃんが僕にあいのてをいれる。
「それで?それだけじゃないな」
何でわかるの?
僕はちょっとだけグッと詰まって、それから言った。
「思いやりがあるんだ。ちょっと乱暴だけど」
今度はばあちゃんがフンフンと僕を見る。
「それはいい子だわね」
「その通りだ」
じいちゃんが大きくあいずちをうった。
「優しくて頼りがいがある。もしかしたら冒険のパートナーかもしれないぞ」
また『冒険』か。
「でもカズゴン…高橋さんはすぐ僕にだけちょっかいかけてくるんだ。ちょっと意地悪なこと言ったり、肩やおしりを叩いてきたり」
それを聞いたじいちゃんとばあちゃんが顔を見合わせる。
「ワハハハ。愉快だ。ロックだな、ハニー」
「ホホホ、冒険の始まりかもね、ダーリン」
…話すんじゃなかった。意味わかんね。
この日も庭のハルジオンが揺れていた。
ばあちゃんが亡くなって一年が過ぎ、じいちゃんも少しだけ元気になってきた。
その頃、僕はじいちゃんと縁側にいる時間を大切にしていた。
「ギャーーッって、ばあちゃんが叫んでな」
腹を抱えて笑い転げる僕を見てじいちゃんは満足そうだ。
「ねえ、ねえ。それでじいちゃんは?」
じいちゃんがキリっと眉に力を入れて僕を見た。
「当たり前だろう。ばあちゃんを助けに池に飛び込んだんだ」
じいちゃんの話は高町公園にある竜神池に棲む(らしい)巨大ナマズのことだ。
ばあちゃんとデート中、池を覗き込んだばあちゃんを突如現れたナマズが一息で吞み込んだんだって。
「アハハハハハ」
「笑い事じゃないぞ。さすがのじいちゃんも怖かったけど、ハニーのためだからな」
「ハニーってばあちゃん?プーッ!」
噴き出した僕のほっぺたをじいちゃんがつついた。
「愛するばあちゃんのために俺は池に飛び込んで、そのお化けナマズの頭にしがみついたんだ」
僕は笑いをこらえられない。
「でも、でも。ばあちゃんはもう丸呑みされちゃってるんでしょ」
「だがな、だが、さとる。ばあちゃんは俺の冒険のパートナーだ。絶対に見捨てることはできない」
じいちゃんの目は真剣そのものだけど、僕はやっぱり笑っちゃう。
「そ、それで?」
「おう。それでな、じいちゃんはナマズのでかいヒゲを両手でぐっと」
じいちゃんが身振りをして、両手で何かをつかむ。
「じいちゃん、何つかんだの?」
「これがそのナマズのヒゲだよ」
「アハハハ、そんな。それがヒゲ?」
じいちゃんが両腕で抱え込むくらいの太さらしい。馬鹿馬鹿しい。
「それでな。俺も足から吞まれそうになってな。吸い込まれちゃいかんと思って、ヒゲにしがみついて」
じいちゃんが立ち上がっていったん曲げた膝をグイっと伸ばした。
「あんまり力が強いんでもう駄目だって思ったけど、でもそこでじいちゃんは踏ん張った」
じいちゃんの身振り手振りに僕は笑いが止まらない。
「駄目だと思っても、もうひと踏ん張りできるのが勇者だからな」
出た。決めゼリフだ。僕はそう思いつつ、じいちゃんの顔を見る。
「で?ヒゲをどうしたの?」
じいちゃんも笑いながら、腕をグイっと動かす。
「こうやって引っ張ったんだ」
もう一度縁側に座ったじいちゃんがフーッと息をつく。
「すると…?」
「うん、そうしたらな。ナマズがグエエエエッって水と一緒にたくさんの魚を吐き出した」
その図を想像して僕はまた笑う。
必死に巨大ナマズにしがみついてヒゲを引っ張るじいちゃんと口からフナやドジョウやいろいろ吐き出して目を白黒させるナマズの表情…。
「奴は最後に一番でかい何かをポーンと吐き出して、俺を振り落としやがった」
「それはきっと」
僕は話のオチがわかっちゃった。
そんな僕を手で抑えて、じいちゃんがウィンクする。
「そうだ、それがばあちゃんだ」
僕は爆笑した。
「振り落とされた俺は溺れそうになってな、ようやく池のほとりに辿り着いたんだが体力の限界だったな。気を失った」
うんうん、と僕は話の続きを促した。
「どのくらい経ったかわからんが、ぼんやりと目を醒ましたらな。目の前にハニーがいて」
「ばあちゃんでしょ」
「その頃からババアだったわけじゃねえ。絹江ちゃんが俺の胸の上で泣いててな。『起きて!目を開けて!』って」
じいちゃんはそこでちょっとだけ間を空ける。
「でな、薄く目を空けた俺を見てようやくホッとして、それから俺の頬にキスしてくれたんだ」
何だか僕はちょっと恥ずかしくなってきちゃった。じいちゃんとばあちゃんのラブシーンを語られても。
「何だ。その顔は」
じいちゃんは照れる様子もない。
「それでじいちゃんとばあちゃん、結婚したってわけ?」
「まあ、そうだな。でもばあちゃんはもともと俺に片思いしてたらしいぞ」
「嘘だあ」
じいちゃんがそんなにモテるわけないよね。
でもじいちゃんは庭のハルジオンをちらりと見て、それから頬を緩めた。
「なんだ何だ。ホントだぞ。ばあちゃん言ってた」
「…何を」
じいちゃんは僕にまたウィンクした。
「ロックで勇者な俺が好きなんだと」
意味わかんね。
パパが上機嫌で片手にビール、もう一方の手で枝豆をつまんでいる。
「ハハハハハ、それでじいちゃんは何て言った?」
「夜中に学校の窓ガラスを割って、それから盗んだバイクでばあちゃんを乗せて走りだしたんだって」
パパが噴き出し、ママは眉をひそめた。
「また小学生に余分なホラ話を」
「あとマブのゴンちゃんと」
ママが漬物を口に入れかけて首を傾げた。
「何?マブって」
「マブダチっていうらしいよ。ゾクの言葉だってじいちゃんが」
「ゾク?」
ママがいるとなかなか話が進まないなあ。
「とにかくじいちゃんはマブダチのゴンちゃんと竜神池に行ったんだって」
パパがまた笑い出した。
「ハハハハ、巨大ナマズの話か」
「知ってるの?」
「そこで絹江ばあちゃんを助けたって話だろ」
「こんなこんな大きさで」
パパが両手をいっぱいに広げて丸をつくる。
「そんな大きいナマズなの?」
ママが目を丸くする。
僕は箸を持った手を振った。
「いやいや、これが目玉の大きさなんだって」
『勇者は駄目だと思ってから、もう一息なんだ』
僕とパパは声を合わせ、そして顔を見合わせて笑った。
ママが上を向いて息を吐いた。
「ハア。なにそれ、意味わかんない」
日曜日の夜はユーウツだ。また苦手な体育があるし、女子の番長カズゴンが僕を見てちょっかいかけてくるだろうし、確か給食も「コンサイたっぷり♡野菜スープ」とか書いてあった。(何だよ、あのハート)
僕がため息をつきながらソファに寝っ転がってテレビを見てたら、風呂あがりのじいちゃんがやってきて牛乳をストローで吸いながら僕の顔を眺める。
「さとる、ユーウツそうだの」
「明日は月曜日だからね、小学生だっていろいろあるんだよ」
僕が返事をするとじいちゃんはソファの下に転がっていたゲームソフトを拾い上げた。
「ワクワクしないか。明日からまた新たな冒険が始まるぞ、勇者さとる」
僕は苦笑いしたさ。
「じいちゃん、そんなゲーム、もう誰もやらないよ。明日から始まるのは冒険じゃなくて、面白くないクラスのつまんない一週間だよ。ダメダメだよ」
じいちゃんはちょっと真面目な顔になって牛乳のストローを抜き、顔の前でフルフルと振った。
「フン、それはまだお前が勇者ではないからだな。さとる」
いい加減うっとおしいな、もう。
この時の僕はいらいらしていたんだ。
じいちゃんがちょっとだけ口から牛乳をこぼしながらまだ続ける。
「勇者はな、駄目だと思ってからもう一息…」
「…じいちゃん、もういいよ。ボケたこと言ってないでよ」
リビングから出ていく僕にじいちゃんは何も言わない。
ただばあちゃんの写真が僕をにらんでいるような気がした。
僕はこのことを後からずっと悔やんだ。
じいちゃんが僕の名前を忘れる一か月前のことだった。
じいちゃんが入院した。
庭で転んで腰と足の骨を折った。
病院に行ったら、それ以外にも悪いところが見つかって半年くらいは家に帰ってこられないんだって。
パパとママは毎週末にじいちゃんに会いに行く。
初めの頃は僕もついていったんだ。
「おっ、まさる。来てくれてのか」
「じいちゃん、僕はさとるだよ。まさるはパパの名前」
じいちゃんの目が何だかぼんやりしているんだ。
じいちゃんから何か大切なものが抜けていったような気がして僕は不安になった。
「…、そうだな。悪い、悪い。ちょっとうっかりした」
ママが空気を変えるように言った。
「今度愛しい絹江ばあちゃんの写真、ここへ持ってきますね」
「おおっ、そりゃありがたい。ハニーのな」
じいちゃんはそう笑ったけれど、パパとママの顔色が冴えなくて僕は気がかりだった。
日曜日にじいちゃんに会いに行くのをやめたのは夏休みのことだ。
ベッドで体を起こしたじいちゃんの背中をママがさすっている。
「ゲホゲホ、ああ、ありがとう」
せき込みながらママにお礼を言うじいちゃんは家にいる時より小さく見えた。
ママが持ってきたばあちゃんの写真がベッドの横に置いてある。
パパは廊下で職員の人と話しているから、じいちゃんの正面にいるのは僕だけだ。
「まさる、よく来てくれた」
まさるはパパの名前だ。
「だから…じいちゃん、僕は」
「まさる、冒険してるか。ワクワクしてるか」
じいちゃんがクシャクシャの笑顔を作った。
「…」
僕が黙るとじいちゃんはまたダラダラと嘘のホラを僕に話し始める。
「今日はピレネー山脈でコンドルにさらわれかけた時の話をするか、まさる」
僕は立ち上がった。
「僕はまさるじゃないよ!じいちゃん!嘘話はもうやめてよ!」
僕が泣きながら出ていこうとするのとパパが部屋に入ってくるのは同時だった。
パパが驚いて僕を見る。
「さとる、どうした」
「パパ、ごめんなさい。車で待ってていい?」
パパは少し悲しげな顔で僕を見たけれど、駄目だとは言わなかった。
3時に台所のテーブルに座って牛乳を飲んでいた。
ついついため息が出ちゃった。
ママがそんな浮かない顔の僕に話しかける。
「じいちゃんに会いに行くの、嫌なの?」
「じいちゃん、僕の名前…わからなかった」
僕は悲しくて少し鼻声になってしまった。
ママは僕の頭を撫でながら隣に座った。
「仕方ないわ。歳をとるってそういうことよ」
「でも、じゃあ、ママやパパもいつか僕の名前を忘れるかもしれないってことでしょ」
僕の目から何だかポロリと水が出た。
ママは僕の手を両手で包んでくれたんだ。
「そうならないように頑張るけれど、それでも」
僕は顔をあげる。
「?」
「名前を忘れたってさとるはパパとママの宝物だし、大好きって気持ちが変わるわけじゃないでしょ」
「…」
それでもやっぱり僕は悲しい。僕は忘れてほしくない。
じいちゃんに会うと悲しさがこみあげてくる。
それからそんなじいちゃんに腹を立てる僕も嫌いだ。
僕はそれ以来、じいちゃんに会いに行っていない。
僕がいろいろ心配したり、家で何だかユーウツな気持ちになっているのとは関係なく、遠足はやってくる。
心配というのはカズゴンの横暴のことじゃない。
っていうかカズゴンはもともとそんなわがままだったり、乱暴だったりするわけじゃないのを僕は知っている。
カズゴンがドロップキックで吹っ飛ばしたり、関節技で締め上げているのは女子をからかったりいじめたりしている男子だけだ。
うちのクラスの男女が仲がいいっていうのは多分カズゴンがいるからなんだ。
山田先生もそれを知っているから『自由にグループ作っていいよ』って言ったんだと思う。
僕が心配だったのは遠足のコースだ。
目的地の公園の名前を聞いて僕は驚いた。
高町公園か…。公園の地図を見たらやっぱりあった。竜神池。
あんまり気が進まないなあ。じいちゃんのホラ話で出てきたあの池が何だかいつの間にか僕らの遠足のコースに入っていたんだ。
「池の近くのベンチでお昼にしよう」
カズゴンの言葉に健ちゃんが恐る恐る口を挟む。
「そんな人のいないところで食べなくても」
「日陰があって涼しいし、人は少ない方が落ち着くだろが」
カズゴンがぎろりと健ちゃんをにらんだ。
「ですよね」
健ちゃんは目を泳がせた。
健ちゃんは3年生の時、カズゴンから上段回し蹴りを受けてトラウマになっているらしい。
まあ、それも健ちゃんが内心大好きな琴美ちゃんのスカートめくりをしたからなんだけどね。
そりゃ健ちゃんが悪い。今どきやんないよね、スカートめくり。
「いいよ、そこでお弁当食べよう。ハナちゃんもそれでいい?」
「あっ、私レジャーシート忘れた」
ハナちゃんが僕の質問には答えず、リュックの中身をのぞいた。
カズゴンが笑う。
「大丈夫だよ、ハナ。私のに一緒に座りな」
「うん、ありがとう」
そうやって池のほとりに3枚のレジャーシートを並べ、僕たちは4人横並びに座った。
何故か僕の横に最初からドン!とカズゴンが座ってしまったので、右端から健ちゃん、ハナちゃん、カズゴン、僕、という変な並びになっちゃった。
正面には深い緑色の池が見える。
周りは意外と暗い森で、結構日陰の色が濃く見えた。
何かいても不思議はない…と思えてくる。
「狭いな」
健ちゃんが身じろぎする。
カズゴンのお尻とお弁当が大きくてハナちゃんを押し出し、端っこに健ちゃんが追いやられてる。
「んん?」
「いや、別に」
カズゴンの視線に健ちゃんは目を伏せた。
僕は笑って、カズゴンに声をかけた。
「カズゴン、もうちょっとこっちへ来いよ」
カズゴンが目を見開いて僕を見る。
「えっ…。そ、そう?」
様子がおかしいなあ。
何だか気まずくて、僕はおじいちゃんの話をポロリともらした。
「この池にすごく大きなナマズがいるって話知ってる?」
三人がエッと身を乗り出す。
僕は両手を大きく広げた。
「こんなこんなこんな」
「そんな大きなナマズ?」
ハナちゃんが目を丸くする。
「違うよ。これが目玉の大きさ」
一瞬、黙ったみんながワッと笑った。
「アハハハハ、すごい大きさ」
「噓でしょ。アハハ」
「ハハハ、見たいなあ、それ」
笑いながらカズゴンがお弁当を手に立ち上がる。
箸で唐揚げをひとつ挟んで池に差し出した。
「おおい、ナマズ。池の主、これあげるから出ておいで」
健ちゃんが声をかける。
「もったいないな。僕にくれよ」
「ハハハ。冗談だよ」
カズゴンがそう言って唐揚げを口に入れたその時。
水面が大きく膨らむ。
ゴオッと大きな水の音。
「!」
大きな黒い影が見えた。
僕にはわかったんだ。これはお化けナマズだ。
じいちゃんの話は嘘じゃなかった。
なんて喜んでる場合じゃない!
池の水が波のように大きく岸に打ちつけた。
「逃げろ!」
僕が叫ぶと健ちゃんは後ろに飛びのき、弁当を放り出して一目散に逃げる。
「あああっ!」
何を見たのかハナちゃんが高い声で呻いてそこに倒れた。
気絶したの?やばい!
池から大きな音がもう一度響いた。
ザブン!
真っ黒な姿がちらりと浮かぶ。さっき僕が身振りをしたのよりも大きな目玉がぎょろりとこちらを見た。
「うわああっ!」
僕は恐ろしくて叫びながらも、ハナちゃんに駆け寄った。
それよりもほんのちょっと早くカズゴンがハナちゃんの腕を自分の肩にかついだ。
「さとーる!逃げろ!」
「カズゴン、駄目だ。一緒に逃げるぞ!」
カズゴンの目はいつもより不安げだ。
僕がハナちゃんのもう一本の腕を抱えた時、後ろからもうナマズの顔が岸にあがってきていた。
「うわっ!カズゴン!気を」
気をつけろという言葉の前にナマズがカズゴンを呑み込んだ。
「きゃああっ!」
ナマズの口から飛び出たカズゴンの足がバタバタしていた。
ズリズリ後ずさりして、お化けナマズが池に戻ろうとしている。
僕は逃げたかったけど歯を食いしばった。
「僕の冒険のパートナーを返せ!」
僕はナマズの頭にしがみついた。
ナマズは僕を振り落とそうと体を大きくよじって、池に飛び込む。
「ガボッ。ゲホッ」
僕は思い出した。ヒゲだ。ヒゲを。
池の水が濁っていてよく見えないけれど、手探りで懸命にヒゲを探す。
苦しい。息が続かない。
その時、カズゴンの声が聞こえた。
「さとる!逃げて!さとる!」
僕は声のする方に手を伸ばす。つまりこっちが口だな。
あった。僕は大きなヒゲに両手をまわし、踏ん張って頭を蹴とばす。
ガボッと僕の口から息が漏れる。もう駄目だ。
今度はじいちゃんの声が聞こえた。
嘘じゃない。はっきり聞こえた。
「まさる?さとる?…ううむ、どっちでもいいか。ダメって思ってからもう一息、それが勇者だ」
うるさいよ!くそじじい!
僕はもう一度だけ、『うがああっ』と力をこめてナマズのヒゲを引っ張った。
ガボーンと大きな音がして、同時にものすごく強い噴水みたいなもので僕は宙に浮いたような気がする。
それから…空中で「まさーる!」って声が隣からした…ような気もする。
後はよく覚えていない。
学校で山田先生からいろいろ聞かれた。
あの後健ちゃんが先生を呼びに行って、大騒ぎになった。
山田先生が池に駆け付けると、そこにはぐったりと倒れている僕と横で息を切らしながら座り込むカズゴン、横にはまだ気を失っているハナちゃんの三人がいた。
先生は一応全員が無事なのを見てホッとしたらしいけれど、二人の意識がないからまた応援の先生を呼び、結局僕たちの遠足…冒険の旅はそこで打ち切りになった。
「何かすげえでっかいのが、ザバーンて。それから池の水がドバーッていって」
健ちゃんの説明に山田先生がため息をついた。
ハナちゃんは言う。
「わかんないんです。池がザバーンて。それから何か黒いのがドバーッて」
同じやないかい。
「…同じね」
僕とだいたい同じ感想を山田先生が述べて、ハナちゃんがそのあとボソリとつぶやいた『すごくおっきな目玉が』というのは無視された。
僕とカズゴンは少しだけ打合せしておいたので口裏を合わせた。
「急に池が波打ったんで私が水面を覗き込んだら、足を滑らせて」
カズゴンの言葉に僕も続ける。
「そうそう、何であんなに大波が立ったのか不思議ですけど」
カズゴンが大きくうなずいた。
「それで溺れかけた私をさとーる…、さとるくんが助けに飛び込んでくれたんですけど」
「僕も足がつって、結局カズ、高橋さんに助けられたという、そんなお話です」
僕たちの説明はまあまあ先生たちを納得させられるものだったらしい。
でも僕とカズゴンは職員室の外で顔を見合わせる。
カズゴンが少しだけ赤くした頬をふくらませた。
「助けてくれたのは、さ、さっくんなのに」
何だか慣れない呼び方だなあ。
「勇者には秘密があるもんだよ、かずちゃん」
お化けナマズの話はできないよね。誰も信じてくれないだろうし、ややこしいし、何よりナマズ捕獲隊とか組織されたら気の毒じゃないか。
空中で気を失った僕は胸の上がものすごく重くて、それで意識を取り戻した。
カズゴンが僕の首と胸を抱きしめてオイオイ泣いている。
「まさる!まさる!目をさませ!まさる!死ぬな!」
胸をドンドンと叩かれ、僕は苦しくって『うーん』ってうなった。
そしたらカズゴンがようやくホッとした顔になって僕から離れてくれたんだ。
その時の僕の気持ちは今でもちょっと説明できない。
僕は薄目でカズゴンを見て『ハニー、冒険の始まりだ』ってつぶやいた。
自分ながら…意味わかんね。
それからまたしばらく動けないで目をつぶっていたら、僕のほっぺたになんか柔らかいものがさわった。
それでゆっくり顔をあげたんだけど、なぜかカズゴンは大慌てで正座をして、真っ赤な顔で僕から目をそらしたんだ。
うーん、これまた意味…
「次の日曜からまた僕もお見舞いに行っていいかな」
僕が聞くと、パパはじっと僕を見つめる。
「さとる、いいのか?じいちゃんはお前のこと忘れてるかもしれないし、ホラ話するかもしれないぞ」
「いいんだ。どうでもいい…っていうよりそれでいいんだ」
ママも僕をじっと見ている。多分写真のばあちゃんも。
パパは優しく微笑んだ。
「何があったんだい?」
「…うまく言えないよ」
「いいから。さとるの言葉が聞きたいんだ」
パパの言葉にママもうなずいた。
「うん…。だから…じいちゃんは僕だ。じゃなくて、じいちゃんもパパも僕の中にいて、だから『さとる』でも『まさる』でもよくて、僕もパパもじいちゃんも一緒で…違うかなあ。えっと、じいちゃんのホラ話は嘘じゃなくて、いや、嘘かもしれないけど、ホントで、嘘でもホントでもよくて。僕の冒険のはなし…なのかもしれなくて。うーん…やっぱり何かうまく言えないや」
パパは上を向いてしばらく黙っていた。
「…うん。だいたいわかったぞ。いいぞ、さとる」
ちょっと声が震えてたかもしれない。
ママは黙っていたけど、やっぱり嬉しそうだった。
その後は何だかみんなそれぞれシンとした。
僕はちらりとサイドテーブルを見る。
ばあちゃんはいなかった。そうだ、写真立ては病院に持ってったんだっけ。
だから振り向いて窓から庭を見た。
季節が違うからハルジオンの花も見えないけれど、あそこにいるんだ。
ほら、ばあちゃんが親指を立てて僕にウインクした。
ホントだよ。
僕にははっきり見えたし、聞こえたんだ。
「さとる。さすがは私たちの孫、ロックだわ」
…意味わかんなくもない。
読んでいただきありがとうございました。
ここしばらくお話を書くことが苦痛で、ウンウンとうなりながら結局「冬の童話」最終日での投稿となりました。平凡な人生でもそれはやはり冒険なのだと私は思います。自分のことながら。